2021年7月27日火曜日

癒しとキリストの贖い その2

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:17 

上の聖句とイザヤ書の関連性を神学的に認めても、使徒マタイが意味したイザヤの預言の成就は、必ずしも今日のクリスチャンが癒される事はないという主張が二つあります。一体どういう事なのでしょう?

その主張は、「キリストが十字架に掛かる前に人々を癒し、その時、その瞬間にイザヤの預言が成就したとマタイは言ったのだ」という事を土台に置いています。従って、その後にキリストが十字架の刑に処せられた贖いとは違う、それ故に、キリストの贖いに癒しは含まれないとする主張です。

しかし、この主張が通るなら、イエス様が十字架に掛かる前に人々の罪を赦したという事実から、罪の赦しはその時にあっただけで、今日は通用しないという事にもなってしまいます。

もう一つの主張は、癒しが贖いにあって今日のクリスチャンが癒される事があったとしても、神様の御心は全ての人を癒すとは限らないとするものです。これら二つの主張(誤解)を解くには、神の御心について聖書から説明しなければなりません。そしてその説明とは、「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」という引用を持って、「神の癒しの御心は分からない」と結論付ける私的解釈によるものではありません。

個人的な体験や五感からくる情報だけで判断するのではなく、神様の御心は聖書から判断するべきです。この場合、特に新約聖書を中心に学ぶ必要があります。何故なら、神は新しい契約の中により優れた真理を私たちに知らせたからです。