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2021年8月26日木曜日

癒しと神の主権 その3

人は自分で悪い種を蒔いて刈り取っている事が多々あります。その様にして健康を失う事が確かにあります。しかし、本来は存在していなかった病気が存在する様になったのは、サタンが原因なのです。病気は神の創造には含まれていません。もちろん、そのサタンに同意して罪を犯した人間にも責任が問われます。その責任を認識させる為に、神はモーセの律法をもたらしたのです。人間が自分自身の犯した罪について認識する必要は、確かにありました。そして、律法が要求する刑罰は呪いとも呼ばれていて、その中には病気も含まれていました。しかし、この考えは旧約時代の古い契約の下であって、神はついに恵みによる救いの道をイエス・キリストを通して示されたのです。

新しい契約の視点

新しい契約に入ってからは、罪も病気もイエス・キリストの十字架の御業によって取り除かれました。今私たち人間のするべき事とは、イエス・キリストの御業を信じて罪の赦しと病の癒しの恵みを受けて、新しい霊として生まれ変わる事なのです。この十字架による恵みの現れは神の御心の現れであって、人がその恵みを受け取る事を神は望んでおられます。旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。

古い契約の視点

申命記28章4節によれば病気は呪いとして扱われていますが、その呪いは神から与えられるものではなく人間自身の罪が原因でした。罪ゆえに律法の刑罰がありました。従って、罪が原因となって病が入り込んだのは間違いありません。アダムの違反のゆえに病が入り込んだのは間違いないのです。従って、誘惑したサタンとその誘惑に負けたアダムが病をもたらしたと言えます。サタンは病気という形の悪をもたらそうとしたのであり、アダムはそれをウェルカムしてしまったのです。神はサタンの罪にも人の罪に対しても責任はありません。むしろ、義を持ってサタンを裁き、恵みを持って人に救いの道を与えました。しかし、それらの真理が示されたのはイエス・キリストによってであり、古い契約の時代にはその真理の大部分は隠されていたのです。

神の性質

古い契約の時代の神は冷酷であったと思う人は多いでしょう。しかし、主はとこしえに恵み深いお方で常に良いお方です。この真理を人間が知らなかっただけです。そして、その真理を伝える為にイエス様が天から来られました。イエス・キリストの贖いの為に、父なる神は人の罪に対して怒って罪の責任を問う事はもうありません。赦しという恵みと癒しという恵みが新しい契約に示されているのです。

しかし、人は罪を通して悪い種を刈り取ってしまう事があります。神はイエス・キリストによって人の罪自体を赦していますが、その人自身が罪を犯す事によって周りの人に迷惑をかけた場合は、責任を取らなければいけない事や自分自身に対して害(病気を含む)を受ける事もあります。これは種まきの法則です。しかし、主を求める人には、ご自身の恵みによってそれらの問題に対する解決策をもお示しになります。

新しい契約の下では、主の介入は常に人に良い事をもたらします。決して災いをもたらす事ではありません。人の罪に対して主の裁きという介入があるのではなく、人が主の助けを求める時や主に信頼を置く時に恵みという主の介入があるのです。従って、病気を試練と考えて神様からのものだとしてはいけません。

真理が人を解放する

病気や人の死を通して、それらをきっかけとして、私たちは何かを学ぶ事もあるかもしれませんが、病気や人の死そのものが何かを教えるのではありません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何かを学ぶ時というのは聖書の真理を学ぶ時であって、それを聞いて知った時なのです。

ですから、困難な経験を通らなくても私たちは常に聖書から真理を学ぶ事が出来るのです。人がつらい経験を通るのは主がそれを持ってくるからではなく、サタンからの攻撃にあっているケースが殆どです。それ以外のケースでは自分で蒔いた種を刈り取っているだけなのです。霊的な歩みを心掛けず主との交わりの外に出てしまうと、あらゆる困難に会う事になるでしょう。父なる神様はその主権を乱用して病気を持ってくる事をしません。それを「試練」と呼ぶのは私たち人間の浅はかな考えです。主を知らないからそう言ってしまうのです。そして、サタンである敵を知らない為に全ての災いも神からとするのです。

2021年8月23日月曜日

癒しと神の主権 その2

ヨブは、神は人に命を与えその命を取ると考えました。しかし、神はご自身の主権を用いて人の命を取る為に働かせてはいません。主は確かに全てに対して権威を持っていますが、主の権威は命を与える為のものです。ご自身が主である事を示す為に主がなさる事は、全て誰から見ても正しくて良い事なのです。病気が神からのものだとするのなら、悪魔は義であるという考えと同じくらい矛盾しているのです。

地上は人に

神は、地上に関する多くの事を人間に任せています。主の介入は時々ありますが、主は地上での多くの事を人に委ねているのです。

「天は主の天。地は、主が人の子らに与えられた。」詩篇 115:16 

人は自分の命に対してでさえも、それをどうするか自由意志を与えられているのです。アダムもその選択を与えられました。自分勝手な道を進むのなら、人はその命を落としてしまいます。人が命を保つには、主の導きの中においてのみ成功を収めます。

「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」エレミヤ書 10:23

神様は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に親しい交わりの中で生きていく為です。しかも、親と子の関係を持って私たちと歩みたいと望んでおられるのです。そうした交わりの中に私たちが留まるのなら、全ては上手く行きます。ですから、私たちの周りにある問題は、私たちが神様との交わりから離れた事によって起こっているのです。同時に、悪魔という悪者の存在を忘れてはいけません。この敵が全ての悪事を働いていて、地上を破壊しているのです。しかし、この混沌とした地上を私たちが治めるようにと神様は私たちに託しているのです。

悪魔の存在

クリスチャンが神の主権に対して誤解を持っているもう一つの原因は、悪魔の存在をあまり知らない事にあります。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7

この個所から明らかなように、神と悪魔は対立の関係にあります。私たちはしっかりと知っておく必要があります。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もあるという事です。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があります。「神様が全てをコントロールしているから、全ての物事はなるようになる」という考えは間違っています。神のなさる素晴らしい事と、悪魔のする悪事は全く違います。悪魔のする事とは、次の箇所から明らかです。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ 10:10 

サタンは病気を持ってきて人の健康を盗み、殺したり滅ぼしたりします。もし、神が病を通して病人に何かを教えているとすれば、その病人は病院に行ってその病気を取り除くような事はしない方が正しい事になります。何故なら、病気を取り除こうとするのは神様の計画に反抗している事になるからです。神の主権について誤解を持っていると、病気でさえも神様からのものと考えてしまうでしょう。「病という試練」を通して何かを学ばされていると言いながら、必死にその病気からの回復を願っているクリスチャンは大勢います。彼らは自分たちが矛盾しているという事に気付いていません。その矛盾に気付かない信者を見て、未信者もまた違和感を感じているのです。

「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」イザヤ 5:20 

「病気という悪いもの」が神様から来ているとする考えは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。もし、クリスチャンが神様は病気をもたらす事もあると言うなら、どうして同時にイエス様は癒し主と言えるのでしょう?福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、時には病気によって罰を与えるのでしょうか?確かにモーセの律法の下では、病などを呪いとしていた事はありましたが、それは律法を破りその刑罰を受けるという呪いを意味します。ですから、律法の呪いなのです。しかし今はモーセの律法から解放されて恵みの時に入ったのです。

2021年8月22日日曜日

癒しと神の主権 その1

神様の絶対的権力とその御心は、地上で起きている全ての詳細に及ぶという考えは間違いです。神は御心のままに良い事も悪い事も全てをコントロールしているという訳ではありません。神様がサタンさえも操っているという教えはヨブ記を誤解しているだけであって、それは真理ではありません。もし、神様が全ての事についてコントロールしているのならば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。カルヴァン主義の影響ではなくとも、人の自由意志を否定し神様の主権だけが存在しているという考えは、諸教会で大きな混乱を招いています。

あらゆる地上で起きている悪は、神様の許可の下に起きているという教えを聞く人々は、その多くが希望を失っています。全ては神の御手にあり、私たちの信仰とは無関係に事が起きるとすれば、神を信じるという意味がどこにあるのでしょう?信じる事が私たちの自由意志によるのではないなら、神様は私たちをコントロールして信者を作り出している事になります。これなら宣教の意味もありませんし、イエス様の十字架の意味もありません。

神様が全てをコントロールしているというのが真理であるなら、地上で起きている事は全て私たちとは関係がないという事になります。「神様は全知全能だから神の御心だけが行われ、全ては御心のままに事が起こる」という考えは間違いです。神の御心に背いた人は大勢います。神様は背く人々の自由意志をコントロールしていません。その事と神が全知全能である事とは別なのです。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」第二ペテロ 3:9

私たちの主は誰一人として滅びるのを望んでいません。全ての人の救いを望んでいます。ところが、人がキリストを信じて救われるという福音の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっている訳ではないのです。主の御心とは別に、人間の自由意志によって自らの滅びが決定されるのです。人が救いに至る場合は主の御心の通りに事が起きていますが、そこでも人の自由意志が働いています。究極の選択ですら人の自由意志次第なのですから、その他の事は尚更人の思いのままに決断する事ができます。実際、人が決めて行なった多くの結果を私たちは見ているのです。

主の介入

祈りなどによって主の介入はあるでしょう。主が介入する時には、良い事が起きます。全ての悪事はサタンからです。しかし、私たちがする多くの事は、私たち自身がそれを決定して行っているだけなのです。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができます。ある意味、人の自由意志は神の御心に勝るのです。その自由意志は、神様によってコントロールされていません。神様が私たちに正しい道を選ぶようにしているのは、私たちの自由意志を尊重している証拠です。神様が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは人間の勝手な考えから来るものです。

イエス様の十字架の御業は恵みですが、一人一人が信仰によってその恵みを受け取って救いを得ます。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に救われる事になるのではなく、恵みと信仰が結び付けられる時に救いがもたらされます。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル 4:2

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

恵みは神からのものです。信仰は私たちのイエスキリストの恵みに対する正しい応答です。神様に対する私たちの間違った応答は、全て恵みを軽視する行為なのです。

ヨブ記の誤解

全ての禍や災難、病気、死も神様がコントロールしているという考えを持つクリスチャンは、その多くがヨブ記の内容を誤解している事が原因となっています。「神がサタンに許可を与えている」という考えは、神の定義自体を根本的に見直す必要があります。その様な事をする神は本当の神ではなく、まさにサタンでしかありません。実際、神とサタンの区別がつかないような教えは悪魔的です。聖書の示している神は愛の神です。悪と善は両方とも神からのものだとしたら、神様の性質そのものが矛盾している事になり、そう教えている聖書も矛盾しており、それはもはや真理という定義になりません。

誤解の大きな原因の一つは、旧約聖書の示している僅かな真理と新約聖書で明らかになった全ての真理の違いに気付いていない事です。主は旧約時代においては、多くの真理を明らかにしていません。真理はイエス・キリストによって実現したのであり、イエス・キリストが示した教えこそが真理であり、イエス・キリストご自身が真理なのです。モーセの律法がまだ有効であった時代には、キリストの真理が明らかになっておらず、それはまた、神についての真理が明らかになっていない事なのです。従って、旧約時代の神は人の目には「愛の神」には見えない事もあるのです。

2021年8月21日土曜日

神の癒しと薬

神の力による癒しは医学による薬よりも遥かに優れています。神の癒しは超自然的で霊的です。それは神の力によるものであり、イエス・キリストを信じる人々に伴うしるしでもあります。神の癒しはキリストの弟子たちを通してもありました。もし、私たちがその弟子たちと同じような信仰の歩みをするなら、同じ神の癒しを体験する事になるでしょう。

その一方で、医学の進歩による現代の医療や薬の恩恵は大いにあります。私たちクリスチャンは医者や薬を否定するべきではありません。しかし、御言葉よりもそれらに信仰を置いて歩むべきでもありません。御言葉が私たちにとっての薬なのです。私たちは主を第一として生きるべきです。

様々な治療や薬の素晴らしい点は、それらによって多くの人々が少しでも痛みから解放される所にあります。また、薬による症状の抑制が働いている間に神が人の体に備えて下さった治癒力によって回復が促され、場合によっては命を伸ばす結果にも繋がります。そうして人々がより長く生きるなら、それだけ福音を聞くチャンスがあるのです。

信者としての歩み

キリストに従って歩む事とは、主日礼拝を欠かさないという事を超えるものです。単に神学校を卒業する事でもなく、献身者として地域教会で熱心に働く事以上のものです。それは、自らの成長の目標をキリストの身丈に置き、神の子として地上を治める生き方です。私たちがまだ成長している段階では、薬や治療の助けを賢く利用するべきでしょう。しかし、私たちは霊的に成長して行く中で医者や薬に頼らない生き方に辿り着くべきです。私たちの目指す所は御霊の命を表す歩みであるべきだからです。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

薬との付き合い方

医学がもたらす薬や治療は、私たちの体に大きな副作用や負担をもたらすものは避けるべきでしょう。人類が多くの病気を克服できた背景には、神の恵みがあります。主は人々が福音を聞くチャンスがある前にも、少しでも苦しみや痛みから解放される事を望んでいます。ですから、主は研究者が神の知恵に気付くように働かれ、多くの病気に対する様々な救急処置を与えているのです。

しかし、神の癒しを知らずに、ただ医学による薬を通して人が回復する事は主の最善策ではありません。主が望んでおられる癒しとは、人がキリストの受けた打ち傷によって癒されるという信仰を通して働かれるものです。この癒しは完全な癒しです。しかし、人が神の癒しを受け取る事ができない状況においては、薬によって症状を抑える事も必要なケースはあるでしょう。

ですから、薬を利用する事は悪い事ではありません。そして、リスクの少ないものを優先的に賢く利用するべきです。リスクの大きい治療程、より神様の御心に遠い方法だからです。何故なら、主は私たちの体が総合的に健やかに保たれる事を望んでおられるからです。症状や痛みの緩和よりも副作用のリスクや犠牲が大きい治療法などは、本末転倒的なものであり、そういう類のものは主の御心に反しています。

大きなリスクを負う以外に対応できない病気などは、多くの場合、神の力によってのみ癒される類のものです。未信者の研究者が神の啓示にまだ気づいていない間は、神の癒しを最優先させるべきです。リスクが低く効果的に症状を抑える薬は、これからも発見されていくでしょう。しかし、基本的に薬は症状を抑える働きだけであり、後は神の創造した治癒力が人を回復させるのです。ただし、その治癒力で全ての病気が治る訳ではありません。敵のより大きな攻撃に対処するには、神の力に頼るしかないのです。そして、神の力による癒しには限界がありません。全ての病は主の打ち傷ゆえに癒されるのです。

2021年8月14日土曜日

新約聖書と癒し 

より正確に聖書を理解する為に、必要な幾つかの鍵があります。その一つは、書かれてある箇所から真理を見出す事です。そして、旧約聖書でも新約聖書でも、真理について書かれているならば、現代の私たちにも適応されます。

古い契約は現代の私たちには必要ありません。イエス・キリストによってもたらされた新しい契約は、より優れた契約だからです。従って、古い契約に基づいた考え方は、全て必要のないものなのです。逆に、新しい契約に基づいた考え方は、現代の私たちが模範とするべきものです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13 

真理

御言葉を読む時には、いつでも真理に注目する事が大切です。神の摂理は時代ごとに違うなどの神学のフィルターが重要なのではありません。真理を知らずにしてただ読むのなら、私たちはパリサイ人・律法学者になってしまうのです。真理は変わる事がないものであり、物事の本質を捉えているので、そこに焦点を合わせて聖書を読むべきです。癒しに関する御言葉の真理について言うなら、神様はどの時代においても癒し主でおられ、どんな病人に対しても癒す御心を持っているという見方が真理なのです。忘れてはいけません。主はご自分を捕えようとした者さえ癒す憐れみ深いお方なのです。

同じ御言葉でも古い契約の内容に関わるものは、私たちにとって必要ないのですが、そうだからと言って旧約聖書は現代のクリスチャンに必要ないという事ではありません。何故なら、旧約聖書の中にも真理について書かれている箇所があるからです。真理は普遍であり、どの時代においても適応されるものだからです。真理は神様の性質に基づいていて、昔も今も変わらないものです。ちょうど、神様の愛と同じです。主の愛は天地の創造の前からも、旧約時代全体を通して、そして今の時代と後に来る時代においても永遠に変わらないアガペーの愛なのです。

その愛のお方が癒しに関して言っている事は普遍であり、変わる事がありません。どの時代にも神の癒しの恵みはあります。何故なら、どの時代にも神の愛は変わらないからです。不安定なのは人間の方であり、神の言葉に忠実でいられない不信仰な者は私たちなのです。

「わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」箴言 4:20-22 

2021年8月13日金曜日

癒しに関する聖書の重要な言葉

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:3-4

私たちの病を負ったのは誰でしょうか?使徒マタイはキリストの贖いについて書いてあるイザヤの箇所を知っていて、次の様に書いています。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

キリストの贖いの業はイザヤによって預言され、イエス・キリストによって成就されました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:4-5

「私たちの咎の為に砕かれた」とあるように、ここでは私たちの罪について言及しています。また、どの様にしてイエス様が病を背負ったか詳しく書かれてあります。それは、受けた打ち傷としてです。キリストの受けた打ち傷ゆえに私たちは癒されるのです。イザヤのこれらの聖句は、イエス・キリストが私たちの罪と病の両方を背負った事を示しているのです。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

ペテロもキリストが「罪を負われた事」と「病を負われた事」の二つの真理を書いています。この個所は罪だけを取り扱っているのだという間違った解釈がありますが、ペテロはその両方を一つにまとめてあります。ペテロはイザヤ書の聖句に従って、二つの真理を含めているのです。

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:29-30

「そのため」とは何を指しているのでしょうか?パウロは、キリストのみからだをわきまえないで食べたり飲んだりするために、コリントの人たちの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいると言ったのです。パウロは、打ち傷を受けたキリストのみからだを知らずに、ただ聖餐の食事をするなら、その恩恵を受け取れないと言っているのです。この個所からも、贖いの中に癒しがある事が明らかです。聖餐式のパンとぶどう酒は、キリストの体とキリストの流された血です。どちらか一つだけを選んでも良いという考え、罪の赦しだけで体の癒しは重要ではないという考えは、主のみからだをわきまえない考えなのです。