2021年8月8日日曜日

主は私たちと共に働く その2

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

信者が病気で動けなくなっているのを未信者が見るなら、彼らはそれによって神を信じようとしないでしょう。病気は神の栄光を現わす事ではないと未信者は言うはずです。痛みにこらえて奉仕の働きをしている信者の場合は、それは評価される所はあるかもしれません。しかし、更に素晴らしい事は、信者が癒し・解放という神の業を通して神の栄光を表す事です。「奇跡の背後には悪霊が働いているかも」と敏感になり過ぎて色々と細かく欠点を探す必要はありません。

確かに、悪霊の働きに関しては色々と見分けにくいものはあります。しかし、癒し・解放がイエス・キリストの栄光に向けられて証しとなっているのなら、私たちは謙虚にその働きを喜ぶべきです。その上で、彼らの教えの中にイエス・キリストを主として義の道に進んで成長する事、神の子として信仰によって歩む事、御言葉を実践する事を教えているのであれば、それで良いのです。極端な「異端扱い」する必要はありません。完全な福音と神の力を知っている信者は、今の段階ではまだ多くいません。それよりも、悪霊による癒しをしている「現代版パロの呪法師たち」の奇跡が未信者と信者を惑わしている事が大きな問題です。私たちは彼らよりも弱い存在なのでしょうか?しかし、モーセの杖よりも優れたお方が私たちの内に住んでおられるのです。

神学と幼子

もし、イエス様が病人の前に現れるとしたら、その病人を癒す事なく過ぎ去るでしょうか?そして、仮にその病人が、普段は「救いがあればそれだけで良い」と言ってイエス様の打ち傷による癒しの恵みを軽んじていても、その時にはイエス様に「癒して下さい!」と積極的に求めるに違いありません。私たちはもっと素直になるべきです。神学ではなく幼子の様な信仰が奇跡をもたらします。

「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き 3:4-6 

一般的な神学によれば、「主を見なさい」と言わなければ神に栄光を帰していない発言だとなります。神学校を出ていなかったペテロとヨハネは無学な故に、むしろ「異端的」な発言をしてしまいました。ところが、ペテロが「私たちを見なさい」と足なえの人に言うと、彼らの持っているもの、すなわち、イエス・キリストの御名の権威を通して癒しの祝福を与えたのです。そうです。信者には癒しというしるしが伴うのです。何故なら、信者は例外なく全て神の子として新しく生まれ変わるのであり、キリストの権威を用いる事ができるのです。「一方的な神の恵み・神の主権」によってのみ毎回誰かが癒されている訳ではありません。古い契約の時代とは違って新しい契約の後は、私たちクリスチャンの信仰を通して主は働かれる事にしています。

ペテロとヨハネを通して癒しがあるなら、私たちを通して主が働かれるのです。もし、私たちが真のキリストの弟子であり信者であるなら尚更です。しるしは信者に伴うからであり、信者はしるしを追いかけません。ペテロたちは霊的なエリートだったという誤解も聖書の次の箇所から見れば簡単に分かるはずです。

「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」使徒の働き 4:13