2021年8月23日月曜日

癒しと神の主権 その2

ヨブは、神は人に命を与えその命を取ると考えました。しかし、神はご自身の主権を用いて人の命を取る為に働かせてはいません。主は確かに全てに対して権威を持っていますが、主の権威は命を与える為のものです。ご自身が主である事を示す為に主がなさる事は、全て誰から見ても正しくて良い事なのです。病気が神からのものだとするのなら、悪魔は義であるという考えと同じくらい矛盾しているのです。

地上は人に

神は、地上に関する多くの事を人間に任せています。主の介入は時々ありますが、主は地上での多くの事を人に委ねているのです。

「天は主の天。地は、主が人の子らに与えられた。」詩篇 115:16 

人は自分の命に対してでさえも、それをどうするか自由意志を与えられているのです。アダムもその選択を与えられました。自分勝手な道を進むのなら、人はその命を落としてしまいます。人が命を保つには、主の導きの中においてのみ成功を収めます。

「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」エレミヤ書 10:23

神様は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に親しい交わりの中で生きていく為です。しかも、親と子の関係を持って私たちと歩みたいと望んでおられるのです。そうした交わりの中に私たちが留まるのなら、全ては上手く行きます。ですから、私たちの周りにある問題は、私たちが神様との交わりから離れた事によって起こっているのです。同時に、悪魔という悪者の存在を忘れてはいけません。この敵が全ての悪事を働いていて、地上を破壊しているのです。しかし、この混沌とした地上を私たちが治めるようにと神様は私たちに託しているのです。

悪魔の存在

クリスチャンが神の主権に対して誤解を持っているもう一つの原因は、悪魔の存在をあまり知らない事にあります。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7

この個所から明らかなように、神と悪魔は対立の関係にあります。私たちはしっかりと知っておく必要があります。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もあるという事です。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があります。「神様が全てをコントロールしているから、全ての物事はなるようになる」という考えは間違っています。神のなさる素晴らしい事と、悪魔のする悪事は全く違います。悪魔のする事とは、次の箇所から明らかです。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ 10:10 

サタンは病気を持ってきて人の健康を盗み、殺したり滅ぼしたりします。もし、神が病を通して病人に何かを教えているとすれば、その病人は病院に行ってその病気を取り除くような事はしない方が正しい事になります。何故なら、病気を取り除こうとするのは神様の計画に反抗している事になるからです。神の主権について誤解を持っていると、病気でさえも神様からのものと考えてしまうでしょう。「病という試練」を通して何かを学ばされていると言いながら、必死にその病気からの回復を願っているクリスチャンは大勢います。彼らは自分たちが矛盾しているという事に気付いていません。その矛盾に気付かない信者を見て、未信者もまた違和感を感じているのです。

「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」イザヤ 5:20 

「病気という悪いもの」が神様から来ているとする考えは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。もし、クリスチャンが神様は病気をもたらす事もあると言うなら、どうして同時にイエス様は癒し主と言えるのでしょう?福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、時には病気によって罰を与えるのでしょうか?確かにモーセの律法の下では、病などを呪いとしていた事はありましたが、それは律法を破りその刑罰を受けるという呪いを意味します。ですから、律法の呪いなのです。しかし今はモーセの律法から解放されて恵みの時に入ったのです。