2018年12月27日木曜日

新しい戒め その2

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 ヨハネの福音書13:34~35

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とイエス様は「弟子たち」に言いました。つまり、キリストの愛はまず最初に弟子たちの間で見られるべきものなのです。

私たちは教会で「御霊の実」を表すように何度も教えられましたが、それは「漠然」と人を愛する事になっており、時には残念な事に、人間的な表面的な愛として定義されています。しかし、イエス様はもっと明確な事を言っています。

キリストの弟子

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」とイエス様が言われたように、もしキリストの弟子たちの間に愛があるなら、それによって全ての人(信者・未信者問わず)がその人たちをイエス様の弟子として認めるのです。注意したいのは、「クリスチャンとして認める」とイエス様は言っていない事です。キリストの弟子たちがアガペーの愛をお互いの間で示さないとするなら、周りの人たちは彼らを「キリストの弟子」として認識できないのです。

キリスト教では「献身者は一部の人たちだけ」という考えが一般的になってしまいましたが、それは間違いです。私たちは本来、全員がキリストの弟子となっているべきです。というわけで、本来は「クリスチャン=キリストの弟子」という理解が正しく、ただイエス様を信じているだけではありません。誰でもキリストを「信じる者」としてスタートしますが、そこがゴールではなく、キリストと共に歩んでキリストに「従う者」になるべきなのです。人はキリストを信じた瞬間にゴールに到達するのではなく、そこから成長して新しい歩みが始まります。

内側から

クリスチャン同士に愛がないのなら、それを見た未信者はクリスチャンと関わりたくないと思うでしょう。まずは教会の内側から神の愛を示す必要があります。聖書の教えはいつでも、「内側からの変化が外に表れる」原則になっています。

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」マタイによる福音書 23:26

内側がきよめられて初めて外側もきよくなれます。この聖書の法則は、私たちの心の一新(考えを変える事)でもあり、心がきよい人は良い言葉を出し、心が汚れている人は悪い言葉を出すというたとえ話にも見られます。心理学的な行動療法による人格の改善方法はあり得ません。それは感情のコントロールなどを用いたりして、ある程度の思いの一新に基づくやり方も含まれますが、もっと根本的な内側の変化がありません。人が本当に変わるのはその人の内側が変わるからです。ですから、神様はまず私たちの古い人をキリストとの十字架と共に葬る(死ぬ)という型を示して、キリストの復活と共に新しい霊を私たちの内に創造する必要があったのです。そうしなければ、私たちは新しい霊的歩み方ができなかったからです。ただし、私たちの霊は新しく創造されたのですが、思いの方は相変わらず古いままなので、それによって影響されている過去の私たち(古い人)は葬られているという聖書の約束に一致させる必要があります。

さて、キリストにある者は全て新しくなっていますので、新しい人としてキリストの愛によって歩む事ができます。新しい人の歩みはキリストの弟子としての歩みも含みます。「イエス様を信じるけれども自分は弟子ではない」という考えは霊的な幼子の考えで、それは肉の思いです。

そして、その神の愛をまず主にある兄弟姉妹に対して示す事から始まります。外に出て福音を述べ伝える事も大事ですが、キリストに呼ばれた者たち(エクレシア)の集りでお互いを愛し合う事から始めるのが正しい順序です。しかし、現在のキリストのからだは、主にあって同じ兄弟姉妹であるのにアガペーの愛でお互いを愛していません。「隣人」の定義が人間的になるとそれはもはやアガペーではなくなります。もし、クリスチャンたちの間に愛がなければ、外で伝道してもキリストの愛がきちんと伝わらないのも、ある意味、当然でしょう。

クリスチャン同士が互いに愛し合うにはどうしたらよいでしょうか?愛の模範はイエス様です。それは自己犠牲の愛であり、他の人を常に優先させて考えるものです。また、神の愛は無条件です。ですから、自分の肉の思いに対して死んでいないと、アガペーの愛を他の人に示す事はできません。その様な心構えもなしにアガペーについて漠然と語っていると、いつの間にかに人間の愛になってしまうでしょう。ですから、自分の肉の思いに死ぬ(古い人に死ぬ)歩みがまず必要です。それは、自らの十字架を背負って歩むキリストの弟子としての歩みです。そして、私たちは本来全員がキリストの弟子となっているべきです。

こうした事を知らずに「御霊の実を結ぶ」という名目で慈善をしましょうと教えているのが一般の教会の愛の教えで、それは多くの場合宗教的なところがあります。「立派なクリスチャン」という、人が作った曖昧な基準を目指して良い行いをするという考えは聖書的ではありません。模範はいつでもイエス様です。自分を愛せないと人を愛せないという教えもズレています。自分の存在を忘れるくらい、相手の霊的な徳を高める事を優先させるのが理想です。その様な考えを持てないのは、私たちの多くがキリストの弟子という意識がないからです。

愛するとは

隣人愛の第一義的な定義は困っている人を助けるという事です。良きサマリヤ人の話でイエス様が示したように、困った人を助けてあげる事が愛の行いです。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」という教えも同じです。イエス様が言っている「良い行い」は箇条書きになっているモーセの律法とは違って、私たちが大人の考えと信仰をもってする行いです。「書いてある事、言われた事以外はやらない」というものではありません。

私たちがキリストの弟子としてイエス様に従う事を考えないで、どうやってアガペーの愛で人を愛する事ができるでしょうか?まずは、そこの意識改革が必要です。私たちがキリストの弟子としての歩みの中でアガペーの愛を実践しようとするなら、そうした私たちの姿を未信者が見る時に、その仲間に加わりたいと彼らは思うのです。キリストの弟子である私たちがお互いに愛し合うのは、証しとして大きなインパクトがあるものです。

「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」ガラテヤ 6:10

パウロも同じような事を言っています。まず信者同士の間にキリストの愛がなければ、世の未信者の誰が聖書の福音に興味を示すでしょう?彼らはキリストの愛に期待しています。未信者がクリスチャンに対して「完璧さ」を求める傾向が強いのは、キリストのアガペーの愛に答えがあると期待しているからです。ただし、私たちが肉の行いによって何かを示そうとすると失敗します。どうすればよいのでしょうか?まず、私たちが肉に対して(古い人に)死んで私たちの思いが御霊の思いになる必要があります。その上で、私たちは信仰を働かせる必要があります。信仰に関して言えば、私たちがイエス様とイエス様の言葉に目を向けるようになると私たちは信仰を働かす事ができます。そして、その信仰を通してキリストの愛(人間の愛ではなく)を表す事ができるのです。これはキリストの弟子として私たちがするべき事なのです。

2018年12月17日月曜日

イエスにつくバプテスマ その2

さて、バプテスマはギリシャ語の baptizo に由来しますが、その意味は「潜水させる、もぐる、浸す」です。そして「キリストにつくバプテスマ」とは「キリストの中に浸される」が直訳です。それは、私たちがキリストと一つになる事を意味しています。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ 3:27-28

「キリストをその身に着た」は私たちがキリストのアイデンティティーを持ったという事であり、クリスチャンが「キリスト者」と呼ばれるのもそれが理由です。私たちはもはや単なる人ではありません。いわゆる「新生」は私たちを全く新しい人に変えたのです。*ただし、それは私たちが生まれ変わったという事であって、成長という視点から見れば、思いの一新をしてキリストの身丈にまで達する必要はあります。

さて、聖書の中に私たちは私たちとイエス様の関係をよく見かけます。主は良い羊飼いで私たちは羊です。主はぶどうの木で私たちは枝です。主はまた、私たち(教会)のかしらで私たちはキリストのからだです。パウロがこれらの表現を使ったのは、私たちが「キリストにあって」一つになっている事を示す為です。

またパウロの幾つかの「キリストにあって」という表現は、文字通り「キリストの中に」という意味から来ているものがあります。

「キリストにあって豊かな者」(第一コリント 1: 5)
「キリストにあって賢い者」(第一コリント 4: 10)
「キリストにあって義と認められる」(ガラテヤ 2:17)
「キリストにあって励ましがあり」(ピリピ 2: 1)
「キリストにあって満ち満ちている」(ピリピ 2: 10)

パウロが「キリストにあって」と言ったのは、私たちがキリストの中に入る事になったからです。それは私たちがイエス様を信じた時にそうなりました。つまり、キリストを信じるという事がキリストの中に入って浸かるという事です。これが「イエスにつくバプテスマ」です。浸っている状態を表すのがギリシャ語の baptizo なので、ずっと浸かっている必要があります。ちょうど漬物が漬物である為に、ずっと何かに漬けられている状態を保っている必要があるのと同じように、私たちは常にキリストの中にいる必要があります。それは、私たちが常に信仰によって、御霊によって、新しい人として歩む事を意味します。

その歩みは、日曜日の主日礼拝の時だけではありません。或いは、特別な人だけが「献身する」ようなものでもありません。信者は皆が神様の子供であり、キリストの弟子としてイエス様を証しするのが当然であって、特別に「献身する」までもありません。普通に御霊によって歩んでいるべきなのです。こうした当り前の事が出来ていない現状は、私たちの霊的幼さを表しています。

さて、私たちがキリストのうちにいるなら、キリストのした事は私達がしたことと見なされます。罪となったイエス様は本来私たちの結末でした。イエス様は私たちの身代わりになったので、私たち自身が罪となる事はありませんが、イエス様が示した十字架の道はたどる必要があります。つまり、ちょうどイエス様が肉において死んだように、私たちも古い人に死ぬ必要があるのです。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ 16:24

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とイエス様は言ったのですが、それは「何でもかんでも『信仰の試練』という名目で全ての困難を耐え抜きなさい」という意味ではありません。この「自分の十字架を負う事」は後にパウロによって解説されています。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ローマ 6: 6

「十字架につけられた」と訳されている部分は、アオリスト形の動詞 sunestaurOthE でその単語の意味は「~と共に十字架につける」になっています。アオリストは動詞の過去を示すのではなく、事実や真理についての事を述べる時に使われるので、パウロはここで、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられている事」に関してその事実を述べているだけです。ですから、厳密にはこの箇所では、「古い人は過去において十字架につけられた」ではなく、「古い人が十字架につけられている事が真理」だと表現されているのです。

私たちの代わりに私たちの罪となってそれを十字架につけたのはイエス様ですが、私たちはそれを模範として、私たちが死ぬべき古い人、或いは、その古い人を生かしてしまう「肉の思い」も十字架につける必要があります。ですから、肉の思いを十字架につける事が私たちの日々の背負うべき十字架です。従って、「自分の十字架を負う」の箇所を引用して、宗教的にむやみに困難に耐える事を美徳としているような教えは間違いです。そうではなく、イエス様を模範にして私たちも古い人を十字架につける必要があるという事です。

何故私たちはその模範に従うのでしょうか?それは、私たちが「イエスにつくバプテスマ」を受けた者として、イエス様の中に常にいるべきだからです。彼の中にとどまる為に、まず古い考えを捨てる必要があるからです。人は、(古い人に死んで)新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないからです。イエス様はその道を私たちに示しました。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネの福音書 14: 6

もし、私たちがキリストの十字架を模範にしないなら、古い人のままで歩む事になります。古い人で生きるという事は、肉の思いで生きるという事です。肉の思いはアガペーの愛で他人を助けるという事を考えません。肉の思いは御霊の思いとは異なります。

そういうわけで、私たちの新生についても正確に理解するべきです。すなわち、イエス・キリストを信じて生まれ変わるとは、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた事を信じ、キリストの復活は私たちの新生(新しく生まれる、霊によって生まれる)を意味する事を信じ、それらを信じた結果として、新しい人として愛によって生きて証しをする事なのです。

私たちはまるで自分の都合が良い時だけキリストの中に一時的に浸り、大部分の時間においてはキリストの中にいない生活や考えをしています。その結果、古い人を脱ぎ捨てている事になってはおらず、また新しい人を着ていません。新しい人を着るという事は、私たちがキリストに似る者とされているので、パウロは、キリストを着る事でもあると言っています。そして、キリストを着ていないのなら、私たちはキリストの香りがしないのも当然でしょう。

しかし、私たちが「イエスにつくバプテスマ」を受けた以上、古い人に死んでいる事だと見なし、イエス様の中にとどまっておくようにしましょうとパウロは教えているのです。そうでなければ、私たちは決して勝利のある歩みができないでしょう。何故なら、新しい人として愛によって歩む事が圧倒的勝利者としての道だからです。その道はイエス様ご自身であり、父なる神様の元へと通じる唯一の道であって、私たちはそこを通らずに父なる神様の元へと帰る事ができないからです。

イエスにつくバプテスマ その1

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」ローマ書 6: 3

バプテスマの定義が分かればこの箇所の意味が理解できるでしょう。一般的にはギリシャ語でバプテスマが何を意味するのかはあまり知られていないので、ここを読む人の殆どが「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」事について理解している人は少ないと思います。何故なら、殆どのクリスチャンがバプテスマと聞くとすぐに水の洗礼式を連想してしまうからです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」ローマ 6: 4-5

私たちが「キリストとともに葬られた」理由は、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」だとパウロは言っています。これは、いわゆる「新生」の事を指します。何故なら、「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるから」とある通りです。

私たちの霊が新しく生まれ変わって(新生して)いるのは、イエス様の十字架の御業によるものです。従って、キリストの復活に私たち自身の復活の秘密があるのです。しかし、私たちが新しくよみがえる為には、まず一度、イエス様が十字架で死ななければなりませんでした。その方法が絶対条件であるのは、私たち自身も古い人に死ななければいけないからです。

イエス様ご自身が道であり真理でありいのちである以上、その他の方法で父なる神様の所へ行くことは不可能です。これは、誰もが知っている真理です。そしてそれが意味するのは、イエス様の贖いなしには私たちが父なる神様の子供たちとしての特権(権威)が与えられないという事です。何故なら、イエス様だけが道であって、私たちがそこを通らなければいけない事をイエス様が十字架によって示されたからです。

イエス様は十字架上で罪になりました。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第二コリント 5:21

罪そのものになったイエス様は肉体において死にました。何故なら、罪に対する究極的な刑罰は死だからです。本来は私たちが私たち自身の罪ゆえにその刑罰を受けるべきでした。それがモーセの律法の義です。しかし、更に優れたキリストの義は赦しと憐れみでした。イエス様が自ら子羊となってその汚れのない血によって私たちの罪を取り除いて下さったのです。しかし、罪自体は処分される事になっていたので、イエス様の犠牲は必須でした。その犠牲は私たちの為です。

「そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」エペソ 4: 8-9

この箇所はイエス様が死んだ事を意味しています。「高い所に上られた」というパウロの表現はキリストの復活を意味していて、「まず地の低い所に下られた」というのはキリストの死を意味しています。

「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」黙示録 1:17-18

死んだイエス様はよみがえりました。そして、今も生きています。この真理は現在の私たちにとっても適応されます。

「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。」使徒の働き 13:33

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」第一コリント 15:20

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて」エペソ 1:20

「この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです」エペソ 4:10

よみがえられたイエス様は父なる神様の所に上りました。そして神の右の座に着座しておられます。

イエスにつくバプテスマ その2に続きます。

2018年12月4日火曜日

神はサタンに許可を与える? その2

ヨブ記の解釈

それでは、ヨブ記の解釈について解説します。まず、仮にサタンが勝つようなパターンを考えてみましょう。「神様の許可によってサタンに苦しめられたヨブはとうとう神を呪った」というシナリオです。つまり、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であっても「神様の許可」次第で神を呪う事もある、という内容です。ヨブ記のストーリーがもしそうであったなら、それを読む人は誰でも神様を信頼する事はしないでしょう。また、ヨブ記が旧約時代の書物であったとしても、聖書はどの書物も必ず「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になる為に存在しているはずですし、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となる」為に書かれてあるはずです。*ちなみに、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」にならないような聖書の解釈は間違っているのが明らかです。

ヨブ記から私たちが何か学べるように書かれているのなら、私たちはそれを有益に受け取れるのです。「神様でも時には悪魔に許可を与え、病気という試練を私たちに与える」という愚かな考えは有益ではありません。何故なら、誰でもそれを信じている人は信仰に立って病気と戦う事をしないからです。それでも彼らは言うでしょう、「私たちは信仰はある」と。でも、彼らはイエス様を癒し主と信じているよりも、病気という試練を与える神様をもっと強く信じているのです。それとも、その様なクリスチャンは悪魔がこの世の支配者として好き勝手にしているという事実を知らずにいるのでしょうか?誰が悪い事をしているのかを知らない信者はまだ霊的に幼いのです。

古い契約の視点 vs. 新しい契約の視点

「悪も神がもたらす」という古い契約の視点でヨブ記を読むと、神様がサタンに悪事をしてもよいという許可を与えた、と見えてしまいます。しかし、新しく生まれ変わったクリスチャンならそうではない事を知っているべきです。何故なら、私たちは神様を「アバ、父」と呼べる程の信頼関係の中にあるからです。父親の様な神様に対して、私たちはパンを下さいと言えばそれを与えるという良いお方だという事を知っているからです。従って、神様は変わることなく良いお方だという定義を崩さずにヨブ記を読む必要があります。

次に、何がどうなるか全ての結末を知りつつ「彼をおまえの手に任せる(実際には許可を与えてはいない。直訳では手の内にある)」と神様が言っている事を私たちはしっかりと理解するべきです。神様の視点でヨブ記を読む必要があるという事です。サタンの手に任せると神様が言っても(厳密には新改訳が言っても)、サタンの思い通りにはならない事を神様は既に知っていたのですから、それは「許可」にはならないのです。あなたが未来の結果を知りつつ誰かに「あなたの思う通りにしなさい」というなら、それを知らない人にとっては「許可」に見えますが、あなたにとっては「許可」を与えている事にはならないのが分かるでしょうか?この視点は古い契約の視点で考えている人にはありません。

神様を良いお方だと知らない理由

神様はいかなる人に対してもサタンに「許可」を与えて苦しめる事(病気という試練を与える事)などをしません。ヨブが潔白で正しい人だからだという理由で神様は何か祝福をしたのとも違います。「正しい人が祝福を受ける」という考えも古い契約に基づく見方です。新約聖書をよく読んでイエス・キリストについての御言葉をたくさん蓄えている人は、神様が人を祝福する唯一の理由を知っています。それは、神様が恵みに満ち溢れているお方だからです。

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ヨハネの福音書 1:17

イエス・キリストを見るまでは、人は完全に神の恵みを理解する事は不可能です。従って、ヨブやその他の多くの旧約時代の人たちには、神様の恵みに対する理解が限られていました。神様が恵みを与えるお方なのはどうしてでしょうか?それは、恵みと神様の性質に関するものです。究極的に言えば、恵みはもはや神ご自身であって単なる漠然とした概念ですらありません。もっとストレートに言いましょう。恵みとはイエス・キリストに他なりません。すなわち、父なる神様が私たちに与えた恵みは、私たちの人間的な考えによって定義されるような見える形の祝福だけではなく、イエス・キリストというご自分の御子であり、私たちにとっての主なのです。

恵み(イエス・キリスト)をよく知らないでいると、ヨブの様に「命を与える神は命を取る」という不信仰の考えになります。しかし、イエス様は一匹の羊の命を救う為にもご自分の命を捨てるお方なのです。

悪いものを良いものに変える

「主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」ヨブ記 2: 6

神様はあえてサタンの思うようにさせているのが分かりますか?逆にそうとも知らないサタンは、神様から「許可」をもらえたと考え、自分が有利な立場に立ったと思ったのです。ところが、それは有利にはなりませんでした。

サタンは彼の自由意志によってヨブを殺す事もできました。しかし、神様はサタンがヨブを殺す事はしないという事も既に知っていました。

次の二か所からもヒントがあります。

「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」ヨブ記 1:11

「しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」ヨブ記 2: 5

サタンは二度もヨブが神を呪う事を願いました。これが彼の悪意です。ヨブの持ち物を全部滅ぼしても、サタンにとっては何の得にもなりません。地上の全ては既に彼の支配の下にあったからです。ヨブの命さえもサタンにとってはどうでもよい事なのです。ヨブが死んだからといって特にサタンが何かの益を得るわけではありません。サタンがこだわったのは、ヨブが神様を呪う事、つまり、ヨブの自由意志を悪い方へ向ける事でした。それで神様は、サタンがヨブの命を狙っている事ではない事を知っていたのです。

元々サタンは彼の自由意志によって勝手に何でもできました。ヨブを殺す事もです。しかし、ヨブの自由意志を誘導したかったサタンは、ヨブを殺す事を目的とはしていませんでした。その思惑を既に知っていた神様は、あえてサタンに「許可」を与えたように「彼をおまえの手に任せる(直訳では手の内にある)」と言ったのですが、神様が知っていたのはサタンの悪意だけでなく、ヨブが神様を呪う事をはしない事、つまり、サタンの作戦が失敗に終わる事も全て知っていました。

神様はサタンに悪事をしてよいという「許可」を与えたというよりも、むしろ本来は自由に何でも出来たサタンから「許可」を取ったのは神様なのです。サタンから「許可」をもらった神様が逆に彼に「制限」を与えたのです。サタンは自分の作戦が、ヨブを殺す事が出来ないという「制限」付きになるとは知らなかったのです。元々そうする気はなかったサタンは、その様に神様に命令されてもすぐに同意できました。

「主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」ヨブ記 1:12

神様は最初のサタンの挑戦の結果を知りつつ、「彼の身に手を伸ばしてはならない」と言いました。サタンは律義にもその命令を守ります。

「主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」ヨブ記 2: 6

神様は2回目のサタンの挑戦の結果も知りつつ、「ただ彼のいのちには触れるな」と命令しました。サタンは行儀よくその命令に従います。

ヨブが一度も神様を呪ってない事実はサタンの敗北を示します。確かにヨブは自分の生まれた日を呪いました。また、ヨブは自分の義を主張してそれが彼の罪となったのですが、「命を取る神様」だと考えたヨブも神様を呪う事はしなかったのです。

まとめ

神様はサタンに悪事ができる許可を与えたという見方は間違いで、神様は被造物に自由意志を与えているという見方が正しい見方です。サタンは既にアダムから権威を奪っていたので、彼は何でも悪い事をしていました。ですから、許可なしに悪い事をずっとしていたのです。神様は自由意志をコントロールしません。それをコントロールすると、それはもはや「自由」ではないからです。しかし、被造物が自由意志で悪い事を企んでいる時に、神様はそれを修正して良いものに変えようとしたり、何らかの解決の方法を備えて下います。その様な神様の良い計画があったという記録がヨブ記です。

「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者なら全ては万々歳でうまくいく」と考えるべきではなく、サタンの攻撃をしっかりと認識して「悪魔に立ち向かって足で踏みつける」のです。*ちなみに、「キリストの血潮の宣言」ばかりが霊の戦いでもありません。その宣言に力が解決をもたらすとは弟子たちも記していないです。

ヨブは信仰がなかった為に、サタンにその弱点を突かれました。アブラハムの様に「神様はいつも正しい」としていないかったので、ヨブの場合は彼の無知が試練をもたらしたようなものです。ですから、「病気という試練を受けた義人ヨブ」ではなく、「自らの不信仰でサタンに機会を与えてしまったヨブの試練」が教訓の部分です。

神様はサタンや人の自由意志によるその悪事をそのままにしておく事はありません。悪いものを良いものに変えるのが神様のみこころです。もちろん、神様のみこころや計画が全てうまくいっているわけではありません。サタンの誘惑が成功したケースもありますが、ヨブ記では失敗に終わったという記録です。サタンが大成功したケースは、多くのイスラエル人をつまずかせた事でしょう。しかし究極的に言えば、サタンの計画 vs. 神様の計画は常に人間の自由意志が決定的です。

そういうわけで、ヨブ記に基づいて誰かが「時には神様は私たちに病いという試練を与える」という趣旨のメッセージをしているのなら、その教えは間違いです。その解釈は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になりません。その教えは、単に「神様のみこころは全く分からない」とするだけです。むしろ、病気を感謝するというおかしな信仰を植え付けてしまうほど悪質なものです。

「病気はサタンから来るけれどそれを許可しているのは神様」とした場合、それを信じている人は悪魔に立ち向かう事をしません。しかし、神の武具を身に着けて御霊の剣を使って戦う事をよく理解している新しい契約にいる信者は、癒しは霊の戦いという事を知っています。

恵みが十字架によって明らかに示された後では、クリスチャンはサタンの悪事をストップさせ、地上を神の国に変えていく仕事をします。それは信仰のなかったヨブにはできなかった事ですが、神の子供として大胆に歩む者たちにできる事なのです。

2018年11月29日木曜日

神はサタンに許可を与える? その1

「主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」ヨブ記 1:12

この節だけを読めば、神様がサタンに許可を与えてヨブを苦しめたという解釈も可能だと言えます。では、神様はその時サタンに許可を与えて、その許可を得てサタンは悪事を行なったのでしょうか?

全知全能の神

まず、この節だけで何かの結論を出すのではなく、もう少しこのストーリーの内容を把握してみましょう。

「主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」ヨブ記 1: 8

まず、神様は「サタンがヨブに心を留めた」事を知っていました。つまり、サタンの悪だくみを知っていたのです。ここに重要な真理があります。神様は全知全能であってヨブの心もサタンの考えも知っているという事です。神様だけが人の心などを見る事が出来ますが、被造物にはできません。しかも、神様は未来の事も全て知っています。

「サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」ヨブ記 1: 9-10

サタンの典型的な攻撃パターンです。疑問を投げかける事によって誘惑するやり方の事です。ここではまだ彼の悪意は見られません。ヨブが神様を恐れるのは神様がヨブを祝福したからだとサタンは言いました。深く考えずにいると彼の意見も一理ある感じですが、実はそうではありません。「祝福がなければヨブは神様を恐れる事はしない」というのを単に「AがなければBがない」として見ると納得するかもしれませんが、そもそもその様にして見る事が間違いなのです。

神の祝福とは神の恵み、すなわち神の好意ですから、それを受けるヨブが神を恐れるのは当然だからです。何故なら、まず、「恵みを与えるお方」は神以外存在しません。従って、「神が祝福しなければ」という時点で既に神様を神様ではないとしているのです。人が神を恐れる理由が神の恵みに基づく事はむしろ自然です。*逆に、神の好意を退けるのはとても愚かな事です。

「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」ヨブ記 1:11

ここでは「あなたの手を伸べ」と言って神様が直接ヨブを打つようにと大胆に言いました。サタンがエバに大胆に言ったのと同じです。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」創世記 3: 4-5

さて、ヨブ記1章12節が問題の箇所です。

「主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」ヨブ記 1:12

ここを読んで「サタンは神様の許可を得て悪事をする」或いは、「神様はサタンが悪い事をする為に許可を与える事もある」と考えているクリスチャンは、もう少し神様の性質とサタンの性質の違いや、被造物の自由意志について聖書から読み取る必要があります。

まず、「許可の承諾」について考えてみましょう。私たちが知るべき事実は、そもそもサタンはアダムとエバをだました時からあらゆる悪事をしてきているという事です。ヨブの時代になって急に神様からの許可が必要だとサタンが考えついたわけではありません。地上の全てはもう既にサタンの手のうちにあったのです。アダムから「地上を治める権威」を奪ったサタンは、やりたい放題の悪をしていたのです。権威とは「許可なし」に何かをする事を意味します


サタンの支配

サタンがこの世を支配する事になったのは以下の箇所から分かります。

「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒の働き 26:18

「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」第一ヨハネ 5:19

「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」第二コリント 4: 4

これらの事を記したキリストの弟子たち(ここではルカ、ヨハネ、パウロ)はサタンの支配を認識しています。しかし、サタンの支配は神様がサタンに許可を与えたからという事ではなく、アダムの違反が直接的な原因です。

また、サタン自身も彼の地上での支配を認識しています。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」」マタイによる福音書 4: 8-9

サタンはこの世の全てを彼のものとしたのです。どの様にしてサタンはこの世を支配したのでしょうか?死という武器を持ってです。

「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」ローマ書 5:14

死があるのは罪が原因です。従って、アダムに罪を犯させる事を通してサタンは全ての人を罪の奴隷にして滅ぼしたのです。何故滅ぶのでしょうか?それは、罪の奴隷は報酬として死を与えられるからです。もちろん、そのサタンの計画も失敗に終わっています。十字架の御業によってサタンの計画は破壊されました。しかも、贖いの計画は地の基が定まる前に存在しているのです。つまり、究極的には神様の良い計画にまさるものは存在しないのです。

ヨブ記はしばしば、「神様は時にはサタンに悪事をしてよいという許可を与える」という趣旨のメッセージの土台になっていますが、この見方は目で見て判断する人間によるものです。しかし、神様の良い計画は人の思いよりも優れています。

ヨブ記2章は?

今度はヨブ記2章からです。1章と同じ事をまた解説します。

「主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」ヨブ記 2: 3-6

神様はここでもサタンの思惑を知っていました。「ヨブに心を留めた」サタンが「何の理由もないのにヨブを滅ぼそうとした」と神様は言っています。神様の視点によると、ヨブを滅ぼそうとしたサタンはその理由を持っていない、という事です。何故神様はその様な事を知っていたのでしょうか?それは、神が唯一の全知全能のお方だからです。

サタンはヨブの所有物を破壊したのですが、最初の彼の作戦(ヨブ記1章)は失敗しました。ヨブは神様を呪うどころか文句一つ言わなかったからです。そこでサタンはヨブに直接攻撃する事を考え、「彼の骨と肉とを打ってください」と再び神様がヨブを打つようにと言いました。もちろん、神様がそんな事をするはずはありません。そこで神様は「彼をおまえの手に任せる(直訳は手の内にある)」と再び言ったのですが、ここも1章同様、神様の意図が隠れています。このストーリーの中心人物であるヨブにもそれが見えませんでした。神様の意図とは、自由意志を悪事に利用したサタンを逆手に取って良いものに変えるという事です。

ヨブ記の1章で、サタンの計画が失敗に終わるという結果を神様は既に知っていました。この理解は重要です。という事は、サタンに対して「彼をおまえの手に任せる」と言った神様は、「許可」を与えているかのようにサタンの前で振る舞っただけなのです。結果を既に知っている神様は、サタンの挑戦に対してあたかも彼に幾らかでもチャンスがあるかのようにしているのです。そうとは知らず、サタンはヨブを直接攻撃するならヨブはきっと神を呪うだろうと考えていました。サタンは自分の思惑通りになると思って再びヨブを襲います。

ここで少し考えてみて下さい。人間の視点からではなく、神様からの視点からです。つまり、結果を既に知っている神様の視点です。それならば、サタンは失敗に終わる計画を企んでいるという事になります。無駄な事をサタンはこれからやろうとするのを神様は見ていたのです。神様がサタンをコントロールして結果を出したのではなく、単にサタンの自由意志がその様に働く事を知っていたのと、ヨブの自由意志が悪に向かう事はないと知っていただけです。ある人は言うかもしれません。何故神様はサタンに未来の結果を言わなかったのか?何故なら、言ってもサタンは信じないからです。その時のサタンは勝算があると思っています。まだキリストの復活を知らないからです。キリストの復活の力を知らずにいたサタンは全てをコントロールできると考えていました。

「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」第一コリント 2: 8

キリストを十字架につけようとサタンはイスカリオテのユダを筆頭に、多くのユダヤ人の背後で働きました。しかし、それは彼自身が墓穴を掘る事になったのです。

少しまとめます。ヨブ記を理解する上で必要な基本的知識は、神様が全知全能である事、被造物は自由意志を持っていてそれに基づいて行動している事、神様のみこころ(すなわち、神様は全ての事を良い方向に持って行こうと計画されている事)です。

神はサタンに許可を与える? その2に続きます。

2018年11月14日水曜日

古い契約 Vs. 新しい契約

新約聖書によると、キリストによって新しい契約が確立された事が分かります。それは、イエス様が十字架で流された血によって成り立っています。ですから、十字架の御業こそが新しい契約の土台なのです。この理解はとても重要です。何故なら、もし私たちが新しい契約の土台である十字架を知らないと、いつまでたっても間違った教えに気づかないでしょう。様々な教えが私たちの周りにありますが、イエス様と使徒たちが教えていのは御国の福音とその奥義であって、それは新約聖書に限定されたものです。キリストの十字架を知るという事は、十字架が私たちにとって何を意味するかという事です。
 
「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」ルカによる福音書22:20

イエス・キリストの血が十字架で流された以上、新しい契約は既に始まっています。そして、今も有効です。何故なら、キリストの血は永遠の力を持つものだからです。新しい契約は永遠です。古い契約とは違い、破棄されたり変わったりする事はありません。「永遠の契約の血による羊の大牧者」がそれを確立したからです。この確立はキリストの血によってなされたので、それ以前には確立されていませんでした。すなわち、キリストがその聖なる血を流したという歴史的事実が何かを変えたという事なのです。そして何が変わったのかを私たちは知るべきです。

「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」ヘブル人への手紙 9:12

さて、古い契約は神とイスラエルの民との間で交わされたものですが、新しい契約はイエス・キリストの契約です。

「イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」マルコ 14:24

私たちが知らなければいけないのが、神と御子との間で交わされた契約は決して変わる事がないという真理です。イスラエルの民は彼らの肉の弱さのゆえに神との契約を守る事ができず、いつも偶像礼拝に走っていました。しかし、イエス様の契約は完全です。そして、イエス・キリストを信じる者は新しい契約の中に入る事ができます。

ところで、古い契約はイスラエル人との間に結ばれたものであって異邦人には関係ありません。古い契約ではイスラエル人は「選民」だったのですが、異邦人と神様との間には契約がないので「部外者」だったのです。しかし、新しい契約は御子を信じる者全てに適応されます。この理解はとても重要です。アブラハムの子孫はイスラエル人限定ではありません。何故なら、信仰の原理が行いの原理よりも優れているからです。

「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」ローマ 4:16

信仰が現れた以上、私たちはモーセの律法を追い求める必要はありません。愛の実践はモーセの律法を行う事を通してではなく、新生した私たちの霊が御霊のインスピレーションを受けてキリストの愛によって行うものです。それは信仰に基づくものであり、キリストの愛があるからこそ出来るものであって、義を獲得する目的や何かを証明する為に行うものではなく、神の子供たちとして自然と内側から出る行為なのです。しかも、キリストの愛による良い行いはモーセの律法を全てカバーするのです。

クリスチャンは何故古い契約に戻りたがるのでしょうか?一つには、宗教の霊(悪霊)が私たちを惑わしているからです。二つ目には、私たちの肉の弱さが関わっているからです。人の肉の弱さは五感に頼って歩もうとします。人が五感に頼るようになると、人間的な基準で物事を判断します。体験主義も人の弱さに属します。従って、たとえ新しい契約にいるクリスチャンでも考え方が古い契約・肉の思いのままだと、恵みとモーセの律法を混同してしまうのです。それはガラテヤの教会で起きていた大きな問題でした。

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」ガラテヤ 3: 1

この箇所はネストレアーラント(アレキサンドリア型)によると「真理に従うべきではない」という部分が欠けています。ネストレアーラントを元にしている新改訳聖書も同様にそこが欠けています。ビザンチン型の写本によると「真理に従うべきではないと、だれがあなたがたを迷わせたのですか」と書かれています。

イエス・キリストが真理です。「真理に従うべきではない」と誰かが教えるなら、それはイエス・キリストに従うべきではないと言うのと同じです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネの福音書  14: 6

さて、イエス様が新しい契約を確立されたので、もはやモーセの律法に基づく古い契約は無効になっています。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」ローマ 10: 4

「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ヘブル人への手紙 8: 6-10

ヘブル人への手紙のこの箇所で言っている「初めの契約」とは神様とイスラエル人との契約でモーセの律法を土台にしています。この章及びヘブル人への手紙全体の内容と文脈から明らかです。しかし、イスラエル人はその古い契約を守る事ができませんでした。それで、神様は別の方法で彼らの神となる計画を明らかにしたのです。その方法とは、イエス様の十字架による救いです。キリストによる新しい契約はさらに優れています。何故なら、恵みによって信じる人々は誰でも人の罪に対する神の怒りから免れるからです。刑罰を要求する古い契約には人の罪を赦すという概念がなく、罪に対する刑罰を常に要求していました。

モーセの時代から始まった古い契約は、異邦人には適応されません。従って、イスラエル人は異邦人を軽視していました。ある意味、当時の異邦人はイスラエル人から見て価値の無い存在だったのです。しかし、今はキリストの十字架の恵みが全ての信じる人々に適応されます。異邦人クリスチャンは、もはや異邦人というレッテルで呼ばれる事もなくなっています。キリストを信じる者であるなら誰でも同じ御国の相続者となれるようになりました。新しい契約は神の恵みゆえに優れています。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」ヘブル人への手紙 8:13

古い契約と新しい契約の共存はありません。新約聖書には「古い契約」と新しい契約」を比較している箇所がたくさんあります。比較がなされるのは、いかに新しい契約が優れているかと示すためなのです。不完全であってモーセの律法はキリストによる完全な律法に変わったのです。両方の契約を大事にしようという考えは、みことば(イエス・キリスト)を無効にしてしまいます。完全な愛の戒めに不完全なモーセの律法を持ってくるなら、全体が不完全になります。私たちは新しい契約の新しい戒めによる新しい生き方を新しい人を着て歩まなければなりません。もはや、全てが新しくなったのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント 5:17

ですから、新しい契約の下にいる私たちが考えなければいけない事は、キリストが私たちの中におられる事、そして、それを基準にして人間的な尺度で物事を判断しない事です。人間的な考えはいつも宗教的なものや肉の思いにしか過ぎません。しかし、モーセの律法よりもさらに優れた完全な律法はイエス様によって表され、御霊の思いによって私たちが歩む事ができる奥義と心の一新(正しくは思いの一新)による霊的成長もパウロによって明らかになっています。私たちはこの真理において大きな望みを持っているのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」ローマ 8: 4

御霊によって歩むなら、私たちは肉の思いによって判断をしなくなります。また、御霊による歩みはキリストの愛に基づいているので、アガペーの愛によって全ての律法を守る事ができます。そこには文字によって従う束縛からの解放があり自由があります。私たちは神の子供として自由に人を愛する事ができるのです。

古い契約が終わったという事が理解でれば、私たちは神聖な牛とされてよく知られている様々な教理が間違いである事が分かるでしょう。現在、これらの教えが比較的一般化されていますが、その土台は旧約聖書と古い契約の視点による解釈です。これらの教えを新約聖書の視点で吟味しないと、私たちはいつでも「古い物は良い」とパリサイ人や律法学者のように形と儀式にこだわる考えに固執するでしょう。イエス様が現れた以上、他の何かが優先されるべきではありません。新しい契約だけで良いのは、その契約がキリストによる完全な契約だからです。

2018年11月11日日曜日

女性の牧師はタブー?

ある教派では教会における女性の奉仕は限られたものとし、女性はリーダー的な役割をこなすべきではないと教えています。彼らの主張は主に「霊的に女性が男性を支配する」事はないという考えに基づいています。彼らは第一テモテ 2:11-12 をその様に解釈して、パウロはそう教えていたと信じています。しかし、「霊的に誰かが人を支配する」という考え自体が間違いです。ですから、牧師が「平信徒」を「霊的に支配」するという事もありません。使徒や預言者、その他のどの様な人でも別の誰かを「霊的に支配」するという事はあり得ないのです。この部分で多くの教会が混乱しているのは、リーダーの霊的権威とその扱いについての理解が乏しいからです。「リーダーの霊的支配」は人の肉の思いが作り上げた組織的教会の中で生まれたものであり、これはローマカトリックから来た考えです。

では、それらの聖書の箇所はどの様にして理解するべきでしょうか?

「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」第一テモテ 2:11-12

まず、ギリシャ語では「夫」と「妻」の単語がなく、それぞれは「男」と「女」として常に表されています。しかし、これらの節の「男」と「女」は「夫」と「妻」を意味しています。

単数形

第一テモテ 2:11-12 では「男」と「女」はそれぞれ単数形です。つまり、一人の男と一人の女です。それぞれが一人なのは、一人の妻と一人の夫だからです。パウロが単数形で示した理由がどうして「夫婦」と分かるのでしょうか?しかし、その答えは次の節にあります。

「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」第一テモテ  2:13-14

夫婦の場合、妻は夫に従うのが新約聖書の教えです。夫婦関係に関しては、パウロが奥義の一つとして明らかにしました。

「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」エペソ 5:32

夫婦関係の模範は究極的にはキリストと教会との関係です。ですから、その模範を見習って夫は妻を愛するべきで、妻は夫に従うべきだというのがパウロの教えです。

そういうわけで、第一テモテ 2:11-12 をもっと分かりやすくすると以下のようになります。

「女(一人の女=妻である者)は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女(一人の女=妻である者)が教えたり男(一人の男=妻の夫)を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」第一テモテ 2:11-12

従って、この箇所を用いて「一般女性は誰でも男性を教える事はできない」と教える事はできません。何故なら、この箇所は夫婦について書いてあるからです。パウロは女性がリーダーになる事はありえないとしてここに書いたのではありません。その解釈は単なる誤解です。

その一方で、極端な解釈をする人たちは、極端な事を主張します。夫婦であっても妻は夫に従わなくてもよいと考える人たちです。彼らは夫婦について書いてあるパウロの手紙をよく読んでいません。感情的なフェミニズムの考えを真理と混ぜるような試みも間違いです。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」エペソ 5:22-25

妻たちは「主に従うように」自分の夫に従うべきだとパウロは言っています。「主に従うように」という箇所は都合よく無視されがちです。また、夫は妻のかしらであると言っています。キリストと教会の関係は夫婦の関係にも当てはまるとパウロは言っています。夫婦は、イエス様が教会にした事を模範とするべきなのです。男女平等という人間的な見方に基づく諸々の判断ではなく、新約聖書が何を教えているのかに基づくべきです。

さて、「夫婦」ではなく「男女」について、或いは、私たち一人一人についてパウロが究極的に言っている箇所があります。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ 3:28

考えの幼い私たちは必要以上に自己を主張して、自己を中心に物事を考える為に、自己の損益ばかりを計算しています。しかし、私たちは究極的に新しい霊として、すなわち、新しい人として歩むべきであって、霊的に歩んでいるならイエス様といつも一つ霊になっている事を自覚して歩む事ができるのです。もし、私たちが霊によって歩んでいるのなら、肉の思いから来る一切の上下関係がなくなるでしょう。「古い人」に死んだ人は、男らしさや女らしさにこだわらなくなります。私たちは単なる人として歩むか、それとも霊として歩むか、いつでも私たちのチョイスに掛かっています。

「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」第一コリント 3: 3

2018年11月8日木曜日

御霊の導き

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ヘブル人への手紙 1: 1-2

神様は「むかし父祖たち」に「預言者たちを通して」語っていたとパウロ(ヘブル人への手紙の著者)は書いています。しかも、その語ったものは「多くの部分に分け、また、いろいろな方法」によってなされました。すなわち、キリストが来る以前は、神様は預言者たちを通して「間接的」にイスラエル人の父祖たちに語ったのです。何を語ったかというと、来たるべきキリストに関する啓示です。終わりの時に神様が御子によって私たちに語られる事の違いは、ヘブル人への手紙全体を通して、古いもの(古い契約)と新しいもの(新しい契約)の比較と深い関係があります。

私たちは今、「終わりの時」にいます。今の時代は御子を通して神様は私たちに語られるので、預言者がいなくても全ての信者が御霊による啓示や導きを御子を通して知る事ができます。この事はいわゆる預言の役割をするリーダー(一般的に五職・五役者の中の預言者と呼ばれている)の存在を否定するわけではありません。しかし同時に、恵みの時代においてはキリストが私たちの中におられる(コロサイ1:27)以上、神様は御子を通して全ての信者に直接語るのです。そして、私たちは御霊を受けた神様の子供たちなので、預言者という仲介者がいなくても偉大な羊飼いであるイエス様の声を聞くことができます。新しい契約が優れている為に、直接私たちはイエス様とつながる事ができます。

神様の子供としての特権を持っていなかった旧約時代の預言者たちは、あくまでも神様に仕える者という立場でした。任務を果たす事が彼らにとって最優先されるものでした。しかも、当時の彼らの様々な任務が神の国の前進の為だという事さえ分からなかったのです。しかし、新しい契約の下にいる私たちは神様の子供として歩む事ができ、神様の子供として成長してキリストの身たけにまで達する事ができます。私たちのアイデンティティーの確立が最初にあってから、私たちは神の子供として御国の働きをします。その働きは旧約時代の「神の僕」として何かをするのではなく、神様の子供として神様と共に御国を前進させて地を治める事なのです。

二種類の導き

さて、「御霊の導き」といってもそれぞれのシチュエーションに応じて聖霊が特別に示すものから、将来に何かが起こる預言であったりと様々あります。しかし、その時やその場合にしか効果のない「有効期限」のある一時的な示しよりも優れているのがキリストについての奥義です。その奥義は主にパウロと他の使徒たちによって啓示されました。この「二種類の御霊の導き」の理解はとても重要です。すなわち、今日神様が私たちに聖霊を通して何かを語るケースは、単に私たちをキリストのことばを読むように促す事を第一とし、第二には、普遍的な御言葉の奥義の啓示ではなく、一時的な啓示(いわゆる預言や知識の言葉など)によってその時のシチュエーションにだけ有効な事柄を示すケースです。

御言葉の奥義は、既にパウロやその他の使徒たちに全て啓示され、新約聖書として書かれました。従って、使徒というリーダー的な役割をする人が今日もいたとしても、彼らが書いたものが聖書の新しい一部となる事はありません。この理解は重要です。聖霊は真理に導いて私たちを教えるのですが、それはあくまでも「既に示された啓示」についてであって、聖書のどこにも書かれていない事柄を「新しい啓示」として示する事はありません。その様な主張をしている人たちには注意が必要です。彼らの教えが新約聖書にない内容なら、彼らは聖霊の声を聞いていないのです。とても単純です。しかし、新しい知識や高みの知識としてグノーシス主義の悪影響が起きたのは使徒たちがまだいる時からです。聖霊はもう誰かに「新しい奥義」を示しません。もし聖霊が今も新しい啓示を示しているのなら、新約聖書は常に書き足さなければいけません。そうしないと、誰もみことばによって吟味できなくなってしまいます。

残念な事に、カリスマ派や聖霊派の人たち(特に預言のミニストリーに関わっている一部の人たち)が言う「聖霊の導き」は御言葉としての「新しい奥義」を示唆するようなものが多く、それによって多くの人が間違った考えを持ってしまっています。「第三の波」という表現を使って「新しい聖霊の啓示」的な教えを主張したピーターワグナーは、今日のカリスマ派・聖霊派の人たちに誤解を招いてしまいました。まるで聖霊が以前には示していなかったものが、今日の使徒や預言者を通して語るというものです。今日でも聖霊が「新しい啓示を示す」とカリスマ派の中で考えられているのは、ピーターワグナーの影響が大きいでしょう。しかし、教理に関わるものや教会全体が新しい方向へ向かうべきだという様な内容の啓示は現在はありません。そうした「新しい啓示」を新しい「霊的トレンド」としてあらゆるセミナーや聖会に参加しても、「何も変わっていない、何も満たされることがない、霊的な成長が変わらない」と気づき始めたクリスチャンは多いものです。

現在も様々な「御霊の啓示」によって、様々な事を主張するグループはそれぞれの「霊的トレンド」を信じて行動しています。もちろん、この様な事をする人たちは主にカリスマ派と聖霊派のグループです。しかし、現在聖霊が示している「トレンド」は一つだけです。それは、新約聖書の福音に帰る事です。使徒たちの正しい福音によってエクレシアが機能していた初代教会にもう一度戻り、そこからキリストの身たけにまで達するように成長していく事です。残念ながら、今のキリストのからだは、コリントの教会よりも幼い状態です。

誤解の発端

多くのカリスマ派・聖霊派に属するクリスチャンが認識している聖霊の声や聖霊の啓示・導きは幾らかの誤解を含んでいます。私たちはしるしと不思議だけを見て判断しがちで、何かのしるしがある人に伴うなら、その人の教えは全て正しいと考えがちです。預言が幾つか当たっただけで、その預言者の言う事を全て鵜呑みにしてしまう事から始まり、その後の預言については吟味なしに受けとってしまう傾向はよくありがちです。もちろん、結果を出している点は過大評価では無く、それに応じて評価されるべきでしょう。しかし、前の預言が当たったからその後もそうなるとは限りません。幾らかの癒しが起きたからと言って、その人が自動的に真理だけを語り続けるとも限りません。不思議な業によって良いスタートを切った教会が後でカルトになったパターンはそろそろ終了してもよいのではないでしょうか?

私は長い間ある一つの事に対して大きな疑問を持っていました。それは、色々なカリスマ派のグループの人たちが教えている教理などに対する不一致でした。講壇から説教する牧師は全て、彼らが主張するように全員が「聖霊の声を聞いている」と思っていたので、教えの違いの理由なども特に気にしてはいませんでした。カリスマ派も伝統的な聖霊派の教団でも、共通している教理は恐らく聖霊のバプテスマと御霊の賜物に関するものくらいでしょう。少なくともそれらが今日でもあると教える点では彼らは一致していると思います。しかし、その彼らでも微妙な教理の違いなどを主張します。同じ聖霊を主張するグループで違いがあるのはどうしてでしょうか?何故ある牧師の教えと別の違う牧師の説教は同じ聖書の箇所から教えるのにどうして全く違う事を教えているのか、しかも彼らは「聖霊の声」を聞いているはずです。それとも、同じ御霊は違う事を教えているのでしょうか?

この疑問に対して私は都合良く次の様に考えていました。「きっと聖霊はそれぞれの人の信仰に応じて分かりやすく教えているに違いない。それが例え少し内容が違っていても「許容範囲」みたいなものがあって、ちょっとした違いなどは神様の「許容範囲」の中にあれば、聖書はどの様に解釈してもある種の「御霊による自由」の様なものがあるのだろう。教理の結論に少しでも「解釈可能」の余地があるなら、それはそれで一理ありと捉えても良いのでは」とだいぶ緩く考えていました。

カリスマ派の教会にしばらくいると、それぞれの主張はもっともらしく聞こえます。それぞれの場所で聖霊が違った形で働いておられると考えるようになります。何故なら、「聖霊が語った」というフレーズが絶対的な権威を持っているという刷り込みの様な教えが一般的だからです。しかし、蓋を開けてみて分かったのですが、御霊の声と導きを正確に見極めている人は多くいないという事実です。例えば、いわゆる御霊の賜物が、実はキリストにある幼子に対する教えであった事が分かった時、私はカリスマ派の教会の現状が幼子の状態である事を知りました。このグループの中にいて多くのメッセージを浴び続けると、霊的に成長している人は単に「御霊の賜物がある人」や「聖霊の声がよく聞こえる人」だという錯覚を起こしやすくなります。しかし、コリントのクリスチャンでさえ御霊の賜物に欠けていませんでした。「聖霊の声が聞こえる」というのも、信者は全てキリストの声を聞いているという事を知った時、それを認識できるかどうかは問題でない事が分かりました。問題は、その認識が正確かどうかなのです。*同様な考えで、預言があるかどうかではなく、預言の正確さが重要なのです。預言の発言が起こると、多くの教会では「それだけ」で神様をたたえるような行動(感情的な歓喜と賛美)をします。預言に対する吟味の事など思いもつかないほど、私たちは霊的現象に対して極端になってしまいました。

御霊の導きに関しては、全てが悪い点ばかりでもありません。実は、多くのクリスチャンは御霊の声を彼らが思っている以上に認識しています。しかし、その確信がないのは幼いために肉の思いが邪魔しているからです。また、多くのクリスチャンは知らない所で預言的な発言もしています。その認識が薄いのは、何がどうなっているのかをよく理解していないからです。幼子のうちは、多くの霊的な事柄を部分的にしか理解できません。*経験を積むだけでも多くの霊的な事を学習できますが、新約聖書の原則を知らないと体験主義に走る危険性もあります。

「一般的な聖霊の導き」を知るという事なら、その最適の方法は新約聖書の福音を読んで理解する事だけです。何故なら、御霊はイエス様の言った事を私たちに思い起こさせるからです。御霊は使徒たちにイエス様の言った事を思い起こさせて、多くの奥義を明らかにしました。特に、パウロに多くの奥義を啓示しました。聖霊は新約聖書にある「原則的な教え」に私たちを導きます。具体的に言えば、それは信仰に関わるものであり、恵みとキリストに関する知識、そして、「新しい人」として私たちが歩むべき神様の子供としてのあり方などです。

その一方で、「特別な聖霊の導き」を知るには、私たちは特にあらかじめ何かを準備をする必要はありません。その時のシチュエーションに私たちがいる時に、聖霊が必要な事を示すからです。私たちの多くが今まで誤解していたのは、「特別な聖霊の導き」を求める事を「原則」にした所です。この理解が分からない間は、多くの人は「聖霊の示し・導き」がないと何も行動しなくなります。大人の考えではなく、言われた事だけをするようになります。神様の指示通りにするのが良いというのはもはや言い訳になってしまいました。明らかに人を助ける必要がある時でも、まずは神様の許可やみこころを知る必要がある、という考えは幼い子供がする事なのです。こうした偽りの謙遜は、神の子供としての歩みでは無く、古い契約の下にいる「役に立たないしもべ」の考えなのです。役に立たないしもべはその主人のみこころが分かりません。

優先順序

私たちは新約聖書に書かれてあるイエス様の命令を行う事を優先するべきです。御霊の助けはあくまでも二番目のチョイスです。御霊はあくまでも「もう一人の助け主」なので、聖霊が私たちに語りかける局面というのは「特別なケース」が主なのです。この事をしっかり理解していない人は、「聖霊の声がよく認識できている人」は全て聖書の真理をよく理解しているだろうという錯覚に陥ります。あなたの周りにいる「聖霊に敏感な人」をよく観察したら分かります。その人は新約聖書的で無い発言(或いは、真理とは違う教え)が多いのに気づくはずです。彼らの言動と霊的成長が不一致しているのも典型です。あの人は「聖霊の声をよく聞いているはずなのに」と不思議に思うでしょう。何故こういう事があるのでしょうか?

現在の「御霊の導き」についての混乱とその曖昧さの原因は、ロゴスとレーマの中途半端な理解を筆頭に、霊的体験主義からくる様々な間違った教えのせいです。80年代から表に出てきた預言者たちのミニストリーの影響で、「曖昧な霊的教え」が一般化された為に、本来は明確な聖霊の導きが「曖昧でも良い」というものになったのです。そこから次第に、新約聖書の教えを土台にして歩むべき私たちは、それとは少し違う導き、すなわち「曖昧な聖霊の声」を優先させるようになりました。「レーマがより重要」という根拠を「聖霊の声」として定義してしまった聖霊派による間違った教えから、御霊の導きに関する極端な教えの影響は未だに根強く残っています。それが理由で多くの人が、「朝食に何を食べるかも聖霊の声を聞いてから判断するべきなのか」という疑問を持った経験があるのです。

その様な極端なケースだと、その考えがいかに幼いかと気づく人は多いでしょう。しかし、多くの人は未だに「聖霊の声と導き」に関して幼い考えを持っています。何故なら、殆どの人が霊的な事柄(或いは何事でも)に対して「聖霊に聞かないと分からない」というスタンスを保っているのが一般的だからです。この「霊的な事が分からない」という状態が「一般的」になっているのが示す事実は、そもそも私たちが「一般的に幼い」という事なのです。

御霊の導きは二種類あります。既に使徒たちを通して聖霊が示したものとキリストのことば、すなわち、新約聖書の福音の真理です。聖霊は私たちを真理に導く事を最優先させます。その次に聖霊が私たちを導くケースは、個々のシチュエーションにおいて臨機応変的な対処に関するものです。私たちは聖霊の「特別な導き」を原則にするのではなく、新約聖書の命令を原則にします。また、御霊の「特別な導き」は新約聖書のみことばを行っている中で聖霊が示すのですから、私たちはあくまでも新約聖書のみことばの原則を基準に行動すればよいのです。それをしないから時々聖霊が「介入」しているのです。しかし、幼い私たちは、その聖霊の「介入」をいつでも望んで来ました。何故なら、その方が楽だからです。大人の考えで信仰による一歩を踏むよりも、何でもかんでも聖霊が示す通りにする事が楽だからです。

本来私たちが取るリアクションは、「聖霊がこう語りました」という誰かの軽い発言に対してすぐに「すごい!」とする浅はかなものではなく、吟味をして何が良いものかを判断するべきです。反対に、新約聖書のみことばの原則を基に大人の考えで信仰を持ち、大胆に踏み出して結果を出す人が「御霊の導き」を示すならより的確に聖霊の声を聞いている事が明らかになるでしょう。

2018年11月6日火曜日

癒しは戦い

癒しに関して私たちの多くが誤解を持っている一つの考え方が、「神様が私たちを癒やすかどうか」というものです。しかし、イエス・キリストの打ち傷によって私たちの健康が既に保証されています。そのまだ見えない癒しは保証されているので、後は私たちの信仰によって現実化する事だけです。私たちの祈り(一般的には単なるリクエストという定義になっている)に神様が応えるから癒やされる事とは違います。十字架による健康の約束は既に確定しているので、神様に特に願う必要がないというのがポイントです。

神様に病気の症状を説明したり、それから助けて下さるように願うという事では無く、私たち自身がその病気という山に向かって動けと命じる必要があるのです。つまり、病の癒しが霊の戦いの一部だと理解する必要があるのです。実際に、イエス様も病気や症状に命じて癒しました。

「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」ルカによる福音書 4:38-39

私たちが私たちの宣言の言葉を信仰によって発するなら、多くの事を実現化する事ができます。何故なら、イエス様によって多くの事柄が既に保証されているからです。しかも、聖霊とイエス様ご自身が私たちのうちにおられるので、私たちは神様の子供として大胆に物事を解決していく事ができるのです。

「するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」マルコによる福音書 9:23

神様は信仰という法則を作りました。ですから、私たちはその法則に沿ってするべき事をするだけなのです。神様が特定の人を選んだり、私たちが何かの条件を満たした時を確認してから、私たちを癒やすのでは無く、私たちが信仰の法則に沿って大胆に行動する時に奇跡が起きます。癒しに関して言えば、神様に病気について何か言う必要もないのです。神様に何も言わなくても、病いに命じて癒やされる事が可能なのです。何故でしょうか?

神様は既に私たちを子供としています。そして、イエス様の権威と聖霊の力を私たちが使えるように用意して下さいました。ですから、既に私たちは病いを癒し、悪霊を追い出したりする事を許可されているので、それらの事について神様に何かを言う必要がないのです。悪魔という盗み人を捕まえる警察のような働きをするのが私たちです。警察官としてのユニフォームとそのIDは私たちが使えるキリストの権威であり、私たちの武器は聖霊の力です。

病気を年のせいや自然のものとして捉えるべきではありません。自然にそうなるものだとすると、創造主が病気という時限爆弾を人の中に作った事になります。主は癒やすお方であって命を取る事はしません。また、イエス様がご自身が命です。病気は不自然なのであって、それは悪魔からのものです。直接的にしても間接的にしても、悪魔からの影響によります。ですから、私たちが病気が悪魔からのものである事を知らないでいると、病気に対して戦う事をしません。クリスチャンは実際に、病気に対して戦わず、ただ神様に癒やして下さるように願い求めます。

私たちが霊的に幼い時には、特別なケースとして神様は癒やして下さる事もあるでしょう。しかし、それは特別なケースなので、多くの人にはその様なパターンでの奇跡はあまり起きません。実際に、多くのクリスチャンが神様にお願いしたけれども、癒やされないで亡くなりました。その理由は信仰の法則に沿って何もやっていないからです。ある人は信仰によって祈ったと言うかも知れませんが、信仰の定義は神様とみことばに信頼して、みことばを実行するという事であり、この場合は癒しに関するみことばを特に行うという事です。神様にどうこうして下さいと言うのでは無く、病いに立ち向かう事です。大胆に癒しを宣言して病いを追い出すのです。悪霊を追い出すのと同じです。

例えば、あなたは警察官だとします。誰かの家に泥棒が入るのを見たとします。それなのにまずは警察署に連絡してどうしようか相談するでしょうか?あなたは警察官としての仕事をなすべきです。その泥棒を現行犯逮捕する必要をあなたは知っているべきです。警察官であるあなたが泥棒を捕まえずに、警察署に電話をして泥棒を捕まえて下さいと言うべきではありません。

同様に、私たちが神様の子供としてこの世でどの様にして歩むべきかを知っているべきです。神様に病いについてどうするかを相談したりアドバイスを受けたり、癒やして下さいとお願いする必要がないのです。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコ 16:17-18

キリストを信じる私たちには癒しのしるしも伴います。しかし、私たちが病人に手を置く必要があるのです。マルコ16:18によって癒やす方法も、信仰の言葉によって病いという山を動かす方法も信仰が鍵になっています。実際に、癒しに関して最も重要な鍵は信仰です。神様のみこころは既に確定しています。病気を癒やし、悪霊を追い出したイエス様は昨日も今日もいつまでも同じです。

私たちの主は時には私たちの信仰が無い時でも癒やす事がありますが、信仰の法則によって私たちがするべき事をするように教えています。信仰の法則によって祝福を現実化させる方法が基本であって、特別ケースばかりを期待して祝福を受けたいと考えるべきではありません。それは幼子の考えですし、その様な望みはボーナスを期待するものです。しかし、私たちは信仰によって物事を解決していく事ができます。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」ローマ 3:27

信仰の原理(法則)は存在します。それによって私たちは救いを得るのであり、その他の祝福全てを手に入れるのです。この原理(法則)はキリストの十字架の約束が土台です。神様がこの原理を確立した以上、それは必ずその様に働きます。すなわち、私たちが主のみことばを信じて行う時に、その結果が表れるという事です。私たちの歩みが幼い時には、御言葉を信じる事が不安定な為に、信仰の結果を見るには時間が多少かかるかもしれませんが、信仰の原理は働いているのです。ですから、あきらめずに大胆に信じてみことばを宣言して実践するなら、必ず結果を見ることになります。

2018年11月5日月曜日

DHTT(神癒技術者訓練)の勧め

アメリカで癒しのミニストリーが最も盛んだったのは1940年代~1950年代にあったいわゆるヒーリングリバイバルの時代です。その中には、ウィルアム・ブランハム、オーラル・ロバーツ、ケネス・へーゲン、ジャック・コウ、AA アレン、そしてカリスマ運動の後では、キャサリン・クールマン、ジョン・ウィンバー、ベニー・ヒンなどがいます。彼らはとても有名なのですが、歴史をもっと遡ればもっと活躍した人たちがいます。それは、ジョン・アレクサンダー・ダウィー、そしてジョン G. レイクです。しかし現在、神癒に関して最も正確な教えをしているのがカリー・ブレイクです。

ジョン G. レイクのミニストリーを受け継いだカリー・ブレイクは、今から約二十年前に彼の子孫(ジョン G. レイクの孫)からDHTT(神癒技術者訓練)のマニュアルを受け取りました。そこからカリー・ブレイク氏による癒しのミニストリーが今世界に広がっています。約十年前にアメリカで流行ったストリートヒーリングは彼の教えが元になっています。彼はジョン G. レイクのミニストリーを復活させていますが、それはジョン G. レイクの預言に基づくものです。カリー・ブレイクはJGLM(ジョン G. レイクミニストリー)の復活と共に、キリストのからだ(エクレシア)に聖書的な癒しの教えを復活させました。しかも、彼の教えはただ癒しに関してのものだけが正確なのではなく、その他全ての教えにおいて最も新約聖書に近いメッセージになっています。

今から数年後には純粋な福音がようやく復活する事になります。この事が意味するのは、私たちが正しく理解していたと思っていた「福音」が正確ではなかったという事です。この事実はクリスチャンにとって大きなショックとなることでしょう。一つ違うのは、この復活はピーター・ワグナーがよく言ったような「聖霊の新しい動き」ではありません。単純に、使徒たちの福音がどの様にして理解されるべきだったかを、カリー・ブレイクやその他の少数の人たちが新約聖書をよく読んで気づいただけです。特に「聖霊が新しい事を示した」という事ではありません。そうやってピーター・ワグナーたちは、多くの人たちを巻き込みましたが、彼らはあまり聖霊の声を聞いていなかったのが今になって明らかになりつつあります。これからもピーター・ワグナーたちが主張していた「霊的な教え」の幾らかは正確ではないという事がより多くの人にも明らかになっていくでしょう。もうその時が来ています。

カリー・ブレイクは「特別な油注ぎ」や「預言などの啓示」が与えられたという事を主張して、何か新しい事を教えてはいません。確かに、彼が教えている御言葉の真理は新鮮に聞こえる人は多いでしょう。その理由は、使徒たちがいなくなってしまった後の時代からは、パウロたちの教えから次第に離れていったからなのです。カリーたちは、歴史と共に多くの間違いや力の伴わない理論だけの神学などが真理と混って来ていた事に気づいて、それらをよく調べて修正したりしただけです。この事は癒しに関する理解でも同じです。カリスマ運動のおかげで御霊の賜物について多くのクリスチャンが癒しに対して再びオープンになったのは良かったのですが、今度は賜物に傾倒しすぎて逆に癒しが昔ほど見られなくなったのはあまり知られていない事実です。

癒しの賜物が必須という従来の教えから、信仰による癒しという一昔前の教えに戻りつつあるのが、最近のストリートヒーリングから分かると思います。しかし、ケネス E. へーゲンの時代まで戻るだけではまだ足りません。ジョン G. レイクが活躍していた時代にまで遡る必要があります。何故なら、彼ほど癒しのミニストリーで大成功させた人は初代教会の使徒たちの他には恐らくいないからです。

私たちが知らなければいけない事の一つは、ペンテコステ運動が起こる少し前に活躍していた人たちがより正確な新約聖書の理解を持っていたという事です。彼らは多くの神学を知っていなかったかもしれませんが、信仰に関する理解は私たちよりも遙かに正確でした。私たちの多くは、今の時代には聖霊がもっと多くの啓示をしていると刷り込まれてしまったのですが、それは大きな間違いです。現に、多くのクリスチャンは大胆に神の子供として歩んでいません。いつも病気と経済的な束縛の中にあって、圧倒的な勝利者としての信仰の実がありません。私たちは多くの教えを受けてあらゆるセミナーに行って学んだのですが、どれも実践的ではありませんでした。相変わらず癒やされない現状を見ては、「それも神様のみこころ」だと言って見せかけの慰めを得ようとしたのです。次第に多くの人たちが切に願う事が再臨だけになってしまい、「向こうにいけば万々歳」という考えになり、この地上で神様の子供としてするべき事を見失いました。

ある人たちは「神の子供」として歩む事をある程度理解しているかもしれませんが、その限界がせいぜい使徒や預言者になる事です。正しい理解は「神の子供」としてこの地上に御国をもたらして治める事であり、肉の思いに死んで御霊によって歩む事なのです。現在、カリー・ブレイクの教えほど「新しい人」によって歩む事を正確に教えているミニストリーは存在しません。似たような教えをするミニストリーは幾つかありますが、「古い人」の脱ぎ捨て方と「新しい人」の視点を安定して強調しているグループはいないです。実際にどの様にしたら「新しい人」によって歩む事ができるか、どうやったら常に御霊によって歩めるか、その具体的な聖書的な方法について知っている人はまだ少ないです。

私たちがいかにより多くの病人を癒やす働きをする事ができるか、いかに正確な預言によって他人の徳を高める事ができるか、いかに福音を正確に伝えるかによってキリストに導く事ができるか、いかにアガペーの愛によって生きて他人を優先させる考えになるか、そして、いかに神様の子供たちとして御国をありとあらゆるところで前進させる事ができるか、これらの全ては私たちがいかに私たち自身の肉の思いを変えて御霊の思いになっているかに掛かっています。多くのクリスチャンはまだ肉の思いで御国を前進させようとしています。まだ御霊の導きを正確に捉えていません。彼らがキャッチしている御霊のインスピレーションの中にまだ自分たちの肉の思いが入っている事に気づいていません。

誰も完全に成長はしていないという点からすれば、皆が成長するべきだという事になります。ただ問題は、どうやったら幼い考えから大人の考えに変わるかです。そうした土台に関する教えの他に、その他の重要な事柄は全てカリー・ブレイクのメッセージの中にあります。究極的に言えば、彼を通してでなくても御霊は誰にでも真理を教える事ができますが、そもそも多くの人は真理を追い求める事をあまりしません。私自身も、もっとしっかりと聖書を勉強していたのなら、ピーター・ワグナーたちの言った事を鵜呑みにしなかったでしょう。彼らと関連していた預言のミニストリーはもっともらしく聞こえますが、それらの殆どは新約聖書的ではありません。彼らはむしろ旧約聖書的ではありますが、それなら私たちが「新しい人」としてではなく「古い人」になってしまうのです。現代のポピュラーな「霊的教え」は殆どが、旧約聖書(特に預言書)からの引用による教えです。

私たちがこの時代に最初に取り掛かるべき事は癒しに関してよく学ぶ事です。何故なら、クリスチャンの間で癒しのニーズが最もあるからです。そこから解決していくべきだと聖霊も示していますが、多くの人はその単純な導きにさえまだ気づいていないようです。もしあなたが病気なら、どうやってあなたはこの地上で御国を前進させようとするのでしょう?癒しよりも預言を重視したところで相変わらず弱いままでは多くの活躍はできないでしょう。悪魔は病気という大きな呪いによってクリスチャンを弱くさせようとしています。ある意味、近年の預言のミニストリーにばかりに注意をそらせているのも悪魔の仕業なのです。私たちは本来強いのですが、何をどうやって良いのか分からないのなら、悪魔は私たちの無知のゆえに強くなれるのです。「病気も神様から」という教えは「悪魔から」です。とても単純です。私たちはそろそろ目を覚ますべきです。

このブログを通してもっとカリー・ブレイクの教えを紹介していきますが、この度、いわゆる「神癒」についてさらに詳しく知りたい方の為に、DHTT(神癒技術者訓練)の日本語のサイトを紹介したいと思います。私自身もこの活動の中心人物として他の仲間たちと少しずつ真理を広めていく事に専念しています。DHTT はジョン G. レイクが始めたのですが、今はカリー・ブレイクによって世界中に広まっています。日本ではトーベンやトッド・ホワイトが先に来ていますが、カリーによる癒しの教えが彼らの活躍よりも前から存在しています。彼らとの教えの違いに気づく為には、30時間以上もメッセージを比較して聞いたりしないと分からないでしょう。その違いに気付く事は更に良い事なのですが、だからと言って、既に癒しで活躍している彼らを認めていないわけではありません。

多くの癒しのミニストリー(或いはどのミニストリーでも)と JGLM(ジョン G. レイクミニストリー)の違いは、彼らの教えの方がもっと新約聖書の福音に近い所です。カリーと似ているメッセージをしている人たちとカリーの教えの違いを見極めるだけでも、最低でも30時間くらいは必要だと私は思います。そうでないなら、「似ているメッセージだから誰でも同じ」と結論づける事になるでしょう。私がカリーの教えをたくさん聞くようになった最初の理由は、他の癒しのミニストリーと違ってカリーたちの方が癒した人の数とその成功率が一番だったからです。しかし、その一方で似たような人たちのメッセージも常に聞いていました。共通している部分は90パーセント以上だったのですが、違う部分に関してはカリーたちの方がより新約聖書的である事が分かりました。それが理由で今はカリーたちの教えを第一としています。

もし、あなたが特別な「油注ぎ」や特別な「按手」以外で人を癒し、解放し、励ましてイエス様の愛を伝えたいのなら、DHTT(神癒技術者訓練)をお勧めします。「訓練」といっても単に使徒たちが知っていた福音の教えに戻るだけの事です。とても単純な真理の教えなので、カリスマ教派にありがちな「霊的に深い学び」という意味不明で曖昧なものがなく、とても分かりやすい真理に共感できると思います。何よりも、結果を見たいと望んでいるのなら尚更です。「結果とは無関係に興味深い聖書の解釈を学ぶ」という姿勢を貫きたいのなら、現在存在している多くの預言のミニストリーに留まる方が良いでしょう。しかし、あなたの霊が「曖昧な預言」に飽きているという事実を認めるべきです。

カリーたちの教え(特に「新しい人」シリーズと「思いを変える」シリーズ)を聞けば、結局の所、癒しでも預言でも全てが単純な真理に基づいている事が分かるようになります。そして、「思いを変える」事を通して真の霊的成長を確実に体験できます。何十年たっても殆ど霊的に成長していない現状とその束縛から抜け出る為には真理が必要です。単に漠然と御霊によって導かれる、聖霊の声を聞くだけでは不十分です。問題は、いかに24/7御霊によって歩むか、そしていかに聖霊の声をより正確に聞くかです。時々聖霊に導かれる事だけでは成長になりません。

聖霊の声ばかりを追い求めていた私たちの熱は既になまぬるくなっています。御霊に導かれている人だと知られていた人がつまずきを与えると多くの人は困惑しますが、それは彼らの「成長の結果」が表れたに過ぎません。霊的に幼い私たちは霊的に盲目なので、誰が霊的に成長した人なのかさえ見分ける事もできません。カリスマ運動の影響を受け過ぎた私たちは霊的現象ばかりを追い求めました。リバイバルの為のカンファレンスや集会も、もう十分でしょう。やり過ぎてしまった点を反省するべきでしょう。無意味な「霊的」な解釈(言い訳)はもう十分です。そろそろ真理の教えに戻る時です。そろそろ自分の肉の弱さにいい加減うんざりする時です。カリーたちの教えの中心となっている「新しい人」シリーズはあなたを変える事ができます。何故なら、この教えはガラテヤ 2:20 を実現させるものだからです。何故彼らの教えが良いかというと、単純に新約聖書の福音の真理に基づいているからです。単純に福音の真理には力があるというそれだけの事です。その力は実践的であってあなたを変える事ができます。

2018年11月3日土曜日

リーダーの役割(五職・五役者の理解)

いわゆる Five-Fold Ministry(五職・五役者)の働きは、聖徒たちを整えて一人一人を奉仕の働きに導き、キリストのからだ全体を建て上げる為にあります。アメリカで1948年から始まった「後の雨運動」でこの教えがより多くの人に知られるようになりました。そしてカリスマ運動を経て、再びピーター・ワーグナーを中心に90年代に知られるようになりました。五職・五役者を「聖霊による新しい教え」のように広めてしまったピーターワグナーの影響で、その当時からその様な誤解が続いていますが、そうではありません。

教えはどこから?

この教えはエペソの4章にパウロが既に書いてあるものであって、歴史的には初代教会が無くなった直後の時代にも、五職・五役者に関する神学的な議論はありました。初代教会の時には当然のように五職・五役者の機能を持っていたキリストの体の機能も、近年でようやく「回復された」かのように見える為に「新しい教え」と見えるだけなのです。最初にこの回復運動を説いたのは、エドワード・アーヴィングというスコットランドの長老派の牧師かも知れません。次に大きくこの教えが広がったきっかけは、サスカチュワンで起きたリバイバル、「後の雨運動」と呼ばれるものからです。ピーター・ワグナーもこの影響から彼の教えを土台にしています。この時も、直ぐにはその教えの影響はありませんでした。70年代の Shepherding Movement(羊飼い運動・弟子訓練運動)の時に再び五役者の教えが浮上します。しかし、この時に教えた人たちはカルト的にしてしまいました。サタンが背後で働いていたので、きちんとした教えにはならなかったのです。

この教えはそもそも聖書的なのですが、一般的には神様が新しい啓示を示したという主張から使徒と預言者の回復運動が始まっています。その様に主張した人たちは自分たちの都合の良いものにしてしまい、結果的に使徒と預言者というエリートの権威を主張したのです。この様な方向に向けてしまった近年のピーターワグナーの影響は(預言的に言いますが)そろそろ終わりになるでしょう。更に言うならば、彼によって影響された人々の使徒的・預言的な運動が衰えて行き、パウロがエペソ書で言いたかった五職・五役者の真理だけが残るようになるという事です。修正されるべき間違いが改善されて、真理だけが残ります。きちんとその教理について教える人たちも出てきます。

この教えは基本的に、キリストの体がどうあるべきかを新約聖書をよく読んで気づき始めた人たちが五職・五役者の働きの重要性を再確認しただけです。長い間それに気づかなかった多くのクリスチャンにしてみれば、それは「新しい」ように見えるのですが、最初からパウロによって教えられていたものです。しかし何故、プロテスタントの教会は五職・五役者を知らずに牧者の役割だけで信徒をリードするようになったのでしょう?現代の牧師だけが一つの群れのリーダーになってしまったのは、初代教会が失われてからまもなくたった頃からです。そもそも、ローマカトリックの誕生と共に多くの福音の真理が失われてしまったのが事の始まりです。

残念な事に、一部の人たちは五職・五役者を「新しい啓示」として教え始めてしまい、よりカルト的な考えに発展させてしまいました。70年代の自称使徒・自称預言者の権威の乱用はカリスマ運動の中でも最悪のケースと言われています。90年代ピーターワグナーによって再び教え広められた時でも、五職・五役者に関する教えは完全に修正・整理されず、その結果、未だに使徒と預言者に関する誤解が放置されています。当時、ピーターワグナーが「新使徒的改革」という名をジャック・ヘイフォードに提案したところ、彼はその名前を気に入らなかったと言います。ピーターワグナーが使徒の働きをする人たちを使徒と呼ぶ事に関してもジャック牧師は反対しました。彼の懸念は数年後に的中しています。幾つかの問題が起こってからのピーターワグナーの説明はもう説得力のあるものではありませんでした。

働きの目的

さて、五職・五役者の働きだけを取り上げて何かを語っても意味がありません。何故なら、これらの役割はあくまでも教会(エクレシア)においてだからです。キリストのからだである教会(エクレシア)は一人一人の「呼ばれた者=信者」を意味し、集合体としての「呼ばれた者たち」も含みます。ですから、聖徒たちを整える働きとして五職・五役者を見ていく必要があります。ちなみに、ギリシャ語の文法から五職ではなく四職だという見方もありますが二つの違う単語が出ている以上、五つの働きがあるのは明白です。*仮に牧者と教師の役割を同一の人がやるとしても二つの役割を掛け持ちする事には間違いありません。何故なら、二つの単語の意味が全く違うからです。

まず知っておくべき事は、五職・五役者は霊的権威の序列とは無関係だという事です。これらはあくまでリーダーの働き・機能の種類の違いを示しているだけです。Five-Fold Ministry としてアメリカで教えられてきたものは「Office」という語で説明される事がありますが、ギリシャ語の原文にはその語を用いていません。リーダー的な五つの役割を「Office」という表現で用いてしまった為に、そこから五職・五役者の働きをするリーダーを「特別扱い」する考えに発展してしまい、自然と「平信徒」と「油注がれた器」の間に距離を設けてしまったのです。私たちは再びローマカトリックの様な肉の思いによる組織に戻るわけにはいきません。

さて、使徒と預言者がより重要な存在として現在も広まっているのは、ピーターワグナーがエペソ 2:20 を誤解したからです。彼の本を読めば分かりますが、この部分についての説明は彼の憶測に基づいています。まず、五職に携わるリーダーは霊的なエリートとして認識されるべきではなく、リーダーの働きをする兄弟・姉妹とするのが正しい見方です。新しい契約の下での信者は、そのアイデンティティーはあくまでも主にある兄弟・姉妹であって「霊的エリート」のアイデンティティーではありません。また、教会の土台となる役割を果たす使徒と預言者の働きがより重要だという見方も誤りです。この二人が一番上のリーダー、最も重要なリーダーという解釈は間違いです。それは、人に栄光を帰そうとさせる宗教の霊の仕業です。

エペソ 2:20 でパウロは、単に使徒の働きと預言の働きをするリーダーが集合体のエクレシアの土台であると書いてあるだけであり、これらが他の役割より優れているとは書いてありません。パウロもまた、その意味でこの箇所を書いているのではありません。土台に携わる役割が他の役割より重要という見方は早とちりです。実際に、それぞれの役割を見るだけではどれが重要かは判断できません。例えば、ある人にしてみれば「生みの親よりも育ての親」という視点から、使徒、預言者、伝道者の役割よりも牧者と教師の役割が重要だと考えるでしょう。実際に、牧者の役割は非常に大きなもので「子供の育ちが良いなら最終訓練もスムーズ」に行くと思います。

伝道者の役割にしても「生みの親」として子を産むだけではなく、生む前の苦しみや試練も通るので非常に重要な仕事です。そして信徒の成長の為にそれまでのリーダーたちがしてきた働きと苦労を無駄にしない為に、教える人は責任をもって信者をキリストの弟子として義の教えに従事する必要があります。こうして考えれば、「誰が偉いか、どの役割が重要か」という議論は意味を成しません。それよりも、「建物の作りの順番」としてパウロがリーダーの役割を挙げていると見た方がこれらの役割を正しく理解でき、しかも四職ではなく五職として捉えるべき理由もより明らかになると思います。

建物を建てる順序については次の箇所でパウロも書いています。

「植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」第一コリント 3: 8-13

既に信者が集まる場所や機会やその目的と意図が明確になって信者が育つような環境が整えられてあるなら、使徒や預言者の役割をしているリーダーを通して教会(呼ばれた者)の土台作り(エペソ 2:20 )は完成していると言えるでしょう。そして、その次の働きである伝道者が福音を述べ伝えて新しい霊的な子供を産みます。その後に、牧者のリードによってキリストの幼子が育てられる必要があります。現在、殆どの教会(エクレシア)は霊的な幼子です。最終的な目標である聖徒として整えられてキリストの弟子となるにはその後に続く教師の役割が必要です。この最終的な目標を達成させないと、それまでの苦労もあまり意味がありません。多くのクリスチャンが何十年たっても霊的成長があまりないのはその為です。ちょっとした事ですぐ躓くのはその為です。自分の肉の思いに死んで他の人の為に生きる事ができないのはその為です。

ですから、エペソ人への手紙の中でパウロが言った順番は使徒と預言者の役割による教会(エクレシア)の土台に関する仕事から始まり、伝道の働きによって人をキリストに導き、羊飼いが面倒を見て、教える人が訓練する、となっているのです。誰が重要かという事ではなく全ての働きが重要です。それぞれの役割は順番よく必要となっているので、エペソ 4:11 で最後に教師が書かれているのはその為なのです。残念な事に、多くの人の関心が「誰が一番偉いか」という所にあり、常に五職・五役者を「霊的エリート」として見ていて、その中でも使徒と預言者が一番上の権威ある「選ばれた器」として取り扱われています。私たちのそうした幼い見方は、単なる肉の思いに過ぎません。

また、ピーターワグナーは次の箇所も誤解していました。

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」第一コリント 12:28

エペソ 4:11 と同じように使徒と預言者が必ず第一番目と第二番目に出るという事から、彼はこれらの役割が最も重要と考えました。しかし、パウロの教えはむしろ逆です。

「そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」第一コリント 12:21-22

私たちはそれぞれ違う役割を果たすべきだとパウロは言います。そして、全ての器官は重要なのであって、一部の役割が優れているという見方は間違いなのです。誰かが偉いと考えていたのは、キリストの幼子であるコリントのクリスチャンだったのです。むしろ、パウロは「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」と言いました。パウロが使徒を第一、預言者を第二としたのは、それらの役割が最初にくるというだけの話です。

近年のピーター・ワグナーなどを通して多くの人に知られるようになった五職・五役者の教えに流されずに、パウロが実際に何と書いているかをきちんと理解するべきです。聖書から引用されている教えだからというだけで、全てを信頼するべきではありません。一般的に教えられている多くのものは引用が一部であったり、その説明が不十分であったり、旧約聖書からの強引なこじつけが加えられたりしています。そうしたものを「預言的・霊的」として何かを主張するような教えは注意が必要です。それらは、パウロが説き明かしていた福音とは違う部分がたくさんあるからです。

2018年10月29日月曜日

福音の基礎⑤ 御言葉

クリスチャンになったばかりの人は霊的な幼子です。ちょうど、生まれたばかりの赤ちゃんが母親の乳を何よりも必要としているように、聖書の御言葉が欠かせません。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ 2: 2

このペテロの言葉のように、乳飲み子である新生したクリスチャンは純粋なみことばの乳によって成長し、救いを得る必要があります。霊的な救いである「新生」は私たちの霊が生まれ変わった事によって霊において救われています。しかし、私たちは思いを変えることによって思考の領域で救いを得ます。救われてもまだ完全に変わっていない部分は私たちの思考です。古い人が死んでいるという真理が確立しているのですから、その古い考えも死んでいるべきです。そして、それは可能であるという前提でパウロは考えを一新させるように教えています。

霊的に新しく生まれ変わったクリスチャンでも、新約聖書の御言葉を読んで御国の福音によって新しい考え方にならないのなら、古い考えをもつ古い人がよみがえってしまうようなものです。実際に、クリスチャンでも考えが新しくなっていないのなら、その生活と歩みは未信者と変わらないもの、或いは、宗教的なものなのです。それでは、何が私たちの考えを変えるのでしょうか?

私たちの思考は私たちが持っている知識に基づいています。ですから、良い知識を持っていればそれについて私たちは考えるようになります。悪い情報ばかり得ていると、人はそれによって影響されて考え方も悪くなります。不安や恐れを助長する事柄ばかりを目にしたり聞いたりしていると、考えも不安と恐れになってしまうでしょう。クリスチャンとして私たちは命と平安の思いを持つべきです。

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ 8: 6

御霊による思いは御言葉に沿うものです。従って、純粋な福音の言葉に私たちの思いを傾けるなら、私たちは信者になる前のような古い考えや古い生き方をしなくなるようになります。御霊ご自身は真理へと導きます。そして、真理はイエス様です。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネの福音書 14: 6

「しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」ヨハネの福音書 16: 4

御霊はイエス様の言葉を思い出させる役目があります。従って、私たちがキリストのことばを思い出す時には御霊が働いているのです。御霊は多くの場合、旧約聖書から何かを私たちに教える方法を取りません。何故なら、終わりの日には私たちの父なる神様は御子を通して私たちに語る方法を選んでいるからです。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」へブル人への手紙 1: 1-2

御国の福音には私たちを解放する力があり、新しい戒めによって新しくなった私たちがどの様にして歩めばよいかを教えてくれます。旧約聖書は御国の福音を具体的に示してはいません。キリストによって御国の福音は教えられたのであって、旧約時代の人たちはそれを殆ど知ることはありませんでした。

信者になったばかりの人は、ヨハネの福音書から読むことが最適かもしれません。何故なら、ヨハネはイエス様によって呼ばれた最初の12弟子の中で最後まで生きて活躍した人で、パウロの死後もパウロによって多くの福音の奥義を述べ伝えていた弟子でした。彼の福音書と手紙はパウロの奥義を全て考慮して書いてあります。

旧約聖書が示す全ての事柄はイエス・キリストに関わるものですが、聖書の核心的な内容はキリストによって教えられた御国の福音にあり、それはパウロによって啓示された奥義にあります。新しいぶどう酒(キリストの教え)を新しい革袋に入れる為には、私たちの考えは新約聖書に基づかなければいけません。もし、旧約聖書に書かれたもので十分であったのなら、イエス様は地上に来られる必要はなかったはずです。また、奥義がパウロによって明かされたという事実は、旧約時代には明らかにされていなかったという事です。

「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」コロサイ 1:26-27

旧約聖書でも真理について書かれている部分はありますが、新約聖書に書かれている福音の奥義と比べると部分的であり限定的です。パウロほど福音の奥義を知っている人はいませんでした。また、イエス様ご自身がパウロに御国の福音の啓示を示しました。

「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」ガラテヤ 1:11-12

さて、ここで重要な理解が必要です。新しい契約の下にいる私たちが「聖書の御言葉」という時、それは主にキリストによって明かされた御国の福音の事だと知るべきです。御国の福音について示している旧約聖書の箇所も当然含みますが、その時代に預言的に示された箇所はそれほど明確に書かれていません。御国の福音が聖書の中で最も重要なメッセージなので、新約聖書は旧約聖書よりも優れているのです。

イエス様が現れた以上、もうイエス様を間接的に示す旧約聖書はそれほど重要ではありません。律法と預言者が成就された以上、私たちはイエス様が教えた新しい戒めと、新しい人として歩む事を目指すべきです。新しい考えはイエス・キリストによって示された御国の福音の中にあるのであって、それはパウロを通してその奥義が明らかにされています。旧約聖書にはそれを示唆するくらいの箇所しかありません。そして、福音の土台である十字架についての真理は聖書中、最も重要な真理を示しています。キリストの十字架の御業を理解する事が福音の真理を理解する鍵になっています。ですから、私たちは主の十字架の業を覚えて聖餐式をするのです。

「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」第一コリント 11:23-25

2018年10月15日月曜日

福音の基礎④ 十字架

福音の土台はキリストの十字架の御業にあります。それは神様の恵み、憐れみと愛を完全に示したものであり、人間の罪の究極の贖いであって、そこに全てを解放する力があります。イエス様は私たちの為に十字架に掛かって私たちを罪の刑罰から救う為に来られました。それは、モーセの律法ができなかった「神の義」を与える事と永遠の命を与える事を可能にしたもので、世の基が定められる前からの計画でした。

罪からの解放

キリストの十字架での贖いは二つの解放を約束しています。まず一つには、私たち自身の犯した罪からの解放です。キリストは完全な子羊としてその聖なる血を流されました。それは、全ての罪を取り除く力があります。私たちが罪と罪の奴隷としての解放が約束されているのは、キリストの血によります。また、それは新しい契約の象徴でもありました。キリストの血によって私たちは聖い者とされています。いわゆる聖化はクリスチャンになった後から始まるのではなく、クリスチャンとして生まれ変わった時に完成しています。その完成を外に表すのが霊的成長です。聖別は終わっているのですが、新しい人として歩む中で私たちの聖さは表れる必要があります。それは、私たちが世の光地の塩となる為であり、キリストの充ち満ちたみたけまで達する為です。

キリストの血による聖別が新約聖書での油そそぎの儀式なので、それ故に私たちは聖霊を受ける事ができます。私たちは全て油注がれた祭司であり王です。誰かが特別な霊的エリートというわけではありません。信者は皆が油注がれている神の子供たちなのです。

「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。」第二コリント 1:21

病いからの解放

私たちの病いから解放したのもキリストの十字架の御業の一部です。贖いの中に癒しがあります。これはイザヤの預言よりも遙か前にダビデによって預言されていました。

「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、」詩篇 103: 3

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ 2:24

この箇所はキリストが私たちの罪を負う為、そして、打ち傷によって癒やされる為に十字架に掛かった事を最もよく示している所です。多くのクリスチャンは十字架によって罪が赦されて、罪から解放されている事を知っていますが、罪から離れて義のために生きる事をよく理解していません。また、病いが癒やされていて病いから解放されている事も知りません。それは、癒しが神様のみこころである事を知らないという致命的な無知につながっています。多くの場合、信者でさえも「神様のみこころ」なら癒やされると考えています。その考え方は、人の罪が赦されるのも「神様のみこころ」次第と言っているようなものです。

正餐式

正餐式はキリストの十字架の御業を思いだし、神の恵みを思いながら日々歩む事を促します。その目的の為に私たちは正餐式をしますが、それは単なる儀式ではありません。実践的な側面は、十字架の恵みに立ち返って罪から離れて聖い生活を送る事を可能にし、健康を保つ働きがあります。多くのクリスチャンが罪の中に浸り病気で悩んでいるのは、正餐式を単なる儀式としているからです。本来の目的とその恩恵を失った正餐式はプロテスタントの教会でも上辺だけの形になってしまい、それを通して人が癒やされなくなったのも普通になってしまいました。

十字架の前後

十字架は古い契約の終わりと新しい契約の始まりを意味しています。一方では十字架によって旧約聖書のモーセの律法と預言者が成就し(マタイ 5:17)、もう一方ではキリストの血によって新しい契約が成立しました。ですから、何かが変化した事は明らかで、十字架によって何がどう変わったかを知らないと、私たちは十字架の意味を知らない事になります。もし何の変化もないとしたなら、イエス様が十字架に掛かって血を流された意味がありません。


  • キリストの血によって私たちは義と認められている(ローマ 5:9)
  • キリストの血によって近い者とされた(エペソ 2:13)
  • 永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル 9:12)
  • 私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせる(ヘブル 9:14)
  •  イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる(ヘブル 10:19)

上の他にもヘブル人への手紙では、十字架でのキリストの血について色々説明しています。イエス様が血を流された以上、何かが変わった事は明らかであり、それは古い契約の時代にはなかったものです。

また、十字架でキリストが死んだように私たちの古い人も死んでいるべきです。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」ローマ 6: 6-8

私たちにとって十字架がもたらした最大の変化は、私たちの古い人が死んで、新しい人として歩む為にキリストと共によみがえった事、新しい霊が私たちの内に創造されて新生した事なのです。もしこの真理を知らないのなら、解放されているのに私たちは古い人によって歩んでしまうでしょう。古い人の歩みとは、古い契約に基づくもの、肉の欲求を満たすもの、或いは、肉の思いによって歩む事です。しかし、私たちの内にはキリストの思い(新改訳ではキリストの心と誤訳)があるのです。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ 5:24

私たちはキリストを信じているならば新生しています。ですから、新しい人として歩まなければいけません。何故なら、私たちの古い人は死んでいるべきだからです。新しい人として歩むには心の一新(考えを変える事)が必要です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ 2:20

2018年10月11日木曜日

福音の基礎③ 信仰

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ 1:17

「福音のうちには神の義が啓示されている」とパウロは言ってます。それは、私たちがイエス・キリストを信じる時に与えられるものです。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」ローマ 3:22

誰でもイエス・キリストを信じるなら、神の義を与えられて義人と認められるのです。これが福音の土台です。しかし、多くのクリスチャンの信仰はここで止まっています。クリスチャンとしてイエス・キリストを信じた後は、そのまま信仰によって進んで行く必要があります。いわゆる霊的成長の道があるのです。信仰とは永遠の命を頂く為のものだけではありません。信仰によって始まった私たちの歩みは信仰によって進んでいく必要があるのです。

信じて救われた後はひたすらキリストの再臨を待ち望みましょうと教えている教会は、クリスチャンを信仰から不信仰に導いているようなものです。霊的成長に関しての教えがない教会が、今では殆ど当たり前のようになってしまいました。多くのクリスチャンは成長を遂げてキリストのみたけまで達するという事をせずに、困難と試練から逃れる事ばかりを考えているのです。信者はみなが弟子となる事さえも理解していません。献身する人は一部の人で良いという間違った常識はなまぬるい歩みを大きく助長させてきましたが、もうその様な幼い考えから卒業する時が来ています。


聖書をよく学んで信仰に立っていると自負するクリスチャンの集まりでさえ、大勢の病人と経済的問題で苦しんでいる人がいる現状が教会に共通するものです。問題解決にならない聖書の学びは神学にこだわった理論ばかりが主に教えられているからですが、実践的な新約聖書に基づく教えは、遙かに単純で即戦力を伴うものです。その実践的なものは、人を癒し解放し、自らを神の子供として新しい人の視点で歩むので、パウロの言うように圧倒的な勝利者としてこの世にあって祭司・王として活躍できるのです。

さて、信仰を一言で分かりやすく言えば、それは私たちが主に信頼する事、特に御言葉を信じて行う事です。「どうにかなるだろう」というような漠然とした神に対する信頼よりも、個々の状況に応じて適切な解決に至るようになる事を強く期待して宣言する事が信仰です。すなわち、信じている人は信じている事柄を宣言する(祈る)のです。多くの場合、クリスチャンは「神様がなんとかしてくれるだろう」という受け身的な考えを持っているだけで、積極的に問題を排除するような信仰を伴った行動に移しません。

例えば、泥棒が家に入ったのを見たなら、誰でもその泥棒に対してアクションを起こすでしょう。警察を呼んだり、自分でその泥棒を捕まえたりするはずです。ところが、多くのクリスチャンは、その泥棒をそのままにしておいて「神様がなんとかしてくれるだろう」といって、神様どうにかして下さいと祈っているようなものです。神の子供たちが強いという事を忘れているのです。私たちのうちには全知全能の神の聖霊が宿っています。それとも、その聖霊の力より大きい問題がこの世に存在するでしょうか?

従って、神様に信頼しているからこそ、大胆に多くの問題を解決していく積極的な態度になるべきなのです。そうなっていない主な原因は、人間が作った組織的な教会の教えの為です。圧倒的勝利者として歩めないクリスチャンが多いのは、人間の組織としての教会に信仰と成長に関する教えがないからです。そればかりか、諸問題が聖霊よりも大きく、悪霊が私たちよりも強いという事を教えてしまったからです。何かちょっとでも油断するとすぐに悪霊にやられてしまうといった教えは私たちに与えられた権威と力を過小評価するものです。恐れや不安を与えるような教えは不信仰に基づいており、それは神様からのものではありません。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」第一ペテロ 5: 8-9

ペテロは、悪魔を「ほえたける獅子」のようだと表現しています。百獣の王と言われる獅子がほえたけるなら、それはとても強い存在として私たちはイメージするでしょう。実際に、聖書のあらゆる箇所で獅子は強さを象徴しています。しかし、「この悪魔に立ち向かいなさい」とペテロは言っているのです。積極的に悪魔に立ち向かうのは神の子供たちである私たちがさらに強いからです。逃げる必要はありません。ただし、堅く信仰に立つ事が鍵です。それは神様を信頼して、御言葉に沿って考えて行動する事です。

悪魔がほえたけるのは強く見せる為であって本当に強いからではありません。しかし、ユダの獅子であるイエス・キリストが最も強いお方です。そして、彼は私たちの中にいるのです。この認識をありとあらゆる場面で私たちは思い出し、信仰による一歩を踏み出して物事を解決していく事、そして御言葉を実践する事が必要です。問題ばかりを見ていては問題に押しつぶされてしまいます。しかし、私たちはイエス様を見ているべきです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル人への手紙 12: 2

2018年10月10日水曜日

福音の基礎② 新しい契約

「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」ガラテヤ 4:17

福音の基礎は神の恵みにあり、それはキリストの十字架によって全ての人に完全に明らかにされています。何故なら、十字架の恵みは全ての人に対するものだからです。しかし、もし私たちが福音の土台である恵みを失うとしたら、その様なものは福音(良い知らせ)ではなくなってしまいます。

このガラテヤの手紙箇所でパウロが言っている内容は、あるユダヤ人クリスチャンがエルサレムから来てガラテヤの教会の人々に割礼を受けるように教えていた事に対するものです。パウロによれば、その様な教えは福音ではないとの事です。それどころかパウロは、彼らはにせ兄弟であり「あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしている」とさえ言いました。福音によって信仰が明らかになった以上、モーセの律法の行いについてもはや考える必要はないというのがパウロの主張です。

「しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」ガラテヤ 3:25

モーセの律法は養育係という役目を持っていましたが、その役目も終わっています。役目の終わったモーセの律法は、イエス様の教えている新しい戒めに変わりました。これが十字架の後の変化です。もし、私たちがこの事を知らないなら、私たちは完全に恵みを知る事にはならないでしょう。モーセの律法に片足を入れておきながら、恵みを受け取る事は不可能だからです。それは新しいぶどう酒を古い革袋に収めるようなものです。モーセの律法と恵みは視点が全く違うからです。

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ヨハネの福音書 1:17

モーセの律法に従いながら、御霊に仕える事は不可能です。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3: 6

私たちは新しい契約の下にいます。古い、文字に仕える必要はもうありません。御霊が降り注がれた以上、御霊に導かれるべきであって、モーセの律法によって神に近づこうという考えは必要ないのです。その考えは旧約時代のイスラエル人が持っていたものですが、それは彼らが何も分からなかったからです。彼らの無知を参考にして、今日の私たちの「キリストに似た者」(クリスチャン)としての歩みの中に取り入れてはいけません。既に古い契約は過ぎ去って、キリストの十字架によって新しい契約が確立されています。

新しい契約にいる私たちはどの様な歩みをしたら良いでしょうか?それはには、まず私たちが古い人に死んだという認識から始まります。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ローマ 6: 6

パウロは、罪の奴隷から解放される為の真理が、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられるという事にあると言っています。そして、イエス様がよみがえった事は、私たちが新しい霊として生まれ変わる事の型です。もし、私たちがキリストにあるなら、私たちは既に新しくなっています。ですから、古い考えの原因となっている古い契約、或いは、肉の思いに戻る必要はありません。

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」コロサイ 3: 9-10

私たちの古い人は古い考え方に基づく為にその行いは肉です。しかし、新しい人として生きるなら、私たちは新しい戒めによって新しい考え方を持つ必要があります。この新しい歩みはキリストに似た者となるのです。この歩み方は新しい契約にいる私たちの歩みであり、それはキリストと共に歩む事なので、古い契約とは全く違うものです。

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」ルカによる福音書 5:37-38


古い契約の考えを持つという事は、モーセの律法を行うという事です。しかし、私たちはキリストによる新しい戒めを守る事になっているのです。愛の行いを旧約聖書を開いてやろうとすれば、律法主義になりかねません。しかし、御霊と共に自由に愛の視点で全てを判断すれば、自然と新しい人として人を愛する事ができます。何故なら、私たちの霊は既に新しく造り変えられたからです。後は、その新しく創造された霊によって良い影響を受けて、思いを一新すれば良いのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント 5:17

2018年10月5日金曜日

福音の基礎① 恵み

全ての宗教は共通して概ね良い事を教えています。しかし、聖書が教えている良い知らせ(福音)は、他の全ての宗教と違ってある決定的なものがあります。それは恵みです。

自己の義を説く宗教はあなたの行いによってあなた自身が良い人間になれるような事を教えます。しかし、聖書では、キリストの贖いの業を信じる事によってキリストの義を獲得できるという福音を教えています。パウロも御国の福音を「恵みの福音」と呼んでいます。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」使徒の働き 20:24

滅びに向い、病んでいる世が最も必要としているものは神様の恵みです。福音の恵みは希望を失った人に希望を与え、見捨てられた人には慰めとなり、弱い人にとっては力となります。また、クリスチャンである私たちは救われて恵みの中にあるので大胆に歩む事ができます。

恵みとは、別の表現で言えば、受け取る側である私たちから見える神様の愛です。これこそが私たちを引き付ける神様の力です。恵みと憐れみを受け取るに値しない私たちに神様の方から与えて下さる恵みは、私たちが信じた時に受け取る事になります。そして、信じて恵みを受け取ったと同じように、信じ続けてその恵みを保つ事も必要です。

神様の愛は、キリストの十字架において人に完全に明らかにされました。またヨハネが言うように、神様ご自身が愛である為に、イエスキリストご自身が愛なのです。すなわち、恵みゆえに私たちの彼に対する信仰によって、私たちは永遠の命を持つ事ができるのです。

自己の義ではなく恵み

まことの神様は、自らの行いによって義を得た者が天国に入れると言わず、ご自身の恵みによって救いの道を示してくださいました。モーセの律法よりも遥かに優れた道をイエス様によって示して下さったのです。

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ヨハネの福音書 1:17

神様の恵みは論理的に分かるものではありません。それは神学や教理を超えた神様の御業であり、また神様自身の性質に関わるので、私たちが恵みを理解するのは霊的な道を歩む時に始まります。しかし、はっきりと知っておくべき事は、その恵みは信じる人によって罪からの救いという形からスタートします。成長してクリスチャンの道を歩むにつれ、あなたはより神様の恵みを理解できるようになります。

神様の恵みは、私たちに新しい生き方を示し、また新しく生きていく力をも与えます。もし天国に行けるのが立派な人だけだとしたら、誰も天国にたどり着ける自信がないでしょう。自分で自分の義を主張しても、それはその人の尺度で測っているだけです。しかし、神様が恵みによって私たちに道を示して下さったのなら、私たちは大胆に天国への道を歩く事ができるのです。

神様が恵みによって私たちを義と認めて下さるのなら、私たちは恐れがありません。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ローマ 8:33

恵みに留まる

私たちは恵みによって自由になれたのなら、恵みのうちに留まるべきです。再び律法の束縛に入る必要はありません。現在ある様々な教えはどこかに律法や宗教が混ざっているので、多くのクリスチャンは気づかないうちに束縛の中にいる事もあります。

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ 3: 3

ガラテヤの教会では律法(割礼)を教えていたユダヤ人の影響で、そこの信徒たちが律法主義に戻っていたのでした。この事件の為に、エルサレムで使徒たちが異邦人の教会のクリスチャンはどうするべきか議論したのです。パウロによれば、私たちは一度信仰によって恵みを受け、また約束の御霊を受けて新しい人生が始まったのなら、同じ信仰によってそのまま恵みの中でしか私たちは完成されない(霊的に大人になれない)のです。再び律法に戻る事は、肉に戻る事と同じであり、御霊で始まるものが肉によって完成されるはずがないという事です。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3: 6

新しい契約に仕える者とは、私たちクリスチャンです。ですから、私たちは文字(律法)に仕える者ではなく、与えられた御霊に仕える者です。律法は私たちの罪を指摘し、刑罰を要求します。しかし、御霊は私たちに命を与えます。命の御霊から離れて、再び律法に戻るなら、私たちは恵みから離れてしまうのです。クリスチャンになった私たちは恵みによって生かされているのですから、恵みの中で歩む必要があります。

恵みにおいて成長する

「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」第二ペテロ 3:18

クリスチャンの新しい生き方はイエス・キリストの恵みと知識において成長する生き方です。ちょうど赤ちゃんの肉体的な成長が欠かせないように、私たちも霊的な成長が必要です。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ 2: 2

ペテロはここで、聖書の言葉を「乳」という表現をしています。みことばは、私たちの霊的成長に欠かせない食物です。恵みを特に新約聖書から学ぶ事によって私たちは成長していきます。何故なら、イエス様の言動が記録されている福音書とその福音の解説をしたパウロやその他の使徒たちの手紙は全て福音の恵みを語っているからです。

2018年9月29日土曜日

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その4

律法の成就

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。」ガラテヤ 3:13

罪に対して律法(nomos)は刑罰を要求します。その要求が満たされないと律法による義はその役目を果たせません。

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。」ガラテヤ 3:23

人が律法の下に置かれるなら律法はその人をある意味制限します。時にはそれがその人の自由さえも奪ってしまい、一種の束縛にもなります。クリスチャンはアガペーの愛というイエス様の新しい戒めによって歩むので、箇条書きになった規律を超えて全ての人にとって徳となる事を自由に考えて行動する事ができます。特に箇条書きに愛の行いについて聖書が書いていなくても、御霊と共に歩むクリスチャンは自由の中に生きているので、臨機応変に困っている人を助ける事ができます。

しかし、モーセの律法やその他の人が作った律法は人を裁きます。律法による善悪の判断は社会の道徳の規準となり、秩序と平和をもたらす働きをしますが、究極的な善悪の判断は人間的な見方や尺度によるのではなく、聖書の教えるアガペーの愛にあります。すなわち、アガペーの愛が究極の律法であり、それはキリストを信じる信仰によって私たちに与えられるのです。それで、律法の本来の役目はキリストを信じる信仰に導く養育係としての働きがあるのです。律法は何の理由で養育係としての働きがあるのでしょうか?

存在している律法は社会において善悪の判断の基準となっていて、律法は基本的に規律として良いものとされています。それで、人は自分たちの作った律法に良い働きがある事を知っているのですが、もし彼らがキリストの福音を聞いたなら、キリストの愛と憐れみは単に善悪を土台にした律法の義よりも優れている事を認めざるを得ないでしょう。キリストの義は赦しと憐れみを示すものですから律法よりも優れています。それでパウロによると、モーセの律法はキリストに導く養育係として存在していたという事です。正しいとされる義は全てイエス様に向かいます。しかし、律法による義は必ず刑罰を伴うという点でキリストの義と大きく異なります。

律法を成就する為に来られたイエス様は、律法の中の一点一画でも決して廃れることはないと言いました。その理由は、全ての律法はキリストによって成就される為に存在していたからです。律法が成就される前に廃れる事はあり得なかったわけです。律法を成就(完了)させたのはイエス様であって、それは廃れることなく全てが成就されました。そして成就されなければならない理由は、モーセの律法が不完全だったからです。律法が示す義は常に刑罰を伴う為に不完全ですが、キリストが示す義は恵みと憐れみであって、それは完全です。何故なら、恵みと憐れみは愛だからです。

律法が成就された後

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」マタイ 7:12

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ 22:36-40

アガペーの愛が律法と預言者の示す内容である事は人にとって見えなかったものでした。旧約聖書が影としてほのめかしていた神の愛はイエス様の十字架によって明らかにされたのです。ところが、隣人を愛する事は本来モーセの律法にあったのにも関わらず、ユダヤ人はそれがせずに他の小さな戒めを守っていました。それとは逆にイエス様の新しい戒めはアガペーの愛だけを焦点にしています。何故アガペーの愛だけが残るのでしょうか?その他のモーセの律法はどうなったのでしょうか?現在でも全てのモーセの律法を守るべきでしょうか?

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」ローマ 10: 4

日本語の新改訳聖書の「終わらせられた」となっている箇所は、ギリシャ語では動詞にはなっていません。τέλος(telos)というギリシャ語の名詞が使われていて、「限界、終わり、最後」という意味があります。「キリストが律法の終わりです」が直訳です。この事は、キリストによって古い戒めが終わって新しい戒めが始まった事を意味しています。*この語を「目標」という意味に訳して、律法がまだ続いている教えている人もいますが、目標というゴールに向かって律法が達するべきであったなら、律法が不完全だった事を意味しています。従って、新約聖書中で τέλος(telos)が「あるものが完成に至る」という意味で使われているわけです。未完成のものがキリストによって完成されたのなら、どうして律法がまだ続くのでしょうか?バプテスマのヨハネも次の様に言っています。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ヨハネの福音書 3:30

旧約時代の最後の預言者としてバプテスマのヨハネはキリストについて証をしました。彼の役目はあくまでもイエス様を示す事、道を備える事でした。イエス様が現れた以上、彼が目立ってはいけなかったのです。ですから、恵みの下ではモーセの律法は終わっているべきなのです。

さて、イエス様の教えた新しい戒めはアガペーの愛であって、それはイエス様がまだ地上にいた時にも預言的に教えていた事でした。そして、パウロも愛が律法を完成すると言っています。律法自体は何も完成させません。それは中途半端な義だからです。

「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」ローマ 13:10

「全うします」は満たすという意味のギリシャ語 πλήρωμα(plērōma)です。ヤコブも隣人を愛する事は最高の律法だと言っています。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」ヤコブの手紙 2: 8

イエス様の教えた新しい戒めである「愛」はモーセの律法を否定するものではなく、それをむしろ完成させるもの(満たすもの)なのです。律法を完成させる必要があるのは、律法の行いによる義はむなしく、キリストの義にだけ力があるからです。ですから神を愛し隣人を愛するならその人は律法全体を守っているのです。しかし、神の愛を再びモーセの律法の一部として捉えると刑罰を伴う教え、すなわち、古い契約の教えに戻る事になります。それは文字に仕える者です。本当にアガペーの愛を知っている人は、文字に仕える様な人にはなりません。その人はキリストへの信仰によって得たキリストの義と内住する御霊によって、アガペーの愛を自由に実践する事が可能なので、その愛の行いは箇条書きにされたものを超えるのです。それが御霊によって愛を行う方法で、それが唯一律法全体を守る事になるのです。刑罰に対する恐れや不安の為に律法を守ろうとしている人は、たとえ周りからは愛の行動に見えたとしても、そこには信仰とキリストの義による行いがありません。その様な行いは自己の義に焦点を当てたものです。

「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ガラテヤ 3:10

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」ローマ書 7: 4

モーセの律法に対して死んでいる私たちはその律法を守るという視点から考えるのではなく、キリストとよみがえって一つになったという視点から歩むべきなのです。その視点で歩むと「神のために実を結ぶようになる」のです。すなわち、その歩みはキリストと共に歩む愛の歩みであり、愛によってのみ律法を全うする(満たす)道です。

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」ガラテヤ 6:15

割礼はガラテヤの手紙においては、モーセの律法を代表するものとして見られています。パウロは「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成される」という表現を用いて、御霊によって新しくされた私たちが再びモーセの律法に戻る事の愚かさがいかにキリストの恵みを台無しにしているかを説明しています。「新しい創造」はギリシャ語で(kaine ktisis)であり、「新しく創造されたもの」の意味です。つまり、モーセの律法を守るかどうかが大事ではなく、「新しく創造された私たちの新しい人」が大事だとパウロは言っているのです。この事を間違って捉えて、「では罪を犯しても良いか」と質問する人は、パウロがローマ 6:2 で何と言ったかを思い出してみる必要があります。

モーセの律法にあった知識

「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」ルカによる福音書 11:52

イエス様は、律法の専門家は知識のかぎを持っていると言っています。パウロも似たような事を言いました。

「また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」ローマ書 2:19

この箇所は律法を知っているユダヤ人の有利な点についてパウロが語っているところです。パウロによれば、彼らは「知識と真理の具体的な形として律法を持っている」のです。しかし、聖書に詳しいユダヤ人が聖書の主人公を知る事ができなかった事は皮肉でした。選ばれた民がまず最初に救いに入るべきであったのに、異邦人が信仰によってキリストに導かれる事になったのです。パウロが言っている通り、「信仰による人々こそアブラハムの子孫」なのです。

モーセの律法はキリストを知る事ができる知識があります。しかし、キリストが現れて律法を成就されたので、律法はその役目を終えました。これは律法を破っても良いと言う意味ではなく、律法がキリストの新しい戒めによって新しくされた事を意味します。

「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか――私は律法を知っている人々に言っているのです。――夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」ローマ 7: 1-4

まず、律法からの解放がありました。それから新しい夫であるキリストに結ばれる事が可能になりました。私たちがキリストにつながっているのなら、モーセの律法という古い夫に関わりはありません。私たちは律法に対して死んだのです。これは古い契約と新しい契約に関するもので、へブル人への手紙の中でさらに詳しく説明されている内容です。

2018年9月2日日曜日

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その3

律法の義

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」マタイ 5:20

イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの律法の行ないによっては、天の御国に入れないと言いました。これを聞いていた他の人たちは、誰も「律法学者やパリサイ人の義にまさる」事はできないと考えたに違いありません。モーセの律法をよく知っている彼らこそ最も天の御国に近い者だと皆が考えていたはずです。彼らの義よりもまさる義がある事については知りませんでした。

さて、マタイ5章の21節からは、イエス様は「律法には限界がある」事を示す為に、「律法には~と書いてある」と最初にモーセの律法を言ってから、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言って、モーセの律法よりも標準の高い愛の視点である「新しい戒め」から物事を判断する様に教えます。

この箇所はまだイエス様が十字架に掛かる前、すなわち、モーセの律法が成就する前にイエス様が話された所です。その時には、十字架による神の愛がまだ人間に明らかになっていません。ですから、それを聞いていたユダヤ人はアガペーの標準によって判断する事が出来ませんでした。彼らの善悪の判断基準は律法だけです。その時には、自分の義ではなくキリストの義によって全ての律法を守る事ができるという真理がまだ明らかにされていません。人が「キリストの義によって義の行いをする」には、律法と預言者がまず十字架で成就されなければならず、その上でイエス様を信じて義と認められて、新しく生まれ変わる必要がありました。

律法の目的

パウロもイエス様と同様に恵みを強調しているのは、律法が悪だからではありません。モーセの律法は良いものでそれはキリストに導くための養育係という役割がありました。しかし、イスラエルの民はモーセの律法を自分たちで都合よく解釈してしまい、単なる宗教的な儀式にしてしまったのです。それは、タムルードとして知られているユダヤ教の根本的な教えにまで発展しました。それで彼らにとっては、律法はキリストに導く事にならなかったのです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」ローマ 13: 8-10

パウロが言っているように愛が律法を全うします。しかし、その他のモーセの律法を守る事にこだわりながら隣人愛を実践しようとするなら、再び古い契約の考えに戻ってしまいます。「モーセの律法として隣人愛を実践する」のなら、割礼から始まり動物のいけにえを捧げる事もしなければならないのです。ここで考えてみてください。一度だけしかやらない割礼でさえ、パウロはそれを教えるような福音はキリストの福音ではないと言いました。ですから、私たちは完全に古い契約から抜け出て、キリストによって示された新しい契約の視点で考える必要があります。新しいぶどう酒(新しい戒め)を古い革袋(モーセの律法)に入れるような事をしてはならないのです。私たちは新しい契約の下にいて、新しい戒めを守るのです。

新しい戒めと律法

「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」マルコ 7: 8

イエス様は彼らの誇りであるモーセの律法が既に腐敗した宗教で単なる儀式であったのを見抜いていました。イエス様がここで「神の戒め」と表現している様に、モーセの律法も隣人愛も「神の戒め」です。しかし、イスラエル人は隣人愛だけは実践せずに生活上の規律ばかりを守り、究極的には律法全体を単なる人の言い伝え、単なる人の伝統としてしまったのです。*興味深い事に、イエス様によると、パリサイ人や律法学者は、神の戒めを捨てているという事です。表向きにはモーセの律法を守っているのですが(人の目にはそう映るのですが)、実はそうではなく人の伝統を守っているだけだという事です。

さて、次のマタイの箇所を引用してモーセの律法は今日でも守るべきだと主張する人たちもいます。再びマタイの5章に戻ります。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」マタイ 5:18

ここだけを取ると、今日でもモーセの律法を守らなければいけないと思う人もいるでしょう。マタイの5章はいわゆる山上の垂訓と呼ばれるイエス様の説教で、これは7章の27節までずっと続いています。ですから、その全体の一部としてここを理解する必要があります。少なくとも、文脈を押さえながら18節を読む必要があります。

「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ 5:15-16

15と16節には良い行いの実践について書かれてあります。光が家にいる人々の全体を照らすように、私たちの光を人々の前で輝かせて良い行いをしなさいとイエス様は言っています。しかし、この良い行いはモーセの律法を守る事によって義を獲得する為のものではなく、信じて義と認められて、義の道に歩めるように生まれ変わったクリスチャンだからこそ良い行いをするという意味です。何故なら、「天におられるあなたがたの父」という箇所がその答えです。誰も御霊によって天におられる神様を「アバ、父」と呼ぶ事はできないからです。

従って、いわゆる山上の垂訓を聞いていた当時のユダヤ人には当てはまりませんでした。何故なら、彼らはまだ生まれ変わって聖霊を持っていなかったので、神様を「父」と呼ぶ事ができなかったからです。「人が生まれ変わる」事ができるのは、キリストの十字架御業を信じるからです。つまり、ここでイエス様が教えている内容は聞いている当時のユダヤ人にとってはまだ不可能な事だったのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」マタイ 5:17-20

ユダヤ人にとっては、イエス様の新しい教えはモーセの律法を否定しかねない発言として見えました。それは彼らが律法の目的(キリストに導く養育係)を知らなかったからです。しかしイエス様は律法や預言者を廃棄する為ではなくそれらを成就する為に来たと言っています。それは当然でしょう。もし、イエス様が律法を破棄する為に来られたのなら、養育係としての律法の目的が果たせなくなるからです。それでイエス様は「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」と18節で言ったのです。「成就」と訳されている語は、πληρόω(plēroō)というギリシャ語で「完全になる、満ちる、完成する、達成する」という意味があります。「完了した。」と言ったイエス様の十字架での最後のセリフも同じ動詞が使われています。つまり、モーセの律法はイエス様によって完了したのです。どの様にしてでしょうか?それは、イエス様が全てのモーセの律法を守り、十字架で全ての罪を背負った事を通してです。

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その4

2018年8月29日水曜日

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その2

律法と預言の成就

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」マタイによる福音書 7:12

いわゆる「黄金律」は隣人愛です。それは「律法であり預言者」だとイエス様は言っています。隣人愛はモーセの律法の中にあったものでしたが、それは彼らが実践できなかったものです。アガペーの真理は、その時のユダヤ人にとってはまだ理解できていませんでした。何故なら、神の恵みと愛がイエス様の十字架の御業を通して、人間に完全に明らかにされていなかったからです。また、イエス様が律法と預言者を成就した事で、その成就ゆえに古い契約であるモーセの律法を守る義務がなくなり、新しい契約の下では愛の戒めに変わりました。その理由は、聖霊が与えられた私たちは文字ではなく御霊に仕える者だからです。

私たちが律法に死んだ(ローマ 7: 4)のであれば、文字に仕えるような考え、すなわち、モーセの律法を守ろうとする宗教の霊から解放されているはずなのです。宗教から解放されているのなら、ヤコブの言ったように「自由の律法」は自然と愛の行動に出るものです。それは理論や知識を蓄えて議論してばかりで何もしない哲学や、表面的な儀式にこだわった宗教とは違います。本来、モーセの律法自体は良いものだったのですが、それはイスラエル人の曲解によって単なる儀式、人間による伝統の教えになっていました。その曲解は聖霊を持っていない彼らの肉の思いが原因です。

「隣人を愛せよ」という戒めもモーセの律法の一つでした。これが人に対する律法の中で最も大事なものです。しかし、これ以外の生活上の規律を重視していたユダヤ人は、自分たちの都合の良いように律法を宗教化・偶像礼拝化させて自らの行為を偽善とし、多くの人を巻き込んでだましていました。彼らの行いは単なる儀式でしかありませんでした。

「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」マルコ 7: 8

その後、イエス様は律法が人に要求する刑罰を全て十字架で受けました。律法と預言者の成就によって全てのモーセの律法を守る必要性をなくしました。ここの部分でとても重要な真理があります。イエス様は「神を愛し、隣人を愛せよ」という最も重要な戒めであるモーセの律法も、十字架によって律法を成就(完成)させました。モーセの律法としての「隣人愛」の中の「隣人」はイスラエル人にとって都合のよい定義であったので、それは限定的、部分的、そして未完成の愛だったのです。その様な不完全な律法の愛はもはやアガペーではありませんでした。彼らの「隣人」は彼らの仲間だけであり、彼らの本当の「隣人」は敵として憎んでいました。しかし、敵をも愛するアガペーが完全な愛です。ですから、イエス様は不完全なモーセの律法を成就させる必要があったのです。

モーセの律法としてではなく、イエス様は「神を愛し、隣人を愛せよ」という戒めを「新しい戒め」として、新しい契約の下にある私たちが歩むべき道として教えました。イエス様が「新しい戒め」としたのは、モーセの律法が古いという意味です。従って、新しい戒めの実践はモーセの律法として守る事はできません。それは新しく生まれ変わった私たちが御霊によってキリストの義を通して実践できる愛です。この新しい戒めである新しいぶどう酒としてのキリストの教えは、古い革袋が象徴するモーセの律法の中に入れる事が出来ないのです。

モーセの律法はキリストへ導く単なる養育係だったので何の力もありませんでした。本来は、イスラエル人はモーセの律法と預言者故に、キリストを誰よりも知っているべき人たちでした。しかし、彼らはモーセの律法に傾倒してしまい、それを曲解して自己の義を追い求めました。その様な宗教には信仰がありません。それで古い契約の下ではほぼ全ての人たちは信仰によって歩む事ができず、御霊によって歩んでもいなかったので、隣人愛を実行する事ができませんでした。

人は文字に仕えている限りは隣人を愛する事はできません。文字は人を束縛するからです。キリストを信じて解放されている者は、キリストの義によって義の行いを守ります。ですから、新しい戒めの隣人愛はもはやモーセの律法の一部としてではなく、新しい戒めとして新しい契約の中で確立された自由の律法として見なす必要があるのです。

さて、イエス様による二つの新しい戒めをよく見てみましょう。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ 22:36-40

「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」というイエス様の言葉を理解している人は少ないと思います。「かかっている」は κρεμάννυμι(kremannymi) というギリシャ語です。服をハンガーにつるす時の動作と同じです。つまり、この二つの戒めが律法と預言者の要約だという事です。もし、この事を私たちがしっかりと理解すれば、旧約聖書の小さな戒めを守る事はなくなるでしょう。私たちがアガペーの愛を知らない間は、つい旧約聖書の細部にこだわる考えを持ちます。ちょうど律法学者やパリサイ人の様に「古いものは良い」としてしまう見方です。しかし、イエス様の十字架によって律法と預言者が成就された事によって、古い契約(モーセの律法)はもう廃れたのです。

「神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」へブル人への手紙 8:13

へブル人への手紙全体を通して強調されている教えは、いかに新しい契約が古い契約よりも優れているかです。モーセの律法には人を義にする事ができなかったという大きな欠点があった為に、キリストの義が必要でした。この箇所の「古びたもの」とはモーセの律法という古い契約の事であり、それは「消えて行く」のです。

「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」へブル人への手紙 8:10

二枚の石の板に書かれた律法ではなく、人の心に書きつけるとエレミヤ書で書かれていた預言は成就されたのです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3: 6

私たちが再び律法の書や預言書にこだわるような考えになると、それは文字に仕える者に逆戻りする危険もあります。もし、私たちが御霊に導かれるなら、心に書きつけられているアガペーの愛によって生きるべきでしょう。

さて、イエス様は「金持ちの青年」の話を通して、永遠の命を獲得するにはモーセの律法を守る必要があるという事を私たちに教えてはいません。当時のユダヤ人に対しても、そこがポイントでない事を「貧しい人たちを助けなさい」という教えをもって暗示しています。すなわち、貧しい人に施す事が隣人を愛するという事だと指摘したイエス様は、彼らのモーセの律法に対する考えが間違っていた事を示したのです。

それでは、イエス様は「金持ちの青年」にどうして十字架の御業を信じる事によって永遠の命が与えられると教えなかったのでしょうか?その理由は、彼に十字架の御業を信じなさいと言う事がまだできなかったからです。それで、当時のユダヤ人に彼らの律法主義の考えとモーセの律法の欠点(人を義にする事ができない)を示す事によって、別の方法でないと永遠の命を得る事ができないと暗示したのでした。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」というイエス様の暗示に対しても、弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」と尋ねたのです。その時の弟子たちでも永遠の命を得る唯一の方法を知らなかったのです。

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その3

2018年8月21日火曜日

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その1

今回の記事のテーマはイエス様がモーセの律法を守るように福音書で教えていたかどうかを「金持ちの青年」の話の中から見ていきます。

いわゆる「金持ちの青年」として知られている人は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に登場し、永遠の命を得るには何をしたら良いかとイエス様に聞きました。真面目な彼はユダヤ人としてモーセの律法を幼いころから守っており、モーセの律法を行なう事が永遠の命を得るものだと考えていました。この逸話を三つの福音書から見てみましょう。

「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」マタイ 19:16

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」マルコ 10:17

「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」ルカ 18:18

「金持ちの青年」はイエス様に「何をしたら」永遠の命を得る事ができるかと聞いています。彼は熱心にモーセの律法を守っていた典型的なユダヤ人人だったようです。しかし、それだけでは永遠の命を獲得する事は出来ないと感じていたのでしょう。それでイエス様のところに来て質問をしました。しかし、彼の中に確信が無かったのは無理もありません。何故なら、当時のユダヤ人はキリストの十字架の御業を信じて永遠の命を頂くという真理をまだ知らなかったからです。

「イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」マタイ 19:17

「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」マルコ 10:18

「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」ルカ 18:19

彼は「良いお方」や「尊い」という語を用いて、イエス様に尊敬の意を表したのですがそれは心からではありませんでした。この人はイエス様を知らず、神の御子キリストだと信じてはいなかったからです。神の御子と信じていないのにそうした尊敬の意を表したのなら、それは人間的なお世辞の様なものです。マルコとルカに「神おひとりのほかには、だれもありません。」とイエス様が言った言葉に注目して下さい。つまり、「良いお方」や「尊い」という敬意の言葉に値するのは神様だけだと言っているのです。もし彼がイエス様を救い主だと知っていたら、永遠の命はモーセの律法を守る事によって獲得する事は出来ないという事も悟っていた事でしょう。

「彼は『どの戒めですか』と言った。そこで、イエスは言われた。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」マタイ 19:18-19

「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」マルコ 10:19

「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」ルカ 18:20

イエス様は戒めを守りなさいと言って「モーセの十戒」の幾つかを彼に言います。ここだけを見てしまうと律法を教えているかの様に見えてしまいますが、彼へのアドバイスの続きはまだあります。マタイだけには「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあるのですが、マルコとルカではこの部分がありません。しかし、3つの福音書で共通しているのは、その人の財産を売って貧しい人たちに与えなさいとイエス様が言っている点です。貧しい人たちに分け与えるという行為は隣人愛を示しています。

「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」マタイ 19:21

「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」マルコ 10:21

「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」ルカ 18:22

ヤコブの手紙でヤコブが示しているように、当時の多くのユダヤ人は宗教熱心さのゆえに人を愛する事をしなかったのです。すなわち、経済的に助けが必要な孤児や、やもめを見て見ぬふりをしていたのでした。「金持ちの青年」はイエス様の言われた戒めは全てやっていると言ったのですが、イエス様は唯一やっていない事を指摘します。彼は金持ちでしたが貧しい人たちを助けるという隣人愛を実践していませんでした。イエス様が彼にそこを指摘したのは、彼が律法によって義を求めようとする典型的なユダヤ人だったからです。モーセの律法によって生きるなら、全ての律法を全うしなければならなかったからです。それをイエス様は指摘したのです。しかし、律法主義者にとって、隣人を愛する事が唯一出来ない事なのです。彼らはいつでも「隣人」を彼らの都合の良い定義でごまかそうとするからです。

イエス様はモーセの律法を教えていたか? その2に続きます。

2018年8月16日木曜日

癒しは贖いの中にあるか? その3

体験主義と神様のみこころ

罪の赦しは常に神様のみこころだと多くの人は信じますが、癒しはそうではないとするようです。両方ともキリストの贖いの中に含むと信じている人は意外にも多くありません。恐らく、癒しが必ずしも神様のみこころではないとする解釈の根拠は、単に癒しが起きた結果を見て判断しているからでしょう。そういう人たちは、聖書的な理由を第一としないで体験主義に基づいた解釈を前提としている為に、個人の体験に合うように聖書の解釈をしています。つまり、癒された結果を見たならそのケースでは神様のみこころだとし、癒されなかったならその時は神様のみこころではなかったとするのです。しかし、その解釈の立場にいる人たちは、病いが癒される前に「癒しが神様のみこころかどうか」は分からないとします。常にケースバイケースとして捉えている上に、究極的には聖書から癒しに関する神様のみこころは分からないとしています。

福音書によると、イエス様のところに来た人(病人の友人や知人も含む)は全員癒されています。これが何を意味するか分かるでしょうか?人が癒やされるには、イエス様の下に来るという条件(信仰)が唯一だったという事です。イエス様はどの病人や癒しのリクエストも拒みませんでした。これは、人の信仰がより重要である事を示しています。福音書で誰かが例外として癒やされなかったというケースがあったでしょうか?病人がイエス様の所に来て癒やされないまま帰って行ったという記録はありません。

つまずく人たち

「イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」マルコによる福音書 6: 4-6

イエス様がご自分の郷里に行ったときでも、病人は癒やされています。そこにいた人たちの不信仰が原因でイエス様が力あるわざを行うことができなかったとありますが、少なくとも癒しはありました。別の福音書の箇所では、イエス様は不信仰の人も癒やしたケースもあります。ご自分の教理でイエス様が力あるわざを行うことができなかった理由は、彼らがイエス様につまずいたからです。彼らはイエス様を幼い時からよく知っていると言って、イエス様をただの人として扱ったのです。イエス様は、例え預言者であっても自分の郷里、親族、家族の間では尊敬されないと言っています。しかし、イエス様の教理の人たちが尊敬しなかったのは預言者ではなく神の御子でした。彼らがイエス様を歓迎していなかったのは明らかです。歓迎されていない所なら、イエス様も強いて力あるわざをするような事はしなかったのです。

「癒しをする人は何故病院に行ってそこの病人を癒さないのか?」という質問はよくあります。しかし、多くの場合、病院という場所は誰かが所有しています。招かれていない誰かの所有する建物に入って自由にできる環境ではないのです。ちょうど、招かれてもいない教会に行って自由に説教をする事ができないのと同じです。そういうわけで、神様は歓迎されていない状況では無理に何かをなさる事はしません。神様は私たちの意思をとても尊重されるお方だからです。

患難

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネの福音書 16:33

ある人たちは、「世にあっては患難があります」という箇所を持ってきて「人が病気になる事は避けられない」とします。それはあたかも人は必ず病気になる事がこのイエス様の言葉によって保障されているような言い方です。確かに、患難の中に病気も含むという考えは一理あります。しかし、病気という患難の中に私たちがいても、イエス様は「すでに世に勝った」という真理は変わりません。ですから、私たちは主の勝利によって私たち自身も圧倒的な勝利者なので、病気に打ち勝つ事を期待できるのではないでしょうか?それとも、病気という患難を甘んじて受けるだけが唯一の選択なのでしょうか?

癒されるかどうかについて私たちが考える時、私たちは神様の癒しの力について何か疑う事はしません。このテーマで一番重要な鍵となるのはいつでも「癒しに対する神のみこころ」です。もし、神様が良いお方であるなら、神様のみこころがいつも私たちが健康で祝福に満ちている事を望んでおられるのではないでしょうか?

癒しの恵み

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ 8:32

この箇所で、パウロはとても重要な啓示を明かしています。それは、父なる神様が私たちを愛するがゆえに「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」のであるなら、「御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださる」という事です。イエス様が私たちの為に死んだと言う事は、父なる神様はいかなる祝福をも出し惜しみしないという事です。何故なら、イエス様の命ほど価値のある物は存在しないからです。しかも、イエス様は私たちを価値ある者としてみなして下さり、私たちの罪の為に代価を払って下さったのです。それならば、癒しやその他のものは小さいプレゼントではないでしょうか?

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ 1: 3

「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福」しています。「霊的祝福」であるのは、神様の祝福は神様の力によるからです。神様が私たちを祝福する時に働く力はいつも霊的です。その霊的な力は私たちを助け、癒し、あらゆる聖書で約束してある奇跡を起こすものなのです。

2018年8月12日日曜日

癒しは贖いの中にあるか? その2

ダビデに与えられた贖いの啓示

「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、」詩篇 103: 3

イザヤよりもだいぶ前(280年前)にキリストの贖いを預言していたのはダビデです。ここの「病」も同じ νόσος(nosos)が出てきていますし、やはり「肉体的な癒し」です。詩篇から引用しているのは、神様がダビデに与えた啓示が預言者に啓示された真理よりも概ね明確だからです。何故なら、上の箇所のように、詩篇には書かれた通りのまま理解できる箇所が多いからです。この箇所はある意味、イザヤの預言の言葉よりも明確です。また、103章がキリストの贖いについて書いてある事は次の節でも明らかです。

「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」詩篇 103:10

ダビデはまだ律法の下にいたのにも関わらず、どうしてこの様な事が言えたのでしょうか?モーセの律法は罪に対して刑罰を要求するので、罪を犯した人はその咎に従って報いを受けるはずです。当然ながら、この箇所はキリストの贖いの預言であるので、律法の下にいる当時のダビデやその他の人には当てはまりません。

「霊的ないやし」の解釈

イザヤ 53:5 と第一ペテロ 2:24 に出てくる「いやし」という単語が必ずしも「肉体的な癒し」に用いる事はないとして、「霊的ないやし」とする都合の良い解釈をする人もいます。彼らの解釈の根拠は二つです。「いやし」の単語が肉体の病使われなのケース以外にもあるという事が一つ。そして、イザヤ 53:5 と第一ペテロ 2:24 の内容が「罪の赦し」について書かれているからという理由が二つ目です。そこから「霊的な意味」で「いやし」という単語がイザヤとペテロによって使われたとして、それは「罪の赦し」の事だと主張するのです。

「いやし」の意味

「いやし」という単語はギリシャ語で ἰάομαι(iaomai)です。出エジプト 15:26、イザヤ 53:5、第一ペテロ 2:24、そして上の詩篇の箇所でも使われています。新約聖書では ἰάομαι(iaomai)が用いられる箇所ではほぼ全て病の癒し(肉体の癒し)の意味で使われています。ちなみに、ここで七十人訳を参考にしている理由は、ペテロが第一ペテロ 2:24 で一部引用しているように、

 ιαθητε(iathete)「あなた(複数)は癒される(過去形ではない)」
として、動詞がアオリストの受け身で表され、

ιαθημεν(iathemen)「私たちは癒される」
七十人訳でもアオリストの受け身で書かれているからです。

ペテロは「私たち」を「あなたがた」と主語を変えていますが、ヘブル語の聖書ではアオリストの動詞がないので、ペテロが七十人訳から参考にした可能性は高いと言えます。*ちなみに、ヘブル語を読めたはずのパウロでさえも七十人訳からよく引用していたのは興味深い事です。

「罪からの癒し」と解釈する人たちによれば、それは「罪の赦し」であるとの事です。「いやし」ἰάομαι(iaomai)の単語から「罪からの癒し」という風に解釈するのは無理があります。罪にはいやしが必要ないからです。しかも、イザヤは aphiēmi(赦す)という動詞を 55:7 で使っています。ですから、イザヤが5節で「罪の赦し」を「いやし」ἰάομαι(iaomai)の単語を用いて「罪からの癒し」という表現で表すはずがないのです。

また、イザヤ 53:5 と第一ペテロ 2:24 は文脈から「いやし」は「罪の赦し」の事だと解釈する人もいますが、贖いについての預言の箇所を引用する時に「罪の赦し」の描写があるのはむしろ当然なので、それが「文脈から」と言って「いやし」を「罪の赦し」とするのは無理があります。単純に、「いやし」という語が元々の「肉体の癒し」の意味だと理解するべきなのです。

仮に、イザヤ 53:5 と第一ペテロ 2:24 の比較だけでは結論がつかないとしましょう。そこで同じイザヤ書を引用しているマタイの解釈を参考にするわけで、やはり彼も「病の癒し」が贖いにあるという解釈の立場なのです。イザヤの預言の言葉は二つの描写(罪の赦しと病の癒し)があるという解釈の方に軍配が上がります。

イエス様による癒し

さて、イエス様ご自身は何と言っているでしょうか?

「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。」マタイ 9: 2-6

イエス様が「罪の赦し」と「肉体の癒し」を同じ様に扱っているのが分かるでしょうか?イエス様は律法学者たちにとって「どちらがやさしいか」と聞いています。イエス様の方ではどちらでもやさしいのですが、彼らにとってはイエス様が罪を赦す事はできないと思ったのです。ですから、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と言って、彼らの目でそれを「確認できる形」、すなわち「肉体的な癒し」という形で証明したのです。

「罪の赦し」も「肉体の癒し」も同じようにイエス様が扱った理由は、これら二つは贖いの中に含まれるからです。今度はパウロの書簡からパウロの解釈を見ていきます。

パウロの理解

パウロは癒しについてどう理解していたのでしょうか?実は使徒たちの手紙の中で癒しについて書かれている箇所は僅かです。多くの書簡を書いたパウロでさえ、キリストの癒しに関して書いてあるところは次の箇所くらいです。

「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」第一コリント 11:27-30

ここは、聖餐式に関してパウロがコリントの信者に注意した箇所です。聖餐式のパンとぶどう酒がキリストの十字架を象徴しているのは明らかです。これらをよく理解しないで単なるパーティーにしてしまうなら、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とパウロは言っています。

29節の「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、」という箇所に注目すると、「キリストのからだ」をわきまえないで飲み食いする事が原因で、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とパウロは言っています。何故キリストの「血」ではなく「からだ」をわきまえない事が、病人が多くなった原因だとしているのでしょうか?それは、キリストの受けた打ち傷によって私たちが癒やされるという約束があるからです。キリストはその体に打ち傷を受けたのです。それをよく理解せずに正餐式のパンを食べるなら、私たちは癒しの恩恵を受けないという事になるのです。正餐式はキリストの十字架の贖いの象徴です。それを信仰によって行うなら、私たちは祝福を受け取る事ができるのですが、単なる飲み食いにするなら、何の恩恵もありません。

その他の癒しについての新約聖書の箇所を見てみましょう。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコによる福音書 16:17-18

「信じる人々」が「病人に手を置けば病人はいやされる」ので、病人がいやされる為には、「信じる人々」が「病人に手を置く」事が条件です。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」ヤコブの手紙 5:14-15

「信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあるので、信仰による祈りが癒しの鍵であることが分かります。しかも、それは「教会の長老たち」の役割である事をヤコブは書いています。

イエス様も使徒たちも、どの様にして人を癒やす事ができるかについて特に詳しく教えていません。ただ、上の二つ箇所が直接癒しに関するものです。これらの箇所で共通している事は「信仰」です。実際に、イエス様も「あなたの信仰」と言って、信じた人たちを褒めました。イエス様は一度も「私の力があなたを直したのです」とは言いませんでした。

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」マタイ 15:28

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」マルコ 5:34

「あなたの信仰があなたを救ったのです。」マルコ 10:52

「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」ルカ 7:50

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」ルカ  8:48

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」ルカ 17:19

「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」ルカ 18:42


極めつけは、次の箇所です。

「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」マタイ 8:10

癒しは贖いの中にあるか? その3に続きます。

2018年8月9日木曜日

癒しは贖いの中にあるか? その1

キリスト教で「贖い」と言えば、イエス様が十字架で私たちの身代わりになった事です。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第二コリント 5:21

キリストの贖いは最も重要な御言葉の教えの一つです。何故なら、キリストの十字架は御国の福音の土台であり、それによって私たちは神様の恵みと愛を知る事が出来るからです。キリストの贖いによって私たちの罪が取り除かれ、そして赦されています。しかし、罪の赦し同様に体の癒しも十字架の贖いに含まれるのでしょうか?

キリストの贖いと癒し

キリストの罪の贖いは昔から(世界の基の置かれる前から)神様が計画していたわけであり、それは当然ながら主のみこころであったはずです。何故なら、ひとり子であるイエス様を地上に送って贖いによる救いの計画はまさに父なる神様のみこころだからです。従って、キリストの贖いの中に癒しが預言されていたかどうかを調べるだけで、主の癒しに対するみこころが分かるはずです。もちろん、「時にはみこころでない」というような「都合の良い例外」を持ってくる教えもあるでしょう。しかしそうした教えは、御言葉を使って十分説明しているものは今のところ無いようです。

キリストの贖いには癒しが約束されていないという類の教えを私が今まで読んできた中で、Hank Hanegraaff のサイトで書かれていたものがやや巧妙であったくらいで、その記事でも説明の流れに矛盾がありました。彼らはあくまでもキリストの贖いと癒しは全く別という視点から全ての聖書の箇所を理解しようとするので、それに合わせて全ての聖書の箇所を解釈します。聖書の箇所を引用して彼らの考えを証明しようとするのですが、その説明は最初から彼らの教理に基づくものであり、しかも注意して見ると「憶測」が入っている事が分かります。果たして、聖書ではキリストの贖いの中に癒しが約束されているのでしょうか?

論点と解釈

まず強調したいのが、「罪の赦しと贖い」に関する御言葉を信じるだけでも、その真理には私たちを罪とその罰から救う力があります。「肉体の癒しと贖い」に関して言えば、それはこの世にいる間の祝福なので、その教理や解釈が間違っていても、
いわゆる「救い」の約束には影響がありません。しかし、キリストの贖いは福音の土台なので、それに関する聖書の理解は徹底して追究される必要があると思います。

さて、大多数が支持する教えによると、癒しはキリストの贖いの中に含まれないという理解のようです。その様な教えでよく論点になるのが、次の三つの解釈です。


  • 贖いに関する聖書的な解釈
  • 癒しに関する神のみこころについての解釈
  • イザヤ書(預言)の解釈

癒しと贖いに関する聖書の言葉がイザヤ書の預言の言葉をベースにしているので、預言の言葉をどう扱うかも知っておくと役に立ちます。この三つが癒しとキリストの贖いに関する解釈の鍵です。これらを踏まえて解説していきます。

使徒マタイが見る癒しと贖い

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」マタイ 8:16-17

この箇所でマタイは、イエス様が人々をいやされた事を証ししているだけでなく、その事はイザヤ書の預言の言葉(イザヤ 53:4)の成就だとしています。「病」と訳されているギリシャ語は νόσος(nosos)です。新約聖書ではこの単語は全て病気が癒されたケースで用いられています。つまり、νόσος(nosos)は毎回病気が癒されたケースの記録として新約聖書に出てきているのです。ですから、この語は病として訳されるべきであり、使徒マタイによるイザヤ 53:4 の解釈が間違っているとする主張(病という訳は不適切だとする主張)は大きな問題です。

「成就」の解釈

ある人の主張によれば、イザヤ 53:4 の言葉はイエス様が癒しをした時に成就されたとマタイは書いているので、その後にイエス様が十字架に掛かった時には癒しは贖いに含まれないとしています。つまり、マタイが言っているイザヤ書の癒しの預言の「成就」は、イエス様が病人を癒した時に成就したのであって、それは十字架の贖いの前で成就してしまった為に、十字架の贖いの中には含まれないというのです。それは、その癒しの成就は、イエス様が十字架に掛かる前に癒される人たちだけに限定されているという見方です。しかし、それならば、どうしてペンテコステの後にも弟子たちによって癒しの業が起こったのでしょうか?現在見られる癒しは贖いの中に含まれないという事でしょうか?

この解釈は次の幾つかの点から問題があります。

まず第一に、イエス様は十字架に掛かる前に多くの人の罪をも赦しています。十字架でのキリストの血の贖いが罪の赦しであるのに、どうして十字架の業の成就の前にイエス様は人の罪を赦す事ができたのでしょうか?一つの視点から導かれる答えはこうです。まずイエス様が病気と罪を十字架で取り除くという真理を具体的に示す必要があったからです。つまり、預言を成就させる為です。ラザロの復活にしてもそうです。ラザロの復活はキリストの復活の型でした。そうした十字架の御業の内容をまず人々に見せる事によって預言を成就させたり、預言的にご自分の十字架の業を示したのです。それは、イスラエル人と弟子たちがまず信じる為でした。当然ながらキリストについての預言の成就はその目的の為だったのです。しかし、神の豊かな恵みを信じない人は今でも多くいます。癒しを信じない、罪が取り除かれた事を信じない、或いは、マルタのように復活を信じない人もいるでしょう。しかし、信じる人にとっては神の栄光を見る事になるのです。

「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ヨハネの福音書 11:40

癒しを贖いの計画の一部に含まないとする人たちは、同じ十字架の御業の一部であるキリストの復活を信じないのと同じで、癒しという神の栄光を見る機会を逃すでしょう。

次に、「成就」したという単語(plerothe)が、イザヤ書(ギリシャ語訳)ではアオリストの形になっている事がもう一つの鍵です。アオリストは過去形として訳されるべきではなく(過去のある時点で動作が起きたという過去を意味するのではなく)事実や真実を述べる時に使われます。また、新改訳の「病を背負った」の「背負う」という動詞(英語では took の訳)も、アオリストになっています。ですから、マタイは贖いについての真理を述べているわけで、それらがある過去の時点で「成就した」というような過去の出来事を言っているのではありません。ですから、癒しの預言が過去の一時に「成就した」という過去の出来事だとして、その一時点のみの成就であってその後には適応されないという考えはとても無理な解釈です。

次に、四つの福音書はキリストの生涯を最も正確に書いた書物ですから、マタイがイザヤ書の贖いの預言が成就した事を書くのはむしろ当然なのです。ただ、マタイが預言の成就を理解したのはイエス様と一緒にいた時ではなく、キリストの復活の後であり、ペンテコステのずっと後でした。彼はイエス様がした事を聖霊によって思い出しながら福音書を書いたのであって、癒しの預言が成就したと彼が言っているのは、あくまでも十字架の御業の成就の事なのです。つまり、癒しは十字架の贖いの一部としてマタイは成就したと書いているのです。人々が自分の目の前で癒された時には、マタイはまだイザヤ書の預言の成就を理解してはいませんでした。マタイはいつイザヤ書の預言の成就を理解したのでしょう?マタイが福音書を書いたのはキリストの昇天のずっと後です。福音の奥義なども理解した後だったでしょう。ですから、イザヤ 53:4 を引用した時には、彼の解釈も含めたのです。何故なら、新生していた使徒マタイは、贖いの預言の成就の意味を聖霊によって啓示を受けていたからです。私たちがイザヤ 53:3-5 の贖いの預言を読めば、この成就はキリストの十字架によって完成されたという事が分かります。同様に、マタイが贖いの成就を理解できたのは、キリストの十字架の完成を見た後なのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ 53: 5

癒しは贖いの中にあるか? その2に続きます。

2018年8月5日日曜日

聖書と聖霊のバランス

「聖書と聖霊の働きはバランスよく捉える必要がある」などと言って、どちらかに極端になる事を正したりする意味で教えられる事があります。それは、次の英語の表現でも明らかです。

"If you have the Word without the Spirit, you dry up. If you have the Spirit without the Word, you blow up. If you have both the Word and the Spirit, you grow up."

この英語の表現を知っている人はいるかもしれません。日本語に訳すなら、「もし聖書だけで聖霊がなければドライになり、もし聖霊だけで聖書がなければ爆発し、両方があれば成長します。」という感じでしょう。この表現が意図する所は悪くありませんが、これはやや誤解をされやすい表現です。その意図するポイントが「両方あれば(両者のバランス)」としてしまうと、誤解が生じます。

気づかないかもしれませんが、「バランス」という語は誤解されやすいワードになっています。何故なら、単に「どちらかに極端にならないように」という考え自体がやや的外れになっているからです。

対立関係とする見方

まず、「聖書 Vs. 聖霊」という事ではありません。しかし、どちらかに偏ると良くないという考えが一般的になっている為に、「バランス」という語が適切であるかのように見えます。それはまるで「福音派と聖霊派のバランス」の様です。これらの教派は教理の違いを見れば、確かに対立関係がある様にも見えます。福音派にしてみれば、聖霊を認めると口では言うものの、聖霊の働きを認めないような教理や姿勢がかなり顕著です。聖霊派も、聖書は大事としながらも霊的現象ばかりに気を取られているのが明らかです。こうしてみれば、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の考えも一理ありとなるので、両者の真ん中を取るような「バラランス」は安全だろうと思うのも無理はありません。しかし、漠然とした「福音派と聖霊派のバランス」や「聖書と聖霊のバランス」が何を意味するのか誰も分かりませんし、またそれが正しいのかどうかは別の問題なのです。

結論から言えば、両者の対立関係の中からバランスを取るという事が鍵なのではありません。どうしてこの様な考えになったかというと、その原因は主にカリスマ派・聖霊派の行き過ぎた教えが過去に幾つもあったからです。教会の歴史を通して、新しい教理が生まれるきっかけとなっているのが、ある教派の極端な教えを修正する必要があったからです。ですから、教理の違いから「対立関係のバランス」という考えが出てきているのです。しかし、「極端にならないで双方の真ん中辺りを目指す」という漠然としたものが良いという見方は解決に至りません。もちろん、極端なものについては徹底的に向き合う姿勢が必要です。

両極端

カリスマ派・聖霊派のクリスチャンは神秘主義になっている事を認め、福音のことばにもっと立ち返る必要があります。極端な「霊的解釈」は、もはや聖霊の声や聖霊の導きではありません。彼らの主張する「聖霊による新しい啓示」は存在しません。全ては新約聖書によって吟味が可能であり、新約聖書に書かれていない教えは吟味不可能であって、それはグノーシス的な考えであり「御霊の啓示」にはならないのです。

一方、福音派は「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」(2ペテロ1:21)という箇所をよく引用して聖書の権威について熱く語る割には、聖書の著者である聖霊を軽んじています。彼らにとっては「聖書の完成」が偶像礼拝化されてしまっていて、聖霊によって私たちが「アバ、父」と言える事ができるという真理を理解していません。御霊は概念ではなく私たちの内に住む神の霊であるので、当然私たちは聖霊の声を聞く事ができ聖霊の交わりもあるのです。彼らにとって「聖書が完成された」という表現は、もはや聖霊の働きを正当に否定できるものとして乱用されています。

しかし、福音のことばと聖霊を共存させるには、やはり「バランス」が必要になるのでしょうか?ところが、両者は最初から共存しているどころか、同一の関係なのです。もし、福音派が徹底的に福音主義であるなら、彼らは一部の福音のことばの箇所を重んじるような事をしないで、私たちがもはや文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者に変わったという真理を逃してはいなかったでしょう。もし、カリスマ派・聖霊派が徹底的に御霊の声を聞き分けて従ったなら、キリストの言葉の内容こそが聖霊が言わんとしている事だったと気づいたはずです。つまり、どちらも自分たちが主張している部分において中途半端である事が問題なのです。福音派は一部の福音のことばだけを理解していて、カリスマ派・聖霊派は正確に聖霊の声をキャッチしていないのです。

ではどの様な捉え方が正しいのでしょうか?それは、更に詳しく言えば「漠然とした聖書」ではなく、キリストの言葉と聖霊を同一視する事に鍵があります。御霊の導きはイエス様の教えの内容と一致します。真理の御霊は、イエス・キリストという真理のお方に導くのであって、御霊の導きはキリストの言葉にあるからです。

その為には、御霊の働きに関する事柄を「曖昧でミステリアス」なものにしない事です。カリスマ派の極端な「霊的解釈」を通して御霊の働きを「曖昧なもの」にしている影響で、多くのクリスチャンは聖霊の働きが「曖昧でミステリアス」であるのが当然だと思っています。何でもかんでもこじつけて今日の私たちに適応させてしまう「霊的解釈」は、単純な福音を複雑にして曖昧なものにしているのです。これなら、もっと御霊の働きを知りたいと願っている福音派のクリスチャンが躊躇するのも無理はありません。行き過ぎた教えによるカルト化は彼らが最も恐れているものです。カリスマ派・聖霊派のクリスチャンにしてみても、時々見られる変な現象や「掴みどころのない霊的な教え」は何かおかしいと気づいている事でしょう。

御霊の第一義的な役割はイエス様が明かした通りです。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」ヨハネの福音書 16:13-14

御霊は自分から何かを語りません。御霊はキリストの栄光を現す働きがあるので、キリストの教えを受けてそれを私たちに知らせるのです。イエス様の教えは新約聖書において明らかにされています。その教えに聖霊は導くのです。ですから、御霊が旧約聖書の箇所を用いる場合は、より吟味が必要になります。何故なら、旧約聖書に出て来る幾つかの真理も新約聖書に一致するべきだからです。何故なら、私たちは新しい契約の下にいる者であり、文字に仕える者ではないからです。

究極的には真理の正しい理解だけが鍵です。偏った教理や解釈では意味がありません。真理だけが私たちを自由にするのですが、真理を追究する人はあまり多くいません。真理を握っている人は、誰に何を言われても動揺しないでしょう。本来は教会の中では聖書を教える教師の役割を果たしている人がいるべきです。その兄弟・姉妹に質問をして色々と学ぶ事はとても重要です。そういう機会がないのなら、自分で調べてみる事をお勧めします。専門家しか分からないという事ではありません。むしろ、専門家の方が御国の福音を知らない事もあるのです。

多くの場合、翻訳された聖書は昔から誰かの都合の良い解釈や表現で訳されています。多くの場合、聖書学校や神学校もある教団に属しているので、必ず彼らの教理に基づいた教えが中心になっています。そうした偏見を取り除く事が真理を知る鍵です。今、教団という人の肉の思いで作られた組織教会が疑問視されています。世界中で福音の真理に戻ろうという意識が高まってきているのは単なる偶然ではありません。

2018年8月1日水曜日

新約聖書による「油注ぎ」 その2

「油注ぎ」の教えの中でよく乱用される聖書の箇所をもう少し見てみましょう。

「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」第一歴代誌 16:22 及び 詩篇 105:15

ある預言者たちは自分たちの不利な立場を回避する目的でこれらの箇所を用いる事があります。こうする事で彼ら自身を「神様から特別扱いされている」とします。第一歴代誌から見ると、この箇所の「油注がれた者たち」はアブラハムとサラで、「危害を加えるな」という警告はアビメレクに対してのものです。ダビデはそれを引用しているので、彼の視点からすれば「油注がれた者たち」とはイスラエルの民ですし、「危害を加えるな」という警告は他の国の王たちに対してです。ここだけを引用せずに前の節から文脈を把握しながら読めば理解できるでしょう。それでも、ある人たちはこの箇所が「油注がれた」現代の使徒や預言者の事も含むと主張して、彼らを「神様の特別扱い」を主張するでしょう。確かに、旧約時代では「油注がれた」人たちは特別でした。しかし、今は違います。

「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。」第二コリント 1:21

「私たちに油をそそがれた方は神です。」とあるので、新しい契約の下では、皆が「油注がれた」のです。私たちは常に新しい契約を基準にして物事を判断する必要があります。こうした単純な事が分からないと、私たちが旧約聖書を読む時には古い契約の視点で考えるようになるでしょう。しかし、私たちの考えは新しくなっているべきです。私たちが旧約聖書を読むとしても、考えも古い契約に戻る必要はありません。

「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」イザヤ 10:27

KJVのバイブルは概ね良いのですがこの箇所は注意が必要です。KJVの聖書を元に「油注ぎ」を教えている人たちは、くびきが「油注ぎによって取り除かれる」という教えをして、いかに油注ぎを求める必要があるかなどと言います。しかし、日本語の新改訳と同様に、多くの聖書では「油注ぎ」の語がここに出ていません。しかも、ヘブル語の shemenという単語が「油注ぎ」と訳されているのもここだけです。彼らが強く主張している教えも、この様な不安定な土台から来ています。文脈からの理解はどうでしょうか?「その日」に起こる預言がイエス・キリストの贖いを指しているので、この箇所を用いて「今日の油注ぎ」が何かの奇跡を起こすという考えに結びつける事は不可能です。この箇所は預言的に言っているもので、イエス様が油そそぎとして私たちのくびきを取り去る事を意味しています


歴史をたどれば、ペンテコステ運動が起こる前の時代でも聖霊の力を「油注ぎ」と呼んでいた人たちが多くいました。ところが、彼らはその間違いに気づきませんでした。このちょっとした定義のミステイクが大きな混乱につながってしまったのです。

ところで、聖霊の力を求める事は良いのです。それはいわゆる「聖霊のバプテスマ」によって力が与えられますし、イエス様も聖霊を受けて力を得る事を指示しました。そして、聖霊の力は私たちが「聖霊に浸かる」のなら力が与えられる事になるのです。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」エペソ 1:19

「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」とパウロが言っている通り、神の力は私たちの内にあるので「信じる者に働く」のです。神の力が「発揮されるようになる」のは私たちが「聖霊のバプテスマ」を通してです。「聖霊のバプテスマ」の正しい意味は「聖霊の中に浸かる」事であって、私たちがもし御霊の中に浸かっているのなら神の力が私たちの内に働くのです。御霊の中に時々しか浸っていないなら、神の力が時々しか見られないでしょう。幼い私たちはその力が見られない時に「聖霊が去って行かれた」という旧約聖書的な考えを持ちます。

ところで、神様の一方的な導きによって神の力が大きく働く事があったりします。しかし、それは「特別な神の導き」であって、私たちが必死に「油注ぎ(正しくは聖霊の力)」を求めた結果ではありません。幼い私たちは、神様から「特別扱い」される事を毎回期待して信仰によって大胆に歩もうとしません。いつでも神様に何かを言われてから行動したいと願っており、神の声を聞いて何かをする事が「より霊的」だと勘違いしているのです。しかし、聖書が高く評価している人たちは大胆な信仰を示した人たちでした。

御声を聞く事に反対ではないのですが、聖書よりも御声を重視するという所が問題なのです。そもそも、主のみこころが分からないという状態が既に私たちの幼さを表しています。しもべは主人のすることが分からないので、指示されなければ動けません。「神のしもべ」は、もしかしたら、使徒、預言者、伝道者、牧者、教師というタイトル(実際にはこれらはタイトルとしての語ではない)にこだわる人たちかもしれませんが、私たちはもっと上を目指す必要があります。

聖書的な解説だけでも「油注ぎ」の教えから来る混乱はすぐに解決されますが、多くのカリスマ派・聖霊派のクリスチャンは体験主義に基づいた個人の解釈に耳を傾けがちなので、彼らがこうした聖書的な説明に仮に納得しても、感情的に訴えかける説教者のメッセージに流されやすいでしょう。彼らの霊的体験や霊的現象が全て間違いではありませんが、毎回「神様の特別な導き」を期待するのは幼い考えなのです。

彼らの「特別集会」には御霊の力の表れもあるでしょう。しかし、そうした集会での僅かな奇跡や癒しは必要以上に大きく取り上げる事が多く、それがまた「油注ぎを求めた結果」として言われているので、なかなか気づかないのも無理はありません。神の子供である私たちは、そこに集った病人全員が癒される事を目標にするべきです。金粉やその他の「霊的現象」で騒ぐようでは幼すぎます。

もし、「油注ぎ」が私たちをいとも簡単に「特別な存在」にしてしまうなら、たくさん祈る人に神様は目を向ける事になります。それはもはや神様が恵みによって私たちを祝福する事にはなりません。しかし、神様は「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福している」のです。私たちには何一つ欠けた物がないのです。私たちが欠けていると思って不信仰になっているから、その通りになっているだけです。

また、もし「謙遜な祈り」が神様に認められ、神様が「油注ぎ」という神の力を誰かに与えて、それが私たちが神様に用いられる事の鍵となっているのなら、どうして過去の「油注がれた」人たちの多くは高慢になったのでしょうか?ある人はこう言うでしょう。「誰でも謙遜になって祈って油注ぎを求めるなら、神様は油を注いでくださる。」しかし、もしそうなら「油注がれた」人たちを「特別扱い」するような考えはどうして根強く存在しているのでしょうか?

また、「油注がれた者」として知られている人たちは、何故その神の力を「癒し」の形でもっと表していないのでしょうか?金粉・天使などの特に重要でない奇跡や霊的体験ばかりが注目され、もっと重要な奇跡(癒しなど)が見られないのはどうしてでしょう?それとも神様は私たちの多くが病気で苦しんでいるのにも関わらず、別の形の祝福ばかりを優先させているのでしょうか?金粉現象はもっと重要な事なのでしょうか?実際に、多くの人はその辺の神様のみこころを良く理解していない為に小さな奇跡を過大評価します。その一方で、彼らの最も重要なニーズについては何の解決にも至っていないので、相変わらず同じ苦しみの中にいます。

例えば、預言は良いものですがそれが乱用されて過大評価されると、「神様から与えられた預言だから」という曖昧な理由を根拠にして、その他の問題が教会で解決されていなくても「とりあえず良し」と考えられる事がしばしばあります。預言は重要な役割をもっているのですが、本物を吟味できないといつまでも「曖昧な良い物」が教会の中で過大評価されてしまって、特に解決につながらないままになるでしょう。実は、多くのクリスチャンが期待をかけている「油注ぎ」というのはこの程度のものであって、解決を与えるものではありません。

私たちはこの様なグレーゾーンの中に長く居過ぎました。そこには面白そうなセミナーやカンファレンスがたくさんありますが、それらの知識を得る為の膨大な時間の割には、私たちが特に霊的に成長にしていない事にそろそろ気付くべきです。もし「油注ぎ」や「神の臨在」などが何か秘訣のようなものであったなら、パウロと他の使徒たちはそれらについて詳しく教えていたはずです。しかし、彼らが教えていた福音の奥義とはキリストが私たちの中におられるという真理です。ですから、イエス様が私たちの内におられるのに、「油注ぎ」や「神の臨在」を求めている事はおかしな話しなのです。それらを求めた結果何か霊的な事が起きたのなら、それはむしろすぐに吟味されるべきでしょう。もっとも、それらを追いかけた結果が「金粉」というイエス様から目をそらすような現象であるのなら、もうその出所が分かっているべきなのです。