2021年8月22日日曜日

癒しと神の主権 その1

神様の絶対的権力とその御心は、地上で起きている全ての詳細に及ぶという考えは間違いです。神は御心のままに良い事も悪い事も全てをコントロールしているという訳ではありません。神様がサタンさえも操っているという教えはヨブ記を誤解しているだけであって、それは真理ではありません。もし、神様が全ての事についてコントロールしているのならば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。カルヴァン主義の影響ではなくとも、人の自由意志を否定し神様の主権だけが存在しているという考えは、諸教会で大きな混乱を招いています。

あらゆる地上で起きている悪は、神様の許可の下に起きているという教えを聞く人々は、その多くが希望を失っています。全ては神の御手にあり、私たちの信仰とは無関係に事が起きるとすれば、神を信じるという意味がどこにあるのでしょう?信じる事が私たちの自由意志によるのではないなら、神様は私たちをコントロールして信者を作り出している事になります。これなら宣教の意味もありませんし、イエス様の十字架の意味もありません。

神様が全てをコントロールしているというのが真理であるなら、地上で起きている事は全て私たちとは関係がないという事になります。「神様は全知全能だから神の御心だけが行われ、全ては御心のままに事が起こる」という考えは間違いです。神の御心に背いた人は大勢います。神様は背く人々の自由意志をコントロールしていません。その事と神が全知全能である事とは別なのです。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」第二ペテロ 3:9

私たちの主は誰一人として滅びるのを望んでいません。全ての人の救いを望んでいます。ところが、人がキリストを信じて救われるという福音の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっている訳ではないのです。主の御心とは別に、人間の自由意志によって自らの滅びが決定されるのです。人が救いに至る場合は主の御心の通りに事が起きていますが、そこでも人の自由意志が働いています。究極の選択ですら人の自由意志次第なのですから、その他の事は尚更人の思いのままに決断する事ができます。実際、人が決めて行なった多くの結果を私たちは見ているのです。

主の介入

祈りなどによって主の介入はあるでしょう。主が介入する時には、良い事が起きます。全ての悪事はサタンからです。しかし、私たちがする多くの事は、私たち自身がそれを決定して行っているだけなのです。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができます。ある意味、人の自由意志は神の御心に勝るのです。その自由意志は、神様によってコントロールされていません。神様が私たちに正しい道を選ぶようにしているのは、私たちの自由意志を尊重している証拠です。神様が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは人間の勝手な考えから来るものです。

イエス様の十字架の御業は恵みですが、一人一人が信仰によってその恵みを受け取って救いを得ます。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に救われる事になるのではなく、恵みと信仰が結び付けられる時に救いがもたらされます。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル 4:2

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

恵みは神からのものです。信仰は私たちのイエスキリストの恵みに対する正しい応答です。神様に対する私たちの間違った応答は、全て恵みを軽視する行為なのです。

ヨブ記の誤解

全ての禍や災難、病気、死も神様がコントロールしているという考えを持つクリスチャンは、その多くがヨブ記の内容を誤解している事が原因となっています。「神がサタンに許可を与えている」という考えは、神の定義自体を根本的に見直す必要があります。その様な事をする神は本当の神ではなく、まさにサタンでしかありません。実際、神とサタンの区別がつかないような教えは悪魔的です。聖書の示している神は愛の神です。悪と善は両方とも神からのものだとしたら、神様の性質そのものが矛盾している事になり、そう教えている聖書も矛盾しており、それはもはや真理という定義になりません。

誤解の大きな原因の一つは、旧約聖書の示している僅かな真理と新約聖書で明らかになった全ての真理の違いに気付いていない事です。主は旧約時代においては、多くの真理を明らかにしていません。真理はイエス・キリストによって実現したのであり、イエス・キリストが示した教えこそが真理であり、イエス・キリストご自身が真理なのです。モーセの律法がまだ有効であった時代には、キリストの真理が明らかになっておらず、それはまた、神についての真理が明らかになっていない事なのです。従って、旧約時代の神は人の目には「愛の神」には見えない事もあるのです。