2021年11月15日月曜日

時には神が病気をもたらす?

「神様は素晴らしいお方です。アーメンですか?」と講壇から力強く語れば、一般的なクリスチャンであれば誰もが「アーメン!」と答えるに違いありません。「神様は私たちに全て良いものを与えます。」と言えば、こちらも「アーメン!」と答えるはずです。しかし、「主はどんな時にも癒しますよ!」と言えば、どれくらいのクリスチャンが同意するでしょうか?

「神の御心」を「神の気まぐれ」という定義で考えている人は多い様です。 「私たちには全く予測不可能な不思議な事を神はなさる」という見方の事です。多くの場合、次の聖句の曲解がその様な誤解を生んでいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ 55:9 

そこから更に転じて、「神は時々病気(その他の災い)を持ってきて私たちを訓練する」という嘘が教会に入って来ています。しかし、その様な考えを持っていたのは古い契約の時代の人たちに限っているべきであって、人間にとって知るべき全ての奥義が明らかになった今の時代から見ると、むしろ神の御心が一定して分かりやすいものとなっています。

新しい契約の下では、神の恵みがキリストの十字架によって人に分かる様になりました。誰もキリストの十字架での贖いを見るまでは、父なる神の御心を完全に知る事は出来なかったのです。キリストの十字架を通しての神の愛を知らずにして、アガペーを語る事は不可能なのです。恵まれた事に、この時代に福音を聞いてそれを信じる人々には豊かな神の恵みが増し加えられるのです。その恵みと言う視点から癒しを見れば、神が病を癒す御心を常に持っているのは明らかです。

私たちが癒されたいと願いよりも、神の方が私たちを癒したいと思っているのです。この単純な事を知らずに、私たちは今まで神の愛を知っていたかの様に振る舞って来ました。しかし、その様な愛は口先だけのものであって、神学によって真理を濁したものでしかありませんでした。愛は理論ではなく、実践的であって力のあるものです。ちょうど、キリストの犠牲が理論ではなく実際に起きた事実であり、信じる人々に命を与える力であり、それは頭での理解を超えて人の心に響くものです。しかし、私たちが愛を語る時には、本当に他の人の心に響いているでしょうか?

主の愛が何なのかを知らずに人に伝えても伝わりません。主の愛は十字架の贖いにあります。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ 4:10 

このアガペーの愛を知れば、「神が病気をもたらす時もある」とは言えなくなります。何故なら、別の聖書の箇所では、私たちの病は既にキリストの打ち傷によって二千年以上も前に癒しの宣告をしたとあるからです。

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

特に、キリストの十字架の御業が完了した後に生まれて来た人たちにとっては、生まれる前からこの約束が存在していたので、彼らにとっては最初から信じるだけで癒しを体験できたのでした。しかし、信じるだけで救われるという霊の救いばかりが教えられたので、体の救い、すなわち、病の癒しについては後の時代になってから人々は受け入れ始めたのです。

この様に、どの考えが正しいかを聖書的に判断して私たち信者は理解に至るべきです。しかし、今日では多くの神学が存在する為に、人々は様々な考えを持っているので、単純な真理が分からなくなっている事も事実です。では、別の角度から見ましょう。「私たちの主は私たちが健康で生きていく為に、この体に免疫機能を与えてくれています。アーメンですか?」もし、あなたがこの言葉にアーメンと言えるなら、神の与えた免疫機能を超える病気を神ご自身ががもたらすと思いますか?

私たちは霊的に目覚めなければいけません。目に見える一時的な現実ばかりを信じて、神の癒しを信じない幼い考えから目覚めるのです。そして、病気が神から来るという混乱した発言を止めて、敵の存在を知って戦うのです。

2021年10月12日火曜日

打ち傷によって癒された

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

キリストの十字架上での贖いは歴史的に起こった事実として知られています。そうすると、イエス様が打ち傷を受けたという事実も過去の出来事として私たちは認識できます。それなら、既にイエス様が私たちの病の為に打ち傷を受けたという事なのです。ですから、この神の恵みを素直に心で信じるなら、どの様な病気であっても癒しされる事になるのです。

ここの「癒された」という意味は、「私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」の前半の部分と関係しているので、この場合の「癒し」は「罪の赦し」を意味するのだ、という解釈がありますが、それは違います。何故なら、この個所の「癒された」に使われているギリシャ語は ἰάομαι(iaomai)という語で、「肉体的な癒し」の意味で主に使われているからです。

罪の赦しオンリーではなく、病の癒しも十字架の御業の約束であるという事をペテロは言いたいのです。罪の赦しと病の癒しの両方が書かれてあるイザヤ書全体を基にして、ペテロはその要約(前半の罪の赦しの部分と後半の癒しの部分)を書きました。注意したいのは、ペテロはイザヤ書のどこかの箇所を完全に引用したのではなく、部分的に引用したという事実です。実際に、旧約聖書から引用されて新約聖書に書かれてある箇所は、その引用された節の一字一句全くそのままの通りに引用されてはいません。

イザヤ 53:5「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

イザヤはこの節で、キリストの贖いには罪の赦しと病の癒しがある事を言っています。「私たちの咎のため」とありますから、キリストが私たちの罪の為に砕かれたのです。それと共に、「打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」のです。この5節は前の3節と4節にある癒しに関する内容を受けています。

イザヤ 53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。53:4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」

これらの節では、キリストが私たちの為に病を担った事が書いてあり、4節はマタイが引用に使っています。マタイ 8:16-17。これらの節では罪の赦しについて書いてありませんが、だからと言って罪の赦しは贖いに含まれない事はあり得ません。何故なら、別の箇所では罪の赦しについての贖いが明らかだからです。

イザヤ 53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」

イザヤ 53:11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」

2021年10月1日金曜日

癒しは戦い その3

 「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカ 4:38-39

イエス様が熱に対して叱りつけて癒したのなら、それをそのまま見本にしても悪くありません。このイエス様のやった事を真似して実践する事が悪いケースになるという様な適切な解釈はありません。神学的にそれはおかしいと熱く説明する方が本当に「おかしい」事に気付くでしょう。多くのケースにおいて、私たちはイエス様が私たちの模範として示した行動は全てそのまま行って良いのです。しかし、全人類の贖いの為に十字架に掛かるという「救い主」としての行為は私たちにはできません。

イエス様がシモンの姑の熱を叱りつけたのは、その熱を敵とみなしているからです。熱の背後に働いていた悪霊という事もあるでしょう。ポイントは、病気であれ悪霊であれ、それらは私たちの敵であると考える事です。従って、私たちは神様に癒して下さいというお願いの祈りをするのではなく、悪霊や病気に向かって命じて追い出すのです。これが癒しの祈りです。ですから、癒しを行なうという事は敵と戦うという事なのです。

私たちも主と共に戦う

私たちは「この戦いは主の戦いだ」と言って、神様に戦ってもらうようにと教えられたかもしれませんが、その様な考えは古い契約の視点から見たものです。

「その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」第二歴代誌 20:1-3 

3節では、「ヨシャファテは恐れた」と書いてあります。従って、彼は信仰によって行動してはいませんでした。
「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」第二歴代誌 20:12

この節でも、ヨシャファテが途方に暮れて、ただ神様にお願いしているのが分かります。後の17節では、「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」と神様が預言者と通して言っています。何故、神様がヨシャファテの代わりに戦ったのでしょうか?それは、ヨシャファテが信仰によって歩んでいなかったからです。

基本的に、旧約の時代には信仰によって歩んでいる人は多くはいませんでした。へブル人への手紙の11章にはアベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちが信仰の人だったと書いてあります。しかし、彼らでも、今日のクリスチャンの様にキリストの権威と聖霊の力によって歩む事はできませんでした。新しい契約の下で歩むクリスチャンは、神の子として生まれ変わったので、神の全ての武具を身に付けてサタンと戦えますが、聖霊が豊かに降り注がれる前の時代に生きていた人たちには、その様な恵みはなかったのです。

2021年9月23日木曜日

癒しは戦い その2

信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じて実際に目の前の病気や病人が癒される事を信じなければいけません。

さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由があるのには理由があります。癒しの信仰をくじく為にサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。

敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方がよっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。

主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのはあまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。

残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもいいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8 

2021年9月20日月曜日

癒しは戦い その1

 「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き10:38 

イエス様は、「悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」とありますから、病気と悪魔には何かの関係がある事は明らかです。霊的な影響で病気になる事も実際あります。従って、私たちが病の癒しを考える時には、常に背後で働く悪魔・悪霊も意識するべきでしょう。多くのクリスチャンは敵を知らないので、「神様が癒して下さらない」という結論になりがちです。

しかし、私たちは神の子としてこの地上を治めて行く働きがあります。それゆえ、神様に何かをしてもらうという子供の考えから卒業して、自らが神の子として自主的に良い事をし始めなければならないのです。クリスチャンがキリストに似た者であるのなら、ちょうどイエス様がやった様に、「巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やす」必要があるのです。私たちがキリストの弟子として歩む事を決断するなら、私たちはキリストと同じ業を行なう事ができます。何故なら、弟子はキリストが弟子たちに教えた全ての事を守る者だからです。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ 28:19-20

「弟子としなさい。」とありますから、ただ「未信者をクリスチャンにしなさい」事とは少し違います。クリスチャンでも、キリストの弟子としての意識で歩んでいない人たちもいます。本来は、全てのキリストの信者はキリストの弟子であるべきですが、残念ながら、その様に一般には教えられていません。しかし、私たち信者は弟子として自身の十字架を背負ってキリストの教えに従うべきなのです。ですから、キリストの弟子として信じている者は、次のような約束を実現できます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ 14:12 

イエス様の行ったわざを行なうとは、どの様なものでしょうか?その一つには、悪魔のわざを打ち破る事です。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第一ヨハネ 3:8 

私たちも悪魔のわざを打ち破る為に、この地上で神の子として歩む事ができるのです。また、その様にする事を神は望んでおられます。そして、悪魔のわざである病気を打ち破る事が私たちの使命なのです。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18

弟子として信じる人々には、キリストがやったわざを行なう事ができるのであって、それはキリストの弟子としてのしるしです。その中には癒しも含まれています。

余談ですが、マルコ 16:9-20 はバチカン写本などの古い写本には無いという事で、それらの節の信頼性が欠けるという神学者の意見があります。「最も古い写本がより原文に近い」とされているからですが、9節から20節まで欠けている写本が「より原文に近くて正確」なはずがありません。「古ければ良い」というのは人間的な考えなのです。

「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」ルカ 5:39 

バチカン写本、シナイ写本などよりも後に発見された多くの写本は、ビザンチン型の写本であり、これらの多くの写本はほぼ一致しています。それから、「写本と原本に違いがある」事も覚えておくべきでしょう。

2021年9月17日金曜日

神が癒さない事もある?

神が意図的に特定の病人を癒さない事があると信じているクリスチャンは多いものです。しかし実際には、既にキリストの打ち傷によってあらゆる病気は癒されています。癒しは贖いの御業の中にあるのです。従って、神が癒すかどうかは問題ではありません。真の問題は、癒しの約束を信じ、信仰の戦いに勝って現実を変えて行く所にあります。

「救う」というギリシャ語は sozo ですが、この語は「病気からの救い」も含まれています。総合的な「救い」という意味があるので、病気からの救いなら「癒し」と訳されても構わないのです。或いは、「解放」と訳されても構いません。ですから、救う神は癒す神であり解放するお方である事を私たちはしっかりと認識しなければいけません。キリストはあらゆる形の虐げから救う為に来られ、既に私たちを救ったのです。癒されていないという現実は神のせいではありません。むしろ、私たちがその癒しの約束をどうするかが問題であって、聖書の約束によるとその真理を信じて受け入れれば解放されるという事なのです。

多くの人たちが、病の癒しが「救われる事」より難しいと考えるのは、目に見える一部分に結果の全てが反映されていると思っているからです。しかし、ただ肉の目で見ているものは、全体の一部分であって結果の全てがそこに表されているのではありません。癒しに関して言えば、キリストの打ち傷によって既にあらゆる病は癒されているのです。これは真理です。現実はそれとして認識します。しかし、信仰によって御言葉の真理に立つなら、見ている現実が真理の力によって変わるのです。

肉の目で見ている現状は、本当に何が起きているかの一部分に過ぎません。常に肉の目で歩んでいるなら、悪霊の存在を知らずに歩む事と同じです。たとえ聖書を知っていても活用していない歩みは信仰による歩みとは違います。悪霊がどの様に働いているかを知らずにいると、神の武具を身につける心構えのない生き方になります。自らの油断が癒しの信仰を持てていない事だと認識して、大人の考えで歩み始めるなら勝利を見る事ができます。

私たちは長い間、癒されないのは神様の特別な計画として、神が癒さない理由を持っているとして来ました。それは、癒されない現状は神のせいにする事と同じなのです。病気は神からの試練ではありません。その様に見える現実があっても、それは真理ではないのです。それを神の御心と信じるのなら、サタンと悪霊の思うつぼです。私たちはむしろ悪に向かって戦って勝利を奪い取って行く必要があります。以前の私たちは、病気を神からのものとして受け止め、信仰の戦いをせずに諦めていました。しかし、もうその様な幼子の考えから卒業する時代に入っているのです。

2021年9月15日水曜日

癒しの祈り その4

「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24

このイエス様の教えからも祈りが宣言である事が分かります。まず最初にやるべき事は、問題である山に向かって宣言する事です。その時に、心の中で疑わないという事が条件になっています。また、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになるとあります。自らの宣言の通りになるのであるなら、既に得たと信じる事と同様であるとイエス様は言っているのです。それが24節です。

病気という山を動かしたいのなら、それに向かって退く様に言わなければなりません。その時、心の中で疑わない事が条件になります。そして、言った通りになると信じるなら、その通りになります。これがイエス様の教える祈りです。この祈りから分かるように、神様にあなたの問題を知ってもらう必要はありません。問題の詳細や、いかにその問題のおかげで苦しんでいるかを訴える必要もありません。何故なら、神はそれらを既にご存知だからです。特に、癒しの祈りに関して言えば、必ずしも神様に病状を知ってもらう為に言う必要がないのです。

私たちは神様に「~の事で困っています。神様、助けて下さい。」という祈りをして来ましたが、むしろ、「問題と問題の背後で働く悪霊ども、イエスの御名で命じる。出て行け!」なのです。何故この様な祈りが新生したクリスチャンの祈りになっているかと言えば、まず、イエス様が打ち傷を受けて私たちの病を取り除いて下さったからです。この約束があるゆえに、神様に癒してもらう為の嘆願が必要ないのです。何故なら、既に御言葉の約束によって既に癒されているからです。また、何度も言いますが、私たちが神の子として新しく創造されたからゆえに神の権威が与えられているので、病気に命じて去る様に言うのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12 

新改訳聖書では「特権」という訳にしていますが、これはギリシャ語の exousia という語で「権威」という意味を持ちます。神の子供であるクリスチャンは、神の権威を行使できます。それは、イエス・キリストの名を使うという意味です。私たちがイエスの御名で祈る時には、その御名の権威を使う事を知らなければいけません。ただ理由も知らなくて宗教的・儀式的にやってしまうと恩恵がありません。その御名で悪霊を追い出し、病を癒すのですが、多くのクリスチャンはその実用性を知りません。それが聖書にある事くらいは知っているかもしれませんが、日常で有効に使われていないのです。

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒の働き 3:16 

信仰を持って新しい契約に沿った御言葉の教えを宣言するなら、その通りになります。そして、病の祈りをこの御言葉の法則当てはめるなら、病を敵からの攻撃だと見なして追い出して行けばよいのです。敵を知らずに神様にお願いする従来の間違った祈りで癒しを期待するのなら、1割の確率しか期待できないでしょう。実際に、教会で癒しが見られるのは1割くらいだと言われています。主の憐れみはありますが、主は私たち自身が神の子として戦って勝利を掴む事を望んでおられるのです。従って、癒しを戦いと見なして祈っていくなら、より多くの癒しを体験する事になるのです。

2021年9月14日火曜日

癒しの祈り その3

 私たちが命じる祈りをするべき理由は、第一に、それがイエス様が弟子たちに教えたものだからです。古い契約時代の未来が分からない単なる希望の祈りではなく、結果が分かるがゆえの宣言なのです。希望の祈りは結果を知らずに望みますが、信仰の祈りは結果を知っているがゆえの祈りです。御言葉の約束に基づいた祈りです。何故その様な祈りが出来るかと言えば、キリストを信じた私たちが神の子として新生したからであり、神の子として大胆に「父よ!」と言える立場になったからです。

福音書に「主の祈り」と呼ばれているものがありますが、あれはイエス様が弟子たちの為に祈りについて教えものであって、本来は「弟子の祈り」という表現が正しいです。実際に、「主の祈り」は神ご自身がするのではなく、弟子たちがするべき祈りです。さて、イエス様はその祈りの教えの中で祈りの本質について言っています。そして、使われている動詞が命令形になっている所にもヒントがあります。

「御名が聖なるものとされますように。」マタイ 6:9 

「聖なるものとされますように」はお願いを意味していません。日本語は丁寧な表現になっているのでお願いをしているかのようですが、ギリシャ語では命令形になっているので、直訳なら「聖なるものとされよ」です。

「御国が来ますように。」マタイ 6:10 

「来ますように」の箇所の動詞もギリシャ語では命令形になっていますので、直訳なら「来い」になります。

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」マタイ 6:10 

「行われますように」の箇所の動詞は「成る」の命令形なので、ギリシャ語から読めば「みこころが天で成るように、地でも成れ」です。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」マタイ 6:11 

「お与えください」も命令形になっているので、「与えよ」です。

「私たちの負い目をお赦しください。」マタイ 6:12 

「お赦しください」も命令形なので、「赦せ」となります。日本語では何だか乱暴な言い方に聞こえますが、乞い願うという意味で「どうか赦して下さい」にしてしまうなら、本来のイエス様の教えと違ってしまいます。私たちは神に対して「赦して下さい」とお願いする必要がないからです。何故なら、私たちのその願いよりも先に主は私たちを赦して下さったからです。神の恵みはまだ私たちが罪人であった時にも既にありました。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8 

「悪からお救いください。」マタイ 6:13 

「お救いください」には「お」と「ください」がある為に、お願いしているような響きですが、実際には「救え」という命令形で書かれています。従って、ここも直訳にしてしまうと日本語では乱暴に聞こえても仕方ないでしょう。理解の鍵は、動詞の命令形を用いる事によって何の意味があるかです。イエス様が弟子たちに理解して欲しかったポイントは、「神に対して高慢になって命令しなさい」ではなく、「大胆に要求しなさい」という事なのです。

私たちは神の子なので、父なる神に大胆に当然のものを要求しても構わないのです。むしろイエス様は、神の約束を大胆に宣言して神の子として歩みなさいと教えています。その様な態度や行動をパリサイ人と律法学者は「神に対する冒涜」だと言ったのですが、イエス様は弟子たちに神を父親の様な方だと教え、何でも大胆に求める様に教えたのです。親が子供を見て喜ぶのは、その子供が親を完全に信頼しきっている所です。信頼があれば、変な遠慮がなく大胆に求める事ができます。もちろん、神の子として求めるという事は肉の思いから来る利己的な悪い動機に基づいてはいません。神の子は御霊の思いで父なる神に求め、天からの良いものを期待するのです。

「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」ヤコブ 4:2-3

2021年9月12日日曜日

癒しの祈り その2

 私たちは神様に癒して下さいと祈るべきだと教わってきましたが、イエス様や使徒たちはその様な祈りによって病人を癒してはいません。そもそも、新しい契約の下での祈りは「神様に乞う」事ではありません。イエス様が教えている祈りとは、神の子として大胆に「御国が来るように!」と宣言する祈りです。別の言葉で言えば、それは信仰に基づく祈りです。

聖書の教える信仰とは、神と神の御言葉を信じるという事であり、それは、信じた故に約束の結果を知るという事です。例えば、イエス・キリストが神の子として私たちの為に十字架の御業を通して救って下さったという御言葉の真理を信じれば、神の刑罰から救われる事になります。信じるなら永遠の命が与えられるという結果を知る事になるのです。それと同じ様に、御言葉を信じるなら癒されるという結果を知る事になるべきです。しかし、十字架の御業で約束されている罪の赦しに対して疑うクリスチャンはあまりいませんが、病の癒しは疑う人が多いものです。

信じても罪が赦されたと感じられないと言う人に、「御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスは究極的なものです。結局は、神の言葉そのものが約束しているという所に信頼を置くしかないのです。そして、神は約束を破るお方ではありません。従って、信じても癒された感じがしないという人には、「キリストの打ち傷によって癒されたという御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスも究極的なものです。

御言葉が示している様に、キリストの打ち傷によって病の癒しが約束されているのなら、神様にお願いして癒してもらう必要もありません。何故なら、既に神の御心は病人を癒す事であり、既に打ち傷を受けたイエス様が全ての御業を成し遂げて天に帰ったからです。後は、その約束通りになる様に命じる事、宣言する事です。これが新しい契約の下で私たちがするべき癒しの祈りの心構えであり、それと共にイエスの御名と言う権威を行使すれば、病は癒され悪霊は出て行く事になるのです。従来の「お願いする祈り」は、父なる神が私たちに期待している祈り方ではありません。父なる神の約束の言葉を信じる子供たちであるなら、大胆に宣言していく事を天の父は望んでいるのです。

「神様、癒して下さい!」ではなく、「イエスの御名によって命じる!病よ出て行け。癒されよ!」という様な信仰に基づく命令や宣言が新し契約の下での神の子としての祈りです。この様な祈り方は古い契約の時代にはありませんでした。しかし、イエス様は大胆に求めるように祈りなさいと弟子たちに教えたのです。その大胆さは、神を「父」と呼ぶくらいだというものです。主は私たちを子供のように見ていますし、私たちは実際に神の子になりました。ですから、私たちも神を天の父として見るべきです。そこには深い親子の関係があります。この深い絆があるので、私たちは神の子としてあらゆる障害や山に命じて問題を解決して行くのです。

2021年9月11日土曜日

癒しの祈り その1

新生したクリスチャンは、パウロの言葉で言えば、「新しい人」です。新しい人は、私たちの霊が新しく生まれ変わった事によります。そして、新しく生まれ変わったので、私たちは神に属する者(神の子)となりました。新しく生まれ変わったクリスチャンの正しい考えや行動は、以前と同じになっているべきではありません。未信者だった頃とは違う新しい考え方によって歩んでいるべきです。それは、新しい契約の教えに基づいている事です。新しい契約に基づく新しい考え方は、癒しの祈りに関しても同じです。新しい人として(神の子として)の考えに基づいていない祈り方は神の子であるクリスチャンのあるべき行動と違う事になるからです。

古い契約の考えのまま祈りをしても効果はありません。モーセの律法に基づく古い契約の中には信仰の概念がないからです。つまり、信仰のない祈りは本来のクリスチャンの祈りではありません。また、古い契約の中には新生の概念もありませんので、新しい人・神の子として考えて歩む事が不可能なのです。信者になった私たちは、単なる肉の思いによって歩む事から解放されており、霊の視点・考えで歩む事(新しい契約の教えに基づいて歩む事)ができます。その歩みは文字によって仕える歩みではなく、御霊によって仕える歩みであり、そこには解放があります。

旧約時代にも信仰によって歩んでいた人たちの祈り方は模範として幾らかは参考になるものもあります。実際に、アブラハムやエリヤの祈り方はある程度参考にできます。しかし、彼らは新生を体験していませんでしたし、イエスの御名を使って祈れる事も知りませんでした。現代の私たちは神の子としてキリストの御名の権威で祈れます。従って、彼らの祈りの中には参考にならない部分もあります。

イエス・キリストが究極の模範

クリスチャン(新生して神の子になった者)は、古い契約やモーセの律法を参考にして考えるのではなく、イエス・キリストが示した新しい契約と新しい戒めを参考にして考えます。従って、新しい人・神の子であるクリスチャンは、新しい契約の中で歩むべきです。神の子として私たちが癒しに関わる為には、神の子として歩んだイエス様のやり方を最初に模範にします。その次に、使徒たちのやり方を模範にするべきでしょう。

従って、福音書でイエス様が病人を癒したやり方と使徒の働きの書で弟子たちが行ったやり方を参考にすれば、病気の癒しに関して何をするべきかが分かってきます。イエス様と弟子たちが癒したケースを調べれば、新しい人・神の子の視点がどの様なものかが見えてきます。もし、私たちが常に新しい人・神の子の視点であらゆる問題の対策を考えるならば、癒しだけでなく全ての事をイエス様がやったように私たちも出来るようになって行きます。

2021年9月4日土曜日

癒しと神の御心

神の癒しがキリストによる贖いに含まれているなら、過去において既に起きたという事実と見なす事ができます。歴史的な事実としても、十字架の御業は既に完了しているものとして見る事ができます。従って、病の癒しが神の御心かどうかは、キリストの贖いの中にそれが含まれているかどうかがとても重要になります。そして、その事は聖書が既に示していて、私たちはイエス・キリストが私たちの病の為に打ち傷を受けた事を知る事ができます。すなわち、病の癒しはキリストの贖いの中にあるという真理を知る事ができるのです。贖いの計画は神の御心の中心的なもので、病の癒しは神の御心の中心的なものです。

キリストの贖いは私たちにとって素晴らしい神の恵みの表れでした。それが示している事は、神の御心は私たちにとって良いものであって悪い事ではありません。ちょうど、神ご自身が常に良いお方である様に、神様の御心はいつでも私たちにとって良い事です。この理解を土台にすれば、病気は悪いものという認識は難しくないでしょう。実際に、人が病気になる事は神の御心ではないのです。しかし、贖いが癒しの中に含まれていると認めている人でも、「例外もある」と考えている人もいます。

例えば、「神様は時には病いを通して私たちを訓練する」という言い方をすれば、神の御心は「時には私たちにとって悪いもの」になります。しかし、単純に考えましょう。病気を持ってきておきながら、それを私たちの成長の為だとするのは本当に神様がやる事なのでしょうか?癒す神が病気を与えるのでしょうか?「神様は私たちに病気を与えて訓練する」という人達でも病院に通ってその病いを取り除こうとします。しかし、そうするなら、彼らは神の御心を取り除こうとしているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ:29:11

神が旧約時代のエレミヤに言った神の計画とは「平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのもの」です。古い契約に生きていたエレミヤに対する神の計画が良いものであるなら、新しい契約の中にいる私たちに対する神様の計画はもっと良いものです。何故なら、私達の新しい契約は古い契約よりも優れているからです。神様は、古い契約にいた人々に対して良い計画があると言いました。当時のイスラエル人は新生を経験していなかったので、神の子ではありませんでした。しかし、私たちはキリストにあって神の子となっています。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12 

神の癒しが神の御心であれば、それは全ての人々へのものです。何故なら、神にはえこひいきはないからです。神の癒しが神の御心であれば、私達に癒しを受取る為の方法を教えて下さる必要があります。神は人がその御心を知る事ができるようにし、そしてその恵みを受け取るようにしなければ、私達にとって何の意味もありません。しかし、神様は良いお方なので聖書を通して御心を知らせて下さいました。

神はその御心が成就されようとする時に、神ご自身が妨げる事はしません。しかし、その邪魔をするのは私たちの敵である悪魔です。敵が⼀番望むのは、人が神の御心を受け取るのを妨げる事です。

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」ヤコブ1:22

神の御心の要約

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」マタイ7:12

「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」マタイ22:35-40

病気に倒れて困っている時に、癒しの為に祈って欲しいと誰でも思います。ですから、信者である私たちは病人の為に手を置いて癒していく大宣教命令があります。神が癒す事ができるかを疑う人はいません。クリスチャンは皆、神には問題なく癒す力があると信じています。疑いが生じるのは、癒しが神の御心かどうか確信がない時です。

神の癒しの御心

私たちが知るべき事は、神はいつも病人を癒したいと願っているという事です。救いたいと願っているお方が「癒しは別」と考える事があるでしょうか?その事に矛盾を感じないのは、間違った教理で真理が分からなくなっているからです。

「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心⼀つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ 8:2-3

この箇所の 「心」のギリシャ語は意志を表わす thelo という語です。積極的に~をする事を望むという「意志」を表わす語です。イエス様は、このツァラアトに冒された人に対して癒す意思があると言ったのです。

時には神は病人を癒さないという「例外」を信じている人は、神にしか分からない「特別なケース」があると考えています。しかし、例外として神は病人を癒さないという事が実際に起きているのでしょうか?むしろ、癒されるのが例外という程、癒しの数が少ない状況が現実なのです。時々、「癒されない例外」があるよりも、「癒される事が例外」になっている今の現状は、私たちの御言葉に対する正しい理解と信仰が原因なのです。

2021年9月3日金曜日

癒される為にするべき事

人の肉の努力には二つの種類があります。一つは、新しい契約の教えに基づいていない行ないの事で、もう一つは、新しい契約の教えに基づく事を感情的にしてしまう事です。 

「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ 3:3 

 イエス・キリストを信じて生まれ変わった人は、御霊によって新しい人生を歩める事ができます。新しい霊がその人の内に創造された為に、古い契約であるモーセの律法によって生きる必要が無くなりました。新しい人は文字によってではなく、御霊に仕える者です。これが新しい契約のおしえです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3:6 

 モーセの律法は信仰の促しがありません。この律法は信仰による義の行いはなく、肉の努力によって自己の義を求めようとします。しかし、キリストが教えた「自由をもたらす完全な律法」は、キリストの義ゆえに信仰によって良い行いをします。クリスチャンは、自己の義ではなくキリストから与えられた義によって良い行いをするのであり、そうする事が可能なのはイエス・キリストを信じて義と認められたからです。

モーセの律法は、キリストを信じないで良い行いを通して義と認められようとする考えに基づきます。しかし、クリスチャンの持つキリストの義の行いは常に信仰に基づいています。何故なら、信者はキリストに対する信仰によって義と認められたからであり、その信仰によって私たちは歩み続ける者だからです。 

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ 1:17 

真理、信仰、戦い

私たちが癒しを体験する為に必要な事は、信仰に立つ事です。そうするには、信じ続ける事が大事です。信じ続けるとは、疑いなどを跳ねのけて戦い続ける事を意味します。誰の言葉にも、どんな状況でもあなたが癒しを信じ続けて諦めずに戦うなら、あなたは癒されます。その理由は主に三つあります。まず、主があなたを既に癒して下さったという真理があるからです。そして、あなたがその事を信じるがゆえに、御言葉の真理があなたを解放するからです。三つ目に、信じるあなたが疑いを持ってくる敵に戦って信仰の戦いにおいて勝利するからです。

従って、キリストの打ち傷によって私たちは癒されるという真理を知る事、その真理を頭ではなく心で信じる事、そして、その信仰に戦いを挑む敵や不安に立ち向かっていく事を通して、私たちは癒しを体験する事ができるのです。

2021年9月2日木曜日

信仰と神の癒し

「信仰による癒しが一度でも失敗するなら、それは神の癒しではない」、或いは、「瞬間的な癒しでないなら、それは神の癒しではない」などの誤解を持っている人もいます。しかし実際には、徐々に回復して癒された場合でも薬を通して回復したケースでも、神が癒して下さったと見なして神を褒め称えるクリスチャンは多いものです。ところが、信仰によって病人に手を置いて癒すという方法などに限っては、イエス様が福音書の中でやった様に全く同じ結果を出さなければならないという考えに固執している人たちがいます。どうしてでしょうか?

神学的な立場にこだわり過ぎて熱くなっている人たちは、いつの時代にもいるものです。そうした人たちの中には、実際に神の癒しを体験している人はあまりいません。彼らは癒しの体験よりも、むしろ周りに癒されていない人たちを見て来た事が多い為に、御言葉の真理よりも現状ばかりを見て結論付けているのです。必死に祈っても結果が出ない事もあります。しかし、そうした失敗ばかり見て諦める必要はありません。成長を目指している私たちは、その成長の過程で失敗する事はあるでしょう。しかし、圧倒的な勝利者として日々奮闘して歩んで行こうとする姿勢が私たちの持つべき信仰です。

私たちが思い出す必要があるのは、まず神の力は信者の内にあるという事です。(エペソ 3:20、コロサイ 1:29)神の力は各信者の信仰の成長と思考の一新に応じて発揮されます。成長の初期の段階にいる私たちは、信仰による癒しを高い確率で見る事はまだありません。その確率はまだ不安定であって低いのです。しかし、私たちが成長の道を進んで行けばより難しい状況でも大胆に信仰に立って神の栄光を表す事が出来るように(すなわち、癒しが出来るように)なり、その確率も癒しのスピードも良くなってきます。

神は、私たちがその域に達するまで成長して大胆に歩む事を望んでいます。従って、今の状況で完璧な癒しを求める必要はありません。成長の途中において100%の癒しの確率を見る事はないでしょう。しかし同時に、キリストにあって何でも出来る私たちは完璧主義の心構えで前進するべきでしょう。常にポジティブに考えて宣言する事はクリスチャンとしてやるべき事です。例え時々失敗したとしても、常に「癒しが起こる」という信仰で歩むべきです。それとも、完全にキリストの身丈にまで成長していないとその様に考えたり口にする事は許されないのでしょうか?

例えば、愛について語るクリスチャンの場合を考えて見ましょう。完全に成長していないクリスチャンでも神の愛を語る必要があります。講壇から神の愛を語る人の中で、イエス様の愛を完全に知っている人はまだいませんが、キリストの愛は絶対である事を伝えるのは私たちクリスチャンの使命です。同じ様に、100%の癒しではないといって、神の癒しに関して否定的に考える必要はありません。信仰の成長に応じた結果が出ているだけであって、神の約束に関して言えば、いつも「キリストの打ち傷」によって癒されるのです。

2021年9月1日水曜日

御言葉による成長:三つの扱い

「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ 4:4 

未信者は神の口から出る一つ一つのことばで生きてはいません。信じていない彼らにとっては、御言葉の生きた力を自分のものとする事はできません。しかし、御言葉に沿って歩むクリスチャンならパンだけで生きる事はしません。信者である私たちは日々のパンだけでなく、神の言葉によっても生きる者です。ちょうどパンから肉体に対する活力を得る様に、私たちの霊に対する活力は御言葉から得る事ができます。

御言葉を読む

癒しについて聖書が何を言っているか分からないのなら、癒しに対しての正しい信仰を持つ事はできません。信者の歩みは御言葉を読む事から始まります。多くのクリスチャンは専門家の解釈に頼り過ぎていますが、今では原語の意味を調べる事が素人でも出来るようになっています。信者一人一人が、可能な限り自分で読んで何が書かれてあるかを確かめるべきです。何が真理であるか確信を持てない間は、異なる教理に耳を傾ける事も必要だと言えます。

御言葉を学ぶ

聖書の解釈が無数にあっても良いとするのであれば、何をどう信じても構わないとするのです。ところが、真理は一つしかありません。そして、真理は聖書にあるのです。何が複雑にしているかと言えば、無数にある神学論です。多くの神学論は部分的な聖句の引用や文脈を無視した読み方になっていて、旧約聖書と新約聖書をバランスよく取り扱っていません。ほぼ全ての神学は旧約聖書の視点から考えられていて、新しい契約を忘れているかのようです。

御言葉を正しく学ぶ鍵は、古い契約と新しい契約の相違を明確にする事です。時代別に神の摂理があるという見方ではなく、モーセの律法に基づく古い契約の時代とキリストの新しい戒めに基づく新しい契約の時代があるだけです。現代でも適応される旧約聖書の聖句は、真理について書かれてある箇所だけです。モーセの律法の視点から書かれてあるものは今日では必要ありません。

御言葉を黙想する

私たちが黙想すべき御言葉は主に新約聖書からになります。何故なら、私たちが知るべき必要な全ての真理がそこにあるからです。その真理の御言葉によって思考が一新される時に、私たちは多くの問題から解放される事になります。御言葉の黙想とは、真理の御言葉を思い巡らし、口ずさんだり宣言したりする事を指します。御言葉の教えに反する事を考えたり口にするのではなく、神の生きる言葉を発して歩むのが私たちクリスチャンのやるべき事です。

2021年8月30日月曜日

癒しはキリストの贖いにある その3

パウロによる理解

パウロは癒しについてどう理解していたのでしょうか?実は、使徒たちの手紙の中で癒しについて書かれている箇所は僅かです。多くの書簡を書いたパウロでさえ、キリストの癒しの真理に関して書いてあるのはコリントの手紙くらいです。

「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:27-30

ここは、聖餐式に関してパウロがコリントの信者に注意した箇所です。パンとぶどう酒がキリストの十字架を象徴しているのは明らかです。これらをよく理解しないで単なる飲み食いにしてしまうなら、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とパウロは言っています。

29節の「キリストのからだ」をわきまえないで飲み食いする事が原因で、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とパウロは言っています。何故キリストの「血」ではなく「からだ」をわきまえない事が、病人が多くなった原因だとしているのでしょうか?それは、キリストのからだが受けた打ち傷によって私たちが癒やされるという約束があるからです。キリストはご自身の体に打ち傷を受けて私たちの病を背負ったのです。

正餐式はキリストの十字架の贖いの象徴です。キリストの血による罪の赦しを理解せずに、その恩恵を受け取る事はできません。同様に、キリストが何故ご自身の体を捧げて打ち傷を受けたのかをよく理解せずにパンを食べるなら、私たちは癒しの恩恵を受る事ができないのです。これらを信仰によって行うなら私たちは祝福を受け取る事ができるのですが、単なる飲み食いにするなら何の恩恵もないという事なのです。

新約聖書の使徒たちが書いた書物によれば、贖いの一部としてキリストは病を背負ったのであり、打ち傷として受けたという預言の成就であり、そしてそれは現代でも聖餐式を通して受けられる神の祝福なのです。

2021年8月29日日曜日

癒しはキリストの贖いにある その2

病の癒しが贖いに含まれないとする神学は、信じても癒されないという現実を土台にしてその主張をサポートする聖句のみを選んで聖書を解釈しています。そして、癒されているケースに関しては、神の気まぐれな御心は何でも無効にするという解釈で丸く収めようとします。

確かに、癒しを信じているような人でも癒されていない現状はあります。しかし、肉の目に見える現状と真理を語る御言葉は全く違うものです。また、実際に信じているかどうかを良く見てみると、おかしな土台に基づいた信仰になっているケースが殆どです。もう一つ鍵となるのが、敵の攻撃として病がもたらされる事が関わっている点です。これらを総合的に見ないと、私たちは病の癒しを見る事は難しいでしょう。

ここでは、新約聖書が病の癒しはキリストの贖いに含まれる事を示しているかどうかに視点を合せたいと思います。何故なら、旧約聖書の書物の著者たちは聖霊による新生の体験が無いので神の子ではなかった事、そしてキリストによる新しい契約の奥義などを知らずに書いている為に、多くの真理を部分的にしか知る事が無かったからです。

マタイの引用

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

マタイはイザヤ書 53:4 の一部を引用して「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」と言いました。しかし、一部の神学によると、使徒マタイの意味する預言の成就はイエス様が十字架に掛かる前に病人を癒した時なので、キリストの贖いに癒しは含まれないとするものがあります。しかし、預言の成就は現在も進行しているのであって、罪の赦しと同様に病の癒しはキリストによる贖いによって明らかにされた真理なのです。真理は普遍であり神の御心と性質を示す永遠の事柄です。聖霊の力による癒しは「使徒たちの時代に終わった」のでもなく、「現代医学に取って代わった」という事でもありません。実際に、聖霊の働きは現在でもありますし、現代医学では癒せない病気が沢山あるのが現状です。

ペテロの引用

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

この節の前半は罪の赦しがあり、その後半には病の癒しの真理が書かれています。ある神学によれば、前半が罪の赦しについて言及している為に、打ち傷による癒しは罪の赦しを意味すると解釈しています。しかし、罪は癒されるのではなく赦されるのです。「癒された」の訳になっている単語をギリシャ語でみると ἰάομαι が使われています。これは病気などの癒しを意味するものであり新約聖書に28回出てきます。第一ペテロ 2:24 では「罪の赦し」という意味でペテロが書いたのでしょうか?

この節でペテロが言っているのは、罪の赦しと病の癒しが贖いにあるという真理なのです。キリストの贖いは罪の赦しだけではありません。ペテロは、罪の赦しに関してはイザヤの預言を理解して書いています。病の癒しに関しての預言は直接イザヤ 53:5 の後半を部分的に引用しています。ペテロは、罪の赦しと病の癒しがキリストの贖いあるとして、この節でまとめたのです。

2021年8月28日土曜日

癒しはキリストの贖いにある その1

「肉体の癒しはキリストの贖いに含まれないと言う学者がいるとするなら、その人はギリシャ語の学者ではないか、或いは、嘘をついている。」T. J. マックローサン

マックローサン博士は著名な牧師であり、作家、聖書の教師、そして大学でギリシャ語とヘブライ語を教えていた学者としても高く評価されていた人です。彼の書いた本、Bodily Healing and the Atonement の中にクリスチャンがキリストの贖いの中に癒しがある事を信じるべき6つの理由を挙げています。この本の中にも、癒しについての正しい理解に至る幾つかの重要な鍵を見つける事ができます。

理由①

「神は病人を癒した事があり、神は永遠に変わらないお方であるから。」

過去に起きた一つの癒しは、現代の私たちにも当てはまるとマックローサン博士は言います。何故なら、主が良いお方であるという真理が永遠に変わらないからだという事です。

理由②

「キリストは私たちの罪だけでなく、病をも贖って下さったから。」

マックローサン博士は、イザヤ書、マタイ、ペテロの手紙からの聖句を用いてその理由に触れます。解説は主に、へブル語とギリシャ語の原語からのもので、それによればキリストが私たちの病を背負ったという事です。この理解についてマックローサン博士は、アンドリュー・マーレ―の言葉からも引用して彼だけの考えではないとしています。

「主の義なるしもべが私たちの罪を負っただけでなく、私たちの病気も負って下さった。従って、私たちの罪を負い、私たちの病気を負う主は、贖い主の御業の不可欠な部分を形成しています。…体と魂は神の住まいとして一緒に役立つために創造されたのです。肉体の病的な状態は、魂の状態と同様に罪の結果であり、それはイエスが耐え、償い、征服する事になったのです。」アンドリュー・マーレ― (Divine Healing, pages 99 and 119)

理由③

「病は悪魔の仕業であるから」

使徒の働き 10:38 の引用により、病を悪の仕業だと説明しています。

理由④

「聖霊が教会におられるから」

キリストの上に臨んだ同じ癒しの聖霊の力が、今は教会である私たちクリスチャンの内に住んでおられるので、私たちは癒しを大いに期待できるとマックローサン博士は言います。

理由⑤

「キリストの病の贖いは今日の私たちにも適応されるから。」

マックローサン博士は癒しがマルコ16章にあるキリストの宣教命令の一部である事を説明しています。

理由⑥

「主の素晴らしい約束だから」

主が病を癒して下さるという御言葉の約束についてマックローサン博士は、イエス様が「祈って求める事は何でも」の中に含まれるとします。つまり、私たちが病の癒しが必要な時は、それを求めても良いと主が約束されている事、そして癒しの約束を私たちは信じるべきだとしています。

2021年8月27日金曜日

癒される可能性を見る

癒しを幾らか体験した人でも、今しばらくの間は、信仰によってあらゆる病人・病気の癒し(100%の癒し)を見る事はまだないでしょう。それは、私たち神の子がまだ十分に成長していないからです。しかし、今の状況でも癒される可能性があるのなら、そこに目を向けるべきです。癒されないケースを見て諦めるのは、信者として正しい態度ではありません。イエス・キリストを主として歩む人なら、よりポジティブに考えて生きる事ができるはずです。

ある人たちは、癒しに関してとても否定的に見ています。癒されなかったケースばかりを見て、信仰の戦いを通らずに諦めるのは本来のクリスチャンの姿ではありません。むしろ、クリスチャンであるなら例え僅かなチャンスで癒されるとしても、前向きに行動するべきでしょう。小さなチャンスをものにする未信者の様々な努力を私たちも見習うべきです。何でも直ぐに諦めてしまうクリスチャンは、未信者に対して良い証しをしていません。

諦めるのが早すぎるクリスチャンが多いのは、「神の主権」に関する誤解が蔓延しているからでしょう。病や死に関しての努力は必要ないという考えは、それらに打ち勝ったイエス様の姿とは逆のものです。私たちはキリストに似た者として、圧倒的な勝利者として歩む様に考えを一新しなければなりません。思考の一新によって私たちが神の子として歩み成長して行く程、信仰による癒しがより多く見られるようになります。

一度だけの祈りで諦めるのではなく、癒しが見られるまでやり続けるのが信仰の祈りです。それは、疑いを持ちながらの祈りではありません。希望の祈りでもありません。信仰によって主の御心の通りに癒される事を信じて疑わない祈りです。その時に私たちは山を動かす事ができます。敵もしつこく攻撃しますが、私たちは勝てる戦いを直ぐに諦める必要はありません。主の御心は私たちがあらゆる束縛から解放される事なのです。病は神からのものではありません。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

私たちに必要な見方・考え方は、癒しは敵との闘いであるという事です。病と病をもたらす存在がいる事を知らずにいると諦めるしかないのですが、私たちは聖書が教えている癒しの真理を正しく知って自由になる事もできるのです。神様次第で病人の生死が決まるのではなく、地上の事柄を任された私たち神の子がその生死を決定できるのです。諦めて弱音を吐いてその通りの結果を見るか信仰によって難しい状況を動かすかは、神ではなく私たちの言葉と考えがそれらを決定するのです。

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」箴言 18:21 

2021年8月26日木曜日

癒しと神の主権 その3

人は自分で悪い種を蒔いて刈り取っている事が多々あります。その様にして健康を失う事が確かにあります。しかし、本来は存在していなかった病気が存在する様になったのは、サタンが原因なのです。病気は神の創造には含まれていません。もちろん、そのサタンに同意して罪を犯した人間にも責任が問われます。その責任を認識させる為に、神はモーセの律法をもたらしたのです。人間は自分自身の犯した罪について認識する必要はありました。そして、律法が要求する刑罰は呪いとも呼ばれていて、その中には病気も含まれていました。しかし、それは旧約時代の古い契約の時であって、神はついに恵みによる救いの道をイエス・キリストを通して示されたのです。

新しい契約の視点

新しい契約に入ってからは、罪も病気もイエス・キリストの十字架の御業によって取り除かれました。今私たち人間のするべき事とは、イエス・キリストの御業を信じて罪の赦しと病の癒しの恵みを受けて、新しい霊として生まれ変わる事なのです。この十字架による恵みの現れは神の御心の現れであって、人がその恵みを受け取る事を神は望んでおられます。旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。

古い契約の視点

申命記28章4節によれば病気は呪いとして扱われていますが、その呪いは神からのものではなく人間自身の罪が原因でした。罪ゆえに律法の刑罰がありました。従って、罪が原因となって病が入り込んだのは間違いありません。アダムの違反のゆえに病が入り込んだのは間違いないのです。従って、誘惑したサタンとその誘惑に負けたアダムが病をもたらしたと言えます。サタンは病気という形の悪をもたらそうとしたのであり、アダムはそれをウェルカムしてしまったのです。神はサタンの罪にも人の罪に対しても責任はありません。むしろ、義を持ってサタンを裁き、恵みを持って人に救いの道を与えました。しかし、それらの真理が示されたのはイエス・キリストによってであり、古い契約の時代にはその真理の大部分は隠されていたのです。

神の性質

古い契約の時代の神は冷酷であったと思う人は多いでしょう。しかし、主はとこしえに恵み深いお方で常に良いお方です。この真理を人間が知らなかっただけです。そして、その真理を伝える為にイエス様が天から来られました。イエス・キリストの贖いの為に、父なる神は人の罪に対して怒って罪の責任を問う事はもうありません。赦しという恵みと癒しという恵みが新しい契約に示されているのです。

しかし、人は罪を通して悪い種を刈り取ってしまう事があります。神はイエス・キリストによって人の罪自体を赦していますが、その人自身が罪を犯す事によって周りの人に迷惑をかけた場合は、責任を取らなければいけない事や自分自身に対して害(病気を含む)を受ける事もあります。これは種まきの法則です。しかし、主を求める人には、ご自身の恵みによってそれらの問題に対する解決策をもお示しになります。

新しい契約の下では、主の介入は常に人に良い事をもたらします。決して災いをもたらす事ではありません。人の罪に対して主の裁きという介入があるのではなく、人が主の助けを求める時や主に信頼を置く時に恵みという主の介入があるのです。従って、病気を試練と考えて神様からのものだとしてはいけません。

真理が人を解放する

病気や人の死を通して私たちは何かを学ぶ事もあるかもしれませんが、病気や人の死そのものが何かを教えるのではありません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何かを学ぶ時というのは聖書の真理を学ぶ時であって、それを聞いて知った時なのです。

ですから、困難な経験を通らなくても私たちは常に聖書から真理を学ぶ事が出来るのです。人がつらい経験を通るのは主がそれを持ってくるからではなく、サタンからの攻撃にあっているケースが殆どです。それ以外のケースでは自分で蒔いた種を刈り取っているだけなのです。霊的な歩みを心掛けず主との交わりの外に出てしまうと、あらゆる困難に会う事になるでしょう。父なる神様はその主権を乱用して病気を持ってくる事をしません。それを「試練」と呼ぶのは私たち人間の浅はかな考えです。主を知らないからそう言ってしまうのです。そして、サタンである敵を知らない為に全ての災いも神からとするのです。

2021年8月23日月曜日

癒しと神の主権 その2

ヨブは、神は人に命を与えその命を取ると考えました。しかし、神はご自身の主権を用いて人の命を取る為に働かせてはいません。主は確かに全てに対して権威を持っていますが、主の権威は命を与える為のものです。ご自身が主である事を示す為に主がなさる事は、全て誰から見ても正しくて良い事なのです。病気が神からのものだとするのなら、悪魔は義であるという考えと同じくらい矛盾しているのです。

地上は人に

神は、地上に関する多くの事を人間に任せています。主の介入は時々ありますが、主は地上での多くの事を人に委ねているのです。

「天は 主の天。 地は 主が人の子らに与えられた。」詩篇 115:16 

人は自分の命に対してでさえも、それをどうするか自由意志を与えられているのです。アダムもその選択を与えられました。自分勝手な道を進むのなら、人はその命を落としてしまいます。人が命を保つには、主の導きの中においてのみ成功を収めます。

「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」エレミヤ書 10:23

神様は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に親しい交わりの中で生きていく為です。しかも、親と子の関係を持って私たちと歩みたいと望んでおられるのです。そうした交わりの中に私たちが留まるのなら、全ては上手く行きます。ですから、私たちの周りにある問題は、私たちが神様との交わりから離れた事によって起こっているのです。同時に、悪魔という悪者の存在を忘れてはいけません。この敵が全ての悪事を働いていて、地上を破壊しているのです。しかし、この混沌とした地上を私たちが治めるようにと神様は私たちに託しているのです。

悪魔の存在

クリスチャンが神の主権に対して誤解を持っているもう一つの原因は、悪魔の存在をあまり知らない事にあります。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7

この個所から明らかなように、神と悪魔は対立の関係にあります。私たちはしっかりと知っておく必要があります。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もあるという事です。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があります。「神様が全てをコントロールしているから、全ての物事はなるようになる」という考えは間違っています。神のなさる素晴らしい事と、悪魔のする悪事は全く違います。悪魔のする事とは、次の箇所から明らかです。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ 10:10 

サタンは病気を持ってきて人の健康を盗み、殺したり滅ぼしたりします。もし、神が病を通して病人に何かを教えているとすれば、その病人は病院に行ってその病気を取り除くような事はしない方が正しい事になります。何故なら、病気を取り除こうとするのは神様の計画に反抗している事になるからです。神の主権について誤解を持っていると、病気でさえも神様からのものと考えてしまうでしょう。「病という試練」を通して何かを学ばされていると言いながら、必死にその病気からの回復を願っているクリスチャンは大勢います。彼らは自分たちが矛盾しているという事に気付いていません。その矛盾に気付かない信者を見て、未信者もまた違和感を感じているのです。

「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」イザヤ 5:20 

「病気という悪いもの」が神様から来ているとする考えは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。もし、クリスチャンが神様は病気をもたらす事もあると言うなら、どうして同時にイエス様は癒し主と言えるのでしょう?福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、時には病気によって罰を与えるのでしょうか?確かにモーセの律法の下では、病などを呪いと呼ばれていた事はありました。しかし今はモーセの律法から解放されて恵みの時に入ったのです。

2021年8月22日日曜日

癒しと神の主権 その1

神様の絶対的権力とその御心は、地上で起きている全ての詳細に及ぶという考えは間違いです。神は御心のままに良い事も悪い事も全てをコントロールしているという訳ではありません。神様がサタンさえも操っているという教えはヨブ記を誤解して読んでいるだけであって、真理ではありません。もし、神様が全ての事についてコントロールしているのならば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。カルヴァン主義の影響ではなくとも、人の自由意志を否定し神様の主権だけが存在しているという考えは、諸教会で大きな混乱を招いています。

あらゆる地上で起きている悪は、神様の許可の下に起きているという教えを聞く人々は、その多くが希望を失っています。全ては神の御手にあり、私たちの信仰とは無関係に事が起きるとすれば、神を信じるという意味がどこにあるのでしょう?信じる事が私たちの自由意志によるのではないなら、神様は私たちをコントロールして信者を作り出している事になります。これなら宣教の意味もありませんし、イエス様の十字架の意味もありません。

神様が全てをコントロールしているというのが真理であるなら、地上で起きている事は全て私たちとは関係がないという事になります。「神様は全知全能だから神の御心だけが行われ、全ては御心のままに事が起こる」という考えは間違いです。神の御心に背いた人は大勢います。神様は背く人々の自由意志をコントロールしていません。その事と神が全知全能である事とは別なのです。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」第二ペテロ 3:9

私たちの主は誰一人として滅びるのを望んでいません。全ての人の救いを望んでいます。ところが、人がキリストを信じて救くわれるという福音の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっている訳ではないのです。主の御心とは別に人間の自由意志によって自らの滅びが決定されるのです。人が救いに至る場合は主の御心の通りに事が起きていますが、そこでも人の自由意志が働いています。究極の選択ですら人の自由意志次第なのですから、その他の事は尚更人の思いのままに決断する事ができます。実際、人が決めて行なった多くの結果を私たちは見ているのです。

主の介入

祈りなどによって主の介入はあるでしょう。主が介入する時には、良い事が起きます。全ての悪事はサタンからです。しかし、私たちがする多くの事は私たち自身がそれを決定して行っているだけなのです。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができます。ある意味、人の自由意志は神の御心よりも強いのです。その自由意志は神様によってコントロールされていません。神様が私たちに正しい道を選ぶようにしているのは、私たちの自由意志を尊重している証拠です。神様が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは人間の高ぶりから来るものです。

イエス様の十字架の御業は恵みですが、一人一人が信仰によってその恵みを受け取って救いを得るのです。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に救われる事になるのではなく、恵みと信仰が一緒になる時に救いがもたらされます。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル 4:2

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

恵みは神からのものです。信仰は私たちのイエスキリストの恵みに対する正しい応答です。神様に対する私たちの間違った応答は、全て恵みを軽視する行為なのです。

ヨブ記の誤解

全ての禍や災難、病気、死も神様がコントロールしているという考えを持つクリスチャンは、その多くがヨブ記の内容を誤解している事が原因となっています。「神がサタンに許可を与えている」という考えは、神の定義自体を根本的に見直す必要があります。その様な事をする神は本当の神ではなく、まさにサタンでしかありません。実際、神とサタンの区別がつかないような教えは悪魔的です。聖書の示している神は愛の神です。悪と善は両方とも神からのものだとしたら、神様の性質そのものが矛盾している事になり、そう教えている聖書も矛盾しており、それはもはや真理という定義になりません。

誤解の大きな原因の一つは、旧約聖書の示している僅かな真理と新約聖書で明らかになった全ての真理の違いに気付いていない事です。主は旧約時代においては、多くの真理を明らかにしていません。真理はイエス・キリストによって実現したのであり、イエス・キリストが示した教えこそが真理であり、イエス・キリストご自身が真理なのです。モーセの律法がまだ有効であった時代には、キリストの真理が明らかになっておらず、それはまた、神についての真理が明らかになっていない事なのです。従って、旧約時代の神は人の目には「愛の神」には見えない事もあるのです。

2021年8月21日土曜日

神の癒しと薬

神の力による癒しは医学による薬よりも遥かに優れています。神の癒しは超自然的で霊的です。それは神の力によるものであり、イエス・キリストを信じる人々に伴うしるしでもあります。神の癒しはキリストの弟子たちを通してもありました。もし、私たちがその弟子たちと同じような信仰の歩みをするなら、同じ神の癒しを体験する事になるでしょう。

その一方で、医学の進歩による現代の医療や薬の恩恵は大いにあります。私たちクリスチャンは医者や薬を否定するべきではありません。しかし、御言葉よりもそれらに信仰を置いて歩むべきでもありません。御言葉が私たちにとっての薬なのです。私たちは主を第一として生きるべきです。

様々な治療や薬の素晴らしい点は、それらによって多くの人々が少しでも痛みから解放される所にあります。また、薬による症状の抑制が働いている間に神が人の体に備えて下さった治癒力によって回復が促され、場合によっては命を伸ばす結果にも繋がります。そうして人々がより長く生きるなら、それだけ福音を聞くチャンスがあるのです。

信者としての歩み

キリストに従って歩む事とは、主日礼拝を欠かさないという事を超えるものです。単に神学校を卒業する事でもなく、献身者として地域教会で熱心に働く事以上のものです。それは、自らの成長の目標をキリストの身丈に置き、神の子として地上を治める生き方です。私たちがまだ成長している段階では、薬や治療の助けを賢く利用するべきでしょう。しかし、私たちは霊的に成長して行く中で医者や薬に頼らない生き方に辿り着くべきです。私たちの目指す所は御霊の命を表す歩みであるべきだからです。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

薬との付き合い方

医学がもたらす薬や治療は、私たちの体に大きな副作用や負担をもたらすものは避けるべきでしょう。人類が多くの病気を克服できた背景には神の恵みがあります。主は人々が福音を聞くチャンスがある前にも、少しでも苦しみや痛みから解放される事を望んでいます。ですから、主は研究者が神の知恵に気付くように働かれ、多くの病気に対する様々な救急処置を与えているのです。

しかし、神の癒しを知らずにただ医学による薬を通して人が回復する事は主の最善策ではありません。主が望んでおられる癒しとは、人がキリストの受けた打ち傷によって癒されるという信仰を通して働かれるものです。この癒しは完全な癒しです。しかし、人が神の癒しを受け取る事ができない状況においては、薬によって症状を抑える手段は必要です。

ですから、薬を利用する事は悪い事ではありません。そして、リスクの少ないものを優先的に賢く利用するべきです。リスクの大きい治療程、より神様の御心に遠い方法だからです。何故なら、主は私たちの体が総合的に健やかに保たれる事を望んでおられるからです。症状や痛みの緩和よりも副作用のリスクや犠牲が大きい治療法などは、本末転倒的なものであり、そういう類のものは主の御心に反しています。

大きなリスクを負う以外に対応できない病気などは、多くの場合、神の力によってのみ癒される類のものです。未信者の研究者が神の啓示にまだ気づいていない間は、神の癒しを最優先させるべきです。リスクが低く効果的に症状を抑える薬は、これからも発見されていくでしょう。しかし、基本的に薬は症状を抑える働きだけであり、後は神の創造した治癒力が人を回復させるのです。ただし、その治癒力で全ての病気が治る訳ではありません。敵のより大きな攻撃に対処するには、神の力に頼るしかないのです。そして、神の力による癒しには限界がありません。全ての病は主の打ち傷ゆえに癒されるのです。

2021年8月20日金曜日

病気の時に読む聖書の言葉 ヨハネの福音書

ヨハネの福音書

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ 4:46-50

「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」ヨハネ 5:5-11

「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」ヨハネ 11:32-45

2021年8月19日木曜日

病気の時に読む聖書の言葉 ルカの福音書

ルカの福音書

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、」ルカ 4:18 

「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」ルカ 4:40 

「しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。」ルカ 5:15 

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。」5:17-18 

「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」ルカ 5:24-26

「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」ルカ 6:17-18

「時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。」ルカ 7:3-10

「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」ルカ 7:12-15

「イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」ルカ 7:22 

「そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。」ルカ 8:43-47

「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。」ルカ 9:1-2

「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」 ルカ 9:6 

「ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。」ルカ 9:11 

「その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。」ルカ 9:42 

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。」ルカ 13:10-13

「ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。」ルカ 14:1-4

「ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカ 17:12-19

2021年8月18日水曜日

病気の時に読む聖書の言葉 マルコの福音書

マルコの福音書

「イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。」マルコ 1:34 

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」マルコ 1:40-42

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ 3:10 

「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」マルコ 3:14-15

「イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」マルコ 5:34 

「そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ 5:41-42

「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」マルコ 6:7 

「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:15-18

2021年8月17日火曜日

病気の時に読む聖書の言葉 マタイの福音書

マタイの福音書

イエス様は癒しを求めて来た人を皆癒されました。癒されなかった人は一人もいませんでした。

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 4:23-24

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」マタイ 9:35 

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」マタイ 10:1 

「 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」マタイ 10:7-8

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」マタイ 12:15 

「そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。」マタイ 12:22 

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。」マタイ 14:14 

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。」マタイ 15:28 

「すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 15:30 

「すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。」マタイ 19:2 

「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」マタイ 20:34 

「また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 21:14

2021年8月15日日曜日

病気の時に読む聖書の言葉 旧約聖書

旧約聖書

「そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。」創世記 20:17 

旧約聖書における最初の癒しの箇所です。癒しに関する記録が少ない旧約聖書ですが、信仰の父であるアブラハムの信仰による祈りを通して異邦人が癒された事例がありました。同じ異邦人であるナアマン将軍も、旧約時代に癒された数少ない一人でした。

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」第二列王記 5:14 

ナアマン将軍はツァラトから解放されました。ここでも、信仰によって歩んでいたエリシャを通して癒されました。

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:3-5

イザヤの預言はキリストの贖いについての描写が他の書よりも優れています。私たちの主が苦しみを受けたのは、私たちが癒される為です。

「そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」出エジプト 15:26 

主ご自身が「癒す者」だとおっしゃいました。病を持ってきて「試練」とするお方ではなく、病を癒すお方なのです。

「主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし」詩篇 103:3 

主は、私たちの全ての咎を赦し、全ての病を癒すお方です。

「主はみことばを送って彼らを癒やし 滅びの穴から彼らを助け出された。」詩篇 107:20

父なる神は、御子(御言葉)を送って癒されたのです。

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」イザヤ 61:1 

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に主の宮に上る。」第二列王記 20:5 

「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」マラキ 4:2 

2021年8月14日土曜日

新約聖書と癒し 

より正確な聖書の理解に必要な鍵が二つあります。それは、聖書を読む時に、書かれてある内容が真理についてかどうかを知る事です。旧約聖書でも新約聖書でも、真理について書かれているものは現代の私たちにも適応されます。もう一つの鍵は、突き詰めて言えば先の一つと同じ事なのですが、別の言い方で言いましょう。それは、書かれている御言葉が新しい契約の下にいる現代の私たちにも適応されるかどうかを見る事です。

古い契約は現代の私たちには必要ありません。イエス・キリストによってもたらされた新しい契約は、より優れた契約だからです。従って、古い契約に基づいた考え方は全て必要のないものなのです。逆に、新しい契約に基づいた考え方は、現代の私たちが模範とするべきものです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13 

真理

御言葉を読む時にはいつでも、真理に注目する事が大切です。神の摂理は時代ごとに違うという神学のフィルターによって読むのではありません。真理を知らずにしてただ読むのなら、私たちはパリサイ人・律法学者になってしまうのです。真理は変わる事がないものであり、物事の本質を捉えているので、そこに焦点を合わせて聖書を読むべきです。癒しに関する御言葉の真理について言うなら、神様はどの時代においても癒し主でおられ、どんな病人に対しても癒す御心を持っているという見方が真理なのです。忘れてはいけません。主はご自分を捕えようとした者さえ癒す憐れみ深いお方なのです。

同じ御言葉でも古い契約の内容に関わるものは私たちにとって必要ないのですが、そうだからと言って旧約聖書は現代のクリスチャンに必要ないという事ではありません。何故なら、旧約聖書の中にも真理について書かれている箇所があるからです。真理は普遍であり、どの時代においても適応されるものだからです。真理は神様の性質に基づいていて、昔も今も変わらないものです。ちょうど、神様の愛と同じです。主の愛は天地の創造の前からも、旧約時代全体を通して、そして今の時代と後に来る時代においても永遠に変わらないアガペーの愛なのです。

その愛のお方が癒しに関して言っている事は普遍であり、変わる事がありません。どの時代にも神の癒しの恵みはあります。何故なら、どの時代にも神の愛は変わらないからです。不安定なのは人間の方であり、神の言葉に忠実でいられない不信仰な者は私たちなのです。

「わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」箴言 4:20-22 

2021年8月13日金曜日

癒しに関する聖書の重要な言葉

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:3-4

私たちの病を負ったのは誰でしょうか?使徒マタイはキリストの贖いについて書いてあるイザヤの箇所を知っていて、次の様に書いています。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

キリストの贖いの業はイザヤによって預言され、イエス・キリストによって成就されました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:4-5

「私たちの咎の為に砕かれた」とあるように、ここでは私たちの罪について言及しています。また、どの様にしてイエス様が病を背負ったか詳しく書かれてあります。それは、受けた打ち傷としてです。キリストの受けた打ち傷ゆえに私たちは癒されるのです。イザヤのこれらの聖句は、イエス・キリストが私たちの罪と病の両方を背負った事を示しているのです。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

ペテロもキリストが「罪を負われた事」と「病を負われた事」の二つの真理を書いています。この個所は罪だけを取り扱っているのだという間違った解釈がありますが、ペテロはその両方を一つにまとめてあります。ペテロはイザヤ書の聖句に従って、二つの真理を含めているのです。

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:29-30

「そのため」とは何を指しているのでしょうか?パウロは、キリストのみからだをわきまえないで食べたり飲んだりするために、コリントの人たちの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいると言ったのです。パウロは、打ち傷を受けたキリストのみからだを知らずにただ聖餐の食事をするなら、その恩恵を受け取れないと言っているのです。この個所からも、贖いの中に癒しがある事が明らかです。聖餐式のパンとぶどう酒は、キリストの体とキリストの流された血です。どちらか一つだけを選んでも良いという考え、罪の赦しだけで体の癒しは重要ではないという考えは、主のみからだをわきまえない考えなのです。

2021年8月12日木曜日

神の言葉と癒し

聖書の神の言葉には、癒しについてどんな事が書かれているのでしょうか?最終的に私たちが頼りにするべきものは御言葉ですが、御言葉をどの様に理解するかが鍵となります。神学にこだわり過ぎて神の癒しを消極的に考えるのでもなく、あらゆる霊的な現象を全てウェルカムするべきでもありません。突き詰めて行けば聖書の正しい理解・解釈が鍵となる訳ですが、どの教理もそれなりの正しさを主張します。

癒しについての解釈

神学の発展と共に解釈の数が多くなるにつれて、キリスト教の教派も増えて来ました。今日ほど神学が溢れている時代はないでしょう。しかし、もしあなたが信じている癒しの教理に違和感を感じているのなら、他の教理を調べてより正確な理解を得る事は、現状打破に必要な方法の一つでしょう。実際に、多くの人たちは神学が示す神の癒しに違和感を持っています。何故なら、それらの神学論は癒しに関して希望を与えるものではなく、再臨や終末論に希望を託しているものばかりだからです。また、主の御心は全ての人が癒される事ではないとするものだからです。ここに違和感を感じているのなら、自分で聖書を丁寧に読んでみる事から始めたら良いのです。

「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」使徒の働き 17:11 

私たちは自分で熱心に御言葉を調べないで、何でも鵜呑みにして来ました。しかし、大多数が信じているものを信じていれば良いという事ではありません。あなたの信じている真理の理解に聖霊も同意しているか、あなた自身がその信仰を持つ事に平安があるか、そして時にはその信じている真理を弁証・証明する事ができるかも考えておくべきでしょう。何故なら、私たちはキリストの証し人だからです。

もし、今癒しが必要なら、癒しに関して聖書を読み直してみるべきではないでしょうか?それとも、地上で生きている間は病気になる事を当然の事だとして世の人と同じ様に諦めるべきでしょうか?クリスチャンであるなら、笑顔で歩むべきなのは誰もが思う事でしょう。同じ様に、クリスチャンであるなら病気ではなく健康で歩む方がより素晴らしいのです。全知全能の神を信じる者であるなら、天の御国にいずれ帰るのは当たり前なので、永遠に生きる事だけが圧倒的な勝利ではないはずです。癒しを含む圧倒的な勝利が神の子の上にもたらされるはずです。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

2021年8月11日水曜日

癒しと一方的な神の恵み

救いは主の恵みによるものですが、その恵みが私たちのものになるかどうかは私たちの信仰次第です。「一方的な神の恵み」という表現は、神の恵みを強調しすぎて人の信仰の大切さを見失っている人たちの間で良く使われます。しかし、信仰だけが神の恵みを受けとる手段です。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」エペソ 2:8 

恵みは神からのものですが信じるのは私たちです。神の恵みと人の信仰が救いに必要です。福音を聞くだけでは誰も救われません。ここでパウロが言っている「神の賜物」とは救いの事であって、信仰の事ではありません。信じるのは神ではなく人です。しかし、当然ですが、恵みは神からのものです。それでパウロは、恵みは「あなたがたから出たことではなく」と言っているのです。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ 6:23 

「永遠のいのち」が「神の賜物」とパウロは言っています。

恵みと信仰

「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」へブル 4:2 

福音を聞いても「信仰によって結びつけられなかった」場合は、「益とならない」のです。同様に、神の癒しという福音を聞いても信じないのなら、その人にとっては益とはならない、つまり、癒しの奇跡を体験する事にはなりません。

「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ 2:9 

人の努力や行いではなく神によって人が救われる事をパウロはローマの手紙で説明していますが、エペソのこの箇所でも同じ様に言っています。神の御心は常に人を救う事ですが、あくまでも人がその恵みを信じて受け取らなければいけません。ですから、無条件で人が救いにあずかるのではなく、信仰という条件付きで神の救いが成立します。「無条件なのは神の愛」ですが、救いは信じるという条件付きです。ここは意外に勘違いしやすいかも知れません。

永遠のいのちを得るにはイエス・キリストを信じるという道が唯一なので条件付きです。その他の方法はありません。癒しに関してもそうです。表向きでは神の癒しを信じていると主張する人は多くいます。しかし、神の御心はどんな病気もどんな病人でも癒す事だと信じている人は殆どいません。自分の設定した条件の下で神は癒されるかも知れないという個人的な考えは単なる望みでしかなく、それは新約聖書の教えている信仰ではありません。ところが、罪の赦しに関しては、キリストを拒む罪以外のどんな人の罪も赦されるという事は確信しています。例外的に赦されない罪や例外的に赦されない人はいない事を信じているのです。

「主はあなたのすべての咎を赦し」という詩篇の聖句にある様に、主は全ての咎(罪)を赦される事が分かります。同じ聖句の後半には、「あなたのすべての病を癒やし」とあります。私たちはどちらかを選ぶような信じ方をするべきではなく、今までその様な考えでクリスチャン生活を送って来た事を反省するべきでしょう。正しい見方は、「主は私たちの全ての咎を赦し全ての病を癒される」です。どちらかだけで良いとするなら、パンかぶどう酒のどちらかだけを聖餐式で用いれば良いとするのです。

2021年8月10日火曜日

癒しは福音の一部

神の癒しは素晴らしいものだと素直に言えるクリスチャンは正しい考えを持っています。主による癒しの恵みはグッドニュース、つまり、福音なのです。しかし、神の癒しはあくまでも福音の一部であって、それだけが福音という事でもありません。偏った聖書の見方ではなく、バランスの取れた見方が重要です。同じ様に、罪の赦しと永遠の命だけが福音の全てではありません。そこだけを強調していると、多くの現状の問題に対して悲観的になり、再臨や終末論の主張だけになってしまいます。「全ての望みは天の御国に行ってから」という考えは非聖書的です。そこには、圧倒的な勝利者としてのクリスチャンの姿がありません。

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」第一コリント 11:29 

キリストの「みからだ」をわきまえないで聖餐のパンを食べていたコリントのクリスチャンは、どの様な事になっていたのでしょうか?

「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」第一コリント 11:30

コリントのクリスチャンの中に病人が多くなった原因が、聖餐に関する正しい知識がない為だったのです。その知識とは、キリストのみからだが私たちの為に捧げられたという真理です。何の理由で主はご自身のみからだを捧げたのでしょうか?

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:5 

主が打ち傷を受けたのは、私たちの病を癒す為です。という事は、主の御心は私たちを癒すという事であり、それは特定の病気だけという事ではありません。また、特別に選ばれた者だけを癒すという事でもありません。主は、全ての人の病気を打ち傷として受けたのです。従って、神の恵みに関して何か問題がある訳ではなく、私たちの信仰に問題があるのです。私たちは癒しに関して信じる努力をせずに、神が何らかの理由を持って癒して下さらないとしているのです。

「イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ 9:21-24

2021年8月8日日曜日

主は私たちと共に働く その2

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

信者が病気で動けなくなっているのを未信者が見るなら、彼らはそれによって神を信じようとしないでしょう。病気は神の栄光を現わす事ではないと未信者は言うはずです。痛みにこらえて奉仕の働きをしている信者の場合は、それは評価される所はあるかもしれません。しかし、更に素晴らしい事は、信者が癒し・解放という神の業を通して神の栄光を表す事です。「奇跡の背後には悪霊が働いているかも」と敏感になり過ぎて色々と細かく欠点を探す必要はありません。神の癒しに必要以上に否定的にならずに、むしろ「自分の目には梁がある」かもしれないと謙遜になるべきでしょう。

確かに、悪霊の働きに関しては色々と見分けにくいものはあります。しかし、癒し・解放がイエス・キリストの栄光に向けられて証しとなっているのなら、私たちは謙虚にその働きを喜ぶべきです。その上で、彼らの教えの中にイエス・キリストを主として義の道に進んで成長する事、神の子として信仰によって歩む事、御言葉を実践する事を教えているのであれば、殆どのケースで「異端扱い」する必要はありません。欠点のない教えと神の力で歩んでいる信者は、今の段階ではまだ多くいません。それよりも、悪霊による癒しをしている「現代版パロの呪法師たち」の奇跡が未信者と信者を惑わしている事は大きな問題です。私たちは彼らよりも弱い存在なのでしょうか?しかし、モーセの杖よりも優れたお方が私たちの内に住んでおられるのです。

神学と幼子

もし、イエス様が病人の前に現れるとしたら、その病人を癒す事なく過ぎ去るでしょうか?そして、仮にその病人が、普段は「救いがあればそれだけで良い」と言ってイエス様の打ち傷による癒しの恵みを軽んじていても、その時にはイエス様に「癒して下さい!」と積極的に求めるに違いありません。私たちはもっと素直になるべきです。神学ではなく幼子の様な信仰が奇跡をもたらします。

「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き 3:4-6 

一般的な神学によれば、「主を見なさい」と言わなければ神に栄光を帰していない発言だとなります。神学校を出ていなかったペテロとヨハネは無学な故に、むしろ「異端的」な発言をしてしまいました。ところが、ペテロが「私たちを見なさい」と足なえの人に言うと、彼らの持っているもの、すなわち、イエス・キリストの御名の権威を通して癒しの祝福を与えたのです。そうです。信者には癒しというしるしが伴うのです。何故なら、信者は例外なく全て神の子として新しく生まれ変わるのであり、キリストの権威を用いる事ができるのです。「一方的な神の恵み・神の主権」によってのみ毎回誰かが癒されている訳ではありません。古い契約の時代とは違って新しい契約の後は、私たちクリスチャンの信仰を通して主は働かれる事にしています。

ペテロとヨハネを通して癒しがあるなら、私たちを通して主が働かれるのです。もし、私たちが真のキリストの弟子であり信者であるなら尚更です。しるしは信者に伴うからであり、信者はしるしを追いかけません。ペテロたちは霊的なエリートだったという誤解も聖書の次の箇所から見れば簡単に分かるはずです。

「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」使徒の働き 4:13 

2021年8月6日金曜日

主は私たちと共に働く その1

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18 

病人に手を置くのは「信じる人々」です。多くの場合、「信じる人々」が病人に手を置かないので癒しが見られないのです。ちょうど、福音を宣べ伝える者がいないのなら福音は知られる事がないのと同じです。神様だけが直接人を救いに導く事はあまりありません。福音を宣べ伝える信者の口を通して神が働き、未信者は救いに至るのです。病人に置かれる信者の手を通して神が働き、病人は癒されるのです。

意外に多くの人たちは、神様が私たち信者を通して働かれる事に気付いていません。もっぱら神様の主権によってこの地上で起きる全てがなされていると思っています。

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」マルコ 16:20 

もし、大宣教命令を受けた弟子たちが出て行かなければ、主は彼らを通して働く事はなかったでしょう。そして、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものとされる事もなかったでしょう。

恵みは神からのものですが、その恵みを信じて受け取るのは私たちです。そして、信仰によって人々を助けるのも私たちのやるべき事です。癒しを求めるとは、ただ主にその決定権を任せるという事ではありません。しかも、主の御心は全ての病を癒す事なのです。例外はありません。主は永遠の命を与えても、癒しは条件と例外付きで難しくしていると考える人は多いのですが、主は「羊たちが命を得るため、それも豊かに得るため」に来られたと言いました。「永遠の命だけで満足しなさい」ではなく、その永遠の命が豊かに得られるようにです。

2021年8月4日水曜日

癒されないのが「例外」

神の癒しに関して私たちが学ぶべき最適な書物は新約聖書です。何故なら、新約聖書にはイエス・キリストが病人を癒されたという記録が沢山あるからです。特に福音書においては、キリストのなされた大部分の事は病気の癒しでした。旧約聖書には神の癒しに関する記録は殆どありませんが癒しに関する聖句はあります。

さて、病人がイエス様に癒しを求めたケースで癒されなかった事は一度もありません。それどころか、病人が癒しを求めていないケースでも癒しが起きた事が記録されています。私たちが注目すべき所は、イエス様が地上を歩いていて神の福音をユダヤ人に宣べ伝えていた時には、癒しを求めて来た人たちは皆癒されたという事であり、異邦人でさえも癒されたという事です。つまり、主の下に来て癒されなかった病人は一人もいなかったという事実です。

「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 4:24 

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」マタイ 8:16 

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」マタイ 12:15 

「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」マタイ 14:36 

「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」ルカ 4:40 

「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」ルカ 6:19 

これらの聖句はイエス様の所に来た病人がみな癒された事を示しています。例外として癒しが起こらなかった事はありません。何故でしょうか?

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き 10:38 

イエス様が町々を巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされたのは、神が「イエスに聖霊と力によって油を注がれ」、そして「神がイエスと共におられたから」だとペテロは言っています。確かに、神の子であるイエス・キリストであるなら、みな癒されるはずです。しかし、使徒たちもイエス様と同じ癒しを行なっていました。

「また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。」使徒の働き 5:16 

使徒たちは癒しを求めて来た人たちをみな癒しました。「何故、イエスは病人をみな癒す事が出来たか?」という質問に対する典型的な答えは、「イエスは神だから」です。多くの人はキリストを「三位一体の神」として見て、それならばどんな病人でも癒す事ができると考えてそう言っています。しかし矛盾した事に、時には神様は病気を癒さないとも言います。イエス・キリストの癒しの恵みは当時の人たち限定だったのでしょうか?それとも今も同じでしょうか?

もし主の恵みはとこしえにまで同じなら、主と同じ様に病気を癒した使徒たちは特別だったのでしょうか?使徒の行なった癒しや数々の奇跡に関して、私たちは使徒は特別に選ばれた者と考えます。しかし、彼らの失敗を見ては私たちと同じ人間だという見方に変えます。この様な考えは都合の良いものに過ぎません。正しい見方は、例え霊的に未熟な人を通しても神は信仰を持つ人たちを通して働かれるという事であり、癒しの力は神のものだという事です。人の力で癒す事は出来ないのです。

2021年8月3日火曜日

イエスによる病人の癒し その4

イエス様が病人を癒していた最大の理由・動機は主の愛と憐みです。神の愛は私たちに対して働き、神のさばきは悪魔に対して働かれます。主の悪魔に対する働きが病人を癒したもう一つの大きな理由です。

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き 10:38 

イエス様が悪魔に虐げられている人々をみな癒したとありますが、この事自体が癒しの目的でもありました。「悪魔のわざを打ち破る為に神の御子が現れた」と使徒ヨハネも言っています。従って、幾つかのケースでは病を持って来るのは悪魔(悪霊を含む)である事は間違いないでしょう。決して神様が「訓練」という名目で持って来るようなものではありません。全ての病は悪魔からとは言えませんが、背後で悪魔・悪霊が間接的に働いている事は非常に多いでしょう。実際に、長年にも渡って多くの悪事をしてきた敵は、この地上の至る所で病気の原因となるものをもたらしています。私たちの住む環境だけでなく、食べる食べ物でさえも私たちの体に悪影響を与えて不健康にしているものもあります。それらのものは、最初に神が創造したものではありませんでした。

私たちの癒しに対する考えは大きく一新される必要があります。病気を癒す神様の存在だけでなく、病気をもたらす悪魔の存在も考慮する必要があります。つまり、ただ神に癒しを求めるという範囲だけで考えるのでなく、敵が私たちから健康を盗んでいるという事についても私たちはどうするかを考える必要があるのです。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7 

ヤコブが言っている「神に従いなさい」という意味は、モーセの十戒を守って生活するという事ではありません。ヤコブは新生したクリスチャンに書いています。新生したクリスチャンは誰でも新しい契約の下にいます。ユダヤ人であってでもです。全ての新しい契約の下にいる信者は、新しい契約の教えに従う事が神に従うという定義です。もはや古い契約を見る必要はありません。何故なら、古い契約の良い部分は新しい契約の中にも入っているからです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13 

私たちクリスチャンは悪魔に抵抗する強い者であるべきでしょう。しかし、抵抗しないのなら悪魔は逃げて行きません。悪魔に抵抗しないで癒しをあきらめるのなら、癒しが起きないのは多くのケースで当然の結果となるのです。信者であるなら、神に癒しを求める事は必須ではありません。何故なら、全ての霊的祝福はイエス・キリストの中にあり、主ご自身が私たちの内におられるので、癒しという祝福は既に私たちの中にあるからです。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ 1:3 

私たちクリスチャンのやるべき事は今から癒しを頂く為に神に癒しを乞うのではなく、私たちの内に既に与えられている神の霊的祝福を引き出す為に信仰を働かす事、そして私たちの信仰の歩みを邪魔して病や恐れを持って来ようとする悪魔に立ち向かう事です。

2021年8月2日月曜日

イエスによる病人の癒し その3

 イエス様による病気の癒しは、その殆どが「必要に応じて」だったのが福音書から分かります。つまり、癒しを求める人に対して癒しを与えるという姿勢だったという事です。唯一の例外が、カナン人の女に対して「子犬」と呼んだ場面でした。しかし、その彼女もあきらめない必死の信仰を示した事によって、本来はタイミング的にまだ癒しの恵みを受けるはずのない異邦人が受ける事になったのです。信仰はありとあらゆる山を動かします。何故なら、信じる者を神は喜ぶからであり、信仰によって歩む人たちをバックアップする神が山を動かすからです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル 11:6 

私たちは信仰による歩みをせずに神様に喜ばれようとしていますが、それは間違いです。主日礼拝の時だけ信仰がある様な素振りをする事が信仰の歩みではありません。目に映るものばかりから何かを判断する事は、信仰によるものではありません。本来、圧倒的な勝利者として強く生きる事が信者の本来の歩みです。そこには退いて諦めるという消極的な考えはありません。キリストに繋がる者は、主の教え、新しい契約の教えを守る者です。

「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ 8:2-3

「わたしの心だ」とイエス様が言われた「心」のギリシャ語は意志を表わす thelo という語です。積極的・自発的に~をする事を望む・決心するという「意志」を表わす言葉です。従って、ここでイエス様がツァラアトに冒された人に言った言葉は、「私はあなたを癒すつもりだ。」という事です。主は単純に、病人の癒しの求めに対して癒してあげたのです。主の憐みの心が最大の動機であって、何か神学的な事を最優先させて預言の成就を意識していたのではありません。主はたった一匹の迷った羊の為にも命を与えるお方です。十字架につけようと捕まえに来た人でさえも、癒すお方なのです。

2021年8月1日日曜日

イエスによる病人の癒し その2

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。」マタイ 15:28

ここでも「癒し」を意味するギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)が使われています。σῴζω(sōzō)ではなく、ἰάομαι(iaomai)が使われている事から、病の癒しという事なので、悪霊が病に関わっていたケースが読み取れます。

また、イエス様が人を癒した時には、「私の栄光の力であなたを癒したのだ!」という様な事は一切言っていません。むしろ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と何度も言っています。このイエス様の励ましの言葉はルカの福音書だけでも4回出ています。救うは σῴζω(sōzō)であり、病からの救いという意味でしばしば「癒し」とも訳されています。

もちろん、癒しに対して信仰を持っていない病人もイエス様は癒したのですが、信仰を持っていた人たちに対しては、特に高く評価しています。

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」マタイ 8:10 

百人隊長の信仰はイスラエルのうちの誰よりも優れていました。彼は異邦人であったのにも関わらず、自分のしもべの癒しの為に信仰を持っていました。他人の為に信仰を持つ事を異邦人がしたのです。信者であり他の人を導く為に歩む人なら、なおさら他の人の為に癒しの信仰を持つべきでしょう。それは、イエス様がしていた事であり、また、教会の長老も信仰の模範者としてその様な立場にあるのです。

「あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」ヤコブ 5:14 

「(信者である)あなたがたのうちに病人がいれば、教会の長老たちに祈ってもらいなさい。」というのがヤコブのアドバイスでした。この場合、長老が信仰の祈りによって癒す立場にあります。直後の節をみましょう。

「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」ヤコブ 5:15 

「信仰による祈り」は長老によるものです。

2021年7月30日金曜日

イエスによる病人の癒し その1

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」マルコ 16:20 

大宣教命令とも呼ばれるマルコの箇所ですが、主は彼らと共に働いて御言葉に伴うしるしをもって確かなものとされました。この命令は復活の後なので、新しい契約の中に生きる私たちに対する命令としても注目すべき箇所です。つまり、復活の後から始まった新しい契約の教えとしての命令であり、今後はキリストの信者が癒しや悪霊追い出しを通して福音を述べ伝えるようにという事です。信者に伴うしるしとしての癒しであり、これは主ご自身が神の子である事を示す為に行われた癒しとは違います。

癒しの目的

十字架に掛かる前のイエス様の癒しには目的が幾つかありました。それは、ご自身が神の子である事をユダヤ人に証明する為のしるしでした。癒しや悪霊追い出しがあるなら、神の国が来ているという預言の成就であり証となるのです。

「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」マタイ 11:5 

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」ヨハネ 10:37-38 

ところで、イエス様が弟子たちとおよそ三年半一緒に伝道していた時は、もっぱらユダヤ人を相手にしていました。従って、イエス様が神の国の福音を述べ伝えていた間は、サマリヤ人の女と会話をした時以外、異邦人の所へ行って福音を知らせた事はありません。何故なら、神の国の福音は、まずイスラエルからというのが主の計画だったからです。

「 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」マタイ 10:6

「イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」マタイ 15:24 

さて、病の癒しや悪霊追い出しを通してイエス様が最優先させていたのは、イスラエルの上に預言が成就する事ではなく、単に憐みの心で人を救う事でした。何故なら、イエス・キリストだけが救い主だからです。苦しんでいる人々を解放してあげる事を第一としていた為に、時には異邦人の時ではないタイミングでも助けてあげた事もありました。

「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」マルコ 7:26-29

父なる神の命令に従っていたイエス様は、「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」と言っています。カナン人の女に対して「子犬」という彼女にとっては侮辱的な表現を用いたのには理由があります。イエス様は彼女が契約の民ではない事を示し、その上で彼女の信仰を試したからです。何故なら、この女性は異邦人の立場でありながらその時に癒しを求めたからです。父なる神の計画としては、まず最初に福音はユダヤ人に伝えられるべきでした。主の計画は私たちが信仰を表す事によって変わる事があるのです。実際に、旧約時代でも主は思い直して人々を祝福された事が何度もありました。

2021年7月28日水曜日

癒しとキリストの贖い その3

私たちが知らなければいけない重要な事は、実は神様の癒しは、十字架に掛かる前にキリストが受けた打ち傷よりも遥か前にあったという事です。キリストの打ち傷が病の癒しの唯一の証拠として聖書に記される前の時代でも神の癒しはありました。

旧約時代の癒し

「そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。」創世記 20:17 

アビメレクがアブラハムの祈りを通して癒されたのは、聖書中において最初の癒しの記録なのですが、この時代は律法による古い契約よりも古い時代です。癒し主として神がモーセにご自身の名前を明らかにした時よりも前に癒しがあったという事です。何故なら、神様の性質は常に同じであって、常に愛のお方、癒すお方(エホバ・ラファ―)だからです。

さて、ここで一度キリストの贖いによる「罪の赦し」も同時に見て行きましょう。

「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ 1:7 

キリストの血による贖いが成されたのはゴルゴダの丘に連れていかれる前だったでしょうか?しかし、イエス様は十字架に掛かる前にも人の罪を赦しています。

「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」マタイ 9:6 

「イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」ルカ 5:20 

イエス様はここで「地上で罪を赦す権威を持っている」と言いました。ゴルゴダの丘でご自身の血を流すという贖いの御業が完了する前に、キリストが人の罪を赦す事ができた最大の理由は、主が罪人を招く為に来たという「罪を赦す御心」を世に示す為でした。同時に、その罪の赦しという恵みを行使する権威を持っている事を世に明らかにする為でもありました。

十字架の前でも罪の赦しがあったように、打ち傷を受ける前にも癒しがあった事は同じ理由です。主は常に罪を赦し病を癒すお方なのです。イエス様の「罪を赦す御心と病を癒す御心」が十字架の御業に関する預言よりも先立っているのです。つまり、イザヤによる贖いについての預言よりも先だって主の憐みが存在しているのです。

神の癒しの御心

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」エペソ 1:4 

世界の基が据えられる前とは、いつの事だったでしょうか?神様はかつてヨブに聞いた事があります。

「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。」ヨブ記 38:4 

ダビデは次の様に言っています。

「あなたは、はるか昔に地の基を据えられました。天もあなたの御手のわざです。」詩編 102:25 

遥か昔に地の基(世界の基)を据えられた神様は、「世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」とパウロは言っています。神が地の基を据えた後にアダムとエバを創造したとするなら、神は人間の創造や悪魔の誘惑よりも前に贖いの計画(罪の赦しと病の癒しの計画)を持っていた事が分かります。

では、神の御心が常に人の罪を赦し人の病を癒すのであれば、何が障害となっているのでしょうか?その答えをこのブログの中から見つけて下さい。

2021年7月27日火曜日

癒しとキリストの贖い その2

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

上の聖句とイザヤ書の関連性を神学的に認めても、使徒マタイが意味したイザヤの預言の成就は、必ずしも今日のクリスチャンが癒される事はないという主張が二つあります。一体どういう事なのでしょう?

その主張は、「キリストが十字架に掛かる前に人々を癒し、その時、その瞬間にイザヤの預言が成就したとマタイは言ったのだ」という事を土台に置いています。従って、その後にキリストが十字架の刑に処せられた贖いとは違う、それ故に、キリストの贖いに癒しは含まれないとする主張です。

しかし、この主張が通るなら、イエス様が十字架に掛かる前に人々の罪を赦したという事実から、罪の赦しはその時にあっただけで、今日は通用しないという事にもなってしまいます。

もう一つの主張は、癒しが贖いにあって今日のクリスチャンが癒される事があったとしても、神様の御心は全ての人を癒すとは限らないとするものです。これら二つの主張(誤解)を解くには、神の御心について聖書から説明しなければなりません。そしてその説明とは、「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」という引用を持って、「神の癒しの御心は分からない」と結論付ける私的解釈によるものではありません。

個人的な体験や五感からくる情報だけで判断するのではなく、神様の御心は聖書から判断するべきです。この場合、特に新約聖書を中心に学ぶ必要があります。何故なら、神は新しい契約の中により優れた真理を私たちに知らせたからです。

2021年7月25日日曜日

癒しとキリストの贖い その1

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書 53:5 

キリストの贖いと言えばイザヤ書です。この預言書にはイエス・キリストの贖いについての描写が沢山あります。上の聖句で明らかな様に、主ご自身が受けた打ち傷によって、私たちは「体の癒し」という恵みを体験できます。この箇所は、「霊的な解釈」による「霊的な癒し」ではありません。

七十人訳で見ると、ギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)という語が使われています。何故七十人訳で見るかと言えば、同じ単語が新約聖書にも頻出し、新約聖書との見比べによってこの単語の意味がヘブル語よりも分かりやすいからです。七十人訳の権威に関して言えば、イエス様も弟子たちも引用したという事から考えれば、決して軽視はできないでしょう。

さて、 ἰάομαι(iaomai)は身体的な癒しという意味でよく使われているので、素直に読めば「霊的な癒し」という解釈に至りません。何故その様な解釈が存在するかと言えば、神は気まぐれな御心によって人を癒すという誤解があるからです。「神はいつ人を癒すかどうか分からない」という事を絶対的前提にしてイザヤ書 53:5 や第一ペテロ 2:24 を読めば、その偏見ゆえに、「ここは解釈して理解するべき」という考えを生み出してしまうでしょう。

それでは、「霊的な癒し」が「罪の赦し」という意味だという主張についてはどうでしょうか?

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

イザヤ書の次の箇所からマタイは引用したのですが、注意したいのは「完全コピー」という意味での引用ではありません。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:4 

新約聖書の中に見られる旧約聖書からの引用は、ほぼ全てにおいて節全体の完全コピーとはなっていません。イエス様でも、一部分だけを引用した事は何回もありました。この理解は非常に重要です。

さて、使徒マタイはイエス様が人々を癒された事を見たという証しの目的で自ら福音書を書いているだけでなく、イエス様の癒しはイザヤ書の預言の言葉(イザヤ 53:4)の成就だったとしています。この時、マタイは「病を負った」と書きましたが、「病」のギリシャ語は νόσος(nosos)です。新約聖書中、この単語は病気が癒されたケースでよく用いられています。つまり、νόσος(nosos)は病気が癒されたケースの記録として新約聖書に出てきているのです。

ですから、この単語は病気として訳されるのが通常であり、素直に読めば「キリストが病気を背負った」という事です。使徒マタイがイザヤ 53:4 の預言(贖いの預言)が成就したと言っている以上、キリストが私たちの病気を背負った事と贖いは関連しているという事、つまり、癒しと贖いには深い関係があるという事です。

2021年7月24日土曜日

癒しの真理 その3

病がなければ、癒す必要はありません。ある意味、病があるからこそ、それに対して信仰によって立ち向かう必要があるのです。私たちの持つべき認識は、病を敵と見なして立ち向かうものです。実際、病は敵であるサタン・悪霊からもたらされる事もあります。病が間接的に悪霊から来るケースを含めて考えるなら、大抵の場合において、病は敵から来ていると言っても過言ではありません。しかし、私たちは今まで「病気も神からの試練」という事をヨブ記を通して聞いてきた為に、勘違いしていました。しかし、主は良いお方です。

「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」ヤコブ 1:17 

しかし、私たちの敵は盗み、殺し、そして滅ぼす者です。そうした敵の攻撃を知らずに平和ボケしてしまっていた「なまぬるいクリスチャン生活」から抜け出るには、真理を知る事が必要です。そして、その真理はイエス・キリストによって実現したのです。

「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ヨハネ 1:17 

古い契約の時代において律法は有効でした。しかし、新しい契約はイエス・キリストの十字架の御業の完成後に始まり、主ご自身が恵みとまこと(真理)を実現されました。つまり、神の恵みと真理は人に明らかされているのです。それまでは、神の恵みと真理は律法という影、または、預言という部分的で抽象的な言葉で表されていました。しかし、キリストによって何が恵みで何が真理かがはっきりと示されたのです。

この事から、私たちが注目しなければいけない聖書は、主に新しい契約の内容であり、福音の奥義の部分なのです。癒しに関して新約聖書が示している重要な真理は次のものです。

  1. キリストが打ち傷によって全ての病を癒されたという恵み
  2. 信仰によって恵みを現実化するという事
  3. 病を持って来る敵との戦い、信仰の戦いがあるという事

2021年7月23日金曜日

癒しの真理 その2

私たちの神は力強いのですが、その力は信者であるクリスチャンの内に働きます。

「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、」エペソ 3:20 

「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」コロサイ 1:29 

私たちは神の国を地上にもたらす為に神の力を用いる事ができます。その聖霊の力によって私たちは癒しや解放を体験できるのです。しかし、その様な神の子として歩みに対して疑いを持つなら、その不信仰ゆえに、神の力は働かないのです。ただ、幸いなことに、癒しの働きをする人が信仰を働かせるなら病人を癒す事ができます。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18 

「信じる人々」とは、信仰によって歩む人という事です。自称クリスチャンではなく、単に主日礼拝を欠かさない人でもありません。神の子として生まれ変わり、新しい人として信仰の成長の道を歩んでいる人の事です。その様な真の信者であるなら、病人に手を置けば癒されるとイエス様は言っているのです。この場合、病人は必ずしも信者とは限りません。しかし、手を置くのは信者であるのが明らかです。この事から、イエス・キリストの信者は本来、病人に手を置けば癒す事ができるのです。これはイエス様の言葉であり、大宣教命令の一部として理解するべき重要な福音の働きです。

旧約時代に癒しが起こらなかった主な原因が、単純にその真理について神様が明らかにしていなかったからでした。しかし、今は信者であるだけで人が癒されるという真理が明らかになっています。何故、信者であるなら癒しが起きるのでしょう?それは、神様が神の子となった信者に権威をお与えになったからです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12 

新改訳では「特権」という訳ですが、ここでは権威という意味のギリシャ語 εξουσία (exousía) が用いられています。その権威を使って、クリスチャンは悪霊を追い出す事ができ、また病人を癒す事ができるのです。ここでも明らかな様に、癒しに関する真理は旧約時代には明らかにされていませんでした。従って、旧約聖書ばかりを読んで癒しについての真理を知ろうとしても、部分的にしか見えてこないのです。

2021年7月22日木曜日

癒しの真理 その1

聖書にある真理は私たちを自由にします。しかし、その真理は最初から明らかにはなっていません。旧約聖書の時代には、多くの真理がまだ隠されたままでした。啓示を多く与えられていたダビデでさえもパウロが言っている福音の奥義について知らされていませんでした。しかし、現代の私たちは聖霊がパウロに示された福音の奥義を彼の書簡の中から知る事ができます。神様は長い時間を掛けて徐々に真理を明らかにされたのです。癒しの真理に関しても同じです。

神様が徐々に真理を明かされたという事を知れば、聖書がとても分かりやすくなります。これは聖書を理解する重要な鍵となっています。すなわち、私たちが最も重要な福音の奥義を学ぼうとする時、旧約聖書ではなく新約聖書に注目しなければならないという事です。癒しという福音(グッドニュース)は、旧約時代にはまだ明らかになっていない部分が多くありました。実際、それが主な理由で多くの癒しの記述が見当たらないのです。しかも、当時の人たちは敵であるサタンが病をもたらしている事実を知る事もありませんでした。しかし、神様は常に癒すお方であり、その性質は変わる事がありません。

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」へブル 13:8 

多くの人が気づいていないかもしれませんが、神様はいつもどの時代においても(旧約時代においても)愛のお方であり癒す方なのです。しかし、当時はその真理がまだ明らかにされていなく、その真理を大胆に信じて歩もうとした人も極端に少なかったので、癒しという奇跡は殆ど起きていなかったのです。

私たちは、癒す力を持っている神様側に何か問題があるとよく勘違いをしています。しかし、問題はいつも私たちの方であり、それは私たちの信仰の無さなのです。主は信仰によって歩む人たちを大いに喜ばれます。

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」マタイ 8:10 

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。」マタイ 15:28 

2021年7月21日水曜日

聖書が教える癒し その3

イエス・キリストが私たちの永遠の命であり癒しです。その事を示しているのは聖書(神の言葉)です。神の言葉は旧約聖書と新約聖書に分けて読む事ができますが、どちらを読むにしろ、真理がより明確に示されている箇所がより重要となります。ごく一部の旧約聖書の箇所を除けば、真理がより明らかに記されているのは新約聖書です。

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:5 

イエス・キリストが私たちの為に受けた打ち傷のゆえに、私たちは癒しを体験する事ができます。イザヤ書はキリストの贖いについての啓示が書かれている事で知られています。この聖句に出てくる「癒し」を意味するギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)は主に「肉体的な癒し」として使われています。旧約聖書をギリシャ語で書いた七十人訳という聖書がありますが、これは弟子たちが読み、イエス様も引用した聖書です。誤解されがちですが、へブル語で書かれた聖書だけが権威があるという訳ではありません。

「主は あなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし」詩篇 103: 3

驚く事に、イザヤの預言よりも二百年以上も前にダビデは神が全ての病を癒す事を知っていました。全ての咎(罪)を赦す事のできる神様は、全ての病を癒す事のできるお方です。例外はありません。誰かが特別だという事で神様が癒さないという事はなく、罪を赦さないという事もありません。全ての人の罪と病の為の代価はキリストの十字架を通して既に完済されています。後は、その恵みを信じる事が鍵なのです。

そういう訳で、まず私たちが知らなければいけないのは、キリストによる神の恵みを聖書から知って信じるという事です。神様が病をもたらすと考えている間は、その誤解の故に、神様を信頼する事はできません。神様を信頼できない状態が不信仰なのです。しかし、主はいつも良いお方であって、私たちに恵みとあわれみの冠をかぶらせて下さるのです。

聖書が教える癒し その2

ちょうど永遠の命の答えがイエス・キリストである様に、イエス・キリストはあなたの病の癒しの答えです。何故なら、聖書はその真理について明らかにしてあるからです。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ 10:10 

ここでイエス様が言っている「羊」とは、イエス・キリストを信じてついて行く人たちです。キリストを信じて歩む人たちが「神の命を豊かに得る」為なのですから、私たちが病に苦しむのであれば、それは神の命を豊かにしている状況ではありません。病という束縛から私たちを解放する為に、イエス様はご自身の命を捧げられました。キリストの命の中に癒しも含まれています。そしてこの犠牲は神による恵みであり、この恵みゆえに私たちの信仰によって、私たちは永遠の命も病の癒しも得る事ができます。

キリストの十字架は歴史的に起こった事実として知られています。ですから、イエス様が代価を払って下さったという事実は過去の出来事として私たちは見る事もできます。という事は、既にイエス様が私たちの病の為に代価を支払ったという事実を見る事になるのです。それが理由で、この恵みをただ信じるだけで誰もがどの様な病気であっても、癒しを体験する事ができるのです。

基本的に、この信仰の法則が癒しに関しての聖書的な土台となっています。そして、既にキリストの打ち傷によって癒しが確定している為に、悪霊などのいかなる障害も存在してはならないのです。しかし、病の癒しという神様の恵みを体験するには信仰が必要になります。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

2000年以上前に病を担われたイエス様は、私たちの成長の訓練の目的で病を持って来ません。病とは神様から来る訓練ではないのです。病の癒しが神様からのものであって、既に処理して下さった問題を神様は「訓練」として再び持って来る事はあり得ません。

聖書が教える癒し その1

いつの時代でも、人々は「病の癒し」を求めています。 病から解放されたいと願っている人はクリスチャンだけに限った事ではありません。しかし、肉体的であれ精神的なものであれ、病の癒しに対する答えが聖書にある事を知っていたでしょうか?

クリスチャンであるなら、永遠の命をお与えになる方にとって病気を癒す事は難しい事ではないと知っている事でしょう。全知全能の神が永遠の命を与える事ができると信じるのなら、病の癒しもそのお方が答えを持っていると信じるのは難しくないはずです。 イエス・キリストをまだ信じていない人でも、病から癒されるチャンスはあります。何故なら、人は全ての病気や苦しみから既に解放されているという聖書の真理があるからです。どうしてそういう事があり得るのでしょうか?それは、人間が苦しむあらゆる病気をイエス・キリストが背負って下さったからです。

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

さて、病気が癒されたという記述は旧約聖書には多くありませんが、旧約の書物の中にも癒しに関する幾つかの重要な聖句はあります。その中でもよく知られているのは、神様ご自身が「癒し主」としてご自分の性質を明らかにしている箇所でしょう。そこから私たちは、重要な神様の名前の一つを学ぶ事ができます。

「そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」出エジプト 15:26 

この箇所に出てくる「癒す者」(エホバ・ラファ―とも呼ばれる)は、今日のキリスト教会の間で神様が「癒し主」だと認識されている大きな理由の一つでしょう。そうです。私たちの主は永遠の命をお与えになる方であり、病を癒すお方なのです。 本当に病からの癒しを得たいのなら、私たちはまず癒し主を知らなければなりません。そのお方は、聖書の示している三位一体の神であり、イエス・キリストです。