2021年9月23日木曜日

癒しは戦い その2

信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について細かく言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じ、実際に目の前の病気や病人が癒される事も信じなければいけません。

さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由は、信者の信仰をくじく為のサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。

敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方が、よっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。

主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのは、あまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。

残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもよいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8