2020年1月13日月曜日

信仰の対象

今回はテーマは、内容がキリストの血潮の宣言に関連していますが、結論として言いたいのは「信仰の対象」です。従って、コンテンツの趣旨は信仰が主ですが、それに関連した究極的な見方・考え方にまでも触れたいと思います。「守りの祈り」として~が守られるようにと祈る時に、「キリストの血潮」を用いるようにと教えられた人は多いと思います。すなわち、あなたの家族、家、その他の物に対して「キリストの血潮」によって守られるように祈る、という事です。その様な祈りそのものが「悪いもの」ではありませんが、その祈り方にこだわってそれに信仰を置いてしまうとやや行き過ぎになります。

最初に言っておきますが、「キリストの血潮」には力があります。それは私たちの罪をきよめる聖なる血であり、罪から解放する力があります。新しい契約の血によって私たちは神の子となりました。しかし、それを用いるとサタンが逃げ出すという事ではありません。それ自体はサタンを怖がらせるような力はないのです。力はどうやって働くかと言えば、あくまでも私たちが信仰を持って十字架の御言葉を宣言するなら、その信仰があなたの内にある神の力を発揮させるでしょう。残念ながら殆どのクリスチャンは、上辺だけの簡単な解決策ばかりに飛びつきたがるので、その様な教えはすぐに広まってしまうのです。ちょうど、楽にダイエットできる方法に飛びつくのと同じです。そうしたものは長い目で見ると効果を発揮する様なものではありません。

「キリストの血潮」自体は何も悪いものはなく、祈りの時にそれを用いて祈る事も悪くはありません。ところが、「キリストの血潮」によって何でも毎日のように守られる為に祈ったりすると、それがその人の信仰が働く手段になってしまいます。「キリストの血潮」を用いて毎日祈らなければいけないという一種の宗教的儀式につながるのです。そうなると、もはやその祈りの方法がその人にとって守られる為に必須となり、その祈り無しでは不安になってしまい、その人を束縛してしまうでしょう。似たように、犯した罪を毎日告白しながら歩んで行くなら、それは罪意識の束縛になるのです。しかし、そうした特殊な祈りの方法によって解放が約束されている訳ではありません。

血潮の宣言が流行ったのは、それを教えている人たちがややズレた視点から考えただけであって、使徒たちはそうするように教えていません。その祈り方で守られるとは教えていません。これは個人的な体験を教理にしてしまったもので、特にその方法に秘訣があるという事ではないのです。実際に、この流行った祈り方で毎回守られているわけではないのは明らかです。何故、でしょうか?既に言いましたが、サタンや悪霊はその様な祈りを特に怖がってはいないからです。彼らはその様な事を気にせず、攻撃する時には攻撃してきます。むしろ、私たちがする事は、神の武具を身に着け御霊の剣で戦いに勝つ事なのです。一般のセミナーなどで教えられるものは信仰に土台を置かない単なる小手先のテクニックであって、信仰によって戦う事ではありません。彼らが教えるものは方法論に希望を置く事ばかりを強調しますが、山を動かすのは信仰なのです。

信仰の対象

私たちの信仰の対象は特別な祈り方ではなく、イエス・キリストです。そして、イエス様の言葉・教えに信仰を置くのです。ここに視点を置けば、決して方法論に依存する様な事はしないでしょう。私たちの歩みが幼いうちは儀式的な方法に頼りがちですが、私たちがキリストにあって何者であるかを知っているなら、小手先のテクニックに頼る必要がもはや無い事を知るでしょう。誰を・何を信じるかを最初に知るべきです。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ヨハネの福音書 15: 7

この御言葉は様々な方法論からの視点で教えているものよりも遥かに優れています。ポイントは、イエス様に留まり、イエス様の言葉・教えに留まるという所です。イエス様は、あらゆる問題に対して何と教えたのでしょう?私たちが何もやらなくても全てはイエス様が解決して下さると約束はしていません。私たちがするべき事は信じる事であり、それはただ「どうか~して下さい」という希望の祈りではありません。信仰とは、既にその願いが与えられるから祈る(宣言する)事なのです。望んでいる事柄をゲットするのが当然だという視点から見るものなのです。

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24

愛の土台

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」第一ヨハネ 4:18

不信仰は恐れが主な原因ですが、その恐れを締め出すのは愛です。従って、全き愛を目標にする信仰は愛のない信仰よりも偉大です。何故なら、全き愛まで到達する時に、私たちの信仰は全て恐れの無い状態で働きます。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ガラテヤ 5: 6

「大事なのです」は直訳すれば、「力がある」となります。愛によって働く信仰には力があるという事です。

アイデンティティー

信仰の対象を明確にし、更にその信仰を愛によって働かせる事を意識しつつ、アイデンティティーについても私たちは知るべきでしょう。私たちが神の子であるという認識が確立している事、主が私たちの中におられる事、神の子である私たちがこの地上を治める存在である事、などのアイデンティティーに関する真理をしっかりと理解しているのなら、私たちの信仰は飛躍的に働き始めます。私たち自身を知る事によって成長すれば、何かを恐れるという事がありません。アイデンティティーをしっかりと認識するのなら、私たちはより多くの勝利をして行く事ができます。もちろん、日々の聖書の通読や祈りは欠かせませんが、アイデンティティーの確立がしっかりしていると、それらを何か困難があった時の解決方法として捉える事はせず、神の子として当然やるべき事として日々淡々とする事ができるでしょう。

もし、あなたが聖書や祈りを何かの解決方法の手段としてやるなら、それは考えがズレているのです。そうではなくて、神の子として御言葉に沿って歩み生活の一部として祈る事は、呼吸をする様に自然なのです。誰も、当り前の事としてやるべき事を「秘策」として取り組む様な事はしません。

もう一度、「私たちが神の子としてやるべき事」をダイエットに関連付けて説明します。普段から適度に運動をし、ジャンクフードを避けて、おおよその栄養バランスを考えて食事をとる生活をするなら、それだけで自然に健康的な体重を維持できます。しかし、普段から運動や食事制限などを全く無視しているのなら、健康な人として歩むべきそれらの本来するべき事が痩せる為の方法論になるのです。ライフスタイルとしてではなく、一時的な解決策として痩せる為に運動をするのなら、その人は結果が出る時に運動も止めるでしょう。そして、運動を止めたらまた体重が増えて行く事に気がつくでしょう。私たちが聖書を読んだり祈ったりするのは、それがキリストに似た者としてのライフスタイルだからです。問題解決や何かの祝福を得る為ではなく、ただキリストと共に歩むから当然の事としてやるだけなのです。

もし、私たちがキリストになって何者なのかを熟知していたら(そこに焦点を当てて成長していくなら)、自然と何をするべきか、何をどう考えるべきかが分かります。その様な歩みには恐れがないので、車を運転する度に祈る事もしないでしょう。その様な事で不安にならないからです。主と共に歩むのなら、何も害を与えることはないという信仰で生きるからです。しかし、だからといって悪霊は攻撃を止めるという事ではありません。彼らは理由の有無に関わらず攻撃します。神の子たちに対しても彼らはしつこく攻撃するでしょう。しかし、私たちが神の子として歩んでいるなら、圧倒的な勝利者として歩めるのです。戦いは避けられませんが、毎回の戦いを勝利で納める事ができます。また、時には戦いも長引く事はあるでしょう。しかし、私たちはキリストにあって勝利する者なので、必ず最後には勝ちます。問題は、その様な考えを常に持ち、そうした信仰によって歩むかどうかです。

多くのクリスチャンは直ぐに悪霊にやられてしまうという考えを持っています。それが理由で、お寺や神社の近くは悪霊がいるという事で、そういう所には近づかない様にします。しかし、神の子である私たちは何も恐れずに悪霊を追い出してしまうくらいの強い姿勢でいるべきなのです。避ける様にしてその様な霊的に危険な場所を避けて通らないと「悪霊にやられてしまう」という考えであってはなりません。もちろん、その様な大胆な考えになるには、あなたが何者であるかを知る事が先です。アイデンティティーの理解が浅いうちは、キリストがあなたの中におられるという確信が薄いうちは、あなたは多くの戦いに負けるかも知れません。しかし、私たちが神の子とされた特権(権威)を与えられたという真理に考えを一新させて行けば、成長した大人の考え方で物事を見始める様になります。その時には、何をどうして解決するかという模索をしないで、山がどんなものであっても、それを動かすようになるでしょう。

2019年12月12日木曜日

真理の回復 その2

癒しから預言へ

「力の伝道」と呼ばれた癒しを主とした伝道の教えから預言に向かったのは、間接的ですが、ピーター・ワグナーやジョン・ウィンバーの働きと、それに付け込んだサタンが原因でしょう。しかし、彼らの働きによって預言の賜物がキリストのからだに受け入れられるようになった事は確かです。正確に言えば、預言のミニストリーや預言者に関する教えよりも、いわゆる個人預言です。ビル・ハモンはやや単独で預言のミニストリーを既に展開していましたが、いわゆる「使徒と預言者の回復」の教えを強調する預言のミニストリーは、「後の雨運動」の影響を受けています。ウェブなどでは、きちんとした「後の雨運動」についての情報が少ない為に大きな誤解が広がっていますが、元々の教え自体は新約聖書的です。一部の人たちが極端な方向に持って行った事は非常に残念ですが、ここにもサタンの惑わしが入っていました。何故、そうした極端に走ったのかというと、新しい人としての歩み(神の子としての歩み)を知らずに教え始めたからです。

厳密に言えば、「五役者」の人たちが教会の中で「配置」されるという意味の回復ではなく、新約聖書の教えに戻ったリーダーたちがそれらの役割をきちんとこなす様になって行くだろうという預言です。いわゆる神に選ばれた「特別に油注がれた」霊的エリートの五人が各教会に配置される、という事ではありません。この考えは主に70年代の羊飼い運動(Shepherding Movement *弟子訓練運動とも呼ばれる)で曲解されたのですが、それは大きな間違いでした。ピーター・ワグナーはそれを幾らか訂正して過度なものにならない様に教えたのですが、それでも「使徒と預言者」が誰よりも大きな権力を持っているとし、下にいて支える立場よりも「上から指示する権威」を強調していました。彼らも、「五役者」はキリストが直接任命して、特別なポジションに配置されると考えていました。しかし、正しく言うなら、新約聖書の教えである「新しい人としての歩み」を学んで、成長してリーダーとして他の人の徳を考える時に、それらの5つの働きが必要だというだけです。キリストによる任命が絶対条件でもありません。責任を持てる人が霊的成長の中で自然と従事していく仕事なのです。従って、皆が使徒・預言者としての役割をこなす可能性を持っています。自称「神様に任命された」と言っている人でも、その働きの実もなく「按手」だけで使徒や預言者だと言う人がたくさんいるのは、結局のところ、近年の「使徒と預言者の回復運動」は未だに間違いを修正されていないという事実を表しています。

さて、ジョン・ウィンバーは癒しに関しての真理を追求していたのですが、結局、キリストの贖いについての正しい理解に到達する事はできませんでした。その後で彼は、カンザスシティに行って預言に興味を持つようになりました。癒しの教えが彼の中で未完成のまま、彼は80年代から預言の働きに興味を持ち始めます。これは私の意見ですが、恐らく、彼を通して聖霊がしたかった事は、癒し・解放の教えの回復を先に、その後に預言について教会の中で復活させたかったと思います。しかし、どちらも(癒しも預言も)中途半端になった形で教えが広がりました。80年代後半からはピーター・ワグナーとジョン・ウィンバーの教えの影響がカリスマ派の間で強くなっていたので、彼らの教えの影響による「使徒と預言者の回復運動」が広がり、それは現在の預言者のミニストリーも影響を受けてしまっています。これは、「後の雨運動」からのものとは少し違います。どちらかと言えば羊飼い運動からの教えに近く、肉の思いによる解釈が混ざったものです。彼らが使徒や預言者の働きなどについて正しく理解できていなかった理由は、新しい人としての歩みを理解していなかったからです。本来の教えが純粋に広がっていたなら、現代の様な実を表していないのに自称使徒・自称預言者が増える様な事は起きなかったでしょう。

もう一度言いますが、預言やその回復運動そのものが悪いのではなく、私たちの意識をそらしたり、真理から遠ざけようと働くサタンがずる賢いのです。もし、ジョン・ウィンバーが聖霊の導きを正しくキャッチして癒しに関する真理を見つけていたら、今日の預言のミニストリーも同じ様に、御霊の導きによって正しい預言についての理解を持った事でしょう。それから彼らの教えが広がったのなら、今日の預言に関するミニストリーはもっと健全だったでしょう。今日の、単なる個人預言の主張ばかりではなかった事でしょう。

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」第一コリント 12:28 

この個所は、教会の中では各信者の役割があるという事で、エペソ4章のリーダーの役割について書いてある箇所とは少し異なります。エペソ書ではリーダの役割だけについて述べており、それは「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」であり、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」です。

さて、新改訳第三版によると第一コリント 12:28 はあまり直訳に徹していません。「第二、第三」という部分が抜けている事と、「~する者」という訳にした為に「賜物を所有している者」という誤解を与えています。新改訳 2017 から見ると違いが分かります。

「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」第一コリント 12:28 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

パウロが「第一に使徒」と言っているのは、使徒が一番偉いという事ではなく、使徒の機能が教会の中(信者たちの中)に最初に来るという事であって、「使徒がより強い権威を持っている」という事ではありません。使徒の役割は全体がよく見えるから出来るのであって、その役割をこなすリーダーは神様から重い責任を与えられています。そして、使徒のリーダーが最終的な決定を下す事は使徒の仕事として基本です。しかし、周りのリーダーたちの意見に耳を傾ける事は必須です。その次に教会の土台を支える役割は預言によってなされます。大まかな目標、戦略を立てるのは使徒の仕事ですが、細かい計画や微調整は預言の働きによってなされます。土台はキリストのからだの目標や方向性を示す働きがあります。また、各信者の群れもキリストのからだとして、新約聖書的である限り、それぞれのユニークな役割があるものです。そして教会の土台の上に教師(牧師も教える事を主な仕事としています)、力あるわざ、癒し、と続きます。

「第三」とパウロが言っているので、土台の働きと同様に、教師の働きも教会の中(信者たちの中)では比較的最優先される働きです。もう一度いいますが、「どのリーダーが偉いか」ではなく、「どの働きがより先に来るか」です。ですから、キリストのからだの中の働きは土台の働きが最初にあって、その次に教師の働きが必要という事です。それから、力あるわざ、癒しとなっています。ちなみに、キリストのからだの外で働く伝道者はリーダーの役割ですが、主に教会の外(或いは、未信者たちの中)での働きになるので、この点で第一コリント 12:28 とエペソ 4:11-13 の違いがあります。

現在、教会で癒し・解放の必要性は最優先されるべきでしょう。何故なら、単純にそのニーズがあるからです。祈りのリクエストで一番多いのがそれらに関するものだからです。病気などで弱いクリスチャンは外に出て行って福音を宣べ伝える事も難しくなりますし、そのニーズがあるという事実を見ても、癒しの問題を先に考えるべきです。病気という大きな問題があるのに、私たちが癒しについてもっと熱心に学ぶかどうか、それが神の御心を確かめる必要がある、という考えはあまりにも幼い考え・宗教的でしょう。私たちが神の子として歩むのなら、その必要性は当然だと見ているはずですし、そもそも私たちは、罪の赦しと癒しはキリストの贖いで主の御心の中でも最も重要な二つとして知っているべきなのです。

癒しと同様に教会では「力あるわざ」によって、多くの問題を解決していく必要があるでしょう。こちらの恵みの表れ(いわゆる御霊の賜物)もキリストのからだで見られるようになるべきです。これも多くが癒しと解放に関するもので、順序としては癒しの後に見られる可能性が高いと思います。何故なら、サタンは使徒、預言、牧師・教師の役割を最も嫌うからです。サタンにとっては第一から第三の機能の回復を少しでも遅らせようと抵抗して来ます。その抵抗がある分、順序的に教師・牧師の正しい機能が見られるのはもう少し先になると思います。その後に、いわゆる「使徒と預言者の回復」が本格的に見られるようになると思います。現在ではそれがもう起きているかの様に教えが広まっていますが、まだそれらの役割の模範を示している人はいないと私は思います。そうした働きが無いのではなく、むしろ、もう少し彼らが成長するのを待つ必要があると思います。その証拠に、多くのクリスチャンが彼らの名前を挙げる事ができない程、彼らの活躍はまだ小さいものです。一部の人だけにしか知られていないのなら、まだ大部分のキリストのからだ(すべての信者)に認識されていないのですから、未だに回復に向かっているのではないでしょうか?

それ以外の役割や恵みの表れの機能は、完全とはいかないまでも、キリストのからだにおいて比較的見られています。例えば、外に出て活躍する伝道者の働きは顕著であって、牧師や教師よりも昔からその働きの実は明らかです。牧師(羊飼い)が羊を面倒できているのなら、「教会離れ」はないはずですし、教師が真理を教えているのならクリスチャンの教えは一致して教派間の壁がなくなりつつあるはずです。こうして見るなら、教会(エクレシア、キリストのからだ)には、五役者の機能がきちんと働いているとは言えないでしょう。しかし、彼らもその成長に向かって進んでいますし、彼らの活躍が見られるのもそう遠くもないようです。

真理の回復 その3へ続きます。

2019年11月28日木曜日

真理の回復 その1

現在、「初代教会に帰る」という意識がキリストのからだにおいて強くなりつつあります。これは結局のところ、新約聖書の教えに戻ろうとしている意識です。私たちがよく耳にして来た近年の「回復運動」は、神様が何か新しい啓示を与えているという主張でした。しかし、実際には、聖霊は使徒たちを通して、クリスチャンが知るべき啓示を既に新約聖書で与えています。未だに明らかにされていない御言葉の奥義があるとするなら、それは聖典の一部になるという事になり、それはグノーシス主義になります。それは悪霊の働きであって、使徒たちはその様なものを警戒するように注意を促していました。

解釈と聖霊の導き

本当の意味での「回復」は、むしろクリスチャンが新しい契約の教えを土台として聖書全体を理解し始めたという事であって、今までにない聖霊による新しい聖書の解釈などではありません。もちろん、聖霊は全ての真理に私たちを導くので、聖霊の促しはいつでもあります。しかし、「聖霊が語った」というフレーズで、今までにない新しい啓示を絶対化する事とは違います。聖霊は、既に啓示した新約聖書の御言葉を思い起こさせるだけです。ですから「新しい解釈の啓示」ではなく、本来の正しいシンプルな御言葉の真理を聖霊が示しているだけなのです。殆どのケースで、私たちが新約聖書を読む時に必要なのは読解であって解釈ではありません。旧約聖書に関しては、その大部分が律法と預言書なので、影である律法が意味する事柄と預言の言葉は解釈が必要になります。それらは多くの場合字義通りにはなりません。当時は、神様は多くの奥義を隠していたからです。

私たちが下手に解釈にこだわるのは、最初から何かの偏見を持って聖書を読んでいるからです。一般的なキリスト教の神学は、大部分が人間的な考えや哲学(肉の思い)から聖書を解釈して得た神に関する知識であって、御霊によって聖書を理解していません。本当の神学があるとするなら、御霊の助けを得ながら聖書を調べるという方法です。それなら、神についての正しい知識を聖書から得る事ができます。御霊の導きの下に御言葉を学べば皆が同じ理解になりますが、それぞれが肉の思いで見るなら、それぞれの「解釈の主張」に至ります。

しかし、聖霊が示したという人々の間でも、どうして彼らの教えは異なるのでしょう?聖霊は違う事を彼らに教えているのでしょうか?それはあり得ないので、結局、多くの人は聖霊に導かれていると勘違いしているのです。これは認めがたい事実ですが、そろそろ私たちは素直になっても良いでしょう。では、御霊はどうやって人を真理に導くのでしょうか?聖霊がどの様にして人をより多くの真理に導くかは、二つの事にかかっています。一つは、その人がどれ程柔軟に聖書を読む事ができるかです。もう一つは、その人がどれ程真理を追究するかどうかです。これらを純粋に求める人は今はまだ少ないですが、だからと言って彼らは特別ではありません。神によって「特別に選ばれた」のでもありません。それとは反対に、カリスマ派・聖霊派の間では「聖霊からの啓示」を特別扱いする傾向が強く、その啓示を受けた人も「特別扱い」されます。彼らのケースでは、そうした啓示は「祈りと断食」やその他の行いの報酬になっています。

これから説明する「真理の回復」はそうした「古い契約の視点」からのものとは違います。誰かが・何かが「特別」だとする主張は古い契約の視点です。そうではなくて、ただ単にあるクリスチャンたちが歴史で起こった事と聖書を調べて、多くの教えの矛盾に気付いてより正しい教えを理解しただけの事です。ちょうど、ダニエルがエレミヤ書を読んで「エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」のと同じで、ある人たちが聖書を読んで真理を理解しただけの話です。90年代に多くあった「新しい聖霊の啓示」、「霊的トレンド」の主張ではなく、聖書を徹底的に学んで間違いに気付づいたというだけの事です。

霊的飢え乾き

さて、本題に入ります。ここ数年で世界中で教会離れが起こっているのは単なる偶然ではなく、多くのクリスチャンによる霊的飢え乾きが原因です。彼らが見飽きたのは教会の実践力の無さです。教会でのモダンなワーシップは単なるパフォーマンスやコンサートになりつつあります。もっと主に心を向けるのなら、ワーシップの中で聖霊が働く事もありますが、近年のワーシップでは以前ほど聖霊が働く事はあまりありません。現代の教会は、80年代と比べても聖霊の働きは小さく、70年代ではもっと純粋な聖霊の働きが見られました。そして60年代、50年代、歴史を遡れば私たちはもっと聖霊の働きがあった事を知るのです。ペンテコステ運動の後から下り坂になっている事実を知らない人が多いのは「霊的」という無駄な教えばかりに耳を傾けて来たからです。何故当時の人たちはもっと純粋に生きていたのでしょうか?その頃は、ホーリネス運動の良い影響があり、聖く生きる事の大切さが教えられていました。

もちろん、ホーリネス派の教えが全て正しい事でもなく、彼らの考えが宗教的になった事実は動かせません。ここにもサタンが惑わしを入れました。しかし、今のクリスチャンは昔の人たちと比べるともっとキリストと共に歩んでいる、或いは、真理をより理解しているというのは大きな誤解です。例えば、ペンサコーラのリバイバルなどは「覚醒」と呼ばれた聖霊の働きに比べると、とても小さなものですし、当時の人の信仰による歩みは一時的な感情の高まりから来るものではなく、その人の人生を大きく変えたものでした。実際、アズサストリートで聖霊のバプテスマを体験した人たちは、話した異言が何処の言葉かを知って宣教に海外へ出たくらいです。彼らは異言がその目的の為にあると勘違いしていたのですが、それを聖霊は世界宣教の為に用いました。現代のリバイバル集会で見られる新たな気持ちで献身するという、数か月しか続かない様な「なまぬるい」ものではありませんでした。

アメリカでは「宗教ではなくイエス様との関係」をスローガンにする所は多いのですが、実際には宗教化している所が、カリスマ派・聖霊派を含めてもまだ8割は堅いでしょう。それくらい、モーセの律法の文字に仕える事と御霊に仕える事との区別ができていないのが現状です。諸々の「霊的」な事柄(主に聖霊の声や預言的発言)の主張も、「霊的という名の宗教」になっています。しかし、その飽和状態が崩れ始め、多くのクリスチャンが教会から離れてきました。90年代から加速したあらゆる「霊的な教え」のセミナーに、私たちはお金を費やして聞いて来たのにも関わらず、学んだものは実を結んでいません。実が出ない学びは意味がありません。その理解が成長につながらないものは、単なる知識としてせいぜい役に立てば良いのですが、実はその間違った知識が信仰をダメにしているのです。それに見飽きたクリスチャンが教会を離れて行っているのです。

そうした中で、聖霊は真理の教えを保とうとして私たちの間で働きかけていました。恵み、信仰、そして癒しに関する教えは、現在ではより正しいものになりつつあります。特に癒しに関しては、聖霊は長い間キリストのからだに正しい教えを示そうとしたのですが、私たちはその導きに気が付きませんでした。それで、サタンは私たちを長い間苦しめて弱いクリスチャンに留める事に成功しました。サタンは特にどの部分で成功したのでしょうか?それは、教会で聖霊が癒しの働きがあった時に、サタンが間違った教えを送り込んでカルト的に仕向けた事です。福音派が癒しについてあまりよく思わなくなってしまったのも、そうした事件が起きたからです。彼ら自身も病気で苦しんでいるのにも関わらず、今では「教会での癒し=カルトの危険性」として強い偏見を持つようになりました。それで彼らはますます「携挙」に目を向けるようになり、(彼らは御国をこの地上でもたらすという事をあまり知らないという理由もありますが)より「逃れる」事ばかりを希望するようになりました。その結果、強く信仰によって歩む事から離れて行ったのです。

癒しに関する誤解は、カリスマ派・聖霊派の教会でも蔓延しました。これらの教派でも、昔と比べて癒しが起こらなくなりました。一般的な統計だと、十人に一人が癒されるくらいだと言われています。癒しの集会で9割が癒されないまま家に帰るのが普通になり、それが当り前のようになりました。しかし、過去10年くらいで、ようやく癒しの教えが新約聖書に沿ったものに変わったので、神の癒しが教会の外では見られ始めています。ただ、未だに教会内で癒しがそれ程見られないのは、間違った教えが信仰を働かなくさせているからです。歴史的に、カリスマ派・聖霊派の中で聖霊は癒しについて示していたのにも関わらず、サタンがそこでもクリスチャンを惑わせる事が出来たは、恐らく、サタンが癒しに意識を向けるよりも預言を求める事にクリスチャンを走らせたからでしょう。この背後にはジョン・ウィンバーも関わっています。確かに預言は良いものですが、サタンはそれを利用してキリストのからだを混乱させて来たのも事実です。近年の預言や預言のミニストリーはだいぶ御言葉から離れています。預言の正確さやその成就の無さを冷静に見てみると明らかです。そして、実のならない預言が多いのに飽きたクリスチャンも、教会から離れて行っています。

真理の回復 その2に続きます。

2019年11月19日火曜日

新約聖書による「安息」

新しい契約の下にいる私たちですが、それに反して「安息日」の定義は未だに旧約聖書の影響を受けています。元々はモーセの律法にある様に、週に一度労働から休む為の日でした。現代ではそれが「主日礼拝」という名で「教会に行く日」という理解になっているのが一般的です。しかし、へブル人への手紙から読むと「安息」の真理はもっと素晴らしいものである事が分かります。

「あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」へブル人への手紙 3: 9-12

荒野で主を試みたイスラエル人についてここで書かれてありますが、その理由が、彼らの不信仰ゆえに彼ら自身が「安息」に入れなかったとあります。

「また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」へブル人への手紙 3:18-19

この箇所で言っている「安息に入る」の意味は、文脈から主を信じるという事です。そうなると「信仰によって入る安息」の事なので、週に一度の「肉体の休み」というモーセの律法の定義とは違う意味の「安息」になります。

「信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」へブル人への手紙 4: 3

クリスチャンは安息に入っています。何故なら、神を信じているからです。

「こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。」 4: 6-7

この箇所から、もし人が福音を聞いて信じるならば、その人は「安息に入る」という事が分かるでしょうか?しかし、信じないのなら「安息」に入れないのです。信じなくても労働から体を休める事(モーセの律法)はできますが、この箇所の「安息」は別の「休む」という意味になっています。

パウロは、神を信じる事のできなかったイスラエル人は「安息に入れなかった」としていますが、これは彼らが荒野で神に対して不従順だったという、歴史上の話から説明しています。しかし、この律法の影は実体によってしか明らかにされません。

「神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」へブル人への手紙 4: 7-8

ここでは、ヨシュアの導きでイスラエル人が約束の地に入った事も究極の「安息」ではなかった事を示しています。そして、ダビデの時にも神様は「安息に入る」事を啓示していました。文脈から明らかですが、人が信じると決めた時が「安息に入る」のです。モーセの律法や約束の地に入る事は「安息の影」であって、それが意味するのは、イエス・キリストを信じて「安息に入る」という事です。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ 11:28

もう一度いいます。一週間に一度は労働をしないという「安息」の定義は、モーセの律法においてです。週に一度「教会」に行く事を守るのが「一般的教会の教える安息日」です。しかし、新約聖書の教える「安息」はイエス様を信じ、その中に入るという事です。ですから、週に一度という狭い意味ではないのです。主にとどまり、その中に「安息」を得るのなら、その人にとっては毎日が安息になるのです。

「そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」ルカ 6: 5

イエス様が「安息日の主」なので、「安息日」はイエス・キリストによってその定義が確定される事になります。ですから、旧約聖書をどんなに調べても真の安息を知る事はできません。もし、旧約聖書だけで「安息日」の真理を知っていたのなら、次の箇所も理解していたはずです。

「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」へブル人への手紙 4:10-11

「この安息に入るよう力を尽くして努め」るようにパウロは促しています。「この安息」とは「信仰による安息」ですから、私たちが力を尽くして努める事とは、信じる事なのです。モーセの律法を守る事ではありません。そして、「神の安息」に入った者は自分のわざを終えて休むのです。ここの「わざ」というギリシャ語の単語は、ἔργον(ergon)で、「行い」と同じ意味です。

同じへブル人への手紙で「死んだ行い」という表現が、その後に出てきます。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」へブル人への手紙 6: 1-2

「死んだ行ないからの回心」はキリストについての初歩の教えです。モーセの律法を守る事は死んだ行いです。その事からの回心は初歩の教えです。それをパウロはへブル人に手紙を書いて教えたのです。彼らが未だにモーセの律法にこだわっていたので、「死んだ行い」という表現を使ったのです。死んだ行い(わざ)を終えて休みに入る(信じる)事を理解している人は、「安息」の真理を理解している人です。すなわち、肉の行ない(わざ)を終えて私たちは休む(信仰に入る)のです。肉の行ないは罪であって私たちには重荷でした。しかし、重荷を私たちの代わりに背負ったのがイエス様なので、もう私たち自身はそれを負う必要がありません。重荷から解放されたクリスチャンは休んでいます。

本当の「安息」が分からない人はいつまでも「罪意識」で悩んでいたり、「安息日」が何かの特別な日という定義になっているので、常にイエス様と共にいるという真理にたどり着けないでしょう。日曜日(土曜日)だけが「安息日」ではありません。教会に来ないと「安息」が得られないというのも間違いです。何故なら、教会という場所が「安息」を与えるのではなくイエス様が「安息」を与えるからです。どの様にでしょうか?キリストに対する信仰によってです。信者の集いの意義を無にするつもりはありませんが、それと「安息に入る」事は別なのです。何故なら、「安息に入る」事は各信者のイエス様との個人的なものであって、信者一人一人が「既にイエス様の中に入る」という真理を指しているので、「信者の集い(キリストのからだ=教会)から安息を得る」事ではないのです。「教会」の定義を知らない事も「安息に入れない」理由になっているでしょう。何故なら、イエス様とつながっていない信者(もはや信者の定義でもない)が幾ら集まっても、そこには何の力もなく聖霊も働いていないからです。イエス様につながるとは、御言葉の真理によって歩む・実践する事を指します。

本来は、クリスチャンは「常に安息に入っている」べきなのです。そうなっていないのは、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて」いないからです。古い人はモーセの律法に戻りたがります。しかし、新しい人によって歩む人はイエス様の中に留まります。私たちは余計な情報によって自らを不信仰の環境に置く事ができます。そうしたあらゆる障害を避けて、「この安息に入るよう力を尽くして努め」る事(信仰の歩み)をしなければ、いつでも古い考えに戻る事になるでしょう。私たちは宗教的な観点で「安息」を理解しています。それは、主日礼拝を守るという週の一日を特別扱いする宗教です。しかし、イエス・キリストの安息に入っている人は、毎日主を信じる信仰によって、毎日安息に入っているのです。その安息から出る人は、クリスチャンの定義を再確認するべきです。

2019年11月3日日曜日

霊的な死 その2

「霊的な死」が意味するのは、罪を犯したアダムが神様と離れてしまい、神様との霊的な関係が無くなった状態の事です。彼の肉体も、時間差でついには滅んでその存在が無くなってしまいました。ですから、人は霊の無い存在ではなく、神様から離れて霊的な交わりの無い存在として生まれてくるのです。これが神の目から見た「人の死」です。つまり、人の肉体的な死は「人の死」の一部である事が分かるでしょうか?

肉を持った霊である人間は神様との霊的な交わりを失ったので「死んだ」状態になっていたのであって、人の霊が、その肉体の死の様に、霊が滅ぶ事ではありません。アダムの霊は、神の霊と共に交わって健全な霊的な機能を持っていました。ところが、神様から離れる事になったのでその機能を失い、その状態を神様は「死」としたのです。霊の死の結果、人は肉体的な滅び(一般的な死)も経験するようになったのです。

放蕩息子の話を思い出して下さい。弟の方は父親から「死んだ」と思われていました。

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」ルカによる福音書 15:24

このお金もちの人は、その息子を見て「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と周りの人たちに言っています。

「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」ルカによる福音書 15:32

この個所では、父親の兄に対して彼の弟が「死んでいたのが生き返り」と言っています。彼は自分の息子がきっと何処かで死んでしまったのだと思った事を言ったのではなく、彼を「死んだと見なしていた」のです。それで、二回も「死んでいたのが生き返り」と言ったのです。何故でしょうか?それは、肉の思いで離れて行った放蕩息子は神様にとって「(霊的に)死んだ」も同然だからです。しかし、神様に戻って来る(神様との交わりが復活する)事は「霊的によみがえる」事になるのです。

魂の機能

さて、人が本来の様に御霊によって歩むには、魂の健全な働きも必要です。ですから、新しい霊が創造されたからといって全てのクリスチャンが自動的に本来の神様と健全な交わりをしている事にはなっていません。生まれ変わった私たちは、神様との健全な交わりを持つ環境は整えられていますが、私たちの自由意志は相変わらず「自由」に働きます。自由意志は私たちの考えによって大きく影響されます。そして、この思考の部分が魂の中心機能です。従って、私たちの信仰の歩みがまだ浅いうちは、思いが一新されていないので、肉の思いによる歩みになっているのが通常です。しかし、肉の思いで歩むか御霊の思いによって歩むかは、私たちが決められるのです。キリストにつながっているか、それとも離れて歩むかは私たちの選択次第です。

私たちクリスチャンは霊が新しくなりました。それは、私たちが霊によって歩む事ができる為です。しかし、自由意志を働かせる事によって、私たちは肉によって歩み再び罪の奴隷に戻る事もできるのです。それはパウロに言わせれば、キリストにある幼子・肉に属する「ただの人」であって、本来の信者の歩みではありません。肉による思いは死であり、御霊による思いは命と平安に至ります。同様に、私たちのからだは生まれつき肉に属していて死んでる状態あっても、御霊によって生きる事ができます。次の聖書の箇所はその奥義についてパウロが触れている所です。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ローマ書 8:11

「死ぬべきからだ」は thneta(滅んでいく)somata(からだ)となっており、その私たちの「死ぬべきからだ」は御霊によって生かされるとパウロは言っています。これが可能な理由は、命の御霊の原理が罪と死の原理から私たちを解放したからだとパウロは解き明かしています。(ローマ書 8:2)どの様にして命の御霊の原理が罪と死の原理から私たちを解放したのでしょうか?それはキリストの十字架の御業なのです。

「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」第二テモテ  1:10

キリストによる御国の福音は「いのちと不滅」を明らかに示したのです。何故なら、福音にはキリストの復活が含まれており、その復活を通してキリストは死を滅ぼしたからです。この個所の「滅ぼし」という動詞は καταργέω(katargeō)で、その意味は「無効にする、終わりにする」です。ですから、キリストによって死の効力が無くなった、死が終わりになったのです。それでパウロは、福音がいのちと不滅を示していると言ったのです。

まとめ

「霊的な死」は肉体の死と同様な考え、すなわち、霊が死ぬ・滅ぶ・終わるという事ではなく、神様との交わりの無い状態を指します。その結果として、肉体は死ぬのであって、霊そのものが滅びる事ではありません。この理解がないと、例えば、ヨハネの福音書11章26節の「死」を肉体の死と同じように「霊が死ぬ」という解釈にしてしまいます。そこは「肉体の死」を意味しています。何故なら、人の霊はアダムの罪が原因で最初から死んだ状態で生まれてくるからです。

実際に、多くの教会ではその聖書の箇所は「霊的な死」だと教えていますが、これは大きな誤解を招いています。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と宣言しているのですが、殆どのクリスチャンはマルタと同様に「肉体のよみがえり」を信じる事ができません。しかし、もし私たちがその言葉を信じるのなら、私たちは神の栄光を見る事になるのです。(ヨハネの福音書 11:40)

新しい契約の下でも「死」の支配があるという理解は間違いです。キリストの復活の力といのちの御霊の原理が、罪と死の原理から解放されたという真理を知らずにいると、私たちは本当の意味でキリストの復活を信じた事にはならないのです。単に歴史的な事実としてキリストがよみがえった事の認識だけが重要ではありません。その復活は私たちにとっての真理でもあり、いのちと不滅の啓示なのです。そして、死は私たちの最後の敵(第一コリント 15:26)であり、私たちはそれを治める事のできる立場にいるのです。

2019年10月21日月曜日

霊的な死 その1

人間的な定義によれば、死とは肉体の滅びや「全ての終わり」です。何故なら、人にとって肉体が滅びるとは、その存在がなくなるからです。霊的な事を理解していない人の場合、霊の存在が分からないので、死は終わりを意味するはずです。それで一般の人は死の先の世界観を持っていません。死後の世界観について話す人は、スピリチュアル的なものやその他の宗教からの影響があるからです。しかし、聖書だけが死後(肉体の死)について真理を明かしています。

教会のメッセージなどで言われる「霊的な死」の意味について考えた事はあるでしょうか?「肉体的な死」は誰もが知っているものですが、「霊的な死」はキリスト教やその他の宗教・スピリチュアルの思想などに見られる表現です。目に見えない事を扱うので、その説明が不足になっている事が多く、それで「霊的な死」は誤解されがちな表現になっています。

肉体の死

まず、旧約聖書の時代に生きていた人にとっての「死」の定義はノンクリスチャンが定義する「死」と同じです。それは肉体の終わりです。実際に、その様に定義している表現は聖書の多くの箇所から明らかです。その理由は、ただ単に彼らが経験から学んだからです。彼らはキリストによって「死が勝利によってのまれた」という新約聖書が啓示している真理を知らなかったからです。この預言の意味を知っていた旧約時代の人は恐らくいなかったと思います。贖いについて多くの真理を知っていたダビデですらそれを完全に理解していたわけではありません。新約聖書を読んでいる現在のクリスチャンでも、人が蘇るという奇跡はまだ未知の神の力です。私たちは信者として死人を蘇らす事もしなければならないのですが、現時点では私たちの霊的な幼さゆえに、それを体験する事は少し先の未来のようです。しばらくの間は「癒し」が主な働きになるでしょう。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。」第一コリント 15:54

パウロはイザヤ 25:8 から引用しています。

「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」イザヤ 25: 8

「死を滅ぼされる」と訳されていますが、ここでは κατέπιεν というギリシャ語で表されていて、直訳だと「のみこむ」という意味です。「死をのみこむ」のは文脈から「神である主」がなさる事です。

新約聖書によると、イエス様は死に対して勝利をしたのですが、それは復活によって成就しました。クリスチャンもキリストと共に復活しました。キリストの復活は私たちが霊によって生まれ変わる為にあり、私たちも死に対して勝利を収めたのです。ですから、新しい契約の下にいるクリスチャンは「死」の定義をキリストの復活という視点から理解する必要があります。一方、旧約聖書では「死に対する勝利」の啓示が明確に示されている箇所は少なく、その時代のほぼ全ての人たちは死が人を支配していると考えていました。彼らにしてみれば「死と契約を結んだ」(イザヤ 28:15)ような状況だったのです。

さて、「霊的な死」が「肉体の死」の「死」のように、「滅び・終わり」だとするなら、「霊が滅びる・終わる」というような意味になります。ところが、霊はその存在が「滅びる・終わる」という事はありません。ですから、「霊的な死」といっても霊が滅んでその存在が無くなるという事ではありません。ある人たちが誤解しているように「人の霊が肉と同じように死ぬ」と理解していると、人間は霊的な存在ではないとするでしょう。

結論から言えば、人間の霊はその存在が肉体と違って「滅びる・終わる」事がありません。人間の霊は存在していて(通常は五感によって認識できないだけ)、肉体と同じように機能しています。旧約聖書中で人の霊を幾らか理解していた人たちがいます。ヨブとダビデがそうです。この二人は「私の霊」という表現をよく使っています。彼らは人の命のはかなさをよく知っていました。彼らもアダムの違反によって死という呪いを持った人たちでしたが、その呪いによって霊が死んでいると理解していたのとは違います。彼らは肉体と霊の違いを幾らかは知っていたのです。

「霊的な死」の表現

それでは「霊的な死」とは何でしょうか?そのヒントは創世記にあります。

「神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記 2:16-17

神様がアダムに言った「死」はどういう意味があるのでしょうか?アダムは九百三十年生きたと創世記にあります。善悪の知識の木から取って食べた時に死ぬと神様は言いましたが、それは間違いだったのでしょうか?確かに時間差でアダムは死にましたが、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と神様は言っています。

人間による「死」の定義は肉体の終わりだけですが、神様にとっての「人の死」は別の見方があります。しかし先に説明したように、霊が滅んでその存在が終わるという意味ではありません。神様の目からは、人が神様から離れてしまうという状態が「死」なのです。ですから、善悪の知識の木から取って食べた時にアダムは死んだのです。彼のからだはまだしばらくの間は生きていたのですが、実は既に死んだ状態だったのです。何故なら、彼の霊はもはや神と共になく、エデンの園にいた時にあった霊的な交わりがなかったからです。霊的な交わりを失ったアダムは、最終的に肉の体が死んだ(体が滅んでその存在が無くなった)のです。時間差はありましたが、霊的に最初に死んだ結果が肉においても現実化したのです。そして、アダムの違反によって人は全て「肉体の死」の支配下に置かれる事になりました。その呪いは人は最初から死に向かっているという束縛の中にある様なもので、実際にほぼ全ての人間は肉体の死という終わりを持ってその体の存在がこの世から無くなってしまう事になりました。

霊的な死 その2に続きます。

2019年10月7日月曜日

繁栄の神学について

「繁栄の神学」は、いわゆる「ワード・オブ・フェイス」の一部の人たちによる経済的祝福の教えを曲解したものです。実際には、神学ではなく一つの教えです。ワード・オブ・フェイスの最大の汚点となってしまったこの教えは、世界的に広がってしまいました。この事に関して、ケネス E. ヘーゲンは彼の教え子たちを集めて厳しく戒めたのですが、既にその教えは大きく広がってしまい、サタンに乱用されてしまいました。彼の本(The Midas Touch)では、経済的祝福の教えが極端なものになってしまったのを彼も認識していたと書いてあります。牧師や説教者という立場を乱用して、彼らは全ての事柄よりも先に個人の経済的祝福を追い求めてしまったと彼は言っています。

"Their greedy, manipulative efforts have hurt the Body of Christ and given unbelieving critics ammunition to attack and discredit God's work."

「彼らの貪欲で操作的な働きはキリストのからだを傷つけ、神の働きを攻撃し、信用を傷つける為の信じられない程の批判の弾薬を与えたのです。」

*Kenneth E. Hagin, The Midas Touch, (RHEMA Bible Church, 2000) p. 84

元々は聖書的で健全であった経済的祝福の教えは、極端にしてしまった人たちによって乱用されてきましたが、先月の初めごろに、ベニー・ヒンが「繁栄の神学」の支持を止めると発表しました。(Benny Hinn Renounces the "Prosperity Gospel")彼は多くの非難(その殆どは嘘やデマに基づく)を受けて来ましたが、何度も立ち上がって正しく真理に立ち返った、近年ではとてもユニークな存在です。だからといって、彼の教えが全て正しくなったとは言いませんが、今回「繁栄の神学」について間違っていた事を認めて公にした事は、多くのカリスマ派に影響を与えています。

お金に関する問題は教会が直面する最も大きなものの一つです。「繁栄の神学」の影響によって、JGLM のカリー・ブレイクも一時期ですが、とても敏感になっていました。彼は一切のお金の援助など(いわゆる献金など)を否定していた時もありました。ミニストリーが直面する最も大きなチャレンジが金銭の分野です。お金は必要な反面、それによって多くの事を判断したり計画するべきではなく、主に頼る事を前提で私たちは歩むべきです。私たちの富は数えた金額に頼る事ではなく、主に頼る必要があります。

模範

経済的祝福に関して私たちが模範にするべき人は、ジョージ・ミューラーでしょう。彼は必要なお金を一切他の人に頼んだりしませんでした。現在では多くの「特別献金」という名目で半強制的にそれが促されています。「自由献金」という名の下に「十一献金」が必須になっていたり、「献金袋」が回される事に違和感を感じなくなってしまったのも、その中に私たちが長く居過ぎたからでしょう。誰かが金銭的支援の必要がある事を知らせる事は、知恵を用いれば悪くありません。しかし、援助があるから何かができる・できないという判断ではなく、主が必要を満たされるという信仰の歩みが必要なのです。

金銭的な必要を人に頼るという部分が今の教会の一般的な考え方です。人に頼るのなら、それは信仰による歩みではありません。御言葉に頼る事が信仰です。「繁栄の神学」を支持しないというだけで、その人たちが自動的に聖書的に神によって「豊かになる事」を理解しているとは限りません。多くのクリスチャンが、自分で稼いだお金に対して自分で計画を立てていますが、もし、イエス様を主としているのなら、あなたは一銭もあなたの所有物でない事を知るべきです。しかし、あなたの所有物ではなく主のものを、どの様に使うかの責任はあなたに与えられているのです。従って、「金銭の管理」はとても大事な真理でありそれを知らずにいるなら、「繁栄の神学」に反対しているからといっても、それがあなたにとって経済的に祝福されているとは限らないのです。

種まき

「種を蒔く」などという表現を使って、しばしば献金の促しがあるのは、そうした教えをしていた人がいたからです。オーラル・ロバーツはそのうちの一人でした。これが極端に教えられている所では、「献金によって癒しの祝福がある」という事まで言われていました。しかし、種は別の実を結ぶ事はありません。

「神は仰せられた。『地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。』そのようになった。」創世記 1:11

リンゴの種からみかんの実を収穫する事はできません。お金という種を蒔けば、お金が返って来るだけです。従って、与える者はより受けるのですが、あなたが与えるものがお金なら、お金が戻って来るのです。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカによる福音書 6:38

いわゆる「種まきの法則」は神様の法則です。良い種でも悪い種でも蒔いたものを刈り取るという法則は新約聖書の下でもそうなのです。

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ 6: 8

献金によって癒し(その他の祝福)の実を刈り取る事はできません。しかし、その様にして「繁栄の神学」が教えられていたのです。この現象は日本でもありました。世界はアメリカン・クリスティアニティー(アメリカンキリスト教)を真似します。

「献金を神様に捧げるという行為は「礼拝」なので、それに従うと癒される」という教えがカリスマ派・聖霊派の中で長い間ありましたが、それも間違いです。「何かをすれば神様が私たちを祝福する」という考え方そのものが間違いです。神様はキリストにあって天にある霊的祝福をもって私たちを祝福された(エペソ 1:3)のですから、神様は私たちの行いを見届けた後に祝福を与えるという順番ではないのです。私たちが祝福を現実化する為には、ただ御言葉の約束を信じて、邪魔する者(祝福を奪う者)を追い払うだけなのです。信仰の戦いによって祝福を実現化するという教えは一般の教会にないので、多くの人は病気と経済的束縛の中でとても貧弱になっています。圧倒的な勝利者として歩む事を諦めたクリスチャンは、再臨を唯一の望みとしてしまい、終末論ばかりを語っています。

経済的束縛は病気の次に信者が抱える深刻な問題です。これらを置いておいて、油注ぎ、神様の臨在、その他の「小さなもの」を追いかけても、相変わらず弱いままでいるのなら、特にそうした生活を10年も過ごして来た人たちなら、既に教会での生活を諦めているか、霊的にとても飢え渇いているか、のどちらかでしょう。しかし、まだ遅くはありません。目覚める時は今です。