2021年8月29日日曜日

癒しはキリストの贖いにある その2

病の癒しが贖いに含まれないとする神学は、信じても癒されないという現実を土台にしてその主張をサポートする聖句のみを選んで聖書を解釈しています。そして、癒されているケースに関しては、神の気まぐれな御心は何でも無効にするという解釈で丸く収めようとします。

確かに、癒しを信じているような人でも癒されていない現状はあります。しかし、肉の目に見える現状と真理を語る御言葉は全く違うものです。また、実際に信じているかどうかを良く見てみると、おかしな土台に基づいた信仰になっているケースが殆どです。もう一つ鍵となるのが、敵の攻撃として病がもたらされる事が関わっている点です。これらを総合的に見ないと、私たちは病の癒しを見る事は難しいでしょう。

ここでは、新約聖書が病の癒しはキリストの贖いに含まれる事を示しているかどうかに視点を合せたいと思います。何故なら、旧約聖書の書物の著者たちは聖霊による新生の体験が無いので神の子ではなかった事、そしてキリストによる新しい契約の奥義などを知らずに書いている為に、多くの真理を部分的にしか知る事が無かったからです。

マタイの引用

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17

マタイはイザヤ書 53:4 の一部を引用して「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」と言いました。しかし、一部の神学によると、使徒マタイの意味する預言の成就はイエス様が十字架に掛かる前に病人を癒した時なので、キリストの贖いに癒しは含まれないとするものがあります。しかし、預言の成就は現在も進行しているのであって、罪の赦しと同様に病の癒しはキリストによる贖いによって明らかにされた真理なのです。真理は普遍であり神の御心と性質を示す永遠の事柄です。聖霊の力による癒しは「使徒たちの時代に終わった」のでもなく、「現代医学に取って代わった」という事でもありません。実際に、聖霊の働きは現在でもありますし、現代医学では癒せない病気が沢山あるのが現状です。

ペテロの引用

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

この節の前半は罪の赦しがあり、その後半には病の癒しの真理が書かれています。ある神学によれば、前半が罪の赦しについて言及している為に、打ち傷による癒しは罪の赦しを意味すると解釈しています。しかし、罪は癒されるのではなく赦されるのです。「癒された」の訳になっている単語をギリシャ語でみると ἰάομαι が使われています。これは病気などの癒しを意味するものであり新約聖書に28回出てきます。第一ペテロ 2:24 では「罪の赦し」という意味でペテロが書いたのでしょうか?

この節でペテロが言っているのは、罪の赦しと病の癒しが贖いにあるという真理なのです。キリストの贖いは罪の赦しだけではありません。ペテロは、罪の赦しに関してはイザヤの預言を理解して書いています。病の癒しに関しての預言は直接イザヤ 53:5 の後半を部分的に引用しています。ペテロは、罪の赦しと病の癒しがキリストの贖いあるとして、この節でまとめたのです。