2021年8月4日水曜日

癒されないのが「例外」

神の癒しに関して私たちが学ぶべき最適な書物は新約聖書です。何故なら、新約聖書にはイエス・キリストが病人を癒されたという記録が沢山あるからです。特に福音書においては、キリストのなされた大部分の事は病気の癒しでした。旧約聖書には神の癒しに関する記録は殆どありませんが癒しに関する聖句はあります。

さて、病人がイエス様に癒しを求めたケースで癒されなかった事は一度もありません。それどころか、病人が癒しを求めていないケースでも、癒しが起きた事が記録されています。私たちが注目すべき所は、イエス様が地上を歩いていて神の福音をユダヤ人に宣べ伝えていた時には、癒しを求めて来た人たちは異邦人でさえも癒されたという点です。つまり、主の下に来て癒されなかった病人は一人もいなかったという事実です。

「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 4:24 

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」マタイ 8:16 

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」マタイ 12:15 

「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」マタイ 14:36 

「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」ルカ 4:40 

「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」ルカ 6:19 

これらの聖句はイエス様の所に来た病人がみな癒された事を示しています。例外として癒しが起こらなかった事はありません。何故でしょうか?

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き 10:38 

イエス様が町々を巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされたのは、神が「イエスに聖霊と力によって油を注がれ」、そして「神がイエスと共におられたから」だとペテロは言っています。確かに、神の子であるイエス・キリストであるなら、みな癒されるはずです。しかし、使徒たちもイエス様と同じ癒しを行なっていました。

「また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。」使徒の働き 5:16 

使徒たちは癒しを求めて来た人たちをみな癒しました。「何故、イエスは病人をみな癒す事が出来たか?」という質問に対する典型的な答えは、「イエスは神だから」です。多くの人はキリストを「三位一体の神」として見て、それならばどんな病人でも癒す事ができると考えてそう言います。しかし矛盾した事に、時には神様は病気を癒さないとも言います。イエス・キリストの癒しの恵みは当時の人たち限定だったのでしょうか?それとも今も同じでしょうか?

もし主の恵みはとこしえにまで同じなら、主と同じ様に病気を癒した使徒たちは特別だったのでしょうか?使徒の行なった癒しや数々の奇跡に関して、私たちは使徒は特別に選ばれた者と考えます。しかし、彼らの失敗を見ては私たちと同じ人間だという見方に変えます。この様な考えは都合の良いものに過ぎません。正しい見方は、例え霊的に未熟な人を通しても神は信仰を持つ人たちを通して働かれるという事であり、癒しの力は神のものだという事です。人の力で癒す事は出来ないのです。