2021年9月23日木曜日

癒しは戦い その2

信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について細かく言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じ、実際に目の前の病気や病人が癒される事も信じなければいけません。

さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由は、信者の信仰をくじく為のサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。

敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方が、よっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。

主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのは、あまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。

残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもよいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8 

2021年9月20日月曜日

癒しは戦い その1

 「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き10:38 

イエス様は、「悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」とありますから、病気と悪魔には何かの関係がある事は明らかです。霊的な影響で病気になる事も実際あります。従って、私たちが病の癒しを考える時には、常に背後で働く悪魔・悪霊も意識するべきでしょう。多くのクリスチャンは敵を知らないので、「神様が癒して下さらない」という結論になりがちです。

しかし、私たちは神の子としてこの地上を治めて行く働きがあります。それゆえ、神様に何かをしてもらうという子供の考えから卒業して、自らが神の子として自主的に良い事をし始めなければならないのです。クリスチャンがキリストに似た者であるのなら、ちょうどイエス様がやった様に、「巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やす」必要があるのです。私たちがキリストの弟子として歩む事を決断するなら、私たちはキリストと同じ業を行なう事ができます。何故なら、弟子はキリストが弟子たちに教えた全ての事を守る者だからです。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ 28:19-20

「弟子としなさい。」とありますから、ただ「未信者をクリスチャンにしなさい」事とは少し違います。クリスチャンでも、キリストの弟子としての意識で歩んでいない人たちもいます。本来は、全てのキリストの信者はキリストの弟子であるべきですが、残念ながら、その様に一般には教えられていません。しかし、私たち信者は弟子として自身の十字架を背負ってキリストの教えに従うべきなのです。ですから、キリストの弟子として信じている者は、次のような約束を実現できます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ 14:12 

イエス様の行ったわざを行なうとは、どの様なものでしょうか?その一つには、悪魔のわざを打ち破る事です。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第一ヨハネ 3:8 

私たちも悪魔のわざを打ち破る為に、この地上で神の子として歩む事ができるのです。また、その様にする事を神は望んでおられます。そして、悪魔のわざである病気を打ち破る事が私たちの使命なのです。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18

弟子として信じる人々には、キリストがやったわざを行なう事ができるのであって、それはキリストの弟子としてのしるしです。その中には癒しも含まれています。

余談ですが、マルコ 16:9-20 はバチカン写本などの古い写本には無いという事で、それらの節の信頼性が欠けるという神学者の意見があります。「最も古い写本がより原文に近い」とされているからですが、9節から20節まで欠けている写本が「より原文に近くて正確」なはずがありません。「古ければ良い」というのは人間的な考えなのです。

「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」ルカ 5:39 

バチカン写本、シナイ写本などよりも後に発見された多くの写本は、ビザンチン型の写本であり、これらの多くの写本はほぼ一致しています。それから、「写本と原本に違いがある」事も覚えておくべきでしょう。

2021年9月17日金曜日

神が癒さない事もある?

神が意図的に特定の病人を癒さない事があると信じているクリスチャンは多いものです。しかし実際には、既にキリストの打ち傷によってあらゆる病気は癒されています。癒しは贖いの御業の中にあるのです。従って、神が癒すかどうかは問題ではありません。真の問題は、癒しの約束を信じ、信仰の戦いに勝って現実を変えて行く所にあります。

「救う」というギリシャ語は sozo ですが、この語は「病気からの救い」も含まれています。総合的な「救い」という意味があるので、病気からの救いなら「癒し」と訳されても構わないのです。或いは、「解放」と訳されても構いません。ですから、救う神は癒す神であり解放するお方である事を私たちはしっかりと認識しなければいけません。キリストはあらゆる形の虐げから救う為に来られ、既に私たちを救ったのです。癒されていないという現実は神のせいではありません。むしろ、私たちがその癒しの約束をどうするかが問題であって、聖書の約束によるとその真理を信じて受け入れれば解放されるという事なのです。

多くの人たちが、病の癒しが「救われる事」より難しいと考えるのは、目に見える一部分に結果の全てが反映されていると思っているからです。しかし、ただ肉の目で見ているものは、全体の一部分であって結果の全てがそこに表されているのではありません。癒しに関して言えば、キリストの打ち傷によって既にあらゆる病は癒されているのです。これは真理です。現実はそれとして認識します。しかし、信仰によって御言葉の真理に立つなら、見ている現実が真理の力によって変わるのです。

肉の目で見ている現状は、本当に何が起きているかの一部分に過ぎません。常に肉の目で歩んでいるなら、悪霊の存在を知らずに歩む事と同じです。たとえ聖書を知っていても活用していない歩みは信仰による歩みとは違います。悪霊がどの様に働いているかを知らずにいると、神の武具を身につける心構えのない生き方になります。自らの油断が癒しの信仰を持てていない事だと認識して、大人の考えで歩み始めるなら勝利を見る事ができます。

私たちは長い間、癒されないのは神様の特別な計画として、神が癒さない理由を持っているとして来ました。それは、癒されない現状は神のせいにする事と同じなのです。病気は神からの試練ではありません。その様に見える現実があっても、それは真理ではないのです。それを神の御心と信じるのなら、サタンと悪霊の思うつぼです。私たちはむしろ悪に向かって戦って勝利を奪い取って行く必要があります。以前の私たちは、病気を神からのものとして受け止め、信仰の戦いをせずに諦めていました。しかし、もうその様な幼子の考えから卒業する時代に入っているのです。

2021年9月15日水曜日

病の癒しの祈り その4

「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24

このイエス様の教えからも祈りが宣言である事が分かります。まず最初にやるべき事は、問題である山に向かって宣言する事です。その時に、心の中で疑わないという事が条件になっています。また、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになるとあります。自らの宣言の通りになるのであるなら、既に得たと信じる事と同様であるとイエス様は言っているのです。それが24節です。

病気という山を動かしたいのなら、それに向かって退く様に言わなければなりません。その時、心の中で疑わない事が条件になります。そして、言った通りになると信じるなら、その通りになります。これがイエス様の教える祈りです。この祈りから分かるように、神様にあなたの問題を知ってもらう必要はありません。問題の詳細や、いかにその問題のおかげで苦しんでいるかを訴える必要もありません。何故なら、神はそれらを既にご存知だからです。特に、癒しの祈りに関して言えば、必ずしも神様に病状を知ってもらう為に言う必要がないのです。

私たちは神様に「~の事で困っています。神様、助けて下さい。」という祈りをして来ましたが、むしろ、「問題と問題の背後で働く悪霊ども、イエスの御名で命じる。出て行け!」なのです。何故この様な祈りが新生したクリスチャンの祈りになっているかと言えば、まず、イエス様が打ち傷を受けて私たちの病を取り除いて下さったからです。この約束があるゆえに、神様に癒してもらう為の嘆願が必要ないのです。何故なら、既に御言葉の約束によって既に癒されているからです。また、何度も言いますが、私たちが神の子として新生されたゆえに、神の権威が与えられているので、病気に命じて去る様に言うのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12 

新改訳聖書では「特権」という訳にしていますが、これはギリシャ語の exousia という語で「権威」という意味を持ちます。神の子供であるクリスチャンは、神の権威を行使できます。それは、イエス・キリストの名を使うという意味です。私たちがイエスの御名で祈る時には、その御名の権威を使う事を知らなければいけません。ただ理由も知らなくて宗教的・儀式的にやってしまうと恩恵がありません。その御名で悪霊を追い出し、病を癒すのですが、多くのクリスチャンはその実用性を知りません。それが聖書にある事くらいは知っているかもしれませんが、日常で有効に使われていないのです。

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒の働き 3:16 

信仰を持って新しい契約に沿った御言葉の教えを宣言するなら、その通りになります。そして、病の祈りをこの御言葉の法則当てはめるなら、病を敵からの攻撃だと見なして追い出して行けばよいのです。敵を知らずに神様にお願いする従来の間違った祈りで癒しを期待するのなら、1割の確率しか期待できないでしょう。実際に、教会で癒しが見られるのは1割くらいだと言われています。主の憐れみはありますが、主は私たち自身が神の子として戦って勝利を掴む事を望んでおられるのです。従って、癒しを戦いと見なして祈っていくなら、より多くの癒しを体験する事になるのです。

2021年9月14日火曜日

病の癒しの祈り その3

 私たちが命じる祈りをするべき理由は、第一に、それがイエス様が弟子たちに教えたものだからです。古い契約時代の未来が分からない単なる希望の祈りではなく、結果が分かるがゆえの宣言なのです。希望の祈りは結果を知らずに望みますが、信仰の祈りは結果を知っているがゆえの祈りです。御言葉の約束に基づいた祈りです。何故その様な祈りが出来るかと言えば、キリストを信じた私たちが神の子として新生したからであり、神の子として大胆に「父よ!」と言える立場になったからです。

福音書に「主の祈り」と呼ばれているものがありますが、あれはイエス様が弟子たちの為に祈りについて教えものであって、本来は「弟子の祈り」という表現が正しいです。実際に、「主の祈り」は神ご自身がするのではなく、弟子たちがするべき祈りです。さて、イエス様はその祈りの教えの中で祈りの本質について言っています。そして、使われている動詞が命令形になっている所にもヒントがあります。

「御名が聖なるものとされますように。」マタイ 6:9 

「聖なるものとされますように」はお願いを意味していません。日本語は丁寧な表現になっているのでお願いをしているかのようですが、ギリシャ語では命令形になっているので、直訳なら「聖なるものとされよ」です。

「御国が来ますように。」マタイ 6:10 

「来ますように」の箇所の動詞もギリシャ語では命令形になっていますので、直訳なら「来い」になります。

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」マタイ 6:10 

「行われますように」の箇所の動詞は「成る」の命令形なので、ギリシャ語から読めば「みこころが天で成るように、地でも成れ」です。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」マタイ 6:11 

「お与えください」も命令形になっているので、「与えよ」です。

「私たちの負い目をお赦しください。」マタイ 6:12 

「お赦しください」も命令形なので、「赦せ」となります。日本語では何だか乱暴な言い方に聞こえますが、乞い願うという意味で「どうか赦して下さい」にしてしまうなら、本来のイエス様の教えと違ってしまいます。私たちは神に対して「赦して下さい」とお願いする必要がないからです。何故なら、私たちのその願いよりも先に主は私たちを赦して下さったからです。神の恵みはまだ私たちが罪人であった時にも既にありました。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8 

「悪からお救いください。」マタイ 6:13 

「お救いください」には「お」と「ください」がある為に、お願いしているような響きですが、実際には「救え」という命令形で書かれています。従って、ここも直訳にしてしまうと日本語では丁寧さに欠ける言い方に聞こえても仕方ないでしょう。理解の鍵は、動詞の命令形を用いる事によって何の意味があるかです。イエス様が弟子たちに理解して欲しかったポイントは、「神に対して高慢になって命令しなさい」ではなく、「大胆に要求しなさい」という事なのです。

私たちは神の子なので、父なる神に大胆に当然のものを要求しても構わないのです。むしろイエス様は、神の約束を大胆に宣言して神の子として歩みなさいと教えています。パリサイ人と律法学者は、その様な態度や行動を「神に対する冒涜」だと言ったのですが、イエス様は弟子たちに神を父親の様な方だと教え、何でも大胆に求める様に教えたのです。親が子供を見て喜ぶのは、その子供が親を完全に信頼しきっている所です。信頼があれば、変な遠慮がなく大胆に求める事ができます。もちろん、神の子として求めるという事は肉の思いから来る利己的な悪い動機に基づいてはいません。神の子は御霊の思いで父なる神に求め、天からの良いものを期待するのです。

「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」ヤコブ 4:2-3

2021年9月12日日曜日

病の癒しの祈り その2

 私たちは神様に癒して下さいと祈るべきだと教わってきましたが、イエス様や使徒たちはその様な祈りによって病人を癒してはいません。そもそも、新しい契約の下での祈りは「神様に乞う」事ではありません。イエス様が教えている祈りとは、神の子として大胆に「御国が来るように!」と宣言する祈りです。別の言葉で言えば、それは信仰に基づく祈りです。

聖書の教える信仰とは、神と神の御言葉を信じるという事であり、それは、信じた故に約束の結果を知るという事です。例えば、イエス・キリストが、神の子として私たちの為に十字架の御業を通して救って下さったという御言葉の真理を信じれば、神の刑罰から救われる事になります。信じるなら永遠の命が与えられるという結果を知る事になるのです。それと同じ様に、御言葉を信じるなら癒されるという結果を知る事になるべきです。しかし、十字架の御業で約束されている罪の赦しに対して疑うクリスチャンはあまりいませんが、病の癒しは疑う人が多いものです。

信じても罪が赦されたと感じられないと言う人に、「御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスは究極的なものです。結局は、神の言葉そのものが約束しているという所に信頼を置くしかないのです。そして、神は約束を破るお方ではありません。従って、信じても癒された感じがしないという人には、「キリストの打ち傷によって癒されたという御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスも究極的なものです。

御言葉が示している様に、キリストの打ち傷によって病の癒しが約束されているのなら、神様にお願いして癒してもらう必要もありません。何故なら、既に神の御心は病人を癒す事であり、既に打ち傷を受けたイエス様が全ての御業を成し遂げて天に帰ったからです。後は、その約束通りになる様に命じる事、宣言する事です。これが新しい契約の下で私たちがするべき癒しの祈りの心構えであり、それと共にイエスの御名と言う権威を行使すれば、病は癒され悪霊は出て行く事になるのです。従来の「お願いする祈り」は、父なる神が私たちに期待している祈り方ではありません。父なる神の約束の言葉を信じる子供たちであるなら、大胆に宣言していく事を天の父は望んでいるのです。

「神様、癒して下さい!」ではなく、「イエスの御名によって命じる!病よ出て行け。癒されよ!」という様な信仰に基づく命令や宣言が新し契約の下での神の子としての祈りです。この様な祈り方は、古い契約の時代にはありませんでした。しかし、イエス様は大胆に求めるように祈りなさいと弟子たちに教えたのです。その大胆さは、神を「父」と呼ぶくらいだというものです。主は私たちを子供のように見ていますし、私たちは実際に神の子になりました。ですから、私たちも神を天の父として見るべきです。そこには深い親子の関係があります。この深い絆があるので、私たちは神の子としてあらゆる障害や山に命じて問題を解決して行くのです。

2021年9月11日土曜日

病の癒しの祈り その1

新生したクリスチャンは、パウロの言葉で言えば、「新しい人」です。新しい人は、私たちの霊が新しく生まれ変わった事によります。そして、新しく生まれ変わったので、私たちは神に属する者(神の子)となりました。新しく生まれ変わったクリスチャンの正しい考えや行動は、以前と同じになっているべきではありません。未信者だった頃とは違う新しい考え方によって歩んでいるべきです。それは、新しい契約の教えに基づいています。新しい契約に基づく新しい考え方は、癒しの祈りに関しても新しくなっているべきです。

古い契約の考えのまま祈りをしても効果はありません。モーセの律法に基づく古い契約の中には信仰の概念がないからです。古い契約の中には新生の概念もありませんので、新しい人・神の子として考えて歩む事が不可能なのです。信者になった私たちは、単なる肉の思いによって歩む事から解放されており、霊の視点・考えで歩む事(新しい契約の教えに基づいて歩む事)ができます。その歩みは文字によって仕える歩みではなく、御霊によって仕える歩みであり、そこには解放があります。つまり、信仰のない祈りは本来のクリスチャンの祈りではありません。

旧約時代にも信仰によって歩んでいた人たちの祈り方は模範として幾らかは参考になるものもあります。実際に、アブラハムやエリヤの祈り方は、ある程度参考にできます。しかし、彼らは新生を体験していませんでしたし、イエスの御名を使って祈る事も知りませんでした。現代の私たちは神の子としてキリストの御名の権威で祈れます。従って、彼らの祈りの中には参考にならない部分もあります。

イエス・キリストが究極の模範

クリスチャン(新生して神の子になった者)は、古い契約やモーセの律法を参考にして考えるのではなく、イエス・キリストが示した新しい契約と新しい戒めを参考にして考えます。従って、新しい人・神の子であるクリスチャンは、新しい契約の中で歩むべきです。神の子として私たちが癒しに関わる為には、神の子として歩んだイエス様のやり方を最初に模範にします。その次に、使徒たちのやり方を模範にするべきでしょう。

従って、福音書でイエス様が病人を癒したやり方と、使徒言行録で弟子たちが行った癒し方を参考にすれば、病気の癒しに関して何をするべきかが分かってきます。イエス様と弟子たちが癒したケースを調べれば、新しい人・神の子の視点がどの様なものかが見えてくるのです。もし、私たちが常に新しい人・神の子の視点であらゆる問題の対策を考えるならば、癒しだけでなく全ての事をイエス様がやったように私たちも出来るようになって行きます。

2021年9月4日土曜日

癒しと神の御心

神の癒しがキリストによる贖いに含まれているなら、過去において既に起きたという事実と見なす事ができます。歴史的な事実としても、十字架の御業は既に完了しているものとして見る事ができます。従って、病の癒しが神の御心かどうかは、キリストの贖いの中にそれが含まれているかどうかがとても重要になります。そして、私たちはイエス・キリストが私たちの病の為に打ち傷を受けた事を聖書から知る事ができます。すなわち、病の癒しはキリストの贖いの中にあるという真理を知る事ができるのです。贖いの計画は神の御心の中心的なもので、病の癒しは神の御心の中心的なものです。

キリストの贖いは私たちにとって素晴らしい神の恵みの表れでした。それが示している事は、神の御心は私たちにとって良いものであって悪い事ではありません。ちょうど、神ご自身が常に良いお方である様に、神様の御心はいつでも私たちにとって良い事です。この理解を土台にすれば、病気は悪いものであり、悪魔がもたらすものという認識ができるようになります。実際に、人が病気になる事は神の御心ではないのです。しかし、贖いが癒しの中に含まれていると認めている人でも、「例外もある」と考えている人もいます。

例えば、「神様は時には病いを通して私たちを訓練する」という言い方をすれば、神の御心は「時には私たちにとって悪いもの」になります。しかし、単純に考えましょう。病気を持ってきておきながら、それを私たちの成長の為だとするのは本当に神様がやる事なのでしょうか?癒す神が病気を与えるのでしょうか?「神様は私たちに病気を与えて訓練する」という人達でも病院に通ってその病いを取り除こうとします。しかし、そうするなら、彼らは神の御心を取り除こうとしているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ:29:11

神が旧約時代のエレミヤに言った神の計画とは「平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのもの」です。古い契約に生きていたエレミヤに対する神の計画が良いものであるなら、新しい契約の中にいる私たちに対する神様の計画はもっと良いものです。何故なら、私達の新しい契約は古い契約よりも優れているからです。神様は、古い契約にいた人々に対して良い計画があると言いました。当時のイスラエル人は新生を経験していなかったので、神の子ではありませんでした。しかし、私たちはキリストにあって神の子となっています。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12 

神の癒しが神の御心であれば、それは全ての人々へのものです。何故なら、神にはえこひいきはないからです。神の癒しが神の御心であれば、私達に癒しを受取る為の方法を教えて下さる必要があります。神は人がその御心を知る事ができるようにし、そしてその恵みを受け取るようにしなければ、私達にとって何の意味もありません。しかし、神様は良いお方なので聖書を通して御心を知らせて下さいました。

神はその御心が成就されようとする時に、神ご自身が妨げる事はしません。しかし、その邪魔をするのは私たちの敵である悪魔です。敵が⼀番望むのは、人が神の御心を受け取るのを妨げる事です。

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」ヤコブ1:22

神の御心の要約

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」マタイ7:12

「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」マタイ22:35-40

病気に倒れて困っている時に、癒しの為に祈って欲しいと誰でも思います。ですから、信者である私たちは病人の為に手を置いて癒していくという大宣教命令に従います。神が癒す事ができるかを疑う人はいません。クリスチャンは皆、神には問題なく癒す力があると信じています。疑いが生じるのは、癒しが神の御心かどうか確信がない時です。

神の癒しの御心

私たちが知るべき事は、神はいつも病人を癒したいと願っているという事です。救いたいと願っているお方が「癒しは別」と考える事があるでしょうか?その事に矛盾を感じないのは、間違った教理で真理が分からなくなっているからです。

「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心⼀つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ 8:2-3

この箇所の 「心」のギリシャ語は意志を表わす thelo という語です。積極的に~をする事を望むという「意志」を表わす語です。イエス様は、このツァラアトに冒された人に対して癒す意思があると言ったのです。

時には神は病人を癒さないという「例外」を信じている人は、神にしか分からない「特別なケース」があると考えています。しかし、例外的に神が病人を癒さないという事が、実際に起きているのでしょうか?むしろ、癒されるのが例外という程、癒しの数が少ない状況が現実なのです。時々、「癒されない例外」があるよりも、「癒される事が例外」になっている今の現状は、私たちの御言葉に対する正しい理解と信仰が原因なのです。

2021年9月3日金曜日

癒される為にするべき事

人の肉の努力には二つの種類があります。一つは、新しい契約の教えに基づいていない行ないの事で、もう一つは、新しい契約の教えに基づく事を感情的にしてしまう事です。 

「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ 3:3 

 イエス・キリストを信じて生まれ変わった人は、御霊によって新しい人生を歩める事ができます。新しい霊がその人の内に創造された為に、古い契約であるモーセの律法によって生きる必要が無くなりました。新しい人は文字によってではなく、御霊に仕える者です。これが新しい契約の教えです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3:6 

 モーセの律法は信仰の促しがありません。この律法は信仰による義の行いはなく、肉の努力によって自己の義を求めようとします。しかし、キリストが教えた「自由をもたらす完全な律法」は、キリストの義ゆえに信仰によって良い行いをします。クリスチャンは、自己の義ではなくキリストから与えられた義によって良い行いをするのであり、そうする事が可能なのはイエス・キリストを信じて義と認められたからです。

モーセの律法は、キリストを信じないで良い行いを通して義と認められようとする考えに基づきます。しかし、クリスチャンの持つキリストの義の行いは常に信仰に基づいています。何故なら、信者はキリストに対する信仰によって義と認められたからであり、その信仰によって私たちは歩み続ける者だからです。 

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ 1:17 

真理、信仰、戦い

私たちが癒しを体験する為に必要な事は、信仰に立つ事です。そうするには、信じ続ける事が大事です。信じ続けるとは、疑いなどを跳ねのけて戦い続ける事を意味します。誰の言葉にも、どんな状況でもあなたが癒しを信じ続けて諦めずに戦う事が、あなた自身が癒される条件の一つとなります。その理由は主に三つあります。まず、主があなたを既に癒して下さったという真理があるからです。そして、あなたがその事を信じるがゆえに、御言葉の真理があなたを解放するからです。三つ目に、信じるあなたが疑いを持ってくる敵に戦って信仰の戦いにおいて勝利するからです。

従って、キリストの打ち傷によって私たちは癒されるという真理を知る事、その真理を頭ではなく心で信じる事、そして、その信仰に戦いを挑む敵や不安に立ち向かっていく事を通して、私たちは癒しを体験する事ができるのです。

2021年9月2日木曜日

信仰と神の癒し

「信仰による癒しが一度でも失敗するなら、それは神の癒しではない」、或いは、「瞬間的な癒しでないなら、それは神の癒しではない」などの誤解を持っている人もいます。しかし、薬を通して徐々に回復して癒された場合でも、神が癒して下さったと見なして神を褒め称えるクリスチャンは多いものです。ところが、信仰によって病人に手を置いて癒すという方法などに限っては、イエス様が福音書の中でやった様に全く同じ結果を出さなければならない、そうでなければ神の癒しではないという考えに固執している人たちがいます。どうしてでしょうか?

神学的な立場にこだわり過ぎて熱くなっている人たちは、いつの時代にもいるものです。そうした人たちの中には、実際に神の癒しを体験している人はあまりいません。彼らは癒しの体験よりも、むしろ周りに癒されていない人たちを見て来た事が多い為に、御言葉の真理よりも現状ばかりを見て結論付けているのです。必死に祈っても結果が出ない事もあります。しかし、そうした失敗ばかり見て諦める必要はありません。成長を目指している私たちは、その成長の過程で失敗する事はあるでしょう。しかし、圧倒的な勝利者として日々奮闘して歩んで行こうとする姿勢が私たちの持つべき信仰です。

私たちが思い出す必要があるのは、まず神の力は信者の内にあるという事です。(エペソ 3:20、コロサイ 1:29)神の力は各信者の信仰の成長と思考の一新に応じて発揮されます。成長の初期の段階にいる私たちは、信仰による癒しを9割を超える高い確率で見る事はまだ多くはありません。瞬間的な癒しもあったりますが、全てがそうでもありません。そして、私たちは、瞬間的な癒しになるように思考を一新するべきです。私たちが成長の道を進んで行けば、より難しい状況でも大胆に信仰に立って神の栄光を表す事が出来るように(すなわち、癒しが出来るように)なり、その確率も癒しのスピードも良くなってきます。今それが出来ないからといって、そこで諦める必要はありません。

神は、私たちがその域に達するまで成長して大胆に歩む事を望んでいます。従って、今の状況で完璧な癒しを求める必要はありません。成長の途中なのに、100%の癒しの確率を求める信者は、その人自身が無茶な注文をしている事に気づいていません。しかし同時に、キリストにあって何でも出来る私たちは完璧主義の心構えで前進するべきでもあります。常にポジティブに考えて宣言する事は、クリスチャンとしてやるべき事です。例え時々失敗したとしても、常に「癒しが起こる」という信仰で歩むべきです。それとも、完全にキリストの身丈にまで成長していないと、その様に大胆に考えたり口にする事は許されないのでしょうか?

例えば、愛について語るクリスチャンの場合を考えて見ましょう。完全に成長していないクリスチャンでも神の愛を語る必要があります。講壇から神の愛を語る人の中で、イエス様の愛を完全に知っている人はまだいませんが、キリストの愛は絶対である事を伝えるのは私たちクリスチャンの使命です。同じ様に、100%の癒しではないといって、神の癒しに関して否定的に考える必要はありません。信仰の成長に応じた結果が出ているだけであって、神の約束に関して言えば、いつも「キリストの打ち傷」によって癒されるのです。

2021年9月1日水曜日

御言葉による成長:三つの扱い

「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ 4:4 

未信者は、神の口から出る一つ一つの言葉で生きてはいません。信じていない彼らにとっては、御言葉の生きた力を自分のものとする事はできません。しかし、御言葉に沿って歩むクリスチャンなら、肉の糧であるパンだけで生きる事はしません。信者である私たちは、神の言葉によっても生きる者です。ちょうどパンから肉体に対する活力を得る様に、私たちの霊に対する活力は御言葉から得る事ができます。

御言葉を読む

癒しについて聖書が何を言っているか分からないのなら、癒しに対しての正しい信仰を持つ事はできません。信者の歩みは御言葉を読む事から始まります。多くのクリスチャンは専門家の解釈に頼り過ぎていますが、今では原語の意味を調べる事が素人でも出来るようになっています。信者一人一人が、可能な限り自分で読んで何が書かれてあるかを確かめるべきです。何が真理であるか確信を持てない間は、異なる教理に耳を傾ける事も必要だと言えます。

御言葉を学ぶ

聖書の解釈が無数にあっても良いとするのであれば、何をどう信じても構わないとするのです。ところが、真理は一つしかありません。そして、真理は聖書にあるのです。何が複雑にしているかと言えば、無数にある神学論です。多くの神学論は部分的な聖句の引用や文脈を無視した読み方になっていて、旧約聖書と新約聖書をバランスよく取り扱っていません。多くの神学は旧約聖書の視点から考えられていて、新しい契約を忘れているかのようです。

御言葉を正しく学ぶ鍵は、古い契約と新しい契約の相違を明確にする事です。時代別に神の摂理があるという見方ではなく、モーセの律法に基づく古い契約の時代と、キリストの新しい戒めに基づく新しい契約の時代があるだけです。現代でも適応される旧約聖書の聖句は、真理について書かれてある箇所だけです。モーセの律法の視点から書かれてあるものは今日では必要ありません。

御言葉を黙想する

私たちが黙想すべき御言葉は、主に新約聖書からになります。何故なら、私たちが知るべき必要な全ての真理がそこにあるからです。その真理の御言葉によって思考が一新される時に、私たちは多くの問題から解放される事になります。御言葉の黙想とは、真理の御言葉を思い巡らし、口ずさんだり宣言したりする事を指します。御言葉の教えに反する事を考えたり口にするのではなく、神の生きる言葉を発して歩むのが私たちクリスチャンのやるべき事です。