2019年9月21日土曜日

ディスペンセーション主義の問題点

ディスペンセーション主義は聖書解釈に関わるので、とても重要なトピックの一つです。しかし、同じディスペンセーション主義と言っても異なる解釈を持つグループがあります。古典的なディスペンセーション主義を保つグループもいれば「終焉説」さえ否定するグループまであり、その他の神学と同様に多様化してしまっているようです。この記事では一般的なディスペンセーション主義とその問題点に焦点を当てています。

字義通りの解釈

ディスペンセーション主義が主張する聖書の「字義通りの解釈」 はその主張ほど徹底されていません。旧約聖書の預言は結局、新約聖書を書いた人たちによる解釈に依存している部分もたくさんあります。また、一部のディスペンセーション主義は預言書の「比喩的表現」を否定せず「比喩は字義通りの解釈の一部」だともしていますが、ここにも矛盾が見られます。何故なら、比喩は比喩として認めているのなら、それは結局「字義通りの理解ではない」事も認めなければいけないのであって、ごまかしのような言い回しでその部分の説明をしないのなら、彼らにとって都合の良い解釈になるのです。曖昧に言っていれば誰もが気づかないだろうと安易に考えていても誰かは気づくのです。

ディスペンセーション主義がよく使う「字義解釈」の例は、黙示録20章に書いてある「千年間」です。この言葉の意味を文字通りの「千年間」と解釈する事をよく主張しますが、数字に対して「文字通りに解釈する」事を声高らかに主張しても、それはむしろ自然な捉え方として一般的なので、そうした強調は意味をなしません。その例(数字の解釈?)を持ってきて、他の聖書の箇所を文字通りに解釈しない場合は「危険」だと主張するのは支離滅裂です。彼らは明らかに「字義通りの解釈」で何ら問題のない箇所を取り上げて「聖書の字義通りの解釈」の正当性を主張しますが、他の所(預言書など)では結局「字義通り」でない解釈をしています。

つまるところ、聖書の正しい解釈とは「字義通りで良い部分」と「比喩的に解釈する部分」の両方があるのです。預言書やイエス様のたとえ話は文字通りの意味をなさないものがたくさんあります。従って、どちらか一つの解釈方法だけで良いとする頑固な考えはおかしいのです。ディスペンセーション主義の聖書解釈は必ずどこかで「字義通りに解釈していない」部分を持っています。そもそも、時代による区分を彼らは聖書的に「字義通り」に証明できません。従って彼らは、その解釈の正当性を別の所(終末論やイスラエルと教会の分離など)で主張しようと試みます。

2つの福音

ディスペンセーション主義の見方の一つに、2つの異なる福音があります。イエス様がイスラエル人に教えていたのが御国の福音で、パウロが教えていた異邦人の為の福音は違うとしています。ところが、パウロの「私の福音」や「恵みの福音」はキリストの教えた御国の福音とは別のものではなく、同じ福音なのです。

「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」ガラテヤ 1: 7

「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」ガラテヤ 1:11-12

「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」第一コリント 11: 4

パウロはむしろ、別の福音について警戒していました。私たちが知らなければいけないのは、キリストによる御国の福音はパウロによって完成したという事です。

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネの福音書 16:12-13

御霊はパウロを通して福音の奥義を教えました。ですから、パウロが言ったように「私の福音」や「恵みの福音」でなければキリストの御国の福音ではないという事です。

イスラエルと教会

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」ローマ 2:28-29

ディスペンセーション主義の立場はユダヤ人の民族性を強調します。しかし、その様な見方は新生したクリスチャンにとっては無意味なものです。影であったものをいつまでも追いかける必要はなく、信者は全てキリストに属する事を考えるべきなのに、再び律法主義に戻ろうと働いているのです。彼らは古い契約がもう必要ないという事を理解していません。古い契約が今もイスラエル人には適応されるという考えは非聖書的です。神様は「イスラエルと教会」という「二つの異なるグループ」と「別々の契約」をしたのではないのです。新しい契約が明らかにされたので古い契約が終わったという事なのです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル 8:13

「イスラエルと教会の分離」は「置換神学」に対する神学なのですが、両者とも極端で非聖書的な考えがある為にどちらも間違いです。イスラエル人の救いは神の召命であって、教会の出現によって取り消された事ではありません。彼らも悔い改めて信じるなら救われるのです。ですから、ユダヤ人の救いに関して特別にモーセの律法が関わっている事もありません。イエス・キリストによる救いは信仰によって入る契約なのであって、モーセの律法に基づくものとは違います。キリストにあってはユダヤ人・異邦人という区別はなく、信仰による救いが共通しているのです。本来、メシアニックジューもその呼び名を捨てて「エクレシア」である事に気付くべきなのです。キリストにつながる事が重要なのであって、ユダヤ民族にこだわる事ではありません。パウロは人間的には彼が誇りにしてもよいはずだったユダヤ人である全ての誇りを「塵あくた」と言いました。

結局のところ、ディスペンセーション主義は直接的にも間接的にもユダヤ教を持ち込ませてしまったところがあり、それはパウロからすれば「道理がわからない」事なのです。

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ 3: 3

その他、神殿の復興、パレスチナの相続、ダビデ王国における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が文字通り成就するというディスペンセーション主義に傾倒した字義的解釈は、いずれもユダヤ人の優位性を強く主張するものばかりで、新約時代におけるユダヤ教の許容を与えているものです。神学的な曖昧な解説で気づきにくい「割礼」を持ち込もうとしたので、多くの教会も影響を受けてしまいました。

「しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」ガラテヤ  3:25-29

パウロによると誰であっても信仰によってキリストにつく者とされたなら、神様の子供であり、アブラハムの子孫であり、約束による相続人だと言っています。イスラエル人と教会(エクレシア)の分離という考え自体がエクレシアのギリシャ語の意味が分からないのが大きな原因かもしれませんが、それが分からなくても信者であるなら「キリスト・イエスにあって、一つ」である事はこの箇所から明白です。偏見を持った神学者が唱えた理論はいつも狭い解釈であって、単に間違いなだけです。

「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」ローマ 4:11-12

イスラエル人でも異邦人でも、信仰によって義と認められるという神の法則が適応されます。古い契約はイスラエル人にはいまだに適応される事ではなく、そもそもが、アブラハムの契約自体において、モーセの律法による義認がなかったのです。イスラエルと教会の分離ではなく、古い契約と新しい契約の分離が正しい見方なのです。間違った区別が起きてしまったのは、「時代の区別」というディスペンセーション主義がもたらした肉の見方なのです。


患難前携挙

アメリカでは「イスラエルと教会の分離」よりも、終末論に関してキリストの再臨が近いという神学が支持されたので、スコフィールドによる解釈は大きな影響を与えました。しかし、預言はイスラエルに関するものであり教会に関するものではないとする立場を取ったスコフィールドは、旧約聖書の預言が成就される前に教会は携挙によって取り除かれなければならないと主張し、「二段階再臨」を思いつきます。その後、イスラエルは回復されてダニエル書の預言が完成すると言いました。

メシア再臨の条件をそうしたイスラエル情勢に依存させてしまう見方は、結果的にクリスチャンを弱くしてしまいました。中東で何かが起こるたびに携挙や再臨の本が出るくらいです。こうした兆候は避けられないのですが、クリスチャンであるならいつでも用意できているべきです。怖がっているのは用意できていない人たちであって、残念なことに、成長していない多くのクリスチャンがそうなのです。教会で再臨ばかりが唯一の望みになっていて、圧倒的な勝利者としてこの地上で神の国を前進させる事を知らないクリスチャンが多いのは、患難前携挙説が原因の一つでもあります。サタンはキリストの再臨の前に地上における旧約聖書の預言が必須条件だと思いこませ、そこからメシアニックジューとユダヤ教に対する妥協さえも、多くのクリスチャンが受け入れるようにしているのです。

花婿が来る為には花嫁が整えられていなければいけないという意味が分からないと、クリスチャンにとっては再臨が唯一の生きる望みになるでしょう。しかし、聖書は「ただ待つだけで良い」という事を教えているのではなく、キリストの体がしみやしわのない成長した花嫁になる必要を教えています。もちろん、サタンとしては、キリストの体が弱いままの状態でいて、花嫁としていつまでも準備できずにいる事を望んでいるのです。そうしておけば、彼は滅ぼされずに長くこの世で悪い事をできるからです。

まとめ

一部の福音派によるディスペンセーション主義は、彼らがやや保守的であるのにも関わらず、極端な考えでした。終末論にこだわるのは福音派の神学の弱さでしょう。彼らにとって再臨や携挙はとても重要なトピックです。何故なら、彼らはそこにしか望みを置かない教理になっているからです。この地上に神の国をもたらすのがクリスチャンである事を知らない事に加え、神の国が死んだ後にスタートするという教理に立つのなら、患難前携挙はとても彼らの考えにマッチする神学です。しかし、これらに追い打ちをかけたディスペンセーション主義という解釈方法は、その解釈の正当性を保とうとした結果、別の箇所の解釈の矛盾(字義通りの解釈、二つの福音、イスラエルと教会の分離)を生み出したのです。それらをどうにかして字義通りの解釈によってカバーしようとすればするほど、変な教えになってしまい、ついにはユダヤ教に対してオープンになってしまったのです。オープンな部分は実は「リベラル」であって、決して「保守的」ではないでしょう。

2019年9月19日木曜日

ヘブル的視点

歴史的文脈を取り入れる聖書解釈は福音派で広く受け入れられている方法です。その一部のグループが「ユダヤ性」を強調したのが「ヘブル的視点」のルーツである可能性もあるでしょう。しかし、今日「ヘブル的視点」という言葉が連想させるのはむしろメシアニックジュー(プロテスタント的な信仰を持つユダヤ人クリスチャンで、ユダヤ人としてのアイデンティティーを過度に主張する)であり、「ヘブル的視点」は一つの聖書解釈方法という選択肢を超えて、彼らが「クリスチャンとしてのユダヤ教の正当性」を主張するツールになりさがっています。

結論から言えば、「へブル的視点」はキリストのからだに持ち込もうとしている「現代の割礼を促すツール」であり、「非聖書的な聖書解釈」方法です。一見すると単なる解釈学からの観点による議論で終わりそうなのですが、解釈学から単独で「へブル的視点」が生まれたのではありません。その背景にはディスペンセーション主義も関係しています。とはいえ、アメリカでのディスペンセーション主義は「ユダヤ人と異邦人」の厳密な区別にこだわる考えよりも終末論のサポートが強いので、従って、全てのディスペンセーション主義者が「へブル的視点」を主張しているわけでもありません。

「へブル的視点」のルーツを考えるのなら、ディスペンセーション主義を主張する福音派の一部のグループによる極端な考えが発端の最有力候補でしょう。その後にメシアニックジューたちが参加して現在に至っていると考えられます。「へブル的視点」がある程度神学的に受け入れられている状況が既にあるのなら、ユダヤ教がキリストのからだに入っていく事はたやすいでしょう。そのチャンスを掴んだサタンは、新しい形で「割礼」を持ち込む事に幾らか成功させたのです。

聖書の理解

「ヘブル文化を知らないと聖書の著者の意図を誤解する事になる」という様な主張は、ある程度は正しいでしょう。旧約時代のイスラエルの背景も基本的な部分は知っておくべきかもしれません。しかし、当時の歴史・文化を事細かく知らないとダメだとするのは、いかにもパリサイ人的な考えに過ぎず、そこから生じる「素人は手を出すな」という主張はまさに異邦人いじめそのものです。「ユダヤ人の伝承だから信用できる」というのは昔からサタンによってなされる策略の一つです。

「こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」マタイ 7:13

イエス様が地上に来られた時に、既にユダヤ教によって真理が分からなくなっていました。ですから、「ユダヤ人の伝承」などと言われる事柄はむしろ注意深く吟味される必要があるのです。

「新生」が全てではないのですが最低でもそこはカバーすると考えた場合、いわゆる「救い」に必要とする知識の範囲には、「へブル的視点」は入っていないのは明らかです。多くの人はとても単純な救いの福音を聞いただけで「新生」しているのですから、少なくとも、いわゆる「救い」と「へブル的視点」は関係がない事になります。

「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」ピリピ 3: 5-7

パウロほど「へブル的視点」を持っていた「ユダヤ人クリスチャン」はいなかった事でしょう。パウロはパリサイ人の中のパリサイ人と自分の事を言っていた様に、人一倍律法主義でした。旧約聖書に関しては誰にも負ける事がない程、知識を持っていたのです。考えてみて下さい。そのパウロでさえも、「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」と言ったのです。もし、パウロが「へブル的視点」の素晴らしさについて語ったのなら、全てのクリスチャンはそれに注意を払う必要があるでしょう。しかし、そのパウロが、彼の人間として誇るべきものを皆捨てる事ができたのは、キリストの十字架による恵みが理解できたからです。その恵みによって「新生」があったのですから、もう古い律法に戻る必要はありません。私たちは霊によって新しく生まれ変わったのですが、考え方も全て新しいものになっていないと「新しい人」として歩めなくなるのです。

ヘブル語と新約聖書

「ヘブル的視点」から見た新約聖書についてとやかく言う人たちも、勝手な想像によって弟子たちが書いたものは元々はヘブル語だったとして、「古い物は良い」という考えに固執しています。旧約聖書ならともかく、新約聖書もヘブル語で読まないと完全には理解できないとするのは、もはやヘブル語の偶像礼拝者といっても過言ではありません。ユダヤ人が自分たちの救い主を拒んだという事でパウロは異邦人に福音を宣べ伝える事になったのですが、彼らに福音を伝える為に書いた手紙は異邦人にとって読めるようにギリシャ語を使ったのはごく自然であって、本当は使徒たちはヘブル語で書いていたという事はありえません。そもそも、ヘブル語で書けるほど使徒たちは教育を受けていませんでした。むしろ神様が「ユダヤ人の誇り」を打ち壊して異邦人の言葉で福音を伝える事に決めた方法を認め、謙遜にならなくてはならないのです。

「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」ガラテヤ 2:14

もし、新約聖書でさえギリシャ語での理解ではダメだというのなら、それは「へブル的視点」を強いる事になり、それは異邦人にユダヤ人の生活を強いる事になるのです。何故なら、主は異邦人が分かる言葉でパウロを通して福音の奥義を説き明かしているのであって、それを不十分だとしてわざわざ「へブル的視点」から福音を理解する様にするのなら、結局の所、「ユダヤ人でないと真理を理解できない」という主張は異邦人にヘブル語を強いる事と同じです。ところが、異邦人が先に真理を見出す事になったのは既に事実なので、いまさら「へブル的視点」を持ってきてもユダヤ教を学ぶ事以外には役に立たないのです。もちろん、ユダヤ教を学ぶという事自体が、既にサタンの惑わしを学ぶ事に他なりません。実際、ユダヤ教ほどサタンの影響の大きい教えはないでしょう。幾らかの真理を偽りと混ぜ合わせるのはサタンの昔ながらの得意技です。

原語からの理解

聖書が書かれた時代の背景や使われている原語を考慮する事は聖書の理解に必須でしょう。問題はそれを何処までこだわるかという部分です。そもそも七十人訳を読んでいた使徒たちはヘブル語よりも分かりやすいギリシャ語で旧約聖書を親しんでいたのであり、今更ユダヤ人的なヘブル語の主張をしても、イエス様や使徒たちがそれを選んで引用していたのなら、それをもっとリスペクトしても良いはずです。面白い事に、へブル人への手紙が七十人訳からの引用が多いのは、ある意味、ユダヤ人への痛烈な皮肉でもあるでしょう。ユダヤ人こそが本来は知っているべき御言葉の奥義を異邦人の言語でパウロは論破しているのですから、それはまさに神の知恵による業なのです。

もちろん、七十人訳聖書全てにおいて完全であるという主張も極端ですし、レニングラードが完全な写本であるという主張もできません。大事なのは「欠点があるから全て間違い」ではなく、正確な部分だけを取り入れるという柔軟な考えなのです。もし、「へブル的視点」が単純にヘブル語だけをツールとして旧約聖書を読む事に徹しているのであれば、それはとても役に立つ事でしょう。「イスラエルの祭りを学びましょう」という、一見すると無難な様ですが、ユダヤ教を持ち込もうとするからアウトなのです。基本的な歴史的背景や文化は「参考になる」という事で取り扱えば良いと思います。私個人としては、それらが直接的に解釈に関わるならあえて使わないというスタンスでいます。例え、ギリシャ教父が書いた文献でもです。何故なら、神様が御言葉の重要な箇所を理解する為にイスラエルの歴史や文化の知識を必須としている事はあり得ないからです。

もし、ヘブル語を良く知っていたパウロでさえ「へブル的視点」から旧約聖書を学ぶように言っていないのなら、私たちはそうする必要はありません。旧約聖書でさえも、律法全体と預言者がイエス様の新しい戒めに掛かっているのなら、新しい契約がより重要である事は明白です。昔の英雄伝を壊れたレコードのようにリピートすることばかり考えている「へブル的視点」の問題は、自身が盲目である事に気付いていないのはもちろんのこと、キリストによる新しい視点が神の奥義である事を知らないのです。「特別な知識を所有している人たちにしか真理は理解できない」とするあらゆる考え(空想話)を私たちは徹底的に排除するべきでしょう。

2019年9月16日月曜日

メシアニックジューの問題 その2

引き続きメシアニックジューの人たちが強調している聖書の箇所を解説していきます。

「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」ローマ 11:16-20

パウロはユダヤ人という(枝)も異邦人という(枝)も根の豊かな養分をともに受けるのだから、「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」と異邦人のクリスチャンに言っています。この箇所をやや強調しすぎてしまったのがメシアニックジューの人たちです。異邦人はユダヤ人を(或いは誰をも)尊重するべきなのですが、だからといって妥協してモーセの律法に戻るように促す事はできません。旧約聖書的な考え・へブル的視点に戻る必要はないのです。再び文字に仕える必要はありません。そして、「古い契約と新しい契約を両方とも同じ様に尊重する」事も間違いです。信仰を保ちながらモーセの律法に戻る事はできないのです。古い夫は死んでいるからです。(第一コリント 7:1-4)

パウロが「同胞、肉による同国人=イスラエル人」を弁護している箇所(ローマ書)をメシアニックジューの人たちが強調するのは当然(この場合の当然は良い意味ではなく、肉的な視点で当然)でしょう。しかし、パウロはユダヤ人のしてきた間違った事もバッサリと言っているので、同胞といえども偏見は全くないのです。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」ローマ 2:28-29

ここでパウロは、外見上のユダヤ人(単にユダヤ人である事)に対して大きく評価をしてはいません。むしろ、信仰によって歩む人が御霊によって心の割礼を受けた人だという興味深い表現をしています。

「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。」第一テサロニケ 2:15

「全ての人の敵」という表現でパウロはユダヤ人を見ています。

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」第一コリント 1:23-24

福音はユダヤ人にとってはつまずくものであったとし、召された者にとっては、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても「キリストは神の力、神の知恵」だと言っています。

「ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」テトス 1:14

パウロによると、ユダヤ人は空想話や自分たちの歴史(系図)にこだわっている事が分かります。

「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」第一テモテ 1: 4

「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」テトス 3: 9

「律法についての論争」は「無益でむだなもの」だと言っています。

「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」ローマ 10:12

「ユダヤ人とギリシャ人との区別がない」のなら、ユダヤ人が「選民」という主張はもう必要ないのです。信者にとっては同じ主が全ての人の主なのです。ユダヤ人がいなかったら私たちもいないのですが、だからと言ってユダヤ教を取り入れようとか、彼らのユダヤ的視点(へブル的視点)が必須となるわけではありません。下の箇所も皆が同じだとパウロは言っています。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ人への手紙 3:28

「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」コロサイ 3:11

メシアニックジューの人たちは「ユダヤ人の民族性」から何かを主張するよりも、さっさと「古い人」に死んで「新しい人」として天に国籍を置く神様の子供として歩む必要がある事を悟るべきです。同様に、私たちも「日本人の誇り」等に執着する必要はありません。日本の文化・歴史よりも大事な事は新約聖書の通りに歩む事であり、真理に妥協してまで「地上での民族性」を考える事はサタンの策略に陥る事になるのです。日本人的なクリスチャンを目標に置くのではなく、キリストに似た者としてキリストの満ち満ちたみたけを私たちの目標にするべきです。同様に、漠然とした「立派なクリスチャン男性・女性」を云々と議論するのではなく、御霊によって歩む事を優先させるべきです。私たちは地に属する考え方ではなく天に属する考え方が必要です。

割礼の問題

「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」第一コリント 9:20-22

これらの箇所が誤解されると、福音の為には妥協して律法主義になっても良いという考えになるでしょう。律法に戻る事も良いとするなら、パウロがガラテヤ人への手紙で教えていた内容と反する事になるのです。パウロは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」という元パリサイ派のメシアニックジューたちに対して激しく論争したのですが、その一方で彼はテモテに割礼を受けさせました。

「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」使徒の働き 16: 3

「その地方にいるユダヤ人の手前」とありますから、テモテの救いの為に割礼を受けさせたのではありません。従って、パウロも「割礼=救いの条件」とはしていませんでした。ただ、霊的にまだ幼いパウロもユダヤ人のプレッシャーには勝てなかったのでしょう。究極的には、パウロはユダヤ人を恐れる必要はなかったのです。もちろん、パウロは「割礼くらいは良い」と恵みを軽んじてでテモテに割礼を受けさせたのではなく、ユダヤ人となって「ユダヤ人を獲得するため」目的があったのです。彼らに福音を宣べ伝える前にテモテと門前払いを食らうよりは、取るに足らない割礼を受けさせようと考えたと思います。しかし、使徒の働きに書いてある事はルカを通しての客観的な記録なので、私たちは使徒たちの失敗なども読む事が出来る事を忘れてはなりません。その中の記述で、何が真理なのかを見極める必要があります。

パウロがテモテに割礼を受けさせたのだから、それを習って今日のユダヤ人も割礼を受けるべきだという考えは間違いです。もし、パウロを見習うのなら、割礼をする目的が誰かの救いの為になっていなければ、その個所を引用して割礼の正当性を主張する事はできません。その出来事は、むしろパウロがした「失敗」ですが、それはパウロの教えではありません。パウロが後になって教会へ宛てた手紙から見れば分かります。

「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。」第一コリント 7:18-19

パウロが教会へ宛てた手紙は一部の彼の意見をの除けば「教え」です。従って、「割礼は取るに足らぬこと」なのであって、これが最終的にパウロが行きついた理解です。使徒の働きでテモテに割礼を受けさせた時のパウロはここまでしっかりとした理解を持っていませんでした。彼自身もその時には「新しい人」としての歩みがまだ分からなかったからです。私たちは使徒たちでも失敗した事があったという事を使徒の働きから素直に読み取る必要があります。彼らの失敗を真似するのではなく彼らの教えに従うのです。

「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」ガラテヤ人への手紙 5: 2-3

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ガラテヤ人への手紙 5: 6

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」ガラテヤ人への手紙 6:15

「新しい創造」は以前に存在していなかったものであり、それは私たちの新しい霊です。信者である人は誰でもその人のうちに新しく創造された霊があります。

旧約聖書の読み方

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。」第二コリント 3:14-15

古い契約・モーセの書を読む時に、私たちが「おおいが掛けられたまま」になっているのなら、私たちの思いは鈍くなっているのです。キリストにある者ならキリストによっておおいが取り除かれているのであって、「心のおおいが取り除かれた目」で旧約聖書を見る必要があります。旧約聖書を読む時には、新約聖書にある真理を基準にする必要があります。つまり、旧約聖書は基本的に新約聖書で明らかになった真理と福音の奥義によって理解されるべきであって、旧約聖書のみで何かを理解する事はできないのです。

従って、「へブル的視点」によって何かの真理を旧約聖書だけを読んで見出だす事は不可能なのです。新約聖書を見て私たちは最終的な答え・結論を出すべきです。もう一つ私たちが知っておくべき事は、聖霊が使徒たちを通して私たちに言い残した真理や奥義はないという事です。現代の使徒・預言者に与えられた啓示が新約聖書の御言葉に匹敵するという考えもサタンからのものです。*一部のメシアニックジューの主張するディスペンセーション主義による聖書の解釈も「非聖書的」です。

ヘブル語でないと何かの真理が明らかにならないという「霊的優位性」は存在せず、それはむしろユダヤ人の「空想話」に過ぎないのです。殆どの彼らの解釈は、彼らしか分からない解釈方法(伝承・歴史・ヘブル語に基づいたものなど)になっているので、異邦人はその解釈が正しいかを判断する事ができません。というよりも、異邦人に彼らの解釈の正しいかどうかの判断すら与えていません。もし本当に彼らがだけ何か特別なものを知っているとするならば、彼らはイエス・キリストにあって御霊の力によってその理解の正しさを証明する義務があります。しかし、彼らがやる事の殆どはユダヤ教の推進とむだな議論ばかりです。議論好きな人たち(多くの神学者を含む)は実際に御霊の力によって歩んでいないケースが一般的で、神学者で癒し・解放も行う人は稀だと言われています。

概ねメシアニックジューの教えは、へブル的視点による聖書の理解、律法の順守やユダヤの風習や伝統を守る事を強調しているので、それは古い契約に戻る事を促しているのです。問題点は、メシアニックジューの運動全体が新約聖書に基づいた「新しい人」としての生き方の重要性を無視して、ユダヤ人の民族性を主張して「古い人」によって歩む事を良しとしている部分であり、そこから異邦人クリスチャンも彼らと似たような考えを持つ事を促している事です。人の肉の思いは「古い物は良い」とするのですが、大事なのは「新しい創造=新しい霊」なのです。もし、彼らが「キリストに似た者」として何が正しいかを本当に見極めているのなら、彼らはユダヤ人としての誇りを捨てて、キリストを誇る生き方をするでしょう。

2019年9月10日火曜日

リーダーの役割(伝道者・牧者・教師)

伝道者

εὐαγγελιστής(euaggelistēs)「良い知らせをする者」が直訳です。伝道者はリーダーの働きの一つで、福音を伝える目的を第一としているので、未信者に対する情熱があります。いつも誰かに福音を伝える事を考えている人は伝道者の役割に興味があるはずです。誰にでもイエス様を伝える大胆さを持っているのが伝道者に適した人で、その点では使徒の役割をするリーダーと似ています。これらのリーダーは、まだ救われていない人たちに対して福音を述べ伝える責任を強く感じています。しかし、全てのクリスチャンが未信者に対してそう感じているべきです。みことばの種は時が良くても悪くても蒔いておくべきであって、それは全ての信者のするべき事です。

伝道者の働きの特徴

伝道者は未信者に福音を伝える仕事が主なので、メッセージの内容が彼らにとって分かりやすくシンプルなものが特徴です。この働きに関して重要な所は、癒しや解放、その他の奇跡を未信者の為のしるしとして福音を述べ伝えていく必要があるという点です。いわゆる力の伝道を伴っていない伝道者は新しい契約の下での伝道者ではなく、聖書的に理想な伝道者ではありません。イエス様がやったような伝道は力を伴うものでした。伝道者のリーダーは情熱と行動力は人一倍なのですが、時にはその熱心さが空回りする事もあります。また、教会内の事柄については苦手としている人が多いようです。伝道者の働きをする人は未信者なら誰にでも福音を伝える事ができますが、彼らの質問にも答えられるように御言葉の知識を十分蓄えておく必要があるでしょう。

いわゆる「子を産む喜び」を誰よりも多く経験する伝道者は、最もやりがいのある仕事だと思います。しかし、その感動と情熱だけで突っ走る傾向が強いのが弱点かもしれません。伝道者としての働きの実は、霊的な子供をたくさん産む事です。伝道のノウハウを知っている事や伝道をよくやるという事だけではありません。

T.L.オズボーン、ベニー・ヒン、ラインハルト・ボンケなどが世界的に有名な伝道者の働きをした人たちです。この働きに向いている人は、未信者の救いに情熱を持っている人や誰にでも福音を宣べ伝える事ができる人でしょう。


牧者

ποιμήν(poimēn)「羊飼い」という意味です。この語は「牧師」という宗教用語として理解されています。現代の多くの人が「牧師」を漠然と「教会の最高責任者」などと考えていますが、ギリシャ語では単に「羊飼い」であって、あくまでも「羊を飼う働き」なのです。羊飼いは羊の面倒を見ます。牧者の働きは主にキリストの幼子に対する奉仕なので、優しい性格、聞き上手であるのが共通した性格です。同情して慰める事ができ、ある種のカウンセリングの奉仕もこなします。母親の様な優しさを持って人に接する必要があるので、細かな配慮ができる性格を持つ人はこの働きに向いているかもしれません。また、人に対して忍耐強いのも特徴です。

牧者は教師と同様に信者を教えて育てる役割もこなします。御言葉の乳を与えるのは牧者の役割です。牧者の働きをする人たちで共通しているの弱点が、時にはリーダーシップに欠けてしまう所でしょう。彼らはどうにかして皆が仲良くなる事を考えてしまいがちで、つい皆の意見を聞いてしまい、自分がリードする立場を忘れてしまいがちです。優しさが裏目に出ると、子供たちを甘やかしてしまいます。

牧者の働きには、教師と同様に、信者の成長の為に御言葉の乳を与える役目があります。しかし、母乳ばかりを与えている母親は、それだけではその子の成長の為になっていない事を知るべきでしょう。教会に教師の役割をする人がいなければ、牧者が教師としての役割もしていく必要があります。母子家庭で時々見られるような「強い母親」が父親の役割をして子供をしっかりと育てるケースが少ない様に、教師の仕事もこなす器用な牧者の働き手は殆どいません。しかし、育ての親の苦労はその様なものです。

現在では五職・五役者についてあまり理解されていないので、教会にこれらの役割をする複数のリーダーを見かける事は殆どありません。最初の使徒たちがいなくなってしばらくすると、一人のリーダーが一つの群れを監督するようになりそれが伝統になってしまった(この頃から「牧師」というタイトルが一般化された)ので、教会では一人の牧師だけで全てをこなそうとするのが当り前になってしまいました。しかし現状は、牧者は成長した信者の飢え乾きに対して面倒が見切れなくなっています。御言葉の乳を十分に受けた信者は次の成長のステップに進む必要があるのですが、それを提供していない教会では飢え渇いた信者を留めておく事ができない為に、歩き始めた幼子は出て行ってしまうのです。

教会に集うように促し、御言葉の乳を与える事がこのリーダーの役目です。しかし、全ての信者は弟子となるのがイエス様の教えです。羊飼いの働きだけでは信者は弟子にはなれません。多くの信者が別の教会を歩き回り始めるのは、霊的に飢え渇いているからですが、彼らは殆どの教会がどこも同じに見えるでしょう。それは、そうした教会でやっている事が同じに見えるという上辺だけの認識ではなく、どこへ行っても求めている真理が探せない事をなんとなく気付いているのです。

牧者の働きに向いている人は、面倒見が良く細かい配慮ができる人、集会に集う人たちを良く知り、優しくてよい聞き手であり、母親の様な忍耐を持っている人でしょう。

教師

διδάσκαλος(didaskalos)この語はそのまま「教える者」という意味です。教師の働きは聖徒たちを聖書の御言葉で訓練し整える事です。牧者の働きとは違い、教師は父親の様な教え方をします。一般的に聖書に詳しい働き手ですが、その知識の量と教える事とは必ずしも関係がありません。彼らは御言葉の真理を探究する人である事が多いのですが、彼らの働き自体は真理を教える事と真理を守る事です。御言葉を教えるリーダーは聖書に書いてある事を全て知っているわけではありませんが、信者が弟子となる為に必要な事柄について教える事ができます。彼らは義の教えによって信者を弟子訓練として育てるのであり、必ずしも聖書学者という立場で学問的に聖書を教えるという事ではありません。

牧者によって基本的な事を学んだ後は、信者は教師を通して少しずつ堅い食物とは何かを学ぶべきです。牧者は主に乳を与えますが教師は堅い食物について教え始めます。多くの教会で信者が霊的に成長していないのは教師の存在が極端に少ないからです。父親の様な時には厳しい愛の教えが人を一人前にするように、キリストの弟子となる道は楽なものではありません。宗教的な難行苦行ではないのですが、クリスチャンでも信仰の戦いという試練はあります。誰でも自分の十字架を背負わなければ、キリストについて行くことはできません。もっと霊的に成長する必要があると自覚している信者は多いのですが、どこの教会に行ってもこれ以上学べないと気づいている人も無数にいます。しかし、教師だけが御言葉を教えたり弟子訓練をするのではなく、全てのリーダーは常に聖書を教える立場にある事を認識するべきです。

教師の役割をする人の教えを聞けばいかに御言葉がシンプルで実践的であるかに気付くはずです。神学的な聖書の見方が一般的に勧められている為に、良い神学校や聖書学校などを経て、更に長年の研究を経ないと聖書は理解できないものだと多くの人が考えています。しかし、御国の福音は難しい理論ではなく特別な教育がなくても誰でも理解できます。

一つの教えが場合によっては時代を超えて大きな影響を及ぼす為に、あらゆる教えは徹底的に吟味される必要があります。一つの教理が確定されれば、それに基づいて教団ができてしまう程インパクトがあります。一度間違った教えが教えられるとそれによって影響される教会はあっという間に広がります。パウロは使徒の中で最も優れた御言葉の教師であり福音を弁証する働きもしていました。間違った教えを排除し、御言葉の純粋さを保つ事に興味のある人は教師に向いているかもしれません。間違った教えが大きな悪影響を及ぼすのは、律法学者やパリサイ人たちがもたらす悪影響と同じです。彼らの教えは神のことばを無にしてしまうものであり、その意味では教師には大きな責任が伴います。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」ヤコブの手紙 3: 1

御言葉を教える教師の弱点は牧者の逆で、幼子に対する母親の忍耐がないと、時には信者に対して厳しすぎてしまうでしょう。また、本来は幼子は牧者が面倒を見ているべきなのですが、牧者がいないなら教師がその役割を担うべきです。また、教会内で教える事ばかりが優先されがちな教師の働きですが、外に出て行ってデモンストレーションによる指導もできるのが理想です。イエス様が真の教師であって、イエス様の教え方を模範とするべきでしょう。

教師にふさわしい人は、その教えによって信者がキリストの弟子としてしっかりと学ぶ事ができたかが鍵です。教える人全てが教師のリーダーではなく、教わっている人が学んだかどうかです。

教える役割に向いている人は、信者の成長を強く望んでいる人、聖書の真理に妥協しない人、相手に理解できるような説明を心がける人です。

2019年9月4日水曜日

メシアニックジューの問題 その1

「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」ガラテヤ人への手紙 2:14

パウロがペテロを非難した理由の一つには、ペテロがリーダーであったからです。福音を教える立場の人が福音の真理についてまっすぐに歩んでいないなら、それは教会にとって大きなつまずきを与える事になるでしょう。ここでパウロが非難している内容は、ペテロが律法的な考えに戻ってしまったというものです。恵みの下でモーセの律法に従うという事はキリストの恵みを捨てるという事です。ですから、ガラテヤのクリスチャンに対しても、パウロは次のように言っています。

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」ガラテヤ人への手紙 5: 4

多くのクリスチャンが気づいていないのが、たとえイエス様による新しい戒めでも、モーセの律法の視点から戒めを一つでも守ろうとすれば、それは律法によって義を得ようとする考えに戻っているという事です。私たちは、イエス様による新しい戒めを新しい人として守る事を命じられているのであって、モーセの律法に焦点を当てる事ではありません。神を愛し隣人を自身のように愛する事が全ての律法を全うするという真理が、聖霊によって既に明かされています。しかし、多くのクリスチャンはその事に気付かず再び文字に仕える者となって、律法の束縛の中に入ろうとしています。

ユダヤ人はいつもユダヤ教にこだわっています。今日でもです。それは、メシアニックジューの人たちでも同じです。そして彼らの影響によってユダヤ教の教えが広まってしまいました。彼らはクリスチャンだと言っていますが、何かとモーセの律法を持ってきて各種の祭りの祝いを強調します。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」コロサイ人への手紙 2:16

「批評」していた人たちはユダヤ人です。彼らはいつも異邦人に彼らの律法を教えようとします。今日でもです。メシアニックジューの教会(といっても新約聖書的なキリストの体の機能はない)では、圧倒的に多くの旧約聖書の儀式にこだわります。彼らはそれらに意味があると言ってやりますが、実際それらはイエス・キリストを意味しているのですが、キリストが現れて全ての律法と預言者が成就した以上、モーセの律法はその役割を果たしたのです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル人への手紙 8:13

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」ガラテヤ人への手紙 3:24-25

信仰によって義と認められるという信仰の原理がキリストによって明らかにされたので、養育係の役目は終わっています。モーセの律法の役目が終わっているという単純な真理を理解していないクリスチャンは次のイエス様の言葉をきちんと理解していません。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」マタイの福音書 5:17-18

多くのクリスチャンはここを読んで、「今日でもモーセの律法は有効だ」という誤解を持っています。「廃棄するためにではなく、成就するために来た」という事ですから、イエス様が地上に来たのは全ての律法を成就する為なのです。成就とは完成するという意味なのですが、モーセの律法の成就はイエス様が全ての律法を守った事によってなされました。イスラエル人にはモーセの律法の全てを守る事ができなかったのですが、イエス様だけがそれを成し遂げました。

十字架の御業がモーセの律法の成就のクライマックスです。自らが罪となってモーセの律法に沿って刑罰を受けたイエス様は、ご自分の血を持って人間の罪の為にいけにえとなって、人のあらゆる罪を完全に取り除いて下さいました。それは、動物の血ではできなかった事でした。従って、モーセの律法はイエス様の十字架の贖いによって廃れることなく成就されたのです。

「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」とイエス様は言いました。何故このように言ったかというと、当時のユダヤ人はイエス様が律法を廃棄する為に来たと思っていたからです。しかし、イエス様は律法を成就する為に来ました。そして、モーセの律法が十字架によって成就(完成)されると、それはもう必要のないものになったのです。つまり、十字架の前にはモーセの律法は廃れる事はあり得なかったのです。何故なら、キリストの十字架無しで律法は廃棄されないからです。しかし、十字架の御業の完成によって、律法は廃棄されたというのが福音の真理です。

「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、」エペソ人への手紙 2:15

モーセの律法は見方によれば「敵意」であって、それがキリストによって「廃棄された」というのがパウロの理解です。どういう意味でしょうか?11節でモーセの律法の一つである割礼を取り上げて、パウロはユダヤ人と異邦人とにあった隔たりについて書いています。割礼は選ばれた民の象徴のようなものですから、それを受けているか受けていないかはユダヤ人にとってとても大事でした。しかし、キリストの十字架の成就はその律法の考えを無効にしたのです。それでパウロは次のように結論付けています。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」エペソ人への手紙 2:19

メシアニックジューの人たちがモーセの律法にこだわるもう一つの理由が、ヘブル語や彼らの歴史や文化にこだわり過ぎているからでしょう。特にヘブル語にこだわる事が漠然と良いとされてしまったので、「ヘブル語的視点」がもはや偶像礼拝になっています。旧約聖書からイエス様を知る事を美徳としていますが、それがむしろ間接的な事もよく分かっていません。奥義はパウロと使徒たちによって聖霊が明らかに啓示しているのであって、多くの世代にわたって隠されていたのです。ですから、旧約時代に書かれたイエス・キリストについての描写は影であって、一部分の真理について「ヒント」として書かれているケースが殆どです。幕屋についての詳細は全てキリストを表していますが、イエス様が伝えたかった真理は旧約聖書の中にはヒントとして出ているだけです。福音書にはその真理が大部分が明らかになりました。そして、パウロを通してその奥義が明らかになりました。

旧約聖書からイエス様を学ぼうとする事は悪い事ではないのですが、それらの書物からキリストについての「ヒント」を得るよりも、新約聖書から「答え」を得た方が賢い選択です。答えはイエス・キリストです。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」へブル人への手紙 1: 1-2

終わりの時にいる私たちは、イエス様の声を聞けます。預言者たちを通して語るという方法はもう終わっています。多くの奥義や答えが明らかになったのに、旧約聖書に書かれたヒントに戻って色々と議論してもあまり意味がありません。それによって変な影響を受けてしまうと再びおおいを掛ける事になって真理が分からなくなるのです。実際に、儀式にこだわる人たちはその必要性がない事を知らないばかりか、モーセの律法の行いが恵みを台無しにするという真理を掴んでいません。

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ人への手紙 2:21

「自分の義を求めるつもりでイスラエルの祭りや儀式を行っているのではない」という主張も矛盾しています。彼らは「やる事に意義がある・恩恵がある」と勘違いしていますが、モーセの律法は影であって、そこには力がない事を知っていながら行うのなら、儀式という形式にこだわっていながらそれを重要だと言っているのです。しかも、彼らの言う「意義・恩恵」は上辺の形・儀式を通してなので、それは信仰ではありません。それでいて「信仰がある」という主張があるのは律法と恵みを混ぜているからです。彼らは新しいぶどう酒を古い革袋に入れている事に気づいていません。

メシアニックジューの問題 その2に続きます。