2021年8月2日月曜日

イエスによる病人の癒し その3

 イエス様による病気の癒しは、その殆どが「必要に応じて」だったのが福音書から分かります。つまり、癒しを求める人に対して癒しを与えるという姿勢だったという事です。唯一の例外が、カナン人の女に対して「子犬」と呼んだ場面でした。しかし、その彼女もあきらめない必死の信仰を示した事によって、本来はタイミング的にまだ癒しの恵みを受けるはずのない異邦人が受ける事になったのです。信仰はありとあらゆる山を動かします。何故なら、信じる者を神は喜ぶからであり、信仰によって歩む人たちをバックアップする神が山を動かすからです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル 11:6 

私たちは信仰による歩みをせずに神様に喜ばれようとしていますが、それは間違いです。主日礼拝の時だけ信仰がある様な素振りをする事が信仰の歩みではありません。目に映るものばかりから何かを判断する事は、信仰によるものではありません。本来、圧倒的な勝利者として強く生きる事が信者の本来の歩みです。そこには退いて諦めるという消極的な考えはありません。キリストに繋がる者は、主の教え、新しい契約の教えを守る者です。

「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ 8:2-3

「わたしの心だ」とイエス様が言われた「心」のギリシャ語は意志を表わす thelo という語です。積極的・自発的に~をする事を望む・決心するという「意志」を表わす言葉です。従って、ここでイエス様がツァラアトに冒された人に言った言葉は、「私はあなたを癒すつもりだ。」という事です。主は単純に、病人の癒しの求めに対して癒してあげたのです。主の憐みの心が最大の動機であって、何か神学的な事を最優先させて預言の成就を意識していたのではありません。主はたった一匹の迷った羊の為にも命を与えるお方です。十字架につけようと捕まえに来た人でさえも、癒すお方なのです。