2021年8月30日月曜日

癒しはキリストの贖いにある その3

パウロによる理解

パウロは癒しについてどう理解していたのでしょうか?実は、使徒たちの手紙の中で癒しについて書かれている箇所は僅かです。多くの書簡を書いたパウロでさえ、キリストの癒しの真理に関して書いてあるのはコリントの手紙くらいです。

「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:27-30

ここは、聖餐式に関してパウロがコリントの信者に注意した箇所です。パンとぶどう酒がキリストの十字架を象徴しているのは明らかです。これらをよく理解しないで単なる飲み食いにしてしまうなら、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とパウロは言っています。

29節の「キリストのからだ」をわきまえないで飲み食いする事が原因で、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とパウロは言っています。何故キリストの「血」ではなく「からだ」をわきまえない事が、病人が多くなった原因だとしているのでしょうか?それは、キリストのからだが受けた打ち傷によって私たちが癒やされるという約束があるからです。キリストはご自身の体に打ち傷を受けて私たちの病を背負ったのです。

正餐式はキリストの十字架の贖いの象徴です。キリストの血による罪の赦しを理解せずに、その恩恵を受け取る事はできません。同様に、キリストが何故ご自身の体を捧げて打ち傷を受けたのかをよく理解せずにパンを食べるなら、私たちは癒しの恩恵を受る事ができないのです。これらを信仰によって行うなら私たちは祝福を受け取る事ができるのですが、単なる飲み食いにするなら何の恩恵もないという事なのです。

新約聖書の使徒たちが書いた書物によれば、贖いの一部としてキリストは病を背負ったのであり、打ち傷として受けたという預言の成就であり、そしてそれは現代でも聖餐式を通して受けられる神の祝福なのです。