イエスは既に私たちを癒して下さいました。従って、私たちが経験する病気、苦難、痛みは真の現実とは言えません。確かに、この一時的な現実、敵がもたらす嘘は、私たちが体験する事が可能であり、私たちがそれを放置するなら、私たちを支配してしまうほどの脅威となる事を認識します。しかし、私たちがイエスの御名において、それに出て行くように命じるなら、聖霊はご自身の力によってこの嘘を打ち破って下さるのです。
2021年11月15日月曜日
時には神が病気をもたらす?
「神様は素晴らしいお方です。アーメンですか?」と講壇から力強く説教されれば、一般的なクリスチャンであれば、誰もが「アーメン!」と答えるに違いありません。「神様は私たちに全て良いものを与えます」と言われると、こちらも「アーメン!」と応答するはずです。しかし、「主はどんな時にも癒しますよ!」と誰かが言うと、どれくらいのクリスチャンが同意するでしょうか?
「神の御心」を「神の気まぐれ」という定義で考えている人は多いようです。 それは、「私たちには全く予測不可能な不思議な事を神はなさる」という見方と同じ事です。多くの場合、次の聖句の曲解がそのような誤解を生んでいます。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ 55:9
この聖句から転じて、「神は時々病気(その他の災い)を持ってきて私たちを訓練する」という嘘が、教会に入って来たのです。しかし、そのような考えを持っていたのは古い契約の時代の人たちに限るべきであって、人間にとって知るべき全ての奥義が明らかになった今の時代から見ると、むしろ神の御心は一定して分かりやすいものとなっています。
新しい契約の下では、神の恵みがキリストの十字架によって人に分かるようになりました。誰も、キリストの十字架での贖いを見るまでは、父なる神の御心を完全に知る事は出来ませんでした。キリストの十字架を通さずにして、アガペーを語る事は不可能だからです。恵まれた事に、この時代に福音を聞いてそれを信じる人々には、豊かな神の恵みが増し加えられました。恵みと言う視点から癒しを見れば、神が病を癒す御心を常に持っているのは明らかです。
私たちが癒されたいと願うよりも、神の方が私たちを癒したいと思っておられるのです。この単純な事を知らずに、私たちは今まで神の愛を知っていたかのように振る舞って来ました。しかし、そのような愛は口先だけのものであって、神学によって真理を濁したものでしかありませんでした。愛は理論ではなく、実践的であって力のあるものです。ちょうど、キリストの犠牲が理論ではなく、実際に起きた事実であり、信じる人々に命を与える力であり、それは頭での理解を超えて人の心に響くものと同じです。しかし、私たちが愛を語る時には、本当に他の人の心に響いているでしょうか?
主の愛が何なのかを知らずに、それを人に伝えても伝わりません。主の愛は十字架の贖いにあります。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ 4:10
このアガペーの愛を知れば、「神が病気をもたらす時もある」などとは言えなくなります。何故なら、別の聖書の箇所では、私たちの病は既にキリストの打ち傷によって二千年以上も前に癒しの宣告をしたとあるからです。
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24
特に、キリストの十字架の御業が完了した後に生まれて来た人たちにとっては、生まれる前からこの約束が存在していたので、彼らにとっては最初から信じるだけで癒しを体験できたのでした。しかし、信じるだけで救われるという「霊の救い」ばかりが教えられたので、魂の救いや体の救い(病の癒し)については、人々は信じる事が難しくなったのです。
私たち信者は、どのような考えが正しいかを聖書的に判断して、正しい理解に至るべきです。しかし、今日では多くの神学が存在する為に、人々は様々な考えを持っているので、単純な真理が分からなくなっている事も事実です。では、別の角度から見ましょう。
私たちの主は、私たちが健康で生きていく為に、私たちの体に免疫機能を与えて下さっています。もし、あなたがこの言葉にアーメンと言えるなら、神の与えた免疫機能を超える病気を神ご自身ががもたらすと思いますか?
私たちは霊的に目覚めなければいけません。真理に目覚めなければいけません。目に見える一時的な現実ばかりを信じて、神の癒しを信じないという、幼い考えから目覚めるのです。そして、病気が神から来るという混乱した発言を止めて、敵の存在を知って戦うのです。真理を信じる事によって、私たちは自由になります。真理を信じないのなら、それは信仰ではありません。真の信仰とは、聖書の正しい知識(真理)を信じる事であり、それが自由をもたらすのです。
2021年10月12日火曜日
打ち傷によって癒された
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24
キリストの十字架上での贖いは歴史的に起こった事実として知られています。そうすると、イエス様が打ち傷を受けたという事実も過去の出来事として私たちは認識できます。それなら、既にイエス様が私たちの病の為に打ち傷を受けたという事なのです。ですから、この神の恵みを素直に心で信じるなら、どの様な病気であっても癒しされる事になるのです。
ここの「癒された」という意味は、「私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」の前半の部分と関係しているので、この場合の「癒し」は「罪の赦し」を意味するのだ、という解釈がありますが、それは違います。何故なら、この個所の「癒された」に使われているギリシャ語は ἰάομαι(iaomai)という語で、「肉体的な癒し」の意味で主に使われているからです。
罪の赦しだけではなく、病の癒しも十字架の御業の約束であるという事をペテロは言いたいのです。罪の赦しと病の癒しの両方が書かれてあるイザヤ書全体を基にして、ペテロはその要約(前半の罪の赦しの部分と後半の癒しの部分)を書きました。注意したいのは、ペテロはイザヤ書のどこかの箇所を完全に引用したのではなく、部分的に引用したという事実です。実際に、旧約聖書から引用されて新約聖書に書かれてある箇所は、その引用された節の一字一句全くそのままの通りに引用されてはいません。
イザヤ 53:5「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
イザヤはこの節で、キリストの贖いには罪の赦しと病の癒しがある事を言っています。「私たちの咎のため」とありますから、キリストが私たちの罪の為に砕かれたのです。それと共に、「打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」のです。この5節は前の3節と4節にある癒しに関する内容を受けています。
イザヤ 53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。53:4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」
これらの節では、キリストが私たちの為に病を担った事が書いてあり、4節はマタイが引用に使っています。(マタイ 8:16-17)これらの節では罪の赦しについて書いてありませんが、だからと言って罪の赦しは贖いに含まれない事はあり得ません。何故なら、別の箇所では罪の赦しについての贖いが明らかだからです。
イザヤ 53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
イザヤ 53:11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」
2021年10月1日金曜日
癒しは戦い その3
「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカ 4:38-39
イエス様が熱に対して叱りつけて癒したのなら、それをそのまま見本にしても悪くありません。このイエス様のやった事を真似して実践する事を悪いとする解釈はありません。神学的にそれはおかしいと熱く説明する方が、本当に「おかしい」のです。多くの場合、私たちはイエス様が私たちの模範として示した行動は全てそのまま行って良いのです。しかし、全人類の贖いの為に十字架に掛かるという「救い主」としての行為は私たちにはできません。
イエス様がシモンの姑の熱を叱りつけたのは、その熱を敵とみなしているからです。熱の背後に働いていた悪霊という事もあるでしょう。ポイントは、病気であれ悪霊であれ、それらは私たちの敵であると考える事です。従って、私たちは神様に癒して下さいというお願いの祈りをするのではなく、悪霊や病気に向かって命じて追い出すのです。これが癒しの祈りです。ですから、癒しを行なうという事は敵と戦うという事なのです。
私たちも主と共に戦う
私たちは「この戦いは主の戦いだ」と言って、神様に戦ってもらうようにと教えられたかもしれませんが、その様な考えも古い契約の視点から見たものです。
「その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」第二歴代誌 20:1-3
ここでは、「ヨシャファテは恐れた」と書いてあります。従って、彼は信仰によって行動してはいませんでした。「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」第二歴代誌 20:12
この節でも、ヨシャファテが途方に暮れて、ただ神様にお願いしているのが分かります。後の17節では、「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」と神様が預言者と通して言っています。何故、神様がヨシャファテの代わりに戦ったのでしょうか?それは、ヨシャファテが信仰によって歩んでいなかったからです。
基本的に、旧約の時代には信仰によって歩んでいる人は多くはいませんでした。へブル人への手紙の11章にはアベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちが信仰の人だったと書いてあります。しかし、彼らでも、今日のクリスチャンの様にキリストの権威と聖霊の力によって歩む事はできませんでした。新しい契約の下で歩むクリスチャンは、神の子として生まれ変わったので、神の全ての武具を身に付けてサタンと戦えますが、聖霊が豊かに降り注がれる前の時代に生きていた人たちには、その様な恵みはなかったのです。
2021年9月23日木曜日
癒しは戦い その2
信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について細かく言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じ、実際に目の前の病気や病人が癒される事も信じなければいけません。
さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由は、信者の信仰をくじく為のサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。
敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方が、よっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。
主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのは、あまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。
残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもよいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8
2021年9月20日月曜日
癒しは戦い その1
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き10:38
イエス様は、「悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」とありますから、病気と悪魔には何かの関係がある事は明らかです。霊的な影響で病気になる事も実際あります。従って、私たちが病の癒しを考える時には、常に背後で働く悪魔・悪霊も意識するべきでしょう。多くのクリスチャンは敵を知らないので、「神様が癒して下さらない」という結論になりがちです。
しかし、私たちは神の子としてこの地上を治めて行く働きがあります。それゆえ、神様に何かをしてもらうという子供の考えから卒業して、自らが神の子として自主的に良い事をし始めなければならないのです。クリスチャンがキリストに似た者であるのなら、ちょうどイエス様がやった様に、「巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やす」必要があるのです。私たちがキリストの弟子として歩む事を決断するなら、私たちはキリストと同じ業を行なう事ができます。何故なら、弟子はキリストが弟子たちに教えた全ての事を守る者だからです。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ 28:19-20
「弟子としなさい。」とありますから、ただ「未信者をクリスチャンにしなさい」事とは少し違います。クリスチャンでも、キリストの弟子としての意識で歩んでいない人たちもいます。本来は、全てのキリストの信者はキリストの弟子であるべきですが、残念ながら、その様に一般には教えられていません。しかし、私たち信者は弟子として自身の十字架を背負ってキリストの教えに従うべきなのです。ですから、キリストの弟子として信じている者は、次のような約束を実現できます。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ 14:12
イエス様の行ったわざを行なうとは、どの様なものでしょうか?その一つには、悪魔のわざを打ち破る事です。
「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第一ヨハネ 3:8
私たちも悪魔のわざを打ち破る為に、この地上で神の子として歩む事ができるのです。また、その様にする事を神は望んでおられます。そして、悪魔のわざである病気を打ち破る事が私たちの使命なのです。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18
弟子として信じる人々には、キリストがやったわざを行なう事ができるのであって、それはキリストの弟子としてのしるしです。その中には癒しも含まれています。
余談ですが、マルコ 16:9-20 はバチカン写本などの古い写本には無いという事で、それらの節の信頼性が欠けるという神学者の意見があります。「最も古い写本がより原文に近い」とされているからですが、9節から20節まで欠けている写本が「より原文に近くて正確」なはずがありません。「古ければ良い」というのは人間的な考えなのです。
「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」ルカ 5:39
バチカン写本、シナイ写本などよりも後に発見された多くの写本は、ビザンチン型の写本であり、これらの多くの写本はほぼ一致しています。それから、「写本と原本に違いがある」事も覚えておくべきでしょう。
2021年9月17日金曜日
神が癒さない事もある?
神が意図的に特定の病人を癒さない事があると信じているクリスチャンは多いものです。しかし実際には、既にキリストの打ち傷によってあらゆる病気は癒されています。癒しは贖いの御業の中にあるのです。従って、神が癒すかどうかは問題ではありません。真の問題は、癒しの約束を信じ、信仰の戦いに勝って現実を変えて行く所にあります。
「救う」というギリシャ語は sozo ですが、この語は「病気からの救い」も含まれています。総合的な「救い」という意味があるので、病気からの救いなら「癒し」と訳されても構わないのです。或いは、「解放」と訳されても構いません。ですから、救う神は癒す神であり解放するお方である事を私たちはしっかりと認識しなければいけません。キリストはあらゆる形の虐げから救う為に来られ、既に私たちを救ったのです。癒されていないという現実は神のせいではありません。むしろ、私たちがその癒しの約束をどうするかが問題であって、聖書の約束によるとその真理を信じて受け入れれば解放されるという事なのです。
多くの人たちが、病の癒しが「救われる事」より難しいと考えるのは、目に見える一部分に結果の全てが反映されていると思っているからです。しかし、ただ肉の目で見ているものは、全体の一部分であって結果の全てがそこに表されているのではありません。癒しに関して言えば、キリストの打ち傷によって既にあらゆる病は癒されているのです。これは真理です。現実はそれとして認識します。しかし、信仰によって御言葉の真理に立つなら、見ている現実が真理の力によって変わるのです。
肉の目で見ている現状は、本当に何が起きているかの一部分に過ぎません。常に肉の目で歩んでいるなら、悪霊の存在を知らずに歩む事と同じです。たとえ聖書を知っていても活用していない歩みは信仰による歩みとは違います。悪霊がどの様に働いているかを知らずにいると、神の武具を身につける心構えのない生き方になります。自らの油断が癒しの信仰を持てていない事だと認識して、大人の考えで歩み始めるなら勝利を見る事ができます。
私たちは長い間、癒されないのは神様の特別な計画として、神が癒さない理由を持っているとして来ました。それは、癒されない現状は神のせいにする事と同じなのです。病気は神からの試練ではありません。その様に見える現実があっても、それは真理ではないのです。それを神の御心と信じるのなら、サタンと悪霊の思うつぼです。私たちはむしろ悪に向かって戦って勝利を奪い取って行く必要があります。以前の私たちは、病気を神からのものとして受け止め、信仰の戦いをせずに諦めていました。しかし、もうその様な幼子の考えから卒業する時代に入っているのです。
2021年9月15日水曜日
病の癒しの祈り その4
「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24
このイエス様の教えからも祈りが宣言である事が分かります。まず最初にやるべき事は、問題である山に向かって宣言する事です。その時に、心の中で疑わないという事が条件になっています。また、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになるとあります。自らの宣言の通りになるのであるなら、既に得たと信じる事と同様であるとイエス様は言っているのです。それが24節です。
病気という山を動かしたいのなら、それに向かって退く様に言わなければなりません。その時、心の中で疑わない事が条件になります。そして、言った通りになると信じるなら、その通りになります。これがイエス様の教える祈りです。この祈りから分かるように、神様にあなたの問題を知ってもらう必要はありません。問題の詳細や、いかにその問題のおかげで苦しんでいるかを訴える必要もありません。何故なら、神はそれらを既にご存知だからです。特に、癒しの祈りに関して言えば、必ずしも神様に病状を知ってもらう為に言う必要がないのです。
私たちは神様に「~の事で困っています。神様、助けて下さい。」という祈りをして来ましたが、むしろ、「問題と問題の背後で働く悪霊ども、イエスの御名で命じる。出て行け!」なのです。何故この様な祈りが新生したクリスチャンの祈りになっているかと言えば、まず、イエス様が打ち傷を受けて私たちの病を取り除いて下さったからです。この約束があるゆえに、神様に癒してもらう為の嘆願が必要ないのです。何故なら、既に御言葉の約束によって既に癒されているからです。また、何度も言いますが、私たちが神の子として新生されたゆえに、神の権威が与えられているので、病気に命じて去る様に言うのです。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12
新改訳聖書では「特権」という訳にしていますが、これはギリシャ語の exousia という語で「権威」という意味を持ちます。神の子供であるクリスチャンは、神の権威を行使できます。それは、イエス・キリストの名を使うという意味です。私たちがイエスの御名で祈る時には、その御名の権威を使う事を知らなければいけません。ただ理由も知らなくて宗教的・儀式的にやってしまうと恩恵がありません。その御名で悪霊を追い出し、病を癒すのですが、多くのクリスチャンはその実用性を知りません。それが聖書にある事くらいは知っているかもしれませんが、日常で有効に使われていないのです。
「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒の働き 3:16
信仰を持って新しい契約に沿った御言葉の教えを宣言するなら、その通りになります。そして、病の祈りをこの御言葉の法則当てはめるなら、病を敵からの攻撃だと見なして追い出して行けばよいのです。敵を知らずに神様にお願いする従来の間違った祈りで癒しを期待するのなら、1割の確率しか期待できないでしょう。実際に、教会で癒しが見られるのは1割くらいだと言われています。主の憐れみはありますが、主は私たち自身が神の子として戦って勝利を掴む事を望んでおられるのです。従って、癒しを戦いと見なして祈っていくなら、より多くの癒しを体験する事になるのです。
2021年9月14日火曜日
病の癒しの祈り その3
私たちが命じる祈りをするべき理由は、第一に、それがイエス様が弟子たちに教えたものだからです。古い契約時代の未来が分からない単なる希望の祈りではなく、結果が分かるがゆえの宣言なのです。希望の祈りは結果を知らずに望みますが、信仰の祈りは結果を知っているがゆえの祈りです。御言葉の約束に基づいた祈りです。何故その様な祈りが出来るかと言えば、キリストを信じた私たちが神の子として新生したからであり、神の子として大胆に「父よ!」と言える立場になったからです。
福音書に「主の祈り」と呼ばれているものがありますが、あれはイエス様が弟子たちの為に祈りについて教えものであって、本来は「弟子の祈り」という表現が正しいです。実際に、「主の祈り」は神ご自身がするのではなく、弟子たちがするべき祈りです。さて、イエス様はその祈りの教えの中で祈りの本質について言っています。そして、使われている動詞が命令形になっている所にもヒントがあります。
「御名が聖なるものとされますように。」マタイ 6:9
「聖なるものとされますように」はお願いを意味していません。日本語は丁寧な表現になっているのでお願いをしているかのようですが、ギリシャ語では命令形になっているので、直訳なら「聖なるものとされよ」です。
「御国が来ますように。」マタイ 6:10
「来ますように」の箇所の動詞もギリシャ語では命令形になっていますので、直訳なら「来い」になります。
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」マタイ 6:10
「行われますように」の箇所の動詞は「成る」の命令形なので、ギリシャ語から読めば「みこころが天で成るように、地でも成れ」です。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」マタイ 6:11
「お与えください」も命令形になっているので、「与えよ」です。
「私たちの負い目をお赦しください。」マタイ 6:12
「お赦しください」も命令形なので、「赦せ」となります。日本語では何だか乱暴な言い方に聞こえますが、乞い願うという意味で「どうか赦して下さい」にしてしまうなら、本来のイエス様の教えと違ってしまいます。私たちは神に対して「赦して下さい」とお願いする必要がないからです。何故なら、私たちのその願いよりも先に主は私たちを赦して下さったからです。神の恵みはまだ私たちが罪人であった時にも既にありました。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8
「悪からお救いください。」マタイ 6:13
「お救いください」には「お」と「ください」がある為に、お願いしているような響きですが、実際には「救え」という命令形で書かれています。従って、ここも直訳にしてしまうと日本語では丁寧さに欠ける言い方に聞こえても仕方ないでしょう。理解の鍵は、動詞の命令形を用いる事によって何の意味があるかです。イエス様が弟子たちに理解して欲しかったポイントは、「神に対して高慢になって命令しなさい」ではなく、「大胆に要求しなさい」という事なのです。
私たちは神の子なので、父なる神に大胆に当然のものを要求しても構わないのです。むしろイエス様は、神の約束を大胆に宣言して神の子として歩みなさいと教えています。パリサイ人と律法学者は、その様な態度や行動を「神に対する冒涜」だと言ったのですが、イエス様は弟子たちに神を父親の様な方だと教え、何でも大胆に求める様に教えたのです。親が子供を見て喜ぶのは、その子供が親を完全に信頼しきっている所です。信頼があれば、変な遠慮がなく大胆に求める事ができます。もちろん、神の子として求めるという事は肉の思いから来る利己的な悪い動機に基づいてはいません。神の子は御霊の思いで父なる神に求め、天からの良いものを期待するのです。
「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」ヤコブ 4:2-3
2021年9月12日日曜日
病の癒しの祈り その2
私たちは神様に癒して下さいと祈るべきだと教わってきましたが、イエス様や使徒たちはその様な祈りによって病人を癒してはいません。そもそも、新しい契約の下での祈りは「神様に乞う」事ではありません。イエス様が教えている祈りとは、神の子として大胆に「御国が来るように!」と宣言する祈りです。別の言葉で言えば、それは信仰に基づく祈りです。
聖書の教える信仰とは、神と神の御言葉を信じるという事であり、それは、信じた故に約束の結果を知るという事です。例えば、イエス・キリストが、神の子として私たちの為に十字架の御業を通して救って下さったという御言葉の真理を信じれば、神の刑罰から救われる事になります。信じるなら永遠の命が与えられるという結果を知る事になるのです。それと同じ様に、御言葉を信じるなら癒されるという結果を知る事になるべきです。しかし、十字架の御業で約束されている罪の赦しに対して疑うクリスチャンはあまりいませんが、病の癒しは疑う人が多いものです。
信じても罪が赦されたと感じられないと言う人に、「御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスは究極的なものです。結局は、神の言葉そのものが約束しているという所に信頼を置くしかないのです。そして、神は約束を破るお方ではありません。従って、信じても癒された感じがしないという人には、「キリストの打ち傷によって癒されたという御言葉の約束を信じなさい!」というアドバイスも究極的なものです。
御言葉が示している様に、キリストの打ち傷によって病の癒しが約束されているのなら、神様にお願いして癒してもらう必要もありません。何故なら、既に神の御心は病人を癒す事であり、既に打ち傷を受けたイエス様が全ての御業を成し遂げて天に帰ったからです。後は、その約束通りになる様に命じる事、宣言する事です。これが新しい契約の下で私たちがするべき癒しの祈りの心構えであり、それと共にイエスの御名と言う権威を行使すれば、病は癒され悪霊は出て行く事になるのです。従来の「お願いする祈り」は、父なる神が私たちに期待している祈り方ではありません。父なる神の約束の言葉を信じる子供たちであるなら、大胆に宣言していく事を天の父は望んでいるのです。
「神様、癒して下さい!」ではなく、「イエスの御名によって命じる!病よ出て行け。癒されよ!」という様な信仰に基づく命令や宣言が新し契約の下での神の子としての祈りです。この様な祈り方は、古い契約の時代にはありませんでした。しかし、イエス様は大胆に求めるように祈りなさいと弟子たちに教えたのです。その大胆さは、神を「父」と呼ぶくらいだというものです。主は私たちを子供のように見ていますし、私たちは実際に神の子になりました。ですから、私たちも神を天の父として見るべきです。そこには深い親子の関係があります。この深い絆があるので、私たちは神の子としてあらゆる障害や山に命じて問題を解決して行くのです。
2021年9月11日土曜日
病の癒しの祈り その1
2021年9月4日土曜日
癒しと神の御心
2021年9月3日金曜日
癒される為にするべき事
2021年9月2日木曜日
信仰と神の癒し
「信仰による癒しが一度でも失敗するなら、それは神の癒しではない」、或いは、「瞬間的な癒しでないなら、それは神の癒しではない」などの誤解を持っている人もいます。しかし、薬を通して徐々に回復して癒された場合でも、神が癒して下さったと見なして神を褒め称えるクリスチャンは多いものです。ところが、信仰によって病人に手を置いて癒すという方法などに限っては、イエス様が福音書の中でやった様に全く同じ結果を出さなければならない、そうでなければ神の癒しではないという考えに固執している人たちがいます。どうしてでしょうか?
神学的な立場にこだわり過ぎて熱くなっている人たちは、いつの時代にもいるものです。そうした人たちの中には、実際に神の癒しを体験している人はあまりいません。彼らは癒しの体験よりも、むしろ周りに癒されていない人たちを見て来た事が多い為に、御言葉の真理よりも現状ばかりを見て結論付けているのです。必死に祈っても結果が出ない事もあります。しかし、そうした失敗ばかり見て諦める必要はありません。成長を目指している私たちは、その成長の過程で失敗する事はあるでしょう。しかし、圧倒的な勝利者として日々奮闘して歩んで行こうとする姿勢が私たちの持つべき信仰です。
私たちが思い出す必要があるのは、まず神の力は信者の内にあるという事です。(エペソ 3:20、コロサイ 1:29)神の力は各信者の信仰の成長と思考の一新に応じて発揮されます。成長の初期の段階にいる私たちは、信仰による癒しを9割を超える高い確率で見る事はまだ多くはありません。瞬間的な癒しもあったりますが、全てがそうでもありません。そして、私たちは、瞬間的な癒しになるように思考を一新するべきです。私たちが成長の道を進んで行けば、より難しい状況でも大胆に信仰に立って神の栄光を表す事が出来るように(すなわち、癒しが出来るように)なり、その確率も癒しのスピードも良くなってきます。今それが出来ないからといって、そこで諦める必要はありません。
神は、私たちがその域に達するまで成長して大胆に歩む事を望んでいます。従って、今の状況で完璧な癒しを求める必要はありません。成長の途中なのに、100%の癒しの確率を求める信者は、その人自身が無茶な注文をしている事に気づいていません。しかし同時に、キリストにあって何でも出来る私たちは完璧主義の心構えで前進するべきでもあります。常にポジティブに考えて宣言する事は、クリスチャンとしてやるべき事です。例え時々失敗したとしても、常に「癒しが起こる」という信仰で歩むべきです。それとも、完全にキリストの身丈にまで成長していないと、その様に大胆に考えたり口にする事は許されないのでしょうか?
例えば、愛について語るクリスチャンの場合を考えて見ましょう。完全に成長していないクリスチャンでも神の愛を語る必要があります。講壇から神の愛を語る人の中で、イエス様の愛を完全に知っている人はまだいませんが、キリストの愛は絶対である事を伝えるのは私たちクリスチャンの使命です。同じ様に、100%の癒しではないといって、神の癒しに関して否定的に考える必要はありません。信仰の成長に応じた結果が出ているだけであって、神の約束に関して言えば、いつも「キリストの打ち傷」によって癒されるのです。
2021年9月1日水曜日
御言葉による成長:三つの扱い
「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ 4:4
未信者は、神の口から出る一つ一つの言葉で生きてはいません。信じていない彼らにとっては、御言葉の生きた力を自分のものとする事はできません。しかし、御言葉に沿って歩むクリスチャンなら、肉の糧であるパンだけで生きる事はしません。信者である私たちは、神の言葉によっても生きる者です。ちょうどパンから肉体に対する活力を得る様に、私たちの霊に対する活力は御言葉から得る事ができます。
御言葉を読む
癒しについて聖書が何を言っているか分からないのなら、癒しに対しての正しい信仰を持つ事はできません。信者の歩みは御言葉を読む事から始まります。多くのクリスチャンは専門家の解釈に頼り過ぎていますが、今では原語の意味を調べる事が素人でも出来るようになっています。信者一人一人が、可能な限り自分で読んで何が書かれてあるかを確かめるべきです。何が真理であるか確信を持てない間は、異なる教理に耳を傾ける事も必要だと言えます。
御言葉を学ぶ
聖書の解釈が無数にあっても良いとするのであれば、何をどう信じても構わないとするのです。ところが、真理は一つしかありません。そして、真理は聖書にあるのです。何が複雑にしているかと言えば、無数にある神学論です。多くの神学論は部分的な聖句の引用や文脈を無視した読み方になっていて、旧約聖書と新約聖書をバランスよく取り扱っていません。多くの神学は旧約聖書の視点から考えられていて、新しい契約を忘れているかのようです。
御言葉を正しく学ぶ鍵は、古い契約と新しい契約の相違を明確にする事です。時代別に神の摂理があるという見方ではなく、モーセの律法に基づく古い契約の時代と、キリストの新しい戒めに基づく新しい契約の時代があるだけです。現代でも適応される旧約聖書の聖句は、真理について書かれてある箇所だけです。モーセの律法の視点から書かれてあるものは今日では必要ありません。
御言葉を黙想する
私たちが黙想すべき御言葉は、主に新約聖書からになります。何故なら、私たちが知るべき必要な全ての真理がそこにあるからです。その真理の御言葉によって思考が一新される時に、私たちは多くの問題から解放される事になります。御言葉の黙想とは、真理の御言葉を思い巡らし、口ずさんだり宣言したりする事を指します。御言葉の教えに反する事を考えたり口にするのではなく、神の生きる言葉を発して歩むのが私たちクリスチャンのやるべき事です。
2021年8月30日月曜日
癒しはキリストの贖いにある その3
パウロによる理解
パウロは癒しについてどう理解していたのでしょうか?実は、使徒たちの手紙の中で癒しについて書かれている箇所は僅かです。多くの書簡を書いたパウロでさえ、キリストの癒しの真理に関して書いてあるのはコリントの手紙くらいです。
「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」第一コリント 11:27-30
ここは、聖餐式に関してパウロがコリントの信者に注意した箇所です。パンとぶどう酒がキリストの十字架を象徴しているのは明らかです。これらをよく理解しないで単なる飲み食いにしてしまうなら、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とパウロは言っています。
29節の「キリストのからだ」をわきまえないで飲み食いする事が原因で、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とパウロは言っています。何故キリストの「血」ではなく「からだ」をわきまえない事が、病人が多くなった原因だとしているのでしょうか?それは、キリストのからだが受けた打ち傷によって私たちが癒やされるという約束があるからです。キリストはご自身の体に打ち傷を受けて私たちの病を背負ったのです。
正餐式はキリストの十字架の贖いの象徴です。キリストの血による罪の赦しを理解せずに、その恩恵を受け取る事はできません。同様に、キリストが何故ご自身の体を捧げて打ち傷を受けたのかをよく理解せずにパンを食べるなら、私たちは癒しの恩恵を受る事ができないのです。これらを信仰によって行うなら私たちは祝福を受け取る事ができるのですが、単なる飲み食いにするなら何の恩恵もないという事なのです。
新約聖書の使徒たちが書いた書物によれば、贖いの一部としてキリストは病を背負ったのであり、打ち傷として受けたという預言の成就であり、そしてそれは現代でも聖餐式を通して受けられる神の祝福なのです。
2021年8月29日日曜日
癒しはキリストの贖いにある その2
病の癒しが贖いに含まれないとする神学は、信じても癒されないという現実を土台にしてその主張をサポートする聖句のみを選んで聖書を解釈しています。そして、癒されているケースに関しては、神の気まぐれな御心は何でも無効にするという解釈で丸く収めようとします。
確かに、癒しを信じているような人でも癒されていない現状はあります。しかし、肉の目に見える現状と真理を語る御言葉は全く違うものです。また、実際に信じているかどうかを良く見てみると、おかしな土台に基づいた信仰になっているケースが殆どです。もう一つ鍵となるのが、敵の攻撃として病がもたらされる事が関わっている点です。これらを総合的に見ないと、私たちは病の癒しを見る事は難しいでしょう。
ここでは、新約聖書が病の癒しはキリストの贖いに含まれる事を示しているかどうかに視点を合せたいと思います。何故なら、旧約聖書の書物の著者たちは聖霊による新生の体験が無いので神の子ではなかった事、そしてキリストによる新しい契約の奥義などを知らずに書いている為に、多くの真理を部分的にしか知る事が無かったからです。
マタイの引用
「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイ 8:16-17
マタイはイザヤ書 53:4 の一部を引用して「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」と言いました。しかし、一部の神学によると、使徒マタイの意味する預言の成就はイエス様が十字架に掛かる前に病人を癒した時なので、キリストの贖いに癒しは含まれないとするものがあります。しかし、預言の成就は現在も進行しているのであって、罪の赦しと同様に病の癒しはキリストによる贖いによって明らかにされた真理なのです。真理は普遍であり神の御心と性質を示す永遠の事柄です。聖霊の力による癒しは「使徒たちの時代に終わった」のでもなく、「現代医学に取って代わった」という事でもありません。実際に、聖霊の働きは現在でもありますし、現代医学では癒せない病気が沢山あるのが現状です。
ペテロの引用
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24
この節の前半は罪の赦しがあり、その後半には病の癒しの真理が書かれています。ある神学によれば、前半が罪の赦しについて言及している為に、打ち傷による癒しは罪の赦しを意味すると解釈しています。しかし、罪は癒されるのではなく赦されるのです。「癒された」の訳になっている単語をギリシャ語でみると ἰάομαι が使われています。これは病気などの癒しを意味するものであり新約聖書に28回出てきます。第一ペテロ 2:24 では「罪の赦し」という意味でペテロが書いたのでしょうか?
この節でペテロが言っているのは、罪の赦しと病の癒しが贖いにあるという真理なのです。キリストの贖いは罪の赦しだけではありません。ペテロは、罪の赦しに関してはイザヤの預言を理解して書いています。病の癒しに関しての預言は直接イザヤ 53:5 の後半を部分的に引用しています。ペテロは、罪の赦しと病の癒しがキリストの贖いあるとして、この節でまとめたのです。
2021年8月28日土曜日
癒しはキリストの贖いにある その1
「肉体の癒しはキリストの贖いに含まれないと言う学者がいるとするなら、その人はギリシャ語の学者ではないか、或いは、嘘をついている。」T. J. マックローサン
マックローサン博士は著名な牧師であり、作家、聖書の教師、そして大学でギリシャ語とヘブライ語を教えていた学者としても高く評価されていた人です。彼の書いた本、Bodily Healing and the Atonement の中にクリスチャンがキリストの贖いの中に癒しがある事を信じるべき6つの理由を挙げています。この本の中にも、癒しについての正しい理解に至る幾つかの重要な鍵を見つける事ができます。
理由①
「神は病人を癒した事があり、神は永遠に変わらないお方であるから。」
過去に起きた一つの癒しは、現代の私たちにも当てはまるとマックローサン博士は言います。何故なら、主が良いお方であるという真理が永遠に変わらないからだという事です。
理由②
「キリストは私たちの罪だけでなく、病をも贖って下さったから。」
マックローサン博士は、イザヤ書、マタイ、ペテロの手紙からの聖句を用いてその理由に触れます。解説は主に、へブル語とギリシャ語の原語からのもので、それによればキリストが私たちの病を背負ったという事です。この理解についてマックローサン博士は、アンドリュー・マーレ―の言葉からも引用して彼だけの考えではないとしています。
「主の義なるしもべが私たちの罪を負っただけでなく、私たちの病気も負って下さった。従って、私たちの罪を負い、私たちの病気を負う主は、贖い主の御業の不可欠な部分を形成しています。…体と魂は神の住まいとして一緒に役立つために創造されたのです。肉体の病的な状態は、魂の状態と同様に罪の結果であり、それはイエスが耐え、償い、征服する事になったのです。」アンドリュー・マーレ― (Divine Healing, pages 99 and 119)
理由③
「病は悪魔の仕業であるから」
使徒の働き 10:38 の引用により、病を悪の仕業だと説明しています。
理由④
「聖霊が教会におられるから」
キリストの上に臨んだ同じ癒しの聖霊の力が、今は教会である私たちクリスチャンの内に住んでおられるので、私たちは癒しを大いに期待できるとマックローサン博士は言います。
理由⑤
「キリストの病の贖いは今日の私たちにも適応されるから。」
マックローサン博士は癒しがマルコ16章にあるキリストの宣教命令の一部である事を説明しています。
理由⑥
「主の素晴らしい約束だから」
主が病を癒して下さるという御言葉の約束についてマックローサン博士は、イエス様が「祈って求める事は何でも」の中に含まれるとします。つまり、私たちが病の癒しが必要な時は、それを求めても良いと主が約束されている事、そして癒しの約束を私たちは信じるべきだとしています。
2021年8月27日金曜日
癒される可能性を見る
ある人たちは、癒しに関してとても否定的に見ています。癒されなかったケースばかりを見て、信仰の戦いを通らずに諦めるのは本来のクリスチャンの姿ではありません。むしろ、クリスチャンであるなら例え僅かなチャンスで癒されるとしても、前向きに行動するべきでしょう。小さなチャンスをものにする未信者の様々な努力を私たちも見習うべきです。何でも直ぐに諦めてしまうクリスチャンは、未信者に対して良い証しをしていません。
諦めるのが早すぎるクリスチャンが多いのは、「神の主権」に関する誤解が蔓延しているからです。病や死に関しては、信仰にあって歩む努力は必要ないという考えは、それらに打ち勝ったイエス様の姿とは逆のものです。私たちはキリストに似た者として、圧倒的な勝利者として歩む様に考えを一新しなければなりません。思考の一新によって私たちが神の子として歩み成長して行く程、信仰による癒しがより多く見られるようになります。
一度だけの祈りで諦めるのではなく、癒しが見られるまでやり続けるのが信仰の祈りです。それは、疑いを持ちながらの祈りではありません。希望の祈りでもありません。信仰によって主の御心の通りに癒される事を信じて疑わない祈りです。その時に私たちは山を動かす事ができます。敵もしつこく攻撃しますが、私たちは勝てる戦いを直ぐに諦める必要はありません。主の御心は私たちがあらゆる束縛から解放される事なのです。病は神からのものではありません。
「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」へブル 10:39
私たちに必要な見方・考え方は、癒しは敵との闘いであるという事です。病と病をもたらす存在がいる事を知らずにいると諦めるしかないのですが、私たちは聖書が教えている癒しの真理を正しく知って自由になる事もできるのです。神様次第で病人の生死が決まるのではなく、地上の事柄を任された私たち神の子がその生死を決定できるのです。諦めて弱音を吐いてその通りの結果を見るか信仰によって難しい状況を動かすかは、神ではなく私たちの言葉と考えがそれらを決定するのです。
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」箴言 18:21
2021年8月26日木曜日
癒しと神の主権 その3
人は自分で悪い種を蒔いて刈り取っている事が多々あります。その様にして健康を失う事が確かにあります。しかし、本来は存在していなかった病気が存在する様になったのは、サタンが原因なのです。病気は神の創造には含まれていません。もちろん、そのサタンに同意して罪を犯した人間にも責任が問われます。その責任を認識させる為に、神はモーセの律法をもたらしたのです。人間が自分自身の犯した罪について認識する必要は、確かにありました。そして、律法が要求する刑罰は呪いとも呼ばれていて、その中には病気も含まれていました。しかし、この考えは旧約時代の古い契約の下であって、神はついに恵みによる救いの道をイエス・キリストを通して示されたのです。
新しい契約の視点
新しい契約に入ってからは、罪も病気もイエス・キリストの十字架の御業によって取り除かれました。今私たち人間のするべき事とは、イエス・キリストの御業を信じて罪の赦しと病の癒しの恵みを受けて、新しい霊として生まれ変わる事なのです。この十字架による恵みの現れは神の御心の現れであって、人がその恵みを受け取る事を神は望んでおられます。旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。
古い契約の視点
申命記28章4節によれば病気は呪いとして扱われていますが、その呪いは神から与えられるものではなく人間自身の罪が原因でした。罪ゆえに律法の刑罰がありました。従って、罪が原因となって病が入り込んだのは間違いありません。アダムの違反のゆえに病が入り込んだのは間違いないのです。従って、誘惑したサタンとその誘惑に負けたアダムが病をもたらしたと言えます。サタンは病気という形の悪をもたらそうとしたのであり、アダムはそれをウェルカムしてしまったのです。神はサタンの罪にも人の罪に対しても責任はありません。むしろ、義を持ってサタンを裁き、恵みを持って人に救いの道を与えました。しかし、それらの真理が示されたのはイエス・キリストによってであり、古い契約の時代にはその真理の大部分は隠されていたのです。
神の性質
古い契約の時代の神は冷酷であったと思う人は多いでしょう。しかし、主はとこしえに恵み深いお方で常に良いお方です。この真理を人間が知らなかっただけです。そして、その真理を伝える為にイエス様が天から来られました。イエス・キリストの贖いの為に、父なる神は人の罪に対して怒って罪の責任を問う事はもうありません。赦しという恵みと癒しという恵みが新しい契約に示されているのです。
しかし、人は罪を通して悪い種を刈り取ってしまう事があります。神はイエス・キリストによって人の罪自体を赦していますが、その人自身が罪を犯す事によって周りの人に迷惑をかけた場合は、責任を取らなければいけない事や自分自身に対して害(病気を含む)を受ける事もあります。これは種まきの法則です。しかし、主を求める人には、ご自身の恵みによってそれらの問題に対する解決策をもお示しになります。
新しい契約の下では、主の介入は常に人に良い事をもたらします。決して災いをもたらす事ではありません。人の罪に対して主の裁きという介入があるのではなく、人が主の助けを求める時や主に信頼を置く時に恵みという主の介入があるのです。従って、病気を試練と考えて神様からのものだとしてはいけません。
真理が人を解放する
病気や人の死を通して、それらをきっかけとして、私たちは何かを学ぶ事もあるかもしれませんが、病気や人の死そのものが何かを教えるのではありません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何かを学ぶ時というのは聖書の真理を学ぶ時であって、それを聞いて知った時なのです。
ですから、困難な経験を通らなくても私たちは常に聖書から真理を学ぶ事が出来るのです。人がつらい経験を通るのは主がそれを持ってくるからではなく、サタンからの攻撃にあっているケースが殆どです。それ以外のケースでは自分で蒔いた種を刈り取っているだけなのです。霊的な歩みを心掛けず主との交わりの外に出てしまうと、あらゆる困難に会う事になるでしょう。父なる神様はその主権を乱用して病気を持ってくる事をしません。それを「試練」と呼ぶのは私たち人間の浅はかな考えです。主を知らないからそう言ってしまうのです。そして、サタンである敵を知らない為に全ての災いも神からとするのです。
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「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」第一ペテロ 2:24 キリストの十字架上での贖いは歴史的に起こった事実として知られています。そうすると、イエス様が打ち傷を...