「信仰による癒しが一度でも失敗するなら、それは神の癒しではない」、或いは、「瞬間的な癒しでないなら、それは神の癒しではない」などの誤解を持っている人もいます。しかし、薬を通して徐々に回復して癒された場合でも、神が癒して下さったと見なして神を褒め称えるクリスチャンは多いものです。ところが、信仰によって病人に手を置いて癒すという方法などに限っては、イエス様が福音書の中でやった様に全く同じ結果を出さなければならない、そうでなければ神の癒しではないという考えに固執している人たちがいます。どうしてでしょうか?
神学的な立場にこだわり過ぎて熱くなっている人たちは、いつの時代にもいるものです。そうした人たちの中には、実際に神の癒しを体験している人はあまりいません。彼らは癒しの体験よりも、むしろ周りに癒されていない人たちを見て来た事が多い為に、御言葉の真理よりも現状ばかりを見て結論付けているのです。必死に祈っても結果が出ない事もあります。しかし、そうした失敗ばかり見て諦める必要はありません。成長を目指している私たちは、その成長の過程で失敗する事はあるでしょう。しかし、圧倒的な勝利者として日々奮闘して歩んで行こうとする姿勢が私たちの持つべき信仰です。
私たちが思い出す必要があるのは、まず神の力は信者の内にあるという事です。(エペソ 3:20、コロサイ 1:29)神の力は各信者の信仰の成長と思考の一新に応じて発揮されます。成長の初期の段階にいる私たちは、信仰による癒しを9割を超える高い確率で見る事はまだ多くはありません。瞬間的な癒しもあったりますが、全てがそうでもありません。そして、私たちは、瞬間的な癒しになるように思考を一新するべきです。私たちが成長の道を進んで行けば、より難しい状況でも大胆に信仰に立って神の栄光を表す事が出来るように(すなわち、癒しが出来るように)なり、その確率も癒しのスピードも良くなってきます。今それが出来ないからといって、そこで諦める必要はありません。
神は、私たちがその域に達するまで成長して大胆に歩む事を望んでいます。従って、今の状況で完璧な癒しを求める必要はありません。成長の途中なのに、100%の癒しの確率を求める信者は、その人自身が無茶な注文をしている事に気づいていません。しかし同時に、キリストにあって何でも出来る私たちは完璧主義の心構えで前進するべきでもあります。常にポジティブに考えて宣言する事は、クリスチャンとしてやるべき事です。例え時々失敗したとしても、常に「癒しが起こる」という信仰で歩むべきです。それとも、完全にキリストの身丈にまで成長していないと、その様に大胆に考えたり口にする事は許されないのでしょうか?
例えば、愛について語るクリスチャンの場合を考えて見ましょう。完全に成長していないクリスチャンでも神の愛を語る必要があります。講壇から神の愛を語る人の中で、イエス様の愛を完全に知っている人はまだいませんが、キリストの愛は絶対である事を伝えるのは私たちクリスチャンの使命です。同じ様に、100%の癒しではないといって、神の癒しに関して否定的に考える必要はありません。信仰の成長に応じた結果が出ているだけであって、神の約束に関して言えば、いつも「キリストの打ち傷」によって癒されるのです。