「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」エペソ 2:8
恵みは神からのものですが信じるのは私たちです。神の恵みと人の信仰が救いに必要です。福音を聞くだけでは誰も救われません。ここでパウロが言っている「神の賜物」とは、神の恵みの事であり、それでパウロは、恵みは「あなたがたから出たことではなく」と言っているのです。
恵みと信仰
「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」へブル 4:2
福音を聞いても「信仰によって結びつけられなかった」場合は、「益とならない」のです。同様に、神の癒しという福音を聞いても信じないのなら、その人にとっては益とはならない、つまり、癒しの奇跡を体験する事にはなりません。
「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ 2:9
人の努力や行いではなく神によって人が救われる事をパウロはローマの手紙で説明していますが、エペソのこの箇所でも同じ様に言っています。神の御心は常に人を救う事ですが、あくまでも人がその恵みを信じて受け取らなければいけません。ですから、無条件で人が救いにあずかるのではなく、信仰という条件付きで神の救いが成立します。「無条件なのは神の愛」ですが、救いは信じるという条件付きです。ここは勘違いされやすい所です。
永遠の命を得るにはイエス・キリストを信じるという条件があるので、救いは条件付きです。癒しに関してもそうです。表向きでは、神の癒しを信じていると主張する人は多くいます。しかし、神の御心はどんな病気もどんな病人でも癒す事だと信じている人は殆どいません。自分の設定した条件の下で神は癒されるかも知れないという、個人的な考えは単なる望みでしかなく、それは新約聖書の教えている信仰ではありません。ところが、罪の赦しに関しては、キリストを拒む罪以外のどんな人の罪も赦されるという事は確信しています。例外的に赦されない罪や例外的に赦されない人はいない事を信じているのです。
「主はあなたのすべての咎を赦し」という詩篇の聖句にある様に、主は全ての咎(罪)を赦される事が分かります。同じ聖句の後半には、「あなたのすべての病を癒やし」とあります。私たちはどちらかを選ぶような信じ方をするべきではなく、今までその様な考えでクリスチャン生活を送って来た事を反省するべきでしょう。正しい見方は、「主は私たちの全ての咎を赦し全ての病を癒される」です。どちらかだけで良いとするなら、パンかぶどう酒のどちらかだけを聖餐式で用いれば良いとするのです。