癒しを幾らか体験した人でも、今しばらくの間は、信仰によってあらゆる病人・病気の癒しを100%の確率で見る事はまだないでしょう。それは、私たち神の子がまだ十分に成長していないからです。しかし、今の状況でも癒される可能性があるのなら、そこに目を向けるべきです。癒されないケースを見て諦めるのは、信者として正しい態度ではありません。イエス・キリストを主として歩む人なら、よりポジティブに考えて生きる事ができるはずです。
ある人たちは、癒しに関してとても否定的に見ています。癒されなかったケースばかりを見て、信仰の戦いを通らずに諦めるのは本来のクリスチャンの姿ではありません。むしろ、クリスチャンであるなら例え僅かなチャンスで癒されるとしても、前向きに行動するべきでしょう。小さなチャンスをものにする未信者の様々な努力を私たちも見習うべきです。何でも直ぐに諦めてしまうクリスチャンは、未信者に対して良い証しをしていません。
諦めるのが早すぎるクリスチャンが多いのは、「神の主権」に関する誤解が蔓延しているからです。病や死に関しては、信仰にあって歩む努力は必要ないという考えは、それらに打ち勝ったイエス様の姿とは逆のものです。私たちはキリストに似た者として、圧倒的な勝利者として歩む様に考えを一新しなければなりません。思考の一新によって私たちが神の子として歩み成長して行く程、信仰による癒しがより多く見られるようになります。
一度だけの祈りで諦めるのではなく、癒しが見られるまでやり続けるのが信仰の祈りです。それは、疑いを持ちながらの祈りではありません。希望の祈りでもありません。信仰によって主の御心の通りに癒される事を信じて疑わない祈りです。その時に私たちは山を動かす事ができます。敵もしつこく攻撃しますが、私たちは勝てる戦いを直ぐに諦める必要はありません。主の御心は私たちがあらゆる束縛から解放される事なのです。病は神からのものではありません。
「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39
私たちに必要な見方・考え方は、癒しは敵との闘いであるという事です。病と病をもたらす存在がいる事を知らずにいると諦めるしかないのですが、私たちは聖書が教えている癒しの真理を正しく知って自由になる事もできるのです。神様次第で病人の生死が決まるのではなく、地上の事柄を任された私たち神の子がその生死を決定できるのです。諦めて弱音を吐いてその通りの結果を見るか信仰によって難しい状況を動かすかは、神ではなく私たちの言葉と考えがそれらを決定するのです。
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」箴言 18:21