2021年9月20日月曜日

癒しは戦い その1

 「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き10:38 

イエス様は、「悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」とありますから、病気と悪魔には何かの関係がある事は明らかです。霊的な影響で病気になる事も実際あります。従って、私たちが病の癒しを考える時には、常に背後で働く悪魔・悪霊も意識するべきでしょう。多くのクリスチャンは敵を知らないので、「神様が癒して下さらない」という結論になりがちです。

しかし、私たちは神の子としてこの地上を治めて行く働きがあります。それゆえ、神様に何かをしてもらうという子供の考えから卒業して、自らが神の子として自主的に良い事をし始めなければならないのです。クリスチャンがキリストに似た者であるのなら、ちょうどイエス様がやった様に、「巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やす」必要があるのです。私たちがキリストの弟子として歩む事を決断するなら、私たちはキリストと同じ業を行なう事ができます。何故なら、弟子はキリストが弟子たちに教えた全ての事を守る者だからです。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ 28:19-20

「弟子としなさい。」とありますから、ただ「未信者をクリスチャンにしなさい」事とは少し違います。クリスチャンでも、キリストの弟子としての意識で歩んでいない人たちもいます。本来は、全てのキリストの信者はキリストの弟子であるべきですが、残念ながら、その様に一般には教えられていません。しかし、私たち信者は弟子として自身の十字架を背負ってキリストの教えに従うべきなのです。ですから、キリストの弟子として信じている者は、次のような約束を実現できます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ 14:12 

イエス様の行ったわざを行なうとは、どの様なものでしょうか?その一つには、悪魔のわざを打ち破る事です。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第一ヨハネ 3:8 

私たちも悪魔のわざを打ち破る為に、この地上で神の子として歩む事ができるのです。また、その様にする事を神は望んでおられます。そして、悪魔のわざである病気を打ち破る事が私たちの使命なのです。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18

弟子として信じる人々には、キリストがやったわざを行なう事ができるのであって、それはキリストの弟子としてのしるしです。その中には癒しも含まれています。

余談ですが、マルコ 16:9-20 はバチカン写本などの古い写本には無いという事で、それらの節の信頼性が欠けるという神学者の意見があります。「最も古い写本がより原文に近い」とされているからですが、9節から20節まで欠けている写本が「より原文に近くて正確」なはずがありません。「古ければ良い」というのは人間的な考えなのです。

「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」ルカ 5:39 

バチカン写本、シナイ写本などよりも後に発見された多くの写本は、ビザンチン型の写本であり、これらの多くの写本はほぼ一致しています。それから、「写本と原本に違いがある」事も覚えておくべきでしょう。