キリストの贖いと言えばイザヤ書です。この預言書にはイエス・キリストの贖いについての描写が沢山あります。上の聖句で明らかな様に、主ご自身が受けた打ち傷によって、私たちは「体の癒し」という恵みを体験できます。この箇所は、「霊的な解釈」による「霊的な癒し」ではありません。
七十人訳で見ると、ギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)という語が使われています。何故七十人訳で見るかと言えば、同じ単語が新約聖書にも頻出し、新約聖書との見比べによってこの単語の意味がヘブル語よりも分かりやすいからです。七十人訳の権威に関して言えば、イエス様も弟子たちも引用したという事から考えれば、決して軽視はできないでしょう。
さて、 ἰάομαι(iaomai)は身体的な癒しという意味でよく使われているので、素直に読めば「霊的な癒し」などの解釈には至りません。何故その様な解釈が存在するかと言えば、神は気まぐれな御心によって人を癒すという誤解があるからです。「神はいつ人を癒すかどうか分からない」という事を絶対的前提にしてイザヤ書 53:5 や第一ペテロ 2:24 を読めば、その偏見ゆえに、「ここは解釈して理解するべき」という考えを生み出してしまうでしょう。
それでは、「霊的な癒し」が「罪の赦し」という意味だという主張についてはどうでしょうか?
「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17
イザヤ書の次の箇所からマタイは引用したのですが、注意したいのは「完全コピー」という意味での引用ではありません。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:4
新約聖書の中に見られる旧約聖書からの引用は、ほぼ全てにおいて節全体の完全コピーとはなっていません。イエス様でも、一部分だけを引用した事は何回もありました。この理解は非常に重要です。
さて、使徒マタイはイエス様が人々を癒された事を見たという証しの目的で自ら福音書を書いているだけでなく、イエス様の癒しはイザヤ書の預言の言葉(イザヤ 53:4)の成就だったとしています。この時、マタイは「病を負った」と書きましたが、「病」のギリシャ語は νόσος(nosos)です。新約聖書中、この単語は病気が癒されたケースでよく用いられています。つまり、νόσος(nosos)は病気が癒されたケースの記録として新約聖書に出てきているのです。
ですから、この単語は病気として訳されるのが通常であり、素直に読めば「キリストが病気を背負った」という事です。使徒マタイがイザヤ 53:4 の預言(贖いの預言)が成就したと言っている以上、キリストが私たちの病気を背負った事と贖いは関連しているという事、つまり、癒しと贖いには深い関係があるという事です。