私たちは神様に癒して下さいと祈るべきだと教わってきましたが、イエス様や使徒たちはその様な祈りによって病人を癒してはいません。そもそも、新しい契約の下での祈りは「神様に乞う」事ではありません。イエス様が教えている祈りとは、神の子として大胆に「御国が来るように!」と宣言する祈りです。別の言葉で言えば、それは信仰に基づく祈りです。
聖書の教える信仰とは、神と神の御言葉を信じるという事であり、それは、信じた故に約束の結果を知るという事です。例えば、イエス・キリストが、神の子として私たちの為に十字架の御業を通して救って下さったという御言葉の真理を信じれば、神の刑罰から救われる事になります。信じるなら永遠の命が与えられるという結果を知る事になるのです。それと同じ様に、御言葉を信じるなら癒されるという結果を知る事になるべきです。しかし、十字架の御業で約束されている罪の赦しに対して疑うクリスチャンはあまりいませんが、病の癒しは疑う人が多いものです。
信じても罪が赦されたと感じられないと言う人に、「御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスは究極的なものです。結局は、神の言葉そのものが約束しているという所に信頼を置くしかないのです。そして、神は約束を破るお方ではありません。従って、信じても癒された感じがしないという人には、「キリストの打ち傷によって癒されたという御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスも究極的なものです。
御言葉が示している様に、キリストの打ち傷によって病の癒しが約束されているのなら、神様にお願いして癒してもらう必要もありません。何故なら、既に神の御心は病人を癒す事であり、既に打ち傷を受けたイエス様が全ての御業を成し遂げて天に帰ったからです。後は、その約束通りになる様に命じる事、宣言する事です。これが新しい契約の下で私たちがするべき癒しの祈りの心構えであり、それと共にイエスの御名と言う権威を行使すれば、病は癒され悪霊は出て行く事になるのです。従来の「お願いする祈り」は、父なる神が私たちに期待している祈り方ではありません。父なる神の約束の言葉を信じる子供たちであるなら、大胆に宣言していく事を天の父は望んでいるのです。
「神様、癒して下さい!」ではなく、「イエスの御名によって命じる!病よ出て行け。癒されよ!」という様な信仰に基づく命令や宣言が新し契約の下での神の子としての祈りです。この様な祈り方は、古い契約の時代にはありませんでした。しかし、イエス様は大胆に求めるように祈りなさいと弟子たちに教えたのです。その大胆さは、神を「父」と呼ぶくらいだというものです。主は私たちを子供のように見ていますし、私たちは実際に神の子になりました。ですから、私たちも神を天の父として見るべきです。そこには深い親子の関係があります。この深い絆があるので、私たちは神の子としてあらゆる障害や山に命じて問題を解決して行くのです。