2021年9月1日水曜日

御言葉による成長:三つの扱い

「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ 4:4 

未信者は、神の口から出る一つ一つの言葉で生きてはいません。信じていない彼らにとっては、御言葉の生きた力を自分のものとする事はできません。しかし、御言葉に沿って歩むクリスチャンなら、肉の糧であるパンだけで生きる事はしません。信者である私たちは、神の言葉によっても生きる者です。ちょうどパンから肉体に対する活力を得る様に、私たちの霊に対する活力は御言葉から得る事ができます。

御言葉を読む

癒しについて聖書が何を言っているか分からないのなら、癒しに対しての正しい信仰を持つ事はできません。信者の歩みは御言葉を読む事から始まります。多くのクリスチャンは専門家の解釈に頼り過ぎていますが、今では原語の意味を調べる事が素人でも出来るようになっています。信者一人一人が、可能な限り自分で読んで何が書かれてあるかを確かめるべきです。何が真理であるか確信を持てない間は、異なる教理に耳を傾ける事も必要だと言えます。

御言葉を学ぶ

聖書の解釈が無数にあっても良いとするのであれば、何をどう信じても構わないとするのです。ところが、真理は一つしかありません。そして、真理は聖書にあるのです。何が複雑にしているかと言えば、無数にある神学論です。多くの神学論は部分的な聖句の引用や文脈を無視した読み方になっていて、旧約聖書と新約聖書をバランスよく取り扱っていません。多くの神学は旧約聖書の視点から考えられていて、新しい契約を忘れているかのようです。

御言葉を正しく学ぶ鍵は、古い契約と新しい契約の相違を明確にする事です。時代別に神の摂理があるという見方ではなく、モーセの律法に基づく古い契約の時代と、キリストの新しい戒めに基づく新しい契約の時代があるだけです。現代でも適応される旧約聖書の聖句は、真理について書かれてある箇所だけです。モーセの律法の視点から書かれてあるものは今日では必要ありません。

御言葉を黙想する

私たちが黙想すべき御言葉は、主に新約聖書からになります。何故なら、私たちが知るべき必要な全ての真理がそこにあるからです。その真理の御言葉によって思考が一新される時に、私たちは多くの問題から解放される事になります。御言葉の黙想とは、真理の御言葉を思い巡らし、口ずさんだり宣言したりする事を指します。御言葉の教えに反する事を考えたり口にするのではなく、神の生きる言葉を発して歩むのが私たちクリスチャンのやるべき事です。