2021年11月15日月曜日

時には神が病気をもたらす?

「神様は素晴らしいお方です。アーメンですか?」と講壇から力強く説教されれば、一般的なクリスチャンであれば、誰もが「アーメン!」と答えるに違いありません。「神様は私たちに全て良いものを与えます」と言われると、こちらも「アーメン!」と応答するはずです。しかし、「主はどんな時にも癒しますよ!」と誰かが言うと、どれくらいのクリスチャンが同意するでしょうか?

「神の御心」を「神の気まぐれ」という定義で考えている人は多い様です。 「私たちには全く予測不可能な不思議な事を神はなさる」という見方の事です。多くの場合、次の聖句の曲解がその様な誤解を生んでいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ 55:9 

この聖句から転じて、「神は時々病気(その他の災い)を持ってきて私たちを訓練する」という嘘が、教会に入って来ています。しかし、その様な考えを持っていたのは古い契約の時代の人たちに限っているべきであって、人間にとって知るべき全ての奥義が明らかになった今の時代から見ると、むしろ神の御心が一定して分かりやすいものとなっています。

新しい契約の下では、神の恵みがキリストの十字架によって人に分かる様になりました。誰もキリストの十字架での贖いを見るまでは、父なる神の御心を完全に知る事は出来なかったのです。キリストの十字架を通しての神の愛を知らずにして、アガペーを語る事は不可能なのです。恵まれた事に、この時代に福音を聞いてそれを信じる人々には豊かな神の恵みが増し加えられるのです。その恵みと言う視点から癒しを見れば、神が病を癒す御心を常に持っているのは明らかです。

私たちが癒されたいと願いよりも、神の方が私たちを癒したいと思っているのです。この単純な事を知らずに、私たちは今まで神の愛を知っていたかの様に振る舞って来ました。しかし、その様な愛は口先だけのものであって、神学によって真理を濁したものでしかありませんでした。愛は理論ではなく、実践的であって力のあるものです。ちょうど、キリストの犠牲が理論ではなく実際に起きた事実であり、信じる人々に命を与える力であり、それは頭での理解を超えて人の心に響くものです。しかし、私たちが愛を語る時には、本当に他の人の心に響いているでしょうか?

主の愛が何なのかを知らずに人に伝えても伝わりません。主の愛は十字架の贖いにあります。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ 4:10 

このアガペーの愛を知れば、「神が病気をもたらす時もある」とは言えなくなります。何故なら、別の聖書の箇所では、私たちの病は既にキリストの打ち傷によって二千年以上も前に癒しの宣告をしたとあるからです。

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

特に、キリストの十字架の御業が完了した後に生まれて来た人たちにとっては、生まれる前からこの約束が存在していたので、彼らにとっては最初から信じるだけで癒しを体験できたのでした。しかし、信じるだけで救われるという「霊の救い」ばかりが教えられたので、魂の救いや体の救い、すなわち、病の癒しについては後の時代になってから人々は受け入れ始めたのです。

私たち信者は、どのような考えが正しいかを聖書的に判断して理解に至るべきです。しかし、今日では多くの神学が存在する為に、人々は様々な考えを持っているので、単純な真理が分からなくなっている事も事実です。では、別の角度から見ましょう。

私たちの主は私たちが健康で生きていく為に、私たちの体に免疫機能を与えてくれています。もし、あなたがこの言葉にアーメンと言えるなら、神の与えた免疫機能を超える病気を神ご自身ががもたらすと思いますか?

私たちは霊的に目覚めなければいけません。真理に目覚めなければいけません。目に見える一時的な現実ばかりを信じて、神の癒しを信じない幼い考えから目覚めるのです。そして、病気が神から来るという混乱した発言を止めて、敵の存在を知って戦うのです。真理を信じる事によって、私たちは自由になります。真理を信じないのなら、それは信仰ではありません。真の信仰とは、誤魔化や諦めではなく、自由をもたらすのです。

2021年10月12日火曜日

打ち傷によって癒された

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

キリストの十字架上での贖いは歴史的に起こった事実として知られています。そうすると、イエス様が打ち傷を受けたという事実も過去の出来事として私たちは認識できます。それなら、既にイエス様が私たちの病の為に打ち傷を受けたという事なのです。ですから、この神の恵みを素直に心で信じるなら、どの様な病気であっても癒しされる事になるのです。

ここの「癒された」という意味は、「私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」の前半の部分と関係しているので、この場合の「癒し」は「罪の赦し」を意味するのだ、という解釈がありますが、それは違います。何故なら、この個所の「癒された」に使われているギリシャ語は ἰάομαι(iaomai)という語で、「肉体的な癒し」の意味で主に使われているからです。

罪の赦しだけではなく、病の癒しも十字架の御業の約束であるという事をペテロは言いたいのです。罪の赦しと病の癒しの両方が書かれてあるイザヤ書全体を基にして、ペテロはその要約(前半の罪の赦しの部分と後半の癒しの部分)を書きました。注意したいのは、ペテロはイザヤ書のどこかの箇所を完全に引用したのではなく、部分的に引用したという事実です。実際に、旧約聖書から引用されて新約聖書に書かれてある箇所は、その引用された節の一字一句全くそのままの通りに引用されてはいません。

イザヤ 53:5「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

イザヤはこの節で、キリストの贖いには罪の赦しと病の癒しがある事を言っています。「私たちの咎のため」とありますから、キリストが私たちの罪の為に砕かれたのです。それと共に、「打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」のです。この5節は前の3節と4節にある癒しに関する内容を受けています。

イザヤ 53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。53:4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」

これらの節では、キリストが私たちの為に病を担った事が書いてあり、4節はマタイが引用に使っています。(マタイ 8:16-17)これらの節では罪の赦しについて書いてありませんが、だからと言って罪の赦しは贖いに含まれない事はあり得ません。何故なら、別の箇所では罪の赦しについての贖いが明らかだからです。

イザヤ 53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」

イザヤ 53:11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」

2021年10月1日金曜日

癒しは戦い その3

 「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカ 4:38-39

イエス様が熱に対して叱りつけて癒したのなら、それをそのまま見本にしても悪くありません。このイエス様のやった事を真似して実践する事を悪いとする解釈はありません。神学的にそれはおかしいと熱く説明する方が、本当に「おかしい」のです。多くの場合、私たちはイエス様が私たちの模範として示した行動は全てそのまま行って良いのです。しかし、全人類の贖いの為に十字架に掛かるという「救い主」としての行為は私たちにはできません。

イエス様がシモンの姑の熱を叱りつけたのは、その熱を敵とみなしているからです。熱の背後に働いていた悪霊という事もあるでしょう。ポイントは、病気であれ悪霊であれ、それらは私たちの敵であると考える事です。従って、私たちは神様に癒して下さいというお願いの祈りをするのではなく、悪霊や病気に向かって命じて追い出すのです。これが癒しの祈りです。ですから、癒しを行なうという事は敵と戦うという事なのです。

私たちも主と共に戦う

私たちは「この戦いは主の戦いだ」と言って、神様に戦ってもらうようにと教えられたかもしれませんが、その様な考えも古い契約の視点から見たものです。

「その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」第二歴代誌 20:1-3 

3節では、「ヨシャファテは恐れた」と書いてあります。従って、彼は信仰によって行動してはいませんでした。
「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」第二歴代誌 20:12

この節でも、ヨシャファテが途方に暮れて、ただ神様にお願いしているのが分かります。後の17節では、「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」と神様が預言者と通して言っています。何故、神様がヨシャファテの代わりに戦ったのでしょうか?それは、ヨシャファテが信仰によって歩んでいなかったからです。

基本的に、旧約の時代には信仰によって歩んでいる人は多くはいませんでした。へブル人への手紙の11章にはアベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちが信仰の人だったと書いてあります。しかし、彼らでも、今日のクリスチャンの様にキリストの権威と聖霊の力によって歩む事はできませんでした。新しい契約の下で歩むクリスチャンは、神の子として生まれ変わったので、神の全ての武具を身に付けてサタンと戦えますが、聖霊が豊かに降り注がれる前の時代に生きていた人たちには、その様な恵みはなかったのです。