2021年10月1日金曜日

癒しは戦い その3

「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカ 4:38-39

イエス様が熱に対して叱りつけて癒したのなら、それをそのまま見本にしても悪くありません。このイエス様のやった事を真似して実践する事を悪いとする解釈はありません。神学的にそれはおかしいと熱く説明する方が、本当に「おかしい」のです。多くの場合、私たちはイエス様が私たちの模範として示した行動は全てそのまま行って良いのです。しかし、全人類の贖いの為に十字架に掛かるという「救い主」としての行為は私たちにはできません。

イエス様がシモンの姑の熱を叱りつけたのは、その熱を敵とみなしているからです。熱の背後に働いていた悪霊という事もあるでしょう。ポイントは、病気であれ悪霊であれ、それらは私たちの敵であると考える事です。従って、私たちは神様に癒して下さいというお願いの祈りをするのではなく、悪霊や病気に向かって命じて追い出すのです。これが癒しの祈りです。ですから、癒しを行なうという事は敵と戦うという事なのです。

私たちも主と共に戦う

私たちは「この戦いは主の戦いだ」と言って、神様に戦ってもらうようにと教えられたかもしれませんが、その様な考えも古い契約の視点から見たものです。

「その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」第二歴代誌 20:1-3 

ここでは、「ヨシャファテは恐れた」と書いてあります。従って、彼は信仰によって行動してはいませんでした。

「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」第二歴代誌 20:12

この節でも、ヨシャファテが途方に暮れて、ただ神様にお願いしているのが分かります。後の17節では、「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」と神様が預言者と通して言っています。何故、神様がヨシャファテの代わりに戦ったのでしょうか?それは、ヨシャファテが信仰によって歩んでいなかったからです。

基本的に、旧約の時代には信仰によって歩んでいる人は多くはいませんでした。へブル人への手紙の11章にはアベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちが信仰の人だったと書いてあります。しかし、彼らでも、今日のクリスチャンの様にキリストの権威と聖霊の力によって歩む事はできませんでした。新しい契約の下で歩むクリスチャンは、神の子として生まれ変わったので、神の全ての武具を身に付けてサタンと戦えますが、聖霊が豊かに降り注がれる前の時代に生きていた人たちには、その様な恵みはなかったのです。

2021年9月23日木曜日

癒しは戦い その2

信仰によってのみ癒しが起こるという法則が聖書の教えです。従って、私たちが最も重要視する部分はいかにその信仰を保って歩むかです。それ故に、私たち自身の成長などが癒しに関わってきます。信仰に立っていないのなら、癒しを期待できません。その様な時には、他の信仰に歩んでいる兄弟・姉妹の助けを必要とします。そして、癒しの信仰について細かく言うならば、それは聖書にある癒しの御言葉を信じ、実際に目の前の病気や病人が癒される事も信じなければいけません。

さて、信仰によって癒されるという事を基盤としながらも、癒しを常に霊的戦いとみなす理由は、信者の信仰をくじく為のサタン・悪霊による攻撃があるからです。敵は、私たちが諦める事を頼りに執拗に攻撃してきます。癒されても、再び痛みが戻って来るケースは良くある事です。この時に、同じ病が戻って来たとか、あの癒しは本物ではなかった等と疑わない様にする必要があります。堅く信仰に立って、癒されている事を宣言し、敵に退くように命じて下さい。

敵がいて邪魔をしているという事を知らずにいるので、多くのクリスチャンはその理由を別の所で見つけようとします。「神様が試練を与えている」と言って神様のせいにするか、「家系の呪い」と言ってサタンの策略を過大評価したり、旧約聖書を引用して信仰以外の宗教的な儀式(血潮の宣言、油注ぎの主張、特別な祈りや断食、悔い改めの儀式)から癒しを得ようとするのです。敵と戦う事以外で癒されないケースもあると覚悟を決めた方が、よっぽど病を癒す確率が高くなる事を私たちは知らなければいけません。戦わずにして癒しがあると思わない方がより癒しを見る事ができるのです。

主の御言葉を信じて癒しの約束を感謝して癒しを体験する事は確かに可能です。これだけでも癒されるケースは結構あるでしょう。しかし、敵がかなり邪魔しているケースも常に考慮しなくてはいけません。イエス様も病や敵に命じて癒しました。私たちもその例を模範にしましょう。敵は私たちが御言葉を信じていても、お構いなしに攻撃をする事があるのです。その敵の攻撃に対抗する事をせずに、全く違う事をして癒されようとするのは、あまりにも「霊の戦い」について知らなすぎです。

残念ながら、一般の「霊の戦いのセミナー」は、こうした実践的な部分を教えてはいません。その様な意味のない教えは、圧倒的な勝利者である神の子がいかに力を持っているかという視点に基づいていません。無意味に悪霊に話かけたり、過去に戻って何かをしようとしなくてもよいのです。私たちの古い人は既に十字架において死んだのであって、新しく生まれ変わった私たちにとって過去はもう過ぎ去ってしまっています。勝利者の目線で戦わないのなら勝てません。神の子として歩まないのなら、負ける事が多くなるでしょう。信仰によって癒される事を敵も知っているのです。それ故に、敵も必死に邪魔をして私たちの信仰をくじこうとしているのです。私たちはこの事を常に頭に入れておくべきです。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」第一ペテロ 5:8 

2021年9月20日月曜日

癒しは戦い その1

 「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」使徒の働き10:38 

イエス様は、「悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」とありますから、病気と悪魔には何かの関係がある事は明らかです。霊的な影響で病気になる事も実際あります。従って、私たちが病の癒しを考える時には、常に背後で働く悪魔・悪霊も意識するべきでしょう。多くのクリスチャンは敵を知らないので、「神様が癒して下さらない」という結論になりがちです。

しかし、私たちは神の子としてこの地上を治めて行く働きがあります。それゆえ、神様に何かをしてもらうという子供の考えから卒業して、自らが神の子として自主的に良い事をし始めなければならないのです。クリスチャンがキリストに似た者であるのなら、ちょうどイエス様がやった様に、「巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やす」必要があるのです。私たちがキリストの弟子として歩む事を決断するなら、私たちはキリストと同じ業を行なう事ができます。何故なら、弟子はキリストが弟子たちに教えた全ての事を守る者だからです。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ 28:19-20

「弟子としなさい。」とありますから、ただ「未信者をクリスチャンにしなさい」事とは少し違います。クリスチャンでも、キリストの弟子としての意識で歩んでいない人たちもいます。本来は、全てのキリストの信者はキリストの弟子であるべきですが、残念ながら、その様に一般には教えられていません。しかし、私たち信者は弟子として自身の十字架を背負ってキリストの教えに従うべきなのです。ですから、キリストの弟子として信じている者は、次のような約束を実現できます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ 14:12 

イエス様の行ったわざを行なうとは、どの様なものでしょうか?その一つには、悪魔のわざを打ち破る事です。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第一ヨハネ 3:8 

私たちも悪魔のわざを打ち破る為に、この地上で神の子として歩む事ができるのです。また、その様にする事を神は望んでおられます。そして、悪魔のわざである病気を打ち破る事が私たちの使命なのです。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」マルコ 16:17-18

弟子として信じる人々には、キリストがやったわざを行なう事ができるのであって、それはキリストの弟子としてのしるしです。その中には癒しも含まれています。

余談ですが、マルコ 16:9-20 はバチカン写本などの古い写本には無いという事で、それらの節の信頼性が欠けるという神学者の意見があります。「最も古い写本がより原文に近い」とされているからですが、9節から20節まで欠けている写本が「より原文に近くて正確」なはずがありません。「古ければ良い」というのは人間的な考えなのです。

「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」ルカ 5:39 

バチカン写本、シナイ写本などよりも後に発見された多くの写本は、ビザンチン型の写本であり、これらの多くの写本はほぼ一致しています。それから、「写本と原本に違いがある」事も覚えておくべきでしょう。