2021年8月30日月曜日

癒しはキリストの贖いにある その3

パウロによる理解

パウロは癒しについてどう理解していたのでしょうか?実は、使徒たちの手紙の中で癒しについて書かれている箇所は僅かです。多くの書簡を書いたパウロでさえ、キリストの癒しの真理に関して書いてあるのはコリントの手紙くらいです。

「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:27-30

ここは、聖餐式に関してパウロがコリントの信者に注意した箇所です。パンとぶどう酒がキリストの十字架を象徴しているのは明らかです。これらをよく理解しないで単なる飲み食いにしてしまうなら、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とパウロは言っています。

29節の「キリストのからだ」をわきまえないで飲み食いする事が原因で、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とパウロは言っています。何故キリストの「血」ではなく「からだ」をわきまえない事が、病人が多くなった原因だとしているのでしょうか?それは、キリストのからだが受けた打ち傷によって私たちが癒やされるという約束があるからです。キリストはご自身の体に打ち傷を受けて私たちの病を背負ったのです。

正餐式はキリストの十字架の贖いの象徴です。キリストの血による罪の赦しを理解せずに、その恩恵を受け取る事はできません。同様に、キリストが何故ご自身の体を捧げて打ち傷を受けたのかをよく理解せずにパンを食べるなら、私たちは癒しの恩恵を受る事ができないのです。これらを信仰によって行うなら私たちは祝福を受け取る事ができるのですが、単なる飲み食いにするなら何の恩恵もないという事なのです。

新約聖書の使徒たちが書いた書物によれば、贖いの一部としてキリストは病を背負ったのであり、打ち傷として受けたという預言の成就であり、そしてそれは現代でも聖餐式を通して受けられる神の祝福なのです。

2021年8月29日日曜日

癒しはキリストの贖いにある その2

病の癒しが贖いに含まれないとする神学は、信じても癒されないという現実を土台にしてその主張をサポートする聖句のみを選んで聖書を解釈しています。そして、癒されているケースに関しては、神の気まぐれな御心は何でも無効にするという解釈で丸く収めようとします。

確かに、癒しを信じているような人でも癒されていない現状はあります。しかし、肉の目に見える現状と真理を語る御言葉は全く違うものです。また、実際に信じているかどうかを良く見てみると、おかしな土台に基づいた信仰になっているケースが殆どです。もう一つ鍵となるのが、敵の攻撃として病がもたらされる事が関わっている点です。これらを総合的に見ないと、私たちは病の癒しを見る事は難しいでしょう。

ここでは、新約聖書が病の癒しはキリストの贖いに含まれる事を示しているかどうかに視点を合せたいと思います。何故なら、旧約聖書の書物の著者たちは聖霊による新生の体験が無いので神の子ではなかった事、そしてキリストによる新しい契約の奥義などを知らずに書いている為に、多くの真理を部分的にしか知る事が無かったからです。

マタイの引用

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

マタイはイザヤ書 53:4 の一部を引用して「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」と言いました。しかし、一部の神学によると、使徒マタイの意味する預言の成就はイエス様が十字架に掛かる前に病人を癒した時なので、キリストの贖いに癒しは含まれないとするものがあります。しかし、預言の成就は現在も進行しているのであって、罪の赦しと同様に病の癒しはキリストによる贖いによって明らかにされた真理なのです。真理は普遍であり神の御心と性質を示す永遠の事柄です。聖霊の力による癒しは「使徒たちの時代に終わった」のでもなく、「現代医学に取って代わった」という事でもありません。実際に、聖霊の働きは現在でもありますし、現代医学では癒せない病気が沢山あるのが現状です。

ペテロの引用

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

この節の前半は罪の赦しがあり、その後半には病の癒しの真理が書かれています。ある神学によれば、前半が罪の赦しについて言及している為に、打ち傷による癒しは罪の赦しを意味すると解釈しています。しかし、罪は癒されるのではなく赦されるのです。「癒された」の訳になっている単語をギリシャ語でみると ἰάομαι が使われています。これは病気などの癒しを意味するものであり新約聖書に28回出てきます。第一ペテロ 2:24 では「罪の赦し」という意味でペテロが書いたのでしょうか?

この節でペテロが言っているのは、罪の赦しと病の癒しが贖いにあるという真理なのです。キリストの贖いは罪の赦しだけではありません。ペテロは、罪の赦しに関してはイザヤの預言を理解して書いています。病の癒しに関しての預言は直接イザヤ 53:5 の後半を部分的に引用しています。ペテロは、罪の赦しと病の癒しがキリストの贖いあるとして、この節でまとめたのです。

2021年8月28日土曜日

癒しはキリストの贖いにある その1

「肉体の癒しはキリストの贖いに含まれないと言う学者がいるとするなら、その人はギリシャ語の学者ではないか、或いは、嘘をついている。」T. J. マックローサン

マックローサン博士は著名な牧師であり、作家、聖書の教師、そして大学でギリシャ語とヘブライ語を教えていた学者としても高く評価されていた人です。彼の書いた本、Bodily Healing and the Atonement の中にクリスチャンがキリストの贖いの中に癒しがある事を信じるべき6つの理由を挙げています。この本の中にも、癒しについての正しい理解に至る幾つかの重要な鍵を見つける事ができます。

理由①

「神は病人を癒した事があり、神は永遠に変わらないお方であるから。」

過去に起きた一つの癒しは、現代の私たちにも当てはまるとマックローサン博士は言います。何故なら、主が良いお方であるという真理が永遠に変わらないからだという事です。

理由②

「キリストは私たちの罪だけでなく、病をも贖って下さったから。」

マックローサン博士は、イザヤ書、マタイ、ペテロの手紙からの聖句を用いてその理由に触れます。解説は主に、へブル語とギリシャ語の原語からのもので、それによればキリストが私たちの病を背負ったという事です。この理解についてマックローサン博士は、アンドリュー・マーレ―の言葉からも引用して彼だけの考えではないとしています。

「主の義なるしもべが私たちの罪を負っただけでなく、私たちの病気も負って下さった。従って、私たちの罪を負い、私たちの病気を負う主は、贖い主の御業の不可欠な部分を形成しています。…体と魂は神の住まいとして一緒に役立つために創造されたのです。肉体の病的な状態は、魂の状態と同様に罪の結果であり、それはイエスが耐え、償い、征服する事になったのです。」アンドリュー・マーレ― (Divine Healing, pages 99 and 119)

理由③

「病は悪魔の仕業であるから」

使徒の働き 10:38 の引用により、病を悪の仕業だと説明しています。

理由④

「聖霊が教会におられるから」

キリストの上に臨んだ同じ癒しの聖霊の力が、今は教会である私たちクリスチャンの内に住んでおられるので、私たちは癒しを大いに期待できるとマックローサン博士は言います。

理由⑤

「キリストの病の贖いは今日の私たちにも適応されるから。」

マックローサン博士は癒しがマルコ16章にあるキリストの宣教命令の一部である事を説明しています。

理由⑥

「主の素晴らしい約束だから」

主が病を癒して下さるという御言葉の約束についてマックローサン博士は、イエス様が「祈って求める事は何でも」の中に含まれるとします。つまり、私たちが病の癒しが必要な時は、それを求めても良いと主が約束されている事、そして癒しの約束を私たちは信じるべきだとしています。

2021年8月27日金曜日

癒される可能性を見る

癒しを幾らか体験した人でも、今しばらくの間は、信仰によってあらゆる病人・病気の癒し(100%の癒し)を見る事はまだないでしょう。それは、私たち神の子がまだ十分に成長していないからです。しかし、今の状況でも癒される可能性があるのなら、そこに目を向けるべきです。癒されないケースを見て諦めるのは、信者として正しい態度ではありません。イエス・キリストを主として歩む人なら、よりポジティブに考えて生きる事ができるはずです。

ある人たちは、癒しに関してとても否定的に見ています。癒されなかったケースばかりを見て、信仰の戦いを通らずに諦めるのは本来のクリスチャンの姿ではありません。むしろ、クリスチャンであるなら例え僅かなチャンスで癒されるとしても、前向きに行動するべきでしょう。小さなチャンスをものにする未信者の様々な努力を私たちも見習うべきです。何でも直ぐに諦めてしまうクリスチャンは、未信者に対して良い証しをしていません。

諦めるのが早すぎるクリスチャンが多いのは、「神の主権」に関する誤解が蔓延しているからでしょう。病や死に関しての努力は必要ないという考えは、それらに打ち勝ったイエス様の姿とは逆のものです。私たちはキリストに似た者として、圧倒的な勝利者として歩む様に考えを一新しなければなりません。思考の一新によって私たちが神の子として歩み成長して行く程、信仰による癒しがより多く見られるようになります。

一度だけの祈りで諦めるのではなく、癒しが見られるまでやり続けるのが信仰の祈りです。それは、疑いを持ちながらの祈りではありません。希望の祈りでもありません。信仰によって主の御心の通りに癒される事を信じて疑わない祈りです。その時に私たちは山を動かす事ができます。敵もしつこく攻撃しますが、私たちは勝てる戦いを直ぐに諦める必要はありません。主の御心は私たちがあらゆる束縛から解放される事なのです。病は神からのものではありません。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

私たちに必要な見方・考え方は、癒しは敵との闘いであるという事です。病と病をもたらす存在がいる事を知らずにいると諦めるしかないのですが、私たちは聖書が教えている癒しの真理を正しく知って自由になる事もできるのです。神様次第で病人の生死が決まるのではなく、地上の事柄を任された私たち神の子がその生死を決定できるのです。諦めて弱音を吐いてその通りの結果を見るか信仰によって難しい状況を動かすかは、神ではなく私たちの言葉と考えがそれらを決定するのです。

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」箴言 18:21 

2021年8月26日木曜日

癒しと神の主権 その3

人は自分で悪い種を蒔いて刈り取っている事が多々あります。その様にして健康を失う事が確かにあります。しかし、本来は存在していなかった病気が存在する様になったのは、サタンが原因なのです。病気は神の創造には含まれていません。もちろん、そのサタンに同意して罪を犯した人間にも責任が問われます。その責任を認識させる為に、神はモーセの律法をもたらしたのです。人間は自分自身の犯した罪について認識する必要はありました。そして、律法が要求する刑罰は呪いとも呼ばれていて、その中には病気も含まれていました。しかし、それは旧約時代の古い契約の時であって、神はついに恵みによる救いの道をイエス・キリストを通して示されたのです。

新しい契約の視点

新しい契約に入ってからは、罪も病気もイエス・キリストの十字架の御業によって取り除かれました。今私たち人間のするべき事とは、イエス・キリストの御業を信じて罪の赦しと病の癒しの恵みを受けて、新しい霊として生まれ変わる事なのです。この十字架による恵みの現れは神の御心の現れであって、人がその恵みを受け取る事を神は望んでおられます。旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。

古い契約の視点

申命記28章4節によれば病気は呪いとして扱われていますが、その呪いは神からのものではなく人間自身の罪が原因でした。罪ゆえに律法の刑罰がありました。従って、罪が原因となって病が入り込んだのは間違いありません。アダムの違反のゆえに病が入り込んだのは間違いないのです。従って、誘惑したサタンとその誘惑に負けたアダムが病をもたらしたと言えます。サタンは病気という形の悪をもたらそうとしたのであり、アダムはそれをウェルカムしてしまったのです。神はサタンの罪にも人の罪に対しても責任はありません。むしろ、義を持ってサタンを裁き、恵みを持って人に救いの道を与えました。しかし、それらの真理が示されたのはイエス・キリストによってであり、古い契約の時代にはその真理の大部分は隠されていたのです。

神の性質

古い契約の時代の神は冷酷であったと思う人は多いでしょう。しかし、主はとこしえに恵み深いお方で常に良いお方です。この真理を人間が知らなかっただけです。そして、その真理を伝える為にイエス様が天から来られました。イエス・キリストの贖いの為に、父なる神は人の罪に対して怒って罪の責任を問う事はもうありません。赦しという恵みと癒しという恵みが新しい契約に示されているのです。

しかし、人は罪を通して悪い種を刈り取ってしまう事があります。神はイエス・キリストによって人の罪自体を赦していますが、その人自身が罪を犯す事によって周りの人に迷惑をかけた場合は、責任を取らなければいけない事や自分自身に対して害(病気を含む)を受ける事もあります。これは種まきの法則です。しかし、主を求める人には、ご自身の恵みによってそれらの問題に対する解決策をもお示しになります。

新しい契約の下では、主の介入は常に人に良い事をもたらします。決して災いをもたらす事ではありません。人の罪に対して主の裁きという介入があるのではなく、人が主の助けを求める時や主に信頼を置く時に恵みという主の介入があるのです。従って、病気を試練と考えて神様からのものだとしてはいけません。

真理が人を解放する

病気や人の死を通して私たちは何かを学ぶ事もあるかもしれませんが、病気や人の死そのものが何かを教えるのではありません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何かを学ぶ時というのは聖書の真理を学ぶ時であって、それを聞いて知った時なのです。

ですから、困難な経験を通らなくても私たちは常に聖書から真理を学ぶ事が出来るのです。人がつらい経験を通るのは主がそれを持ってくるからではなく、サタンからの攻撃にあっているケースが殆どです。それ以外のケースでは自分で蒔いた種を刈り取っているだけなのです。霊的な歩みを心掛けず主との交わりの外に出てしまうと、あらゆる困難に会う事になるでしょう。父なる神様はその主権を乱用して病気を持ってくる事をしません。それを「試練」と呼ぶのは私たち人間の浅はかな考えです。主を知らないからそう言ってしまうのです。そして、サタンである敵を知らない為に全ての災いも神からとするのです。

2021年8月23日月曜日

癒しと神の主権 その2

ヨブは、神は人に命を与えその命を取ると考えました。しかし、神はご自身の主権を用いて人の命を取る為に働かせてはいません。主は確かに全てに対して権威を持っていますが、主の権威は命を与える為のものです。ご自身が主である事を示す為に主がなさる事は、全て誰から見ても正しくて良い事なのです。病気が神からのものだとするのなら、悪魔は義であるという考えと同じくらい矛盾しているのです。

地上は人に

神は、地上に関する多くの事を人間に任せています。主の介入は時々ありますが、主は地上での多くの事を人に委ねているのです。

「天は 主の天。 地は 主が人の子らに与えられた。」詩篇 115:16 

人は自分の命に対してでさえも、それをどうするか自由意志を与えられているのです。アダムもその選択を与えられました。自分勝手な道を進むのなら、人はその命を落としてしまいます。人が命を保つには、主の導きの中においてのみ成功を収めます。

「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」エレミヤ書 10:23

神様は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に親しい交わりの中で生きていく為です。しかも、親と子の関係を持って私たちと歩みたいと望んでおられるのです。そうした交わりの中に私たちが留まるのなら、全ては上手く行きます。ですから、私たちの周りにある問題は、私たちが神様との交わりから離れた事によって起こっているのです。同時に、悪魔という悪者の存在を忘れてはいけません。この敵が全ての悪事を働いていて、地上を破壊しているのです。しかし、この混沌とした地上を私たちが治めるようにと神様は私たちに託しているのです。

悪魔の存在

クリスチャンが神の主権に対して誤解を持っているもう一つの原因は、悪魔の存在をあまり知らない事にあります。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7

この個所から明らかなように、神と悪魔は対立の関係にあります。私たちはしっかりと知っておく必要があります。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もあるという事です。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があります。「神様が全てをコントロールしているから、全ての物事はなるようになる」という考えは間違っています。神のなさる素晴らしい事と、悪魔のする悪事は全く違います。悪魔のする事とは、次の箇所から明らかです。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ 10:10 

サタンは病気を持ってきて人の健康を盗み、殺したり滅ぼしたりします。もし、神が病を通して病人に何かを教えているとすれば、その病人は病院に行ってその病気を取り除くような事はしない方が正しい事になります。何故なら、病気を取り除こうとするのは神様の計画に反抗している事になるからです。神の主権について誤解を持っていると、病気でさえも神様からのものと考えてしまうでしょう。「病という試練」を通して何かを学ばされていると言いながら、必死にその病気からの回復を願っているクリスチャンは大勢います。彼らは自分たちが矛盾しているという事に気付いていません。その矛盾に気付かない信者を見て、未信者もまた違和感を感じているのです。

「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」イザヤ 5:20 

「病気という悪いもの」が神様から来ているとする考えは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。もし、クリスチャンが神様は病気をもたらす事もあると言うなら、どうして同時にイエス様は癒し主と言えるのでしょう?福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、時には病気によって罰を与えるのでしょうか?確かにモーセの律法の下では、病などを呪いと呼ばれていた事はありました。しかし今はモーセの律法から解放されて恵みの時に入ったのです。

2021年8月22日日曜日

癒しと神の主権 その1

神様の絶対的権力とその御心は、地上で起きている全ての詳細に及ぶという考えは間違いです。神は御心のままに良い事も悪い事も全てをコントロールしているという訳ではありません。神様がサタンさえも操っているという教えはヨブ記を誤解して読んでいるだけであって、真理ではありません。もし、神様が全ての事についてコントロールしているのならば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。カルヴァン主義の影響ではなくとも、人の自由意志を否定し神様の主権だけが存在しているという考えは、諸教会で大きな混乱を招いています。

あらゆる地上で起きている悪は、神様の許可の下に起きているという教えを聞く人々は、その多くが希望を失っています。全ては神の御手にあり、私たちの信仰とは無関係に事が起きるとすれば、神を信じるという意味がどこにあるのでしょう?信じる事が私たちの自由意志によるのではないなら、神様は私たちをコントロールして信者を作り出している事になります。これなら宣教の意味もありませんし、イエス様の十字架の意味もありません。

神様が全てをコントロールしているというのが真理であるなら、地上で起きている事は全て私たちとは関係がないという事になります。「神様は全知全能だから神の御心だけが行われ、全ては御心のままに事が起こる」という考えは間違いです。神の御心に背いた人は大勢います。神様は背く人々の自由意志をコントロールしていません。その事と神が全知全能である事とは別なのです。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」第二ペテロ 3:9

私たちの主は誰一人として滅びるのを望んでいません。全ての人の救いを望んでいます。ところが、人がキリストを信じて救くわれるという福音の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっている訳ではないのです。主の御心とは別に人間の自由意志によって自らの滅びが決定されるのです。人が救いに至る場合は主の御心の通りに事が起きていますが、そこでも人の自由意志が働いています。究極の選択ですら人の自由意志次第なのですから、その他の事は尚更人の思いのままに決断する事ができます。実際、人が決めて行なった多くの結果を私たちは見ているのです。

主の介入

祈りなどによって主の介入はあるでしょう。主が介入する時には、良い事が起きます。全ての悪事はサタンからです。しかし、私たちがする多くの事は私たち自身がそれを決定して行っているだけなのです。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができます。ある意味、人の自由意志は神の御心よりも強いのです。その自由意志は神様によってコントロールされていません。神様が私たちに正しい道を選ぶようにしているのは、私たちの自由意志を尊重している証拠です。神様が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは人間の高ぶりから来るものです。

イエス様の十字架の御業は恵みですが、一人一人が信仰によってその恵みを受け取って救いを得るのです。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に救われる事になるのではなく、恵みと信仰が一緒になる時に救いがもたらされます。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル 4:2

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

恵みは神からのものです。信仰は私たちのイエスキリストの恵みに対する正しい応答です。神様に対する私たちの間違った応答は、全て恵みを軽視する行為なのです。

ヨブ記の誤解

全ての禍や災難、病気、死も神様がコントロールしているという考えを持つクリスチャンは、その多くがヨブ記の内容を誤解している事が原因となっています。「神がサタンに許可を与えている」という考えは、神の定義自体を根本的に見直す必要があります。その様な事をする神は本当の神ではなく、まさにサタンでしかありません。実際、神とサタンの区別がつかないような教えは悪魔的です。聖書の示している神は愛の神です。悪と善は両方とも神からのものだとしたら、神様の性質そのものが矛盾している事になり、そう教えている聖書も矛盾しており、それはもはや真理という定義になりません。

誤解の大きな原因の一つは、旧約聖書の示している僅かな真理と新約聖書で明らかになった全ての真理の違いに気付いていない事です。主は旧約時代においては、多くの真理を明らかにしていません。真理はイエス・キリストによって実現したのであり、イエス・キリストが示した教えこそが真理であり、イエス・キリストご自身が真理なのです。モーセの律法がまだ有効であった時代には、キリストの真理が明らかになっておらず、それはまた、神についての真理が明らかになっていない事なのです。従って、旧約時代の神は人の目には「愛の神」には見えない事もあるのです。

2021年8月21日土曜日

神の癒しと薬

神の力による癒しは医学による薬よりも遥かに優れています。神の癒しは超自然的で霊的です。それは神の力によるものであり、イエス・キリストを信じる人々に伴うしるしでもあります。神の癒しはキリストの弟子たちを通してもありました。もし、私たちがその弟子たちと同じような信仰の歩みをするなら、同じ神の癒しを体験する事になるでしょう。

その一方で、医学の進歩による現代の医療や薬の恩恵は大いにあります。私たちクリスチャンは医者や薬を否定するべきではありません。しかし、御言葉よりもそれらに信仰を置いて歩むべきでもありません。御言葉が私たちにとっての薬なのです。私たちは主を第一として生きるべきです。

様々な治療や薬の素晴らしい点は、それらによって多くの人々が少しでも痛みから解放される所にあります。また、薬による症状の抑制が働いている間に神が人の体に備えて下さった治癒力によって回復が促され、場合によっては命を伸ばす結果にも繋がります。そうして人々がより長く生きるなら、それだけ福音を聞くチャンスがあるのです。

信者としての歩み

キリストに従って歩む事とは、主日礼拝を欠かさないという事を超えるものです。単に神学校を卒業する事でもなく、献身者として地域教会で熱心に働く事以上のものです。それは、自らの成長の目標をキリストの身丈に置き、神の子として地上を治める生き方です。私たちがまだ成長している段階では、薬や治療の助けを賢く利用するべきでしょう。しかし、私たちは霊的に成長して行く中で医者や薬に頼らない生き方に辿り着くべきです。私たちの目指す所は御霊の命を表す歩みであるべきだからです。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

薬との付き合い方

医学がもたらす薬や治療は、私たちの体に大きな副作用や負担をもたらすものは避けるべきでしょう。人類が多くの病気を克服できた背景には神の恵みがあります。主は人々が福音を聞くチャンスがある前にも、少しでも苦しみや痛みから解放される事を望んでいます。ですから、主は研究者が神の知恵に気付くように働かれ、多くの病気に対する様々な救急処置を与えているのです。

しかし、神の癒しを知らずにただ医学による薬を通して人が回復する事は主の最善策ではありません。主が望んでおられる癒しとは、人がキリストの受けた打ち傷によって癒されるという信仰を通して働かれるものです。この癒しは完全な癒しです。しかし、人が神の癒しを受け取る事ができない状況においては、薬によって症状を抑える手段は必要です。

ですから、薬を利用する事は悪い事ではありません。そして、リスクの少ないものを優先的に賢く利用するべきです。リスクの大きい治療程、より神様の御心に遠い方法だからです。何故なら、主は私たちの体が総合的に健やかに保たれる事を望んでおられるからです。症状や痛みの緩和よりも副作用のリスクや犠牲が大きい治療法などは、本末転倒的なものであり、そういう類のものは主の御心に反しています。

大きなリスクを負う以外に対応できない病気などは、多くの場合、神の力によってのみ癒される類のものです。未信者の研究者が神の啓示にまだ気づいていない間は、神の癒しを最優先させるべきです。リスクが低く効果的に症状を抑える薬は、これからも発見されていくでしょう。しかし、基本的に薬は症状を抑える働きだけであり、後は神の創造した治癒力が人を回復させるのです。ただし、その治癒力で全ての病気が治る訳ではありません。敵のより大きな攻撃に対処するには、神の力に頼るしかないのです。そして、神の力による癒しには限界がありません。全ての病は主の打ち傷ゆえに癒されるのです。

2021年8月20日金曜日

病気の時に読む聖書の言葉 ヨハネの福音書

ヨハネの福音書

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ 4:46-50

「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」ヨハネ 5:5-11

「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」ヨハネ 11:32-45

2021年8月19日木曜日

病気の時に読む聖書の言葉 ルカの福音書

ルカの福音書

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、」ルカ 4:18 

「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」ルカ 4:40 

「しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。」ルカ 5:15 

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。」5:17-18 

「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」ルカ 5:24-26

「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」ルカ 6:17-18

「時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。」ルカ 7:3-10

「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」ルカ 7:12-15

「イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」ルカ 7:22 

「そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。」ルカ 8:43-47

「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。」ルカ 9:1-2

「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」 ルカ 9:6 

「ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。」ルカ 9:11 

「その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。」ルカ 9:42 

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。」ルカ 13:10-13

「ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。」ルカ 14:1-4

「ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカ 17:12-19

2021年8月18日水曜日

病気の時に読む聖書の言葉 マルコの福音書

マルコの福音書

「イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。」マルコ 1:34 

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」マルコ 1:40-42

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ 3:10 

「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」マルコ 3:14-15

「イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」マルコ 5:34 

「そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ 5:41-42

「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」マルコ 6:7 

「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:15-18

2021年8月17日火曜日

病気の時に読む聖書の言葉 マタイの福音書

マタイの福音書

イエス様は癒しを求めて来た人を皆癒されました。癒されなかった人は一人もいませんでした。

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 4:23-24

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」マタイ 9:35 

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」マタイ 10:1 

「 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」マタイ 10:7-8

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」マタイ 12:15 

「そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。」マタイ 12:22 

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。」マタイ 14:14 

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。」マタイ 15:28 

「すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 15:30 

「すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。」マタイ 19:2 

「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」マタイ 20:34 

「また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 21:14

2021年8月15日日曜日

病気の時に読む聖書の言葉 旧約聖書

旧約聖書

「そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。」創世記 20:17 

旧約聖書における最初の癒しの箇所です。癒しに関する記録が少ない旧約聖書ですが、信仰の父であるアブラハムの信仰による祈りを通して異邦人が癒された事例がありました。同じ異邦人であるナアマン将軍も、旧約時代に癒された数少ない一人でした。

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」第二列王記 5:14 

ナアマン将軍はツァラトから解放されました。ここでも、信仰によって歩んでいたエリシャを通して癒されました。

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:3-5

イザヤの預言はキリストの贖いについての描写が他の書よりも優れています。私たちの主が苦しみを受けたのは、私たちが癒される為です。

「そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」出エジプト 15:26 

主ご自身が「癒す者」だとおっしゃいました。病を持ってきて「試練」とするお方ではなく、病を癒すお方なのです。

「主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし」詩篇 103:3 

主は、私たちの全ての咎を赦し、全ての病を癒すお方です。

「主はみことばを送って彼らを癒やし 滅びの穴から彼らを助け出された。」詩篇 107:20

父なる神は、御子(御言葉)を送って癒されたのです。

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」イザヤ 61:1 

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に主の宮に上る。」第二列王記 20:5 

「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」マラキ 4:2 

2021年8月14日土曜日

新約聖書と癒し 

より正確な聖書の理解に必要な鍵が二つあります。それは、聖書を読む時に、書かれてある内容が真理についてかどうかを知る事です。旧約聖書でも新約聖書でも、真理について書かれているものは現代の私たちにも適応されます。もう一つの鍵は、突き詰めて言えば先の一つと同じ事なのですが、別の言い方で言いましょう。それは、書かれている御言葉が新しい契約の下にいる現代の私たちにも適応されるかどうかを見る事です。

古い契約は現代の私たちには必要ありません。イエス・キリストによってもたらされた新しい契約は、より優れた契約だからです。従って、古い契約に基づいた考え方は全て必要のないものなのです。逆に、新しい契約に基づいた考え方は、現代の私たちが模範とするべきものです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13 

真理

御言葉を読む時にはいつでも、真理に注目する事が大切です。神の摂理は時代ごとに違うという神学のフィルターによって読むのではありません。真理を知らずにしてただ読むのなら、私たちはパリサイ人・律法学者になってしまうのです。真理は変わる事がないものであり、物事の本質を捉えているので、そこに焦点を合わせて聖書を読むべきです。癒しに関する御言葉の真理について言うなら、神様はどの時代においても癒し主でおられ、どんな病人に対しても癒す御心を持っているという見方が真理なのです。忘れてはいけません。主はご自分を捕えようとした者さえ癒す憐れみ深いお方なのです。

同じ御言葉でも古い契約の内容に関わるものは私たちにとって必要ないのですが、そうだからと言って旧約聖書は現代のクリスチャンに必要ないという事ではありません。何故なら、旧約聖書の中にも真理について書かれている箇所があるからです。真理は普遍であり、どの時代においても適応されるものだからです。真理は神様の性質に基づいていて、昔も今も変わらないものです。ちょうど、神様の愛と同じです。主の愛は天地の創造の前からも、旧約時代全体を通して、そして今の時代と後に来る時代においても永遠に変わらないアガペーの愛なのです。

その愛のお方が癒しに関して言っている事は普遍であり、変わる事がありません。どの時代にも神の癒しの恵みはあります。何故なら、どの時代にも神の愛は変わらないからです。不安定なのは人間の方であり、神の言葉に忠実でいられない不信仰な者は私たちなのです。

「わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」箴言 4:20-22 

2021年8月13日金曜日

癒しに関する聖書の重要な言葉

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ 53:3-4

私たちの病を負ったのは誰でしょうか?使徒マタイはキリストの贖いについて書いてあるイザヤの箇所を知っていて、次の様に書いています。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

キリストの贖いの業はイザヤによって預言され、イエス・キリストによって成就されました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:4-5

「私たちの咎の為に砕かれた」とあるように、ここでは私たちの罪について言及しています。また、どの様にしてイエス様が病を背負ったか詳しく書かれてあります。それは、受けた打ち傷としてです。キリストの受けた打ち傷ゆえに私たちは癒されるのです。イザヤのこれらの聖句は、イエス・キリストが私たちの罪と病の両方を背負った事を示しているのです。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

ペテロもキリストが「罪を負われた事」と「病を負われた事」の二つの真理を書いています。この個所は罪だけを取り扱っているのだという間違った解釈がありますが、ペテロはその両方を一つにまとめてあります。ペテロはイザヤ書の聖句に従って、二つの真理を含めているのです。

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:29-30

「そのため」とは何を指しているのでしょうか?パウロは、キリストのみからだをわきまえないで食べたり飲んだりするために、コリントの人たちの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいると言ったのです。パウロは、打ち傷を受けたキリストのみからだを知らずにただ聖餐の食事をするなら、その恩恵を受け取れないと言っているのです。この個所からも、贖いの中に癒しがある事が明らかです。聖餐式のパンとぶどう酒は、キリストの体とキリストの流された血です。どちらか一つだけを選んでも良いという考え、罪の赦しだけで体の癒しは重要ではないという考えは、主のみからだをわきまえない考えなのです。

2021年8月12日木曜日

神の言葉と癒し

聖書の神の言葉には、癒しについてどんな事が書かれているのでしょうか?最終的に私たちが頼りにするべきものは御言葉ですが、御言葉をどの様に理解するかが鍵となります。神学にこだわり過ぎて神の癒しを消極的に考えるのでもなく、あらゆる霊的な現象を全てウェルカムするべきでもありません。突き詰めて行けば聖書の正しい理解・解釈が鍵となる訳ですが、どの教理もそれなりの正しさを主張します。

癒しについての解釈

神学の発展と共に解釈の数が多くなるにつれて、キリスト教の教派も増えて来ました。今日ほど神学が溢れている時代はないでしょう。しかし、もしあなたが信じている癒しの教理に違和感を感じているのなら、他の教理を調べてより正確な理解を得る事は、現状打破に必要な方法の一つでしょう。実際に、多くの人たちは神学が示す神の癒しに違和感を持っています。何故なら、それらの神学論は癒しに関して希望を与えるものではなく、再臨や終末論に希望を託しているものばかりだからです。また、主の御心は全ての人が癒される事ではないとするものだからです。ここに違和感を感じているのなら、自分で聖書を丁寧に読んでみる事から始めたら良いのです。

「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」使徒の働き 17:11 

私たちは自分で熱心に御言葉を調べないで、何でも鵜呑みにして来ました。しかし、大多数が信じているものを信じていれば良いという事ではありません。あなたの信じている真理の理解に聖霊も同意しているか、あなた自身がその信仰を持つ事に平安があるか、そして時にはその信じている真理を弁証・証明する事ができるかも考えておくべきでしょう。何故なら、私たちはキリストの証し人だからです。

もし、今癒しが必要なら、癒しに関して聖書を読み直してみるべきではないでしょうか?それとも、地上で生きている間は病気になる事を当然の事だとして世の人と同じ様に諦めるべきでしょうか?クリスチャンであるなら、笑顔で歩むべきなのは誰もが思う事でしょう。同じ様に、クリスチャンであるなら病気ではなく健康で歩む方がより素晴らしいのです。全知全能の神を信じる者であるなら、天の御国にいずれ帰るのは当たり前なので、永遠に生きる事だけが圧倒的な勝利ではないはずです。癒しを含む圧倒的な勝利が神の子の上にもたらされるはずです。

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39 

2021年8月11日水曜日

癒しと一方的な神の恵み

救いは主の恵みによるものですが、その恵みが私たちのものになるかどうかは私たちの信仰次第です。「一方的な神の恵み」という表現は、神の恵みを強調しすぎて人の信仰の大切さを見失っている人たちの間で良く使われます。しかし、信仰だけが神の恵みを受けとる手段です。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」エペソ 2:8 

恵みは神からのものですが信じるのは私たちです。神の恵みと人の信仰が救いに必要です。福音を聞くだけでは誰も救われません。ここでパウロが言っている「神の賜物」とは救いの事であって、信仰の事ではありません。信じるのは神ではなく人です。しかし、当然ですが、恵みは神からのものです。それでパウロは、恵みは「あなたがたから出たことではなく」と言っているのです。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ 6:23 

「永遠のいのち」が「神の賜物」とパウロは言っています。

恵みと信仰

「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」へブル 4:2 

福音を聞いても「信仰によって結びつけられなかった」場合は、「益とならない」のです。同様に、神の癒しという福音を聞いても信じないのなら、その人にとっては益とはならない、つまり、癒しの奇跡を体験する事にはなりません。

「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ 2:9 

人の努力や行いではなく神によって人が救われる事をパウロはローマの手紙で説明していますが、エペソのこの箇所でも同じ様に言っています。神の御心は常に人を救う事ですが、あくまでも人がその恵みを信じて受け取らなければいけません。ですから、無条件で人が救いにあずかるのではなく、信仰という条件付きで神の救いが成立します。「無条件なのは神の愛」ですが、救いは信じるという条件付きです。ここは意外に勘違いしやすいかも知れません。

永遠のいのちを得るにはイエス・キリストを信じるという道が唯一なので条件付きです。その他の方法はありません。癒しに関してもそうです。表向きでは神の癒しを信じていると主張する人は多くいます。しかし、神の御心はどんな病気もどんな病人でも癒す事だと信じている人は殆どいません。自分の設定した条件の下で神は癒されるかも知れないという個人的な考えは単なる望みでしかなく、それは新約聖書の教えている信仰ではありません。ところが、罪の赦しに関しては、キリストを拒む罪以外のどんな人の罪も赦されるという事は確信しています。例外的に赦されない罪や例外的に赦されない人はいない事を信じているのです。

「主はあなたのすべての咎を赦し」という詩篇の聖句にある様に、主は全ての咎(罪)を赦される事が分かります。同じ聖句の後半には、「あなたのすべての病を癒やし」とあります。私たちはどちらかを選ぶような信じ方をするべきではなく、今までその様な考えでクリスチャン生活を送って来た事を反省するべきでしょう。正しい見方は、「主は私たちの全ての咎を赦し全ての病を癒される」です。どちらかだけで良いとするなら、パンかぶどう酒のどちらかだけを聖餐式で用いれば良いとするのです。

2021年8月10日火曜日

癒しは福音の一部

神の癒しは素晴らしいものだと素直に言えるクリスチャンは正しい考えを持っています。主による癒しの恵みはグッドニュース、つまり、福音なのです。しかし、神の癒しはあくまでも福音の一部であって、それだけが福音という事でもありません。偏った聖書の見方ではなく、バランスの取れた見方が重要です。同じ様に、罪の赦しと永遠の命だけが福音の全てではありません。そこだけを強調していると、多くの現状の問題に対して悲観的になり、再臨や終末論の主張だけになってしまいます。「全ての望みは天の御国に行ってから」という考えは非聖書的です。そこには、圧倒的な勝利者としてのクリスチャンの姿がありません。

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」第一コリント 11:29 

キリストの「みからだ」をわきまえないで聖餐のパンを食べていたコリントのクリスチャンは、どの様な事になっていたのでしょうか?

「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」第一コリント 11:30

コリントのクリスチャンの中に病人が多くなった原因が、聖餐に関する正しい知識がない為だったのです。その知識とは、キリストのみからだが私たちの為に捧げられたという真理です。何の理由で主はご自身のみからだを捧げたのでしょうか?

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ 53:5 

主が打ち傷を受けたのは、私たちの病を癒す為です。という事は、主の御心は私たちを癒すという事であり、それは特定の病気だけという事ではありません。また、特別に選ばれた者だけを癒すという事でもありません。主は、全ての人の病気を打ち傷として受けたのです。従って、神の恵みに関して何か問題がある訳ではなく、私たちの信仰に問題があるのです。私たちは癒しに関して信じる努力をせずに、神が何らかの理由を持って癒して下さらないとしているのです。

「イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ 9:21-24

2021年8月8日日曜日

主は私たちと共に働く その2

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」ローマ 8:11 

信者が病気で動けなくなっているのを未信者が見るなら、彼らはそれによって神を信じようとしないでしょう。病気は神の栄光を現わす事ではないと未信者は言うはずです。痛みにこらえて奉仕の働きをしている信者の場合は、それは評価される所はあるかもしれません。しかし、更に素晴らしい事は、信者が癒し・解放という神の業を通して神の栄光を表す事です。「奇跡の背後には悪霊が働いているかも」と敏感になり過ぎて色々と細かく欠点を探す必要はありません。神の癒しに必要以上に否定的にならずに、むしろ「自分の目には梁がある」かもしれないと謙遜になるべきでしょう。

確かに、悪霊の働きに関しては色々と見分けにくいものはあります。しかし、癒し・解放がイエス・キリストの栄光に向けられて証しとなっているのなら、私たちは謙虚にその働きを喜ぶべきです。その上で、彼らの教えの中にイエス・キリストを主として義の道に進んで成長する事、神の子として信仰によって歩む事、御言葉を実践する事を教えているのであれば、殆どのケースで「異端扱い」する必要はありません。欠点のない教えと神の力で歩んでいる信者は、今の段階ではまだ多くいません。それよりも、悪霊による癒しをしている「現代版パロの呪法師たち」の奇跡が未信者と信者を惑わしている事は大きな問題です。私たちは彼らよりも弱い存在なのでしょうか?しかし、モーセの杖よりも優れたお方が私たちの内に住んでおられるのです。

神学と幼子

もし、イエス様が病人の前に現れるとしたら、その病人を癒す事なく過ぎ去るでしょうか?そして、仮にその病人が、普段は「救いがあればそれだけで良い」と言ってイエス様の打ち傷による癒しの恵みを軽んじていても、その時にはイエス様に「癒して下さい!」と積極的に求めるに違いありません。私たちはもっと素直になるべきです。神学ではなく幼子の様な信仰が奇跡をもたらします。

「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き 3:4-6 

一般的な神学によれば、「主を見なさい」と言わなければ神に栄光を帰していない発言だとなります。神学校を出ていなかったペテロとヨハネは無学な故に、むしろ「異端的」な発言をしてしまいました。ところが、ペテロが「私たちを見なさい」と足なえの人に言うと、彼らの持っているもの、すなわち、イエス・キリストの御名の権威を通して癒しの祝福を与えたのです。そうです。信者には癒しというしるしが伴うのです。何故なら、信者は例外なく全て神の子として新しく生まれ変わるのであり、キリストの権威を用いる事ができるのです。「一方的な神の恵み・神の主権」によってのみ毎回誰かが癒されている訳ではありません。古い契約の時代とは違って新しい契約の後は、私たちクリスチャンの信仰を通して主は働かれる事にしています。

ペテロとヨハネを通して癒しがあるなら、私たちを通して主が働かれるのです。もし、私たちが真のキリストの弟子であり信者であるなら尚更です。しるしは信者に伴うからであり、信者はしるしを追いかけません。ペテロたちは霊的なエリートだったという誤解も聖書の次の箇所から見れば簡単に分かるはずです。

「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」使徒の働き 4:13 

2021年8月6日金曜日

主は私たちと共に働く その1

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18 

病人に手を置くのは「信じる人々」です。多くの場合、「信じる人々」が病人に手を置かないので癒しが見られないのです。ちょうど、福音を宣べ伝える者がいないのなら福音は知られる事がないのと同じです。神様だけが直接人を救いに導く事はあまりありません。福音を宣べ伝える信者の口を通して神が働き、未信者は救いに至るのです。病人に置かれる信者の手を通して神が働き、病人は癒されるのです。

意外に多くの人たちは、神様が私たち信者を通して働かれる事に気付いていません。もっぱら神様の主権によってこの地上で起きる全てがなされていると思っています。

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」マルコ 16:20 

もし、大宣教命令を受けた弟子たちが出て行かなければ、主は彼らを通して働く事はなかったでしょう。そして、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものとされる事もなかったでしょう。

恵みは神からのものですが、その恵みを信じて受け取るのは私たちです。そして、信仰によって人々を助けるのも私たちのやるべき事です。癒しを求めるとは、ただ主にその決定権を任せるという事ではありません。しかも、主の御心は全ての病を癒す事なのです。例外はありません。主は永遠の命を与えても、癒しは条件と例外付きで難しくしていると考える人は多いのですが、主は「羊たちが命を得るため、それも豊かに得るため」に来られたと言いました。「永遠の命だけで満足しなさい」ではなく、その永遠の命が豊かに得られるようにです。

2021年8月4日水曜日

癒されないのが「例外」

神の癒しに関して私たちが学ぶべき最適な書物は新約聖書です。何故なら、新約聖書にはイエス・キリストが病人を癒されたという記録が沢山あるからです。特に福音書においては、キリストのなされた大部分の事は病気の癒しでした。旧約聖書には神の癒しに関する記録は殆どありませんが癒しに関する聖句はあります。

さて、病人がイエス様に癒しを求めたケースで癒されなかった事は一度もありません。それどころか、病人が癒しを求めていないケースでも癒しが起きた事が記録されています。私たちが注目すべき所は、イエス様が地上を歩いていて神の福音をユダヤ人に宣べ伝えていた時には、癒しを求めて来た人たちは皆癒されたという事であり、異邦人でさえも癒されたという事です。つまり、主の下に来て癒されなかった病人は一人もいなかったという事実です。

「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」マタイ 4:24 

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」マタイ 8:16 

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」マタイ 12:15 

「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」マタイ 14:36 

「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」ルカ 4:40 

「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」ルカ 6:19 

これらの聖句はイエス様の所に来た病人がみな癒された事を示しています。例外として癒しが起こらなかった事はありません。何故でしょうか?

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き 10:38 

イエス様が町々を巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされたのは、神が「イエスに聖霊と力によって油を注がれ」、そして「神がイエスと共におられたから」だとペテロは言っています。確かに、神の子であるイエス・キリストであるなら、みな癒されるはずです。しかし、使徒たちもイエス様と同じ癒しを行なっていました。

「また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。」使徒の働き 5:16 

使徒たちは癒しを求めて来た人たちをみな癒しました。「何故、イエスは病人をみな癒す事が出来たか?」という質問に対する典型的な答えは、「イエスは神だから」です。多くの人はキリストを「三位一体の神」として見て、それならばどんな病人でも癒す事ができると考えてそう言っています。しかし矛盾した事に、時には神様は病気を癒さないとも言います。イエス・キリストの癒しの恵みは当時の人たち限定だったのでしょうか?それとも今も同じでしょうか?

もし主の恵みはとこしえにまで同じなら、主と同じ様に病気を癒した使徒たちは特別だったのでしょうか?使徒の行なった癒しや数々の奇跡に関して、私たちは使徒は特別に選ばれた者と考えます。しかし、彼らの失敗を見ては私たちと同じ人間だという見方に変えます。この様な考えは都合の良いものに過ぎません。正しい見方は、例え霊的に未熟な人を通しても神は信仰を持つ人たちを通して働かれるという事であり、癒しの力は神のものだという事です。人の力で癒す事は出来ないのです。

2021年8月3日火曜日

イエスによる病人の癒し その4

イエス様が病人を癒していた最大の理由・動機は主の愛と憐みです。神の愛は私たちに対して働き、神のさばきは悪魔に対して働かれます。主の悪魔に対する働きが病人を癒したもう一つの大きな理由です。

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き 10:38 

イエス様が悪魔に虐げられている人々をみな癒したとありますが、この事自体が癒しの目的でもありました。「悪魔のわざを打ち破る為に神の御子が現れた」と使徒ヨハネも言っています。従って、幾つかのケースでは病を持って来るのは悪魔(悪霊を含む)である事は間違いないでしょう。決して神様が「訓練」という名目で持って来るようなものではありません。全ての病は悪魔からとは言えませんが、背後で悪魔・悪霊が間接的に働いている事は非常に多いでしょう。実際に、長年にも渡って多くの悪事をしてきた敵は、この地上の至る所で病気の原因となるものをもたらしています。私たちの住む環境だけでなく、食べる食べ物でさえも私たちの体に悪影響を与えて不健康にしているものもあります。それらのものは、最初に神が創造したものではありませんでした。

私たちの癒しに対する考えは大きく一新される必要があります。病気を癒す神様の存在だけでなく、病気をもたらす悪魔の存在も考慮する必要があります。つまり、ただ神に癒しを求めるという範囲だけで考えるのでなく、敵が私たちから健康を盗んでいるという事についても私たちはどうするかを考える必要があるのです。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7 

ヤコブが言っている「神に従いなさい」という意味は、モーセの十戒を守って生活するという事ではありません。ヤコブは新生したクリスチャンに書いています。新生したクリスチャンは誰でも新しい契約の下にいます。ユダヤ人であってでもです。全ての新しい契約の下にいる信者は、新しい契約の教えに従う事が神に従うという定義です。もはや古い契約を見る必要はありません。何故なら、古い契約の良い部分は新しい契約の中にも入っているからです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13 

私たちクリスチャンは悪魔に抵抗する強い者であるべきでしょう。しかし、抵抗しないのなら悪魔は逃げて行きません。悪魔に抵抗しないで癒しをあきらめるのなら、癒しが起きないのは多くのケースで当然の結果となるのです。信者であるなら、神に癒しを求める事は必須ではありません。何故なら、全ての霊的祝福はイエス・キリストの中にあり、主ご自身が私たちの内におられるので、癒しという祝福は既に私たちの中にあるからです。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ 1:3 

私たちクリスチャンのやるべき事は今から癒しを頂く為に神に癒しを乞うのではなく、私たちの内に既に与えられている神の霊的祝福を引き出す為に信仰を働かす事、そして私たちの信仰の歩みを邪魔して病や恐れを持って来ようとする悪魔に立ち向かう事です。

2021年8月2日月曜日

イエスによる病人の癒し その3

 イエス様による病気の癒しは、その殆どが「必要に応じて」だったのが福音書から分かります。つまり、癒しを求める人に対して癒しを与えるという姿勢だったという事です。唯一の例外が、カナン人の女に対して「子犬」と呼んだ場面でした。しかし、その彼女もあきらめない必死の信仰を示した事によって、本来はタイミング的にまだ癒しの恵みを受けるはずのない異邦人が受ける事になったのです。信仰はありとあらゆる山を動かします。何故なら、信じる者を神は喜ぶからであり、信仰によって歩む人たちをバックアップする神が山を動かすからです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル 11:6 

私たちは信仰による歩みをせずに神様に喜ばれようとしていますが、それは間違いです。主日礼拝の時だけ信仰がある様な素振りをする事が信仰の歩みではありません。目に映るものばかりから何かを判断する事は、信仰によるものではありません。本来、圧倒的な勝利者として強く生きる事が信者の本来の歩みです。そこには退いて諦めるという消極的な考えはありません。キリストに繋がる者は、主の教え、新しい契約の教えを守る者です。

「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ 8:2-3

「わたしの心だ」とイエス様が言われた「心」のギリシャ語は意志を表わす thelo という語です。積極的・自発的に~をする事を望む・決心するという「意志」を表わす言葉です。従って、ここでイエス様がツァラアトに冒された人に言った言葉は、「私はあなたを癒すつもりだ。」という事です。主は単純に、病人の癒しの求めに対して癒してあげたのです。主の憐みの心が最大の動機であって、何か神学的な事を最優先させて預言の成就を意識していたのではありません。主はたった一匹の迷った羊の為にも命を与えるお方です。十字架につけようと捕まえに来た人でさえも、癒すお方なのです。

2021年8月1日日曜日

イエスによる病人の癒し その2

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。」マタイ 15:28

ここでも「癒し」を意味するギリシャ語 ἰάομαι(iaomai)が使われています。σῴζω(sōzō)ではなく、ἰάομαι(iaomai)が使われている事から、病の癒しという事なので、悪霊が病に関わっていたケースが読み取れます。

また、イエス様が人を癒した時には、「私の栄光の力であなたを癒したのだ!」という様な事は一切言っていません。むしろ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と何度も言っています。このイエス様の励ましの言葉はルカの福音書だけでも4回出ています。救うは σῴζω(sōzō)であり、病からの救いという意味でしばしば「癒し」とも訳されています。

もちろん、癒しに対して信仰を持っていない病人もイエス様は癒したのですが、信仰を持っていた人たちに対しては、特に高く評価しています。

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」マタイ 8:10 

百人隊長の信仰はイスラエルのうちの誰よりも優れていました。彼は異邦人であったのにも関わらず、自分のしもべの癒しの為に信仰を持っていました。他人の為に信仰を持つ事を異邦人がしたのです。信者であり他の人を導く為に歩む人なら、なおさら他の人の為に癒しの信仰を持つべきでしょう。それは、イエス様がしていた事であり、また、教会の長老も信仰の模範者としてその様な立場にあるのです。

「あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」ヤコブ 5:14 

「(信者である)あなたがたのうちに病人がいれば、教会の長老たちに祈ってもらいなさい。」というのがヤコブのアドバイスでした。この場合、長老が信仰の祈りによって癒す立場にあります。直後の節をみましょう。

「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」ヤコブ 5:15 

「信仰による祈り」は長老によるものです。