2021年10月12日火曜日

打ち傷によって癒された

 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 

キリストの十字架上での贖いは歴史的に起こった事実として知られています。そうすると、イエス様が打ち傷を受けたという事実も過去の出来事として私たちは認識できます。それなら、既にイエス様が私たちの病の為に打ち傷を受けたという事なのです。ですから、この神の恵みを素直に心で信じるなら、どの様な病気であっても癒しされる事になるのです。

ここの「癒された」という意味は、「私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」の前半の部分と関係しているので、この場合の「癒し」は「罪の赦し」を意味するのだ、という解釈がありますが、それは違います。何故なら、この個所の「癒された」に使われているギリシャ語は ἰάομαι(iaomai)という語で、「肉体的な癒し」の意味で主に使われているからです。

罪の赦しオンリーではなく、病の癒しも十字架の御業の約束であるという事をペテロは言いたいのです。罪の赦しと病の癒しの両方が書かれてあるイザヤ書全体を基にして、ペテロはその要約(前半の罪の赦しの部分と後半の癒しの部分)を書きました。注意したいのは、ペテロはイザヤ書のどこかの箇所を完全に引用したのではなく、部分的に引用したという事実です。実際に、旧約聖書から引用されて新約聖書に書かれてある箇所は、その引用された節の一字一句全くそのままの通りに引用されてはいません。

イザヤ 53:5「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

イザヤはこの節で、キリストの贖いには罪の赦しと病の癒しがある事を言っています。「私たちの咎のため」とありますから、キリストが私たちの罪の為に砕かれたのです。それと共に、「打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」のです。この5節は前の3節と4節にある癒しに関する内容を受けています。

イザヤ 53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。53:4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」

これらの節では、キリストが私たちの為に病を担った事が書いてあり、4節はマタイが引用に使っています。マタイ 8:16-17。これらの節では罪の赦しについて書いてありませんが、だからと言って罪の赦しは贖いに含まれない事はあり得ません。何故なら、別の箇所では罪の赦しについての贖いが明らかだからです。

イザヤ 53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」

イザヤ 53:11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」

2021年10月1日金曜日

癒しは戦い その3

 「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカ 4:38-39

イエス様が熱に対して叱りつけて癒したのなら、それをそのまま見本にしても悪くありません。このイエス様のやった事を真似して実践する事が悪いケースになるという様な適切な解釈はありません。神学的にそれはおかしいと熱く説明する方が本当に「おかしい」事に気付くでしょう。多くのケースにおいて、私たちはイエス様が私たちの模範として示した行動は全てそのまま行って良いのです。しかし、全人類の贖いの為に十字架に掛かるという「救い主」としての行為は私たちにはできません。

イエス様がシモンの姑の熱を叱りつけたのは、その熱を敵とみなしているからです。熱の背後に働いていた悪霊という事もあるでしょう。ポイントは、病気であれ悪霊であれ、それらは私たちの敵であると考える事です。従って、私たちは神様に癒して下さいというお願いの祈りをするのではなく、悪霊や病気に向かって命じて追い出すのです。これが癒しの祈りです。ですから、癒しを行なうという事は敵と戦うという事なのです。

私たちも主と共に戦う

私たちは「この戦いは主の戦いだ」と言って、神様に戦ってもらうようにと教えられたかもしれませんが、その様な考えは古い契約の視点から見たものです。

「その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」第二歴代誌 20:1-3 

3節では、「ヨシャファテは恐れた」と書いてあります。従って、彼は信仰によって行動してはいませんでした。
「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」第二歴代誌 20:12

この節でも、ヨシャファテが途方に暮れて、ただ神様にお願いしているのが分かります。後の17節では、「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」と神様が預言者と通して言っています。何故、神様がヨシャファテの代わりに戦ったのでしょうか?それは、ヨシャファテが信仰によって歩んでいなかったからです。

基本的に、旧約の時代には信仰によって歩んでいる人は多くはいませんでした。へブル人への手紙の11章にはアベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちが信仰の人だったと書いてあります。しかし、彼らでも、今日のクリスチャンの様にキリストの権威と聖霊の力によって歩む事はできませんでした。新しい契約の下で歩むクリスチャンは、神の子として生まれ変わったので、神の全ての武具を身に付けてサタンと戦えますが、聖霊が豊かに降り注がれる前の時代に生きていた人たちには、その様な恵みはなかったのです。

2021年9月23日木曜日

癒しは戦い その2

信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じて実際に目の前の病気や病人が癒される事を信じなければいけません。

さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由があるのには理由があります。癒しの信仰をくじく為にサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。

敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方がよっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。

主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのはあまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。

残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもいいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8