私たちが命じる祈りをするべき理由は、第一に、それがイエス様が弟子たちに教えたものだからです。古い契約時代の未来が分からない単なる希望の祈りではなく、結果が分かるがゆえの宣言なのです。希望の祈りは結果を知らずに望みますが、信仰の祈りは結果を知っているがゆえの祈りです。御言葉の約束に基づいた祈りです。何故その様な祈りが出来るかと言えば、キリストを信じた私たちが神の子として新生したからであり、神の子として大胆に「父よ!」と言える立場になったからです。
福音書に「主の祈り」と呼ばれているものがありますが、あれはイエス様が弟子たちの為に祈りについて教えものであって、本来は「弟子の祈り」という表現が正しいです。実際に、「主の祈り」は神ご自身がするのではなく、弟子たちがするべき祈りです。さて、イエス様はその祈りの教えの中で祈りの本質について言っています。そして、使われている動詞が命令形になっている所にもヒントがあります。
「御名が聖なるものとされますように。」マタイ 6:9
「聖なるものとされますように」はお願いを意味していません。日本語は丁寧な表現になっているのでお願いをしているかのようですが、ギリシャ語では命令形になっているので、直訳なら「聖なるものとされよ」です。
「御国が来ますように。」マタイ 6:10
「来ますように」の箇所の動詞もギリシャ語では命令形になっていますので、直訳なら「来い」になります。
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」マタイ 6:10
「行われますように」の箇所の動詞は「成る」の命令形なので、ギリシャ語から読めば「みこころが天で成るように、地でも成れ」です。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」マタイ 6:11
「お与えください」も命令形になっているので、「与えよ」です。
「私たちの負い目をお赦しください。」マタイ 6:12
「お赦しください」も命令形なので、「赦せ」となります。日本語では何だか乱暴な言い方に聞こえますが、乞い願うという意味で「どうか赦して下さい」にしてしまうなら、本来のイエス様の教えと違ってしまいます。私たちは神に対して「赦して下さい」とお願いする必要がないからです。何故なら、私たちのその願いよりも先に主は私たちを赦して下さったからです。神の恵みはまだ私たちが罪人であった時にも既にありました。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8
「悪からお救いください。」マタイ 6:13
「お救いください」には「お」と「ください」がある為に、お願いしているような響きですが、実際には「救え」という命令形で書かれています。従って、ここも直訳にしてしまうと日本語では丁寧さに欠ける言い方に聞こえても仕方ないでしょう。理解の鍵は、動詞の命令形を用いる事によって何の意味があるかです。イエス様が弟子たちに理解して欲しかったポイントは、「神に対して高慢になって命令しなさい」ではなく、「大胆に要求しなさい」という事なのです。
私たちは神の子なので、父なる神に大胆に当然のものを要求しても構わないのです。むしろイエス様は、神の約束を大胆に宣言して神の子として歩みなさいと教えています。パリサイ人と律法学者は、その様な態度や行動を「神に対する冒涜」だと言ったのですが、イエス様は弟子たちに神を父親の様な方だと教え、何でも大胆に求める様に教えたのです。親が子供を見て喜ぶのは、その子供が親を完全に信頼しきっている所です。信頼があれば、変な遠慮がなく大胆に求める事ができます。もちろん、神の子として求めるという事は肉の思いから来る利己的な悪い動機に基づいてはいません。神の子は御霊の思いで父なる神に求め、天からの良いものを期待するのです。
「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」ヤコブ 4:2-3