2019年2月27日水曜日

神からの試練とは? その1

「神様は試練を与える」という場合、私たちはその表現が何を意味するか、という所から考える必要があります。何故なら、私たちは試練を良くも悪くも捉えてしまっているからです。つまり、試練を良いものとした場合は、それを神様が与えるのならば良いのですが、試練を悪いものとした場合(病気・困難とした場合)には問題が出てくるからです。

「試練」のギリシャ語

新改訳聖書で「試練」と訳されている語は12回出てきますが、そのうちの11回はギリシャ語の(peirasmos)です。この語は誘惑とも訳せる語なのですが、それなら「試練=誘惑」となるのでしょうか?実際に、この「試練」という語 peirasmos が「誘惑」とも訳されている箇所があります。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」ヤコブ 1:13

「誘惑された」の語は、peirasmos の動詞 peirazō です。ところが、この語がヤコブの 1:12
一つ前の節では「試練」という訳になっています。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ 1:12

この個所の「試練」は良いものでしょうか?つまり、神様が与える試練か、それとも悪魔が与える「誘惑」なのか、どちらでしょうか?厄介なのは、新改訳では同じギリシャ語が全く正反対の語に誤解されてしまう所です。結論から言えば、ここは「誘惑」が正解であって、悪魔の「誘惑」に耐える(単なる我慢ではなく、信仰に立つという意味)人は幸いだと言っているのです。

さて、peirasmos が出ている箇所を全て「誘惑」としてみます。

「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練(誘惑)のときになると、身を引いてしまうのです。」ルカの福音書 8:13

「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練(誘惑)の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」ルカの福音書 22:28

「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練(誘惑)の中で、主に仕えました。」使徒の働き 20:19

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練(誘惑)に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練(誘惑)とともに脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント 10:13

「苦しみゆえの激しい試練(誘惑)の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」第二コリント 8: 2

「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練(誘惑)となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」ガラテヤ 4:14

「私の兄弟たち。さまざまな試練(誘惑)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」ヤコブ 1: 2

試練(誘惑)に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ 1:12

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練(誘惑)の中で、悲しまなければならないのですが、」第一ペテロ 1: 6

「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練(誘惑)を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」第一ペテロ 4:12

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練(誘惑)の時には、あなたを守ろう。」黙示録 3:10

以上見てきたように、「誘惑」とした場合がはっきりとその意味が分かると思います。すなわち、これらの箇所の「試練」は神様から来るものでないという事です。

迫害

キリストと共に歩む道にはその真理の歩みのゆえに未信者からの迫害があります。迫害は私たちが直面する試練ですが、これも神様が与えるものではありません。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」第二テモテ 3:12

迫害はクリスチャンとして避けられないものですが、その事はイエス様も福音書で言った通りです。ですから、特に大きなサプライズではないはずです。日本人なら、いわゆる聖書が定義しているような迫害を未信者から受けている人はいないでしょう。また、私たちが新しい人として歩んで成長していくなら、たとえ迫害されてもパウロのように強く歩む事ができます。

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」第二コリント 12:10

この世に既にある問題

この世に既にある様々な問題はサタンの悪事によるもので、自己の信仰の成長は個人的にそうした問題に関わる事を指します。どちらも、新しい人によって歩む神様の子供たちにとっては大きな重荷になりません。そもそもクリスチャンの荷は軽いのです。それを重く感じるのは私たちの肉の努力に頼っているからで、信仰による行いになっていないからです。つまり、信仰の成長がまだ発展途上だからです。忍耐をもって信仰による歩みを続けていれば、これらに関わる訓練も乗り越えて行くでしょう。特に、自分の霊的成長に関する試練を続けて乗り越えて行くと、ますますその道を突き進む事に関して積極的に考えるようになります。

さて、自己の霊的成長は本人次第であるので、ある意味、自分のペースを考えて既にある問題を通る(問題を解決する)事が可能です。しかし、自己の古い人を脱ぎ捨てる事が最も難しい試練であるとも言えます。信仰に関する成長は、その人の思考がどれほど福音の真理に変わったかによりますので、考えが福音の真理によって一新されていない間は葛藤があるでしょう。しかし、古い考えを捨てて新しい考えによって徐々に私たちは強くなっていきます。また、その過程の中で私たちは愛によって歩む事を学ぶようになります。

ところで、私たちが取る霊的成長の学習方法は、全てが良い方法とは限りません。私たちは自分たちが蒔いた種を刈り取るという「余計な学び」も通ります。当然ですが、自分で蒔いた種を刈り取る行為を「神様からの試練」とする事はできません。

サタンの攻撃

サタンや悪霊との戦いも私たちが直面するものですが、それを「神様からの試練」として考えている間は、私たちは勝利を収める事はできません。とにもかくにも、神様が背後でサタンをコントロールしてあなたに何かのレッスンを与える事がないのを知っておきましょう。神様はサタンに許可を与えてあなたに害が及ぶようにはしません。ヨブ記の解釈が一般的に曲解されている為に、多くのクリスチャンは神様が良いお方であるという単純な真理を知りません。

この世に存在しているあらゆる悪はサタンが元々の原因です。人の肉の思いが直接的な原因であるケースも確かにあります。しかし、アダムとエバが肉の思いによって考えたのもサタンの誘惑が原因です。そういうわけで、あらゆる悪い物がサタンから来ているという事は真理です。ちょうど、あらゆる良いものは全て天から来ているのと同じです。そうなれば、病気もサタンからのものだという事はすぐに分かると思います。病気は神の創造ではありません。ですから、病気やその他の悪を神様からの試練だという嘘を信じていると(そもそもその様なあからさまな嘘を信じていること自体が大きな問題ですが)、クリスチャンは悪魔に立ち向かう事をしなくなります。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」第一ヨハネ 3: 8

この箇所にあるように、「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすため」であるなら、どうして病気や様々な災いが神様からの試練なのでしょうか?しかし、私たちは病気も神様からの試練であると教えられてきた為に、そしてヨブに起きたケースは自分にも当てはまると勘違いした為に、キリストの打ち傷によって癒されているという真理を忘れてしまいました。

「神からの試練」という見方

さて、クリスチャンの多くはただ漠然と試練は神によってもたらされるものと考えています。「神からの試練」の教えが現在の様に理解されているのは、ウォッチマン・ニーやブラザー・ローレンスからの影響もあります。彼らはあらゆる苦しみを謙遜に受け止める事を美徳としていました。ところが、彼らは何でも神様からの試練だと勘違いしていたのです。勘違いの原因は、聖書的な謙遜と人間的な視点から見る謙遜の定義の違いから来ています。それに加え、最も重要な霊的戦い(各自が思いの中で戦う事、思考を一新させる事)について彼らがあまりよく分かっていなかったからです。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」へブル人への手紙 5:14

誘惑がどこから来ているのかが分からないのなら、私たちは良い物と悪い物の判断ができない事になり、それは私たちの幼さが原因になるのです。

「神からの試練」が強調される理由は次の聖書の箇所の誤解からもあります。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント 10:13

ここは「試練」の語が「誘惑」であると説明する為に既に引用した箇所です。それ以外の部分でも問題があります。新改訳聖書では、「試練に会わせることはなさいません」となっていますが、あたかも「会わせる」という動詞がこの文にあるかのように訳されています。しかし、ギリシャ語では「会わせる」という動詞はなく「許可する・そのままにする」という動詞 ἐάω(eaō)が使われています。つまり、この箇所をより直訳的にすると「(神は)あなたがたが耐えられる事を超えた試練(の中)にそのままにしておかない(放って置かない)」となります。

というわけで、この聖書の箇所を読んで「神様が試練(誘惑)に会わせる」という解釈は正しくありません。神様は私たちが直面する誘惑を許容される事はありますが、それらは神様が持ってきたのではなく、この世に既にある問題やサタンからの攻撃を通してのものです。しかも、神様がサタンの誘惑に直面する事を許容される時はそれが私たちにとって耐えられないようなケースにはなりません。それに加えて解決の道(勝利の道)を備えて下さっています。許容される理由は、その問題を私たち解決していく事を望んでいるからです。ある人はむしろ、信仰の成長の為に様々な問題に自分から飛び込むでしょう。基本的に私たちは、問題のある環境にいるという事で、時々そうした問題と関わざるを得ないのです。しかし、その中にあっても私たちは勝利して敵の陣地を奪う事ができます。

神からの試練とは? その2へ続きます。

2019年2月19日火曜日

信仰の原理

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」ローマ書 3:27

ここで言う原理は法則と同じです。それはある一定の物事の関係を示していて、何かの結果を予想して導く事のできるものです。ですから、私たちが何かに対して信仰を持つ時にその結果を期待できます。パウロはここで、モーセの律法を行なっていた人たちの誇りは取り除かれたと言っています。それは、キリストが現れた事によって信仰の原理が確立されたからです。

さて、信仰ついて少し説明します。信仰はモーセの律法ではなくキリストによってもたらされたものです。何故なら、私たちが信じるのは聖書全体が示しているキリストとキリストの十字架の御業だからです。モーセの律法は影として、或いは、キリストに導く為の養育係であって信仰の対象ではありません。私たちの信仰の対象となるのがイエス様なら、キリストの教え(御国の福音)を信じる事も深く関係があります。私たちがクリスチャンとして生きる為には、イエス様の十字架の御業と御国の福音に関わる事全てを信じる事が必要です。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」ガラテヤ 3:24-26

さて、目に見える私たちの現実、いわゆる五感によって認識される世界は神様が創造されたものですが、サタンの悪影響によって歪んでしまった部分もあります。それが理由で多くの悪が様々な形で現実の世界で存在しています。神様が悪いものを創造されて自然の中に置いたのではなく、サタンが自然を歪め、或いは、人間を通して間接的に自然を破壊する行為を進めてきたものもあります。従って、元々の自然は神様の創造なのですが、サタンの悪さによって自然の中にも悪や破壊が起きたのです。ですから、私たちは目で見るこの現実の世界は真の姿ではない事をしる必要があります。

例えば、既に空気中に存在している病原菌はサタンが原因であって、神様の創造ではありません。ですから、基本的に「病気はサタンがもたらすもの」という認識が必要です。「病気は自然に起こるもの」という誤解を持てば、クリスチャンは病気に対して戦わなくなり、病気を受け入れてしまいます。この戦いは信仰の戦いであり、信仰はあらゆる悪い現実を変える事ができます。これが信仰の法則です。もちろん、私たちはキリストの御言葉(真理)を信じる事が必要であって、勝手な解釈に基づく理解ではありません。

信仰は継続

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」へブル人への手紙 12: 2

もし、私たちがテレビの前で時間を多く費やしてしまうなら、その様な生活は信仰による歩みを台無しにしてしまうでしょう。時には家族との時間を過ごすのも大事なのですが、その時でも主の臨在を意識するべきなのです。そもそも「イエス様に留まる事から休む」という考えは肉の思いです。それは、日曜日などの特定の日だけクリスチャンでいるような考えです。私たちは毎日どころか毎秒キリストと共にいる事を意識するのが本来の「自然の歩み」だからです。ある人は、その様な熱心さを律法主義だと誤解しています。しかし、その誤解があるのはその熱心さがその人にとってまだ自然になっていないからです。私たちが常に主に意識を向けるのはそれをしないとダメだからではなく、そうするのが神の子供として歩むのにふさわしく、また呼吸するように当然であるからです。

私たちの多くはクリスチャンの信仰生活をアメリカンドリームの様なものとして捉えています。それはアメリカから輸入された多くの教理が原因です。しかし、聖書が示している信仰の生活はもっと厳格です。ただし、それは律法主義的なものでもありません。神の子供としての責任と義務感は必要ですが、強いられて何かをするという事ではありません。信仰の歩みとは、むしろ喜んで積極的にするものです。その歩みは、日々の私たちの心の態度に関わります。ですから、信仰生活は週一で良いはずがありません。私たちのあらゆるスケジュールも、信仰の基盤を最初に据えてから考えるべきです。休暇の綿密な計画を優先させて、その後で「おまけ」として余った小さな枠の中に祈りの時間や聖書の通読の時間が割り当てられるべきではないのです。

信仰を働かせる

私たちの多くは、普段はあまり信仰によって歩んでいないので、何かの奇跡を必要とする時にはいつでも「大きな信仰」が必要だと考えてしまいがちです。しかし、イエス様はからし種ほどの信仰が山を動かすと言いました。

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」マタイによる福音書 17:20

あるクリスチャンは「自分には信仰がない」と言います。彼らが「信仰がない」と感じている一番の原因は、御言葉の種がきちんと植えられていないからです。しかし、御言葉を十分に知っているのならあとは信じるだけです。信仰とはチョイスする事です。彼らは信じる事ができないという何かの束縛の中にいるわけではありません。むしろ、あらゆる束縛から解放されて祝福されているのがクリスチャンです。

実際に、信者の場合には全ての霊的祝福は与えられている状態なのです。何故なら、全ての霊的祝福はキリストの内にあって、キリストは私たちの内におられるからです。問題は、それらの祝福を現実化させるかどうかなのであって、それを可能にするのが信仰なのです。神様は永遠の命でさえ私たちの信仰によってそれを獲得するようにされたのです。そうすると、他の祝福はなおさら私たちの信仰によるという事にならないでしょうか?この信仰の原理は神様が確立した法則であって、アブラハムがその良い模範となって私たちに示したものです。

ですから、私たちは信仰によらないで何かの祝福を期待するような非聖書的な考えを避けるべきです。そうした教えなどはサタンからのものですが、神様は私たちが神様に信頼する事を強く期待しておられます。イエス様の教えもその多くが信仰に関するものでした。反対に、信仰だけでは足りないと考えている人は新約聖書の御国の福音をよく吟味する必要があります。それから、信仰はモーセの律法の教えとは結びつくものではありませんので、旧約聖書の学びに傾倒する人たちは儀式を行なう事が信仰だと勘違いしているケースがよくあります。しかし、信仰はキリストの福音に結び付けられるものなのです。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル人への手紙 4: 2

福音が信仰によって結び付けられないと益になりません。そして、福音とは御国の福音であり、それはキリストが宣べ伝えていた良い知らせの事であって、その福音の内にはキリストの義があるのです。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ 1:17

ですから、あなたの信仰が働く為には、モーセの律法を排除してキリストの義を基礎に置く必要があります。「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」事ができるので、私たちは信じ続ける事ができるのです。つまり、信仰の原理とはキリストを信じてキリストの義を獲得し、その義によって信仰に進ませるものなのです。ですから、自分には信仰がないと考えている人はキリストの義を思い出す必要があります。プロテスタントのクリスチャンなら信仰義認について疑いを持っている人はいないはずです。しかし、多くのプロテスタントの教会でも「赦された罪人」という表現を使って信者を罪意識の束縛に閉じ込めているのです。キリストの義の意識が無く、自分の罪を意識するクリスチャンが圧倒的に多いのは基本的な教えを知らないからです。

「反省する」という定義になってしまった「今日の教会の悔い改め」は、キリストの義を遠ざけ自己の罪意識を強調する教えです。それは、クリスチャンの信仰が働かないの大きな原因の一つになっています。また、信仰を妨げる大きな障害になっているのがモーセの律法に傾倒する律法主義の考えです。モーセの律法そのものはキリストに導く為にあったのでそれは良いものだったのですが、その役割はあくまでも養育係であって、そこに信仰を置くという事ではありません。不完全なモーセの律法は儀式ばかりを強調して真理を見ません。完全な律法はキリストによって明らかにされたもので、それは信仰によって生きるという真理に基づきます。モーセの律法にこだわれば信仰を捨てる事になります。しかし、キリストの完全な律法に従えば結果としてモーセの律法を全て守る事になるのです。

2019年2月7日木曜日

自我に死ぬとは?

「自我に死ぬ」という表現はキリスト教以外でも使われています。しかし、クリスチャンがその表現を使うなら、それは新約聖書的にどういう事なのかを理解していないと単なる禁欲主義的な考えにもなりかねません。漠然と理解していたり「古い契約の視点」から理解しているなら、それは「自己否定」にもつながります。「自己否定」という表現もまた誤解されやすい表現です。

このブログでは主に「古い人に死ぬ」、「古い人を脱ぎ捨てる」などのより新約聖書的な表現をチョイスしていますが、一般的には「自我に死ぬ」という表現がクリスチャンの間でも使われている現状を考慮して、あえてそれを記事のタイトルにしました。その表現が誤解をもたらす事もあるとして、それ説明をするのが今回の記事の目的だからです。

自我=古い人

「自我に死ぬ」という表現をクリスチャンが使っている場合、それは「古い人」を指して言っています(或いは、それを指しているべきです)。「自我」はアイデンティティーの事ですが、注意したいのは、クリスチャンは「新しいアイデンティティー」として新生しているという真理がある点です。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」ローマ書 6: 1-2

パウロは私たちクリスチャンは「罪に対して死んだ」ので、その中に生きることはできないと言っています。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」ローマ書 6: 3

直訳では、「キリスト・イエスの中に浸される私たちはみな、彼の死の中に浸されるのです。」となります。*バプテスマの動詞である「バプティゾー」はアオリストなので、その動詞は動作の過去形を表すのではなく、「ある事がなる・なされる」という風に単に事実や真理を示す目的があります。そして、バプティゾーは浸るという意味があり、厳密には浸っている状態を表す動作です。

この箇所でパウロが言っているのは、私たちがキリストの中に浸っているのなら、キリストの死の中にも浸っている、という真理です。それを更に4節で説明を続け、5節でそのキリストの死は復活につながるものだとしています。更にパウロは、その死について次の節で別の表現で説明を始めます。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ローマ書 6: 6

「古い人」という表現が初めてパウロによってここで使われたのですが、これは私たちの古いアイデンティティーを指します。それは、罪と肉の思いの影響によって作られた人であって、その人は神様が創造した人間ではありませんでした。しかし、私たちはもはや罪の奴隷ではなく、新しいアイデンティティーがあるのです。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ローマ書 6:11

ローマ書 6: 3と同じ事をパウロは言っています。このパウロのアドバイスは、単に私たちに「罪のない生活をしなさい」と言っているのではありません。そのアドバイスの根拠から見る必要があります。すなわち、私たちの古い人が既にキリストと共に十字架に葬られたという真理が確定されているので、その真理に対して私たちが「考えを変える(悔い改める)」時に解放される事を示唆しています。ですからパウロは、「神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と言って、そうした考えを持ちなさいと説いています。注意したいのは、古い人はキリストと共に葬られたという過去に既に起こってしまった事ではないという事です。sunestaurOthE(共に葬られた)のアオリストの形が示す様に、過去形の動詞ではありません。

罪を犯さないような生活を心がけようと努力する事ばかりではありません。古い人の考えのまま何かの努力をしてしまうと私たちは失敗しますし、宗教的な行いに走ってしまうでしょう。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」真理を忘れているのなら、あらゆる努力は失敗するでしょう。あなたの肉の思いによる頑張りや努力があなた自身の罪の生活を変えるのではありません。まず、肉の思いを変える、つまり「考えを変える(悔い改める)」事が先です。考えが変わっていない状態で行動を変えてもそれは長続きしません。人は内側が変わって初めて外に表れる行動が本物になるからです。古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着るという事です。


  1. 古い人がキリストとともに十字架につけられたという真理を知る
  2. その真理を信じる(その真理に考えを変える)
  3. その真理に対する信仰に基づいて行動する

上の順序が「自我に死ぬ・古い人に死ぬ」事が可能になるプロセスです。多くのクリスチャンは、自我である古い人が死んでいる事になっているという真理を知らずに、そしてその真理に考えを合わせずに、肉の努力だけで御霊によって歩もうとします。しかし、どうして「肉の力」で御霊による歩みができるのでしょうか?矛盾していますが、それを私たちは長い間やってきたのです。古い人(肉の思い)を脱ぎ捨てずに新しい霊によって生きようとしてきたのです。その様な歩みをすれば、その人は葛藤の中で混乱するでしょう。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです(ローマ 6: 7)。しかし、古い人が死んでいるという真理を知ってその真理に考えを変えずにいると、罪から解放されたのにも関わらず、罪を犯してしまい罪の奴隷となるのです。イエス様が私たちを何から解放して下さったのかを知らないと、私たちは必ず束縛の中にいる事になるでしょう。

「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」エペソ人への手紙 4:21-24

「古い人を脱ぎ捨てるべき」事と「新しい人を身に着るべき」事の重要性をパウロは説いています。これらを知る事が私たちの霊的成長の最初の一歩なのです。新しい人を着る前に必要なのが古い人を脱ぎ捨てる事であるのは言うまでもありません。それはまた、別の視点で言えば、古い契約の考え方を脱ぎ捨てるという事です。