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2021年7月28日水曜日

癒しとキリストの贖い その3

私たちが知らなければいけない重要な事は、実は神様の癒しは、十字架に掛かる前にキリストが受けた打ち傷よりも遥か前にあったという事です。キリストの打ち傷が病の癒しの唯一の証拠として聖書に記される前の時代でも神の癒しはありました。

旧約時代の癒し

「そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。」創世記 20:17 

アビメレクがアブラハムの祈りを通して癒されたのは、聖書中において最初の癒しの記録なのですが、この時代は律法による古い契約よりも古い時代です。癒し主として神がモーセにご自身の名前を明らかにする以前に、癒しがあったという事です。何故なら、神様の性質は常に同じであって、常に愛のお方、癒すお方(エホバ・ラファ―)だからです。

さて、ここで一度キリストの贖いによる「罪の赦し」も同時に見て行きましょう。

「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ 1:7 

キリストの血による贖いが成されたのはゴルゴダの丘に連れていかれる前だったでしょうか?しかし、イエス様は十字架に掛かる前にも人の罪を赦しています。

「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」マタイ 9:6 

「イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」ルカ 5:20 

イエス様はここで「地上で罪を赦す権威を持っている」と言いました。ゴルゴダの丘でご自身の血を流すという贖いの御業が完了する前に、キリストが人の罪を赦す事ができた最大の理由は、主が罪人を招く為に来たという「罪を赦す御心」を世に示す為でした。同時に、その罪を赦すという恵みを行使する権威を持っている事を、世に明らかにする為でもありました。

十字架の前でも罪の赦しがあったように、打ち傷を受ける前にも癒しがあった事は同じ理由です。主は常に罪を赦し病を癒すお方なのです。イエス様の「罪を赦す御心と病を癒す御心」が十字架の御業に関する預言よりも先立っているのです。つまり、イザヤによる贖いについての預言よりも先だって主の憐みが存在しているのです。

神の癒しの御心

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」エペソ 1:4 

世界の基が据えられる前とは、いつの事だったでしょうか?神様はかつてヨブに聞いた事があります。

「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。」ヨブ記 38:4 

ダビデは次の様に言っています。

「あなたは、はるか昔に地の基を据えられました。天もあなたの御手のわざです。」詩編 102:25 

遥か昔に地の基(世界の基)を据えられた神様は、「世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」とパウロは言っています。神が地の基を据えた後にアダムとエバを創造したとするなら、神は人間の創造や悪魔の誘惑よりも前に贖いの計画(罪の赦しと病の癒しの計画)を持っていた事が分かります。

では、神の御心が常に人の罪を赦し人の病を癒すのであれば、何が障害となっているのでしょうか?その答えをこのブログの中から見つけて下さい。

2021年7月27日火曜日

癒しとキリストの贖い その2

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

上の聖句とイザヤ書の関連性を認めても、使徒マタイが意味したイザヤの預言の成就は、必ずしも今日のクリスチャンが癒される事はないという解釈が二つあります。一体どういう事なのでしょう?

その主張は、「キリストが十字架に掛かる前に人々を癒し、その時、その瞬間にイザヤの預言が成就したとマタイは言ったのだ」という事を土台に置いています。従って、その後にキリストが十字架の刑に処せられた贖いとは違う、それ故に、キリストの贖いに癒しは含まれないとする主張です。

しかし、この主張が通るなら、イエス様が十字架に掛かる前に人々の罪を赦したという事実から、罪の赦しはその時にあっただけで、今日は通用しないという事にもなってしまいます。

もう一つの解釈は、癒しが贖いにあって、今日のクリスチャンが癒される事があったとしても、神様の御心は全ての人を癒すとは限らないとするものです。これら二つの誤解を解くには、神の御心について聖書から説明しなければなりません。しかしその説明とは、「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」という引用を持って、「神の癒しの御心は分からない」と結論付ける私的解釈によるものではありません。

個人的な体験や五感からくる情報だけで判断するのではなく、神様の御心は聖書から判断するべきです。この場合、特に新約聖書を中心に学ぶ必要があります。何故なら、神は新しい契約の中により優れた真理を私たちに知らせたからです。

2021年7月25日日曜日

癒しとキリストの贖い その1

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書 53:5 

キリストの贖いと言えばイザヤ書です。この預言書にはイエス・キリストの贖いについての描写が沢山あります。上の聖句で明らかな様に、主ご自身が受けた打ち傷によって、私たちは「体の癒し」という恵みを体験できます。この箇所は、「霊的な解釈」による「霊的な癒し」ではありません。

七十人訳で見ると、ギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)という語が使われています。何故七十人訳で見るかと言えば、同じ単語が新約聖書にも頻出し、新約聖書との見比べによってこの単語の意味がヘブル語よりも分かりやすいからです。七十人訳の権威に関して言えば、イエス様も弟子たちも引用したという事から考えれば、決して軽視はできないでしょう。

さて、 ἰάομαι(iaomai)は身体的な癒しという意味でよく使われているので、素直に読めば「霊的な癒し」などの解釈には至りません。何故その様な解釈が存在するかと言えば、神は気まぐれな御心によって人を癒すという誤解があるからです。「神はいつ人を癒すかどうか分からない」という事を絶対的前提にしてイザヤ書 53:5 や第一ペテロ 2:24 を読めば、その偏見ゆえに、「ここは解釈して理解するべき」という考えを生み出してしまうでしょう。

それでは、「霊的な癒し」が「罪の赦し」という意味だという主張についてはどうでしょうか?

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

イザヤ書の次の箇所からマタイは引用したのですが、注意したいのは「完全コピー」という意味での引用ではありません。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:4 

新約聖書の中に見られる旧約聖書からの引用は、ほぼ全てにおいて節全体の完全コピーとはなっていません。イエス様でも、一部分だけを引用した事は何回もありました。この理解は非常に重要です。

さて、使徒マタイはイエス様が人々を癒された事を見たという証しの目的で自ら福音書を書いているだけでなく、イエス様の癒しはイザヤ書の預言の言葉(イザヤ 53:4)の成就だったとしています。この時、マタイは「病を負った」と書きましたが、「病」のギリシャ語は νόσος(nosos)です。新約聖書中、この単語は病気が癒されたケースでよく用いられています。つまり、νόσος(nosos)は病気が癒されたケースの記録として新約聖書に出てきているのです。

ですから、この単語は病気として訳されるのが通常であり、素直に読めば「キリストが病気を背負った」という事です。使徒マタイがイザヤ 53:4 の預言(贖いの預言)が成就したと言っている以上、キリストが私たちの病気を背負った事と贖いは関連しているという事、つまり、癒しと贖いには深い関係があるという事です。