2016年7月26日火曜日

新約聖書による「油注ぎ」 その1

油注ぎを受ける、それをキープする、その他の油注ぎに関連するカリスマ派・聖霊派の教会でよく聞くメッセージは、幾らかの誤解を含んでいます。諸々の問題の原因を聖霊の油そそぎと関連付けて、それ(油)が切れたからあなたは問題を抱えているという趣旨のメッセージは典型です。按手を受けて新しい油を受けましょうと言って油注ぎの儀式をやる、そういった考え方は旧約聖書からのものです。

当時の祭司、預言者、そして王は「油注がれた者」として特別に主の働きの為に選ばれていました。一時代において主の為に働いている人たちはごくわずかで、彼らはリーダーとしてイスラエルの民を導いていました。確かに、旧約時代では「油注がれた者」は特別な存在でした。しかし、新しい契約の下では違います。

油注ぎは聖霊の力と関係していますが、それ自体は聖霊様そのものでも聖霊の(神の)力でもありません。シンボル的な意味において「油注ぎ=聖霊」として解釈される事は聖書の中であるのですが、この意味は油などを塗る、こすりつけるというものです。これは儀式として祭司、預言者や王を選ぶ時に行われたものです。その儀式によって、油注ぎは聖めの為の特別儀式として認識され、やがて「聖別する」為のものとして理解されるようになったのです。油注ぎ自体は、単に油を塗る・こすりつけるという意味だけです。しかし、油注ぎが聖霊の力と関係している事は間違いありません。何故なら、油を注がれた者には聖霊が臨み、聖霊が望むと力を受けるからなのです。


油注ぎと聖霊の満たし

ギリシャ語訳のイザヤ書の 61:1(最初の部分)では、以下の英語訳とほぼ同じで、主の霊がキリストの上にとどまっているのは、主が油を注いだからだと書いてあります。

英語 :「Spirit of the lord is upon me, because he anointed me to announce good news to the poor.」
日本語 :「主の霊が私の上にある。何故なら、主が私に油を注いで貧しい者に良い知らせを伝える為である。」

つまり、油注ぎ(聖別の為の儀式)があったから聖霊が望むという順序なのです。これがどういう意味を持つかといえば、油注ぎ自体が大切なのではなく、聖霊が望む事がより大事であり、その為に油注ぎが必要となっているという事です。聖書的には「油が注がれたから聖霊を受ける」のです。

油注ぎの儀式(聖別) > 聖霊を受ける

恵みの下において、聖別はいつ起こるかと言えばイエス様を信じた時です。その時に私たちは義とされ聖い者とされるのです。同時に、聖霊の内住も起こります。これをきちんと理解していれば、聖霊が私たちクリスチャンの中に常に住んでいるのに、更に油注ぎ(聖別の為の儀式)を求めるというおかしな事をしなくてもよいと分かるはずです。聖霊の内住がある事が、私たちには既に油注ぎがある事を証明しているのです。聖霊が私たちから去っていく事があるなら、再び油注ぎと聖霊の満たしが必要になるでしょう。確かに旧約時代、律法の下では罪の為に聖霊は去っていく事もありました。ところが、恵みの下ではイエス様は聖霊を通して私たちといつも共にいます。主の恵みはそれほど偉大なのです。

Χριστός(Christos)はキリストを意味し、それは「油注ぎ」を意味します。イエス様の苗字ではありません。すなわち、イエス様が油注がれた者だという意味です。旧約聖書においては、油注ぎの儀式をする人はモーセの後は預言者だったのですが、新らしい契約が始まった時から人による油注ぎの儀式もなくなりました。その代わりに、神様ご自身がキリスト(油注がれた者)を私たちに注ぎます。神様が信じる人に油注がれた者(キリスト)を与える、そしてその結果として聖霊が与えられるという事です。

さて、油注ぎ(聖別の為の儀式)を受けたら、御霊の賜物を受け取る事ができるというようなメッセージもしばしばカリスマ派・聖霊派の教会で聞くものですが、もしそうであったなら、もっと癒しが(或いはその他の賜物による奇跡が)頻繁に起こっていても良いはずです。これは御霊の賜物のテーマになってしまいますが、実は私たちの内にいる聖霊を通して、また、私たちが信者であるという事だけで御霊の賜物を表す事ができるのです。誰かの按手を必須としているのではありません。問題は信じるかどうかなのです。聖霊の賜物でもその他の祝福でも、それらを信じて行動に移す事が最大の鍵なのです。何故なら、全ての霊的祝福は既に私たちに与えられているからです。

そういうわけで、油注ぎを求める必要のない最大の理由はイエス・キリストが既に私たちの中にいるからです。彼が「油注がれた者」であり、私たちと共にいるという真理だけで十分なのです。エリヤの2倍の油注ぎなどはレベルの低いものであり、そういったものは必要ありません。エリヤよりも優れた方が私たちのうちにいるからです。ちなみに、2倍の油注ぎに関する教えなどもすべて旧約聖書からの引用を元にしています。でも恵みの下に私たちがいる事を考えれば、今更旧約聖書の頃の古い考えは必要としません。この種のメッセージの問題は、恵みの視点と律法の視点を混同してしまっているところです。多くの間違った教えというのは、律法と恵みを混ぜたものや、恵みを十分に理解していないところから発展したものです。イエス様の十字架御業によって何が変わったかを知らないと、この様な教えの間違いに気づかないでしょう。

旧約時代では油注がれた者は特別扱いされた人たちでした。ところが、キリストの十字架の恵みによって、聖霊が豊かに降り注いでいる現在では、キリストを信じる人全てに豊かに油が注がれているのです。何故なら、聖霊を通してイエス様は私たちの内におられるからです。ですから、恵みの下で「油注がれた」牧師などを特別扱いする考えは間違っています。そういった牧師や教師が自分に注目を集めるかのようにメッセージをしている時には注意が必要です。

五職との関係

使徒、預言者その他のいわゆる五役者に関わる間違った教えも油注ぎと深く関連しています。まず、彼らは何か特別な存在ではありません。しかし、油注ぎについての教えが殆ど旧約聖書の箇所だけで教理化されている為に、多くのカリスマ派・聖霊派のクリスチャンは今日でも主が特別に用いている器が存在していると勘違いしています。主が特別に選んでいるのではなく、信じるだけで誰でも御霊の力によって神の子供として私たちは働く事ができるのです。五役者とは、一般信徒とエリートのような区別で分けて考えるような存在ではありません。彼らはリーダーとしての役割を持ちますが、役割に応じて色々な働きをしているだけなのです。

リーダーも教会の頭として上に立つ者ではなく、むしろ土台として他の信者を支える立場なのです。ある人たちは、人の作った組織(肉によって作らた組織教会)の上に立つ者として使徒や預言者が主によって召されているなどと言って、一般信徒は使徒や預言者に従うように教えられていますが、そのような肉の思いで作られた教会を建てるようにとパウロは教えていません。エペソ人への手紙 4:11-12 の箇所を勘違いして解釈してしまったのが原因ですが、この「五職・五役者」の教えは「後の雨運動」で特に大きく取り上げられ、70年代の Shepherding Movement(羊飼い運動)などによって異端的なものにまで発展しました。ピーター・ワグナーを中心に推進された(New Apostolic Reformation)などは少しは改善されたところもありますが、使徒と預言者を教会のかしらとして考えている傾向が強く、選ばれたリーダーの指示通りに教会が機能するべきだとする考えは新約聖書の教えではありません。

油注ぎに関する間違った教えは、御霊の賜物によって大きくミニストリーを展開している牧師やリーダー的な役割(主に五役者)をしていた人などが、自分自身を特別扱いする事から始まってしまったようなものです。旧約聖書時代の律法の視点で見ると「特別な存在」なのですが、新しい契約では皆が神の子供たちなのです。従って、「油注がれた神の特別な器」という一般的に言われている表現も示す様に、この教えの間違いの根底に旧約聖書の引用・誤用・乱用があるのは明らかです。

Shepherding Movement はカリスマ運動の中でも大きく失敗したものです。使徒と預言者が絶対的権力を持つ存在として教えられ、当時、一部の教会では彼らによって極端な服従を要求されました。NAR を推進したピーター・ワグナーは Shepherding Movement を再興させたものではなく、使徒と預言者が教会の土台となっているという聖書の箇所からこの二つのポジションをより重要なリーダーとして見ているだけです。しかし、これらのリーダによる人間的な教会(肉によって組織化された教会)に関しては正しいとは言えません。

私たちがミニストリーにおいて成功するのは、その働きが御言葉に対する私たちの信仰によるからです。神様が何か特別にある人を選んで取り扱うという事で彼のミニストリーが成功しているなら、その人は確かに特別な者となるでしょう。ところが、聖霊は私たち一人一人の中に住んでいるという真理から、皆がイエス様によって油注がれて(聖別されて)います。ですから、今更「油注ぎ」が必要という考えは意味がないのです。

それよりも、聖霊のバプテスマをよく理解して力を得る事がより重要なのです。油注ぎを聖霊の力だと勘違いしているのは、究極的には定義上の問題なのですが、そこから更に「特別な聖別された者」という旧約聖書の視点からの考えがこの教えの中に入った為に、多くの人は恵みによる視点で考えられなくなってしまったのです。恵みによると、私たち全てのクリスチャンが祭司であり王なのです。また、私たちに与えられている主の権威と力をただ信仰によって働かせる時に主の御業を行う事ができる神様の子供なのです。クリスチャンが神様の子供であるという真理そのものが、私たちは既に聖別されている(油注がれている)事を意味しており、従って「油注ぎ」が特別な人や状況において表れるものではないのです。こうした特別なイベントの様に見てしまうのは、人の栄光に目を向けてしまう古い契約の視点が原因であり、また私たちの弱さが原因でもあります。

https://www.youtube.com/watch?v=OVYf7JMh8ss 2017年にカリー・ブレイクが教えた「油注ぎ」もぜひ参考にして下さい。

聖書による「油注ぎ」について その2

2016年7月21日木曜日

自己中心の思い

神様は私たちが神様に思いを向けて生きるように創造されました。創造の最初から人は、自分自身ではなく神様に意識を向けるようにされたのです。アダムとエバが罪を犯すまでは彼らは神様に意識を向けていたので、自分たちが裸である事すら知りませんでした。ところが、罪が入ってきた後には自身に意識を向けてしまったので彼らが裸である事を知り、その罪ゆえに神様から身を隠してしまいました。

自己に意識を向けると自己中心になります。そしてそれはあらゆる悲しみの原因になっています。人が悲しんだり不幸に感じるのは、多くの場合、自らの欲求が叶わないのが原因になっています。ですから、悲しみの対策として自分自身をどう見直すかがとても重要です。例えば何かの問題があった場合、それを解決しようとして自分の努力でやろうとすると、そこから自己に意識を向け始めてしまいます。仮に何か成功したとしても自分の努力の結果として捉える事になり、そうなれば神に対する信仰が停止してしまいます。

信仰が働いていない状況の中で、自分の努力で成功を何回も経験してしまうと、そのうち信仰による歩みを忘れるようになります。そうなると何かに対して成功しようとする時に、その動機が次第に肉的になっていきます。これは自己に意識を向けて物事を判断したり、事を成し遂げようとするのを何度も経験した結果からです。例え聖霊のバプテスマやその他の霊的な体験を過去に幾らかしたクリスチャンでも、世の人と同じように振る舞っているのは意外にもよくある事です。

たとえそれが祝福を求めるものであったとしても、神様を利用して何かを求めようとする考えは間違っているのです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイの福音書 6:33

私たちが必要なもの全てが神の国とその義をまず第一としていれば、必要なものは自然に与えられるのです。殆どのクリスチャンは神様から与えられる祝福を自分のやり方で求めている為に、様々な葛藤を経験しています。これは自己を中心として物事を考えた結果です。あらゆる悲しみの原因は、あなた個人が何らかの形で損失を受けているからなのです。損失を受けていると見えるのは、物事を自己中心的に捉えているからです。

自己中心というのは高ぶりです。通常、高ぶりというのは傲慢な態度の事を言うのですが、偽りの謙遜、卑下、臆病や内気、なども含みます。何故なら、高ぶりというのは自己を中心にして物事を見るからです。自分に注目を集めるような態度は明らかですが、他人にどう思われているかと自己を意識する様な卑下や内気な態度も同じなのです。

多くのクリスチャンの高ぶりは、悔い改めの祈りなどに見られます。一見すると、罪からの悔い改めは謙遜的な態度のように見えるのですが、これはイエス様の十字架の恵みよりも「自己の謙遜」による罪の悔い改めを優先させてしまっている為、高ぶりになっています。罪からの悔い改め(本来の意味は考えを変える)事は悪いことではありませんが、それによって罪が赦されるとは別問題です。あなたの罪が赦されているのはあなたの熱心な謙遜的な悔い改めではありません。イエスキリストの血潮によってのみあなたの罪は赦されているのです。

相手がどう思うかを気にして謙遜するような考え方も高ぶりです。内気になっているケースも相手を気遣いし過ぎているからで、それは一種の自己防衛であり他人から何か言われたくない目的で自分を中心にしてしまっている考え方なのです。


自分には何もできないと考えている人も、その「自分」を中心に見ています。そういう人は多少のリスクを負って非難を受けるよりは最初から手を出さない安易な道を選んでしまうのです。失敗を恐れずに大胆に行動する人全てが必ずしも本当の謙遜を身につけているとも限りませんが、少なくともはっきりとしているのは卑下をする人や内気な人は実はプライドが高い人なのです。

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」ヤコブの手紙 4:10

真にへりくだっている人ならこの聖書の箇所の通りに主がその人を高くする事を喜びとしますが、プライドのある人は必要以上に遠慮するという虚偽の謙遜を示すでしょう。何故なら、その様な人は周りの人を気にして目立つような事を避けるからです。自己を中心に考えるようなものは全て高ぶりなのです。本当に謙遜な人は自分のアイデンティティーについて聖書に書かれてある真理に素直に同意します。そして人の意見を気にしなくなるのです。人の意見が称賛であっても非難であってもその人が真に謙遜ならば、その人は自己に死んでいる為に気にならないのです。

謙遜とは他人より自分を低くする事ばかりを考えるのではなく、自分ではなく他人を優先して考える事です。謙遜な人は自分に対して死んでいる為に自分の事をあまり考えません。つまり、自分の存在を気にしない程に相手を先に考えるのです。「まず自分を低くしてから」という考え自体が自己中心的なのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ人への手紙 2:20

私たちがもはや自分の為に生きるのではないなら、神と人の為に生きる事が出来るようになります。自分を愛さないと他人を愛せないという非聖書的な愛も教会で聞かれるのですが、それで納得させられるのは肉の思いでそれを受け止めているからです。そうではなくて、イエス様は神を愛しそしてあなたの隣人を愛しなさいと教えています。

私たちが古い自分に完全に死ぬ時に、私たちの中にいるキリストが生きます。そうなると、他人の言葉に傷つくという事さえなくなります。痛くもかゆくもないのです。死んでいるからです。多くのクリスチャンが人から傷つけられるのは、まだ古い自分が生きていて高ぶりの思いがあるからです。ただし、自己に対して死ぬという事の大切さを学んだからといって、そこに意識を向けてしまうと失敗します。何故なら、自分に意識を向ける事は、自分の努力で成し遂げようとするからです。

聖書では私たちが死んだのはキリストと共に葬られたからであり、それはキリストの十字架の御業によるものです。ですから、自己に対して死のうと自分で努力するのではなく、イエス様がそれを成し遂げてくださったという真理に目を向けるべきです。

殆どのクリスチャンは新しく霊によって生き返ったという新生の意味が分かりません。何がどう変わったかを理解している人は少ないです。まず、生まれ変わる前に死んでいる必要があるのです。それは罪であり古い人であって、束縛からの解放を意味しています。そしてキリストの蘇りは私たちの霊が新しくなった事であり、新しい人によって私たちは歩むことができるとパウロは教えているのです。諸教会では霊的な成長についての教えが殆ど無いために、肉の思いのままでそのまま生活しているクリスチャンが多いのが一般的です。御霊によって歩む事ができるのにそれを知りません。そして未信者とあまり変わらない思考回路のまま生活しているので、変化が見られない現実が普通になっています。

自己中心的な考えや思いというのはまさに肉の思いそのものです。自分に意識を向ける時にその様な考えになってしまいます。心(正しくは思考)の一新によって私たちは変わる事ができます。肉の思い・考えを霊の思いに変えるだけで私たちは変われるのです。

2016年7月11日月曜日

罪の性質 その2

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 第二コリント人への手紙 5:17

新しい霊によって生まれ変わったクリスチャンは聖霊の内住があり、御霊によって歩むことができます。ですから、どうして罪がある状態で尚且つ聖霊が宿る事があるのでしょうか?聖い者として認められているのに、どうして私たちは罪の性質を持っていると考えるのでしょうか?むしろキリストの御業の恵みによって、私たちは義人となったと認識するべきなのです。ですから、聖書では本来ならばキリストにあるクリスチャンは罪を犯すことがないと教えているです。もちろん、その条件として必要なのがキリストの心によって歩む事です。

「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマ人への手紙 6:14-18

殆どのクリスチャンはちょうど未信者と同じように、生きていて罪を犯す者として自身を見ています。それなら次の聖句はどのように捉えるべきでしょうか?

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」 ローマ人への手紙 6:6-7

私たちの古い人はイエス様と共に十字架でつけられ死んだ事になっているのです。これは過去に起きたという意味ではなく、真理において古いアイデンティティーの原因であった原罪が取り除かれている為に、古い人は死んだも同然になっている真理を表しています。

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」コロサイ人への手紙 3:3

クリスチャンは生きていて罪を犯すのではなく、新しい霊として生まれ変わったので、(肉に対して)死んでいて罪を犯さない状態にあるべきです。ただし、この聖句を信じないのなら、その歩みは未信者と同じになってしまいます。この御言葉を信じるのが成長の第一歩といっても過言ではありません。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ人への手紙 6:4

新しい歩みをする事ができるようになったクリスチャンなのですが、それを知らないでいると、原罪は取り除かれているにも関わらず、古い人のままで生活してしまいます。肉の思いが、死んでいるべき古い人を復活させてしまうのです。ただし、この真理を知っただけで直ぐに罪を犯さなくなるわけではありません。義の奴隷として歩み、そのまま正しい方向へと成長する必要があります。その成長過程においては失敗をする時も多々ありますが、そのうち罪を犯す回数も減り、次第に信仰の成長がはっきりとしてきます。これは宗教的な努力による賜物ではなく、信じた結果の実なのです。

私たちの思いというのは経験や学習という過程を経て形成されていきます。一度ある種のパターン思考が確立すると、人はその様に考える傾向を持ちます。確立された考えでそのまま長い間生活していると、それとは逆の考えに切り替える事は難しいものです。いわゆる伝統的な教えなどは人をある種の考えに縛ってしまいます。一度そうなると、人は伝統だからというだけの理由でよく理解しないまま事を行ったりします。

「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」」マルコによる福音書 7:7-8

一般的に広く教えられている教理や神学の多くは人の考えになってしまっています。その全てが間違いではないのですが、それらは部分的にしか正しく捉えられていない為に、最終的には恵みの真理が宗教的な行いという律法に戻ってしまっているのです。罪の性質についても同様です。罪を取り除くためにイエス様が十字架にかかって私たちを解放したのに、多くのクリスチャンは罪から解放されていないと教えられているのです。

クリスチャンでも原罪はまだあるのが正しい真理なのか、それとも世の罪を取り除いた神の子イエスキリストの十字架の御業が真理なのか?答えは明白なはずです。イエス様の血潮は全ての罪を取り除く力をもつ聖なる血であることが理解できれば易しい問題です。それでもまだよく分からないのはローマ書7章の誤解が主な原因となっているからでしょう。ローマ書の7章と8章が特に理解できれば、人は肉の思いだけではなく、霊の思いによっても歩むことが可能であると知ることができます。そして、私たちは肉の思いによって歩む必要がないのです。

クリスチャンでも肉の思いになる傾向があるのは、思考そのものは新生の後も変わっていない為です。原罪と呼ばれる罪の性質はないのですが、古い考えはそのまま記憶と共に残っています。ただし、それに頼って生きなければならない訳ではありません。イエス様は十字架でその古い考えを原罪と一緒に取り除く事はできませんでした。何故なら、肉の思い自体はアダムの罪ではないからです。これは私たちの自由意志に関わるもので、単なる肉的な思いの事です。神様は私たちに与えた自由意志を取り去ることはないからです。この自由意志こそが神様からの素晴らしい賜物である事に気づいている人は少ないです。

主の十字架の御業によって、もう私たちは罪から解放されているのです。ですから、御霊の思いによって歩む事が可能なのです。ただし、御霊の思いになるように常に聖書の言葉を蓄えて信じ続ける必要があります。これは律法の行いとは違い御言葉による信仰の歩みです。クリスチャンでも、肉の思いのまま長年も人生を過ごしてきたなら、諸々の判断がノンクリスチャンと同じになっていてもおかしくありません。そうではなく、全ての事を聖書的に考えるのが御霊の思いによる歩み方です。

新約聖書の真理を信じてそれを普段の生活で用い、キリストの教え・新しい人としての視点によって物事を判断していないのなら、その考えは肉の思いであり、その様に歩んでいるうちは常に罪を犯してしまう束縛から解放されません。そういう人が条件反射的な判断が要求される場面では、つい怒ったり感情的になってしまったり、今までの肉の思いの影響による悪い習慣が出てきます。そうではなく、聖書の御言葉で全てを判断するようにします。そういう事は難しいと思うかもしれませんが、それは聖書の教える新しい考え方に慣れていないからです。クリスチャン成功の秘訣は、考え方を変える(本当の意味での悔い改め)だけで良いのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 ローマ書 12:2

心を一新する(考えを変える)のは私たちです。それは神様がやってくださるのではありません。パウロは心の一心によって自分を変えなさいと促しています。何故なら、クリスチャンにはそれができるからです。罪を犯さずにはいられない未信者と何も変わっていないのなら、どうして私たちは罪と死の原理から解放されていると言えるのでしょうか?イエス様を信じているのに生活が何も変わっていないのなら、どこかがおかしいはずです。一般的な「宗教的なキリスト教」から見れば、「それはあなたの成長が幼いから」となるかもしれません。しかし、宗教的な律法の行いと信仰の成長は無関係であり、それは聖書的ではありません。

多くのクリスチャンの間で何が起こっているかと言えば、そもそも殆どのクリスチャンが正しい成長の方向へ進んでいないのです。最初の一歩で間違っています。罪の性質を持っていると思いながら信仰の成長を考えている時点でアウトです。そうではなく、罪に対して既にキリストと共に死んだという真理からクリスチャンはスタートするのです。

成長の為にあらゆる慈善を試みるという視点がアウトです。成長は自然とその様になるというプロセスであり、御言葉を信じ続けた結果なのです。内側が変わったら、その変化が外に出てくるようになるべきです。私たち人間は、外側の言動など目に見える物ばかりに意識を向けてしまうのですが、内側が変わらないのなら、その人自身は何も変わっていません。一時的な慈善パフォーマンスをしても、それは神に栄光を帰すものではない、はかない人の努力にしか過ぎないのです。

2016年7月9日土曜日

罪の性質 その1

「赦された罪人」 という表現を聞いた事がある人はいると思います。通常この言葉が意味するのは、クリスチャンは未信者と同じように罪人だけれども、イエス様を受け入れているので罪が赦されているというものです。クリスチャンでも罪を犯してしまう為に、この様な表現の間違いに気づかない事があるようですが、実はこれは聖書的ではありません。

まず第一に、

「イエス様の十字架の恵みによって全ての人の罪が赦されています。」


つまり、この地上で罪が赦されていない人はいないのです。十字架の御業によって赦された罪は信者の罪だけでなく、未信者を含む全世界の人の罪なのです。それともクリスチャンの罪だけが赦されているのでしょうか?もしそうだとすれば、クリスチャンがまだ未信者であった時には赦されていなくて、信じた時に赦されたのでしょうか?

人が神を信じた時に初めて人の罪が赦されたのではありません。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ書 5:8

全ての罪が赦されているという事は、アダムの罪、いわゆる原罪も含まれていて、それは十字架の御業によって取り除かれているのです。

自分たちが罪に対して何かしたからといって赦されるものではないのです。罪の告白をしたからとか、罪の悔い改めをしたから赦されたのではありません。恵みによって赦されているのです。「罪を悔い改めないと赦されない」という条件付きの恵みなら、それはもはや恵みではありません。十字架は既に完了した神の御業ですので、現在生きている人全ての罪は既に赦されているのです。

第二に、

「イエス様を信じた人は義人とされています。」


クリスチャンはイエス様の十字架を信じる事によって義人とされます。信仰によって人は義人となるのですから、主にある私たちはもはや罪人ではないのです。殆どのクリスチャンは自分を義人だと考えていません。何故なら、自分の犯してしまう罪に目を向けてばかりいるからです。確かに罪そのものは決して義ではありません。ノンクリスチャンとは違ってクリスチャンが罪を犯しても義人と認められるのは、イエス様の十字架の御業を信じているからです。それから、同じ罪を犯してしまうケースでもクリスチャンとノンクリスチャンとでは大きな違いがあります。

原罪が取り除かれたので、人は罪と死の法則から解放されています。律法はそれらを解放できす、むしろ人を罪に定めた為に死をもたらしました。ここで知っておくべき重要な事は原罪の影響以外に、あるものが原因となっていてクリスチャンは罪を犯しているという事実です。それは罪の影響と同じ働きを持っている「肉の思い」です。肉の思いとは、五感による物事の認識に基づいて傾倒してしまう考え方や見方です。パウロは肉の思いについてローマ書の7章と8章で詳しく説明しています。

未信者はこの肉の思いによってしか物事を見たり判断したりする事しかできません。信者の場合は選択肢がもう一つあります。キリストの心、或いは、御霊の思いによって聖書的な考え方で歩める特権を持っています。ただし、この特権を知らない間は未信者と変わらないような生活をするでしょう。クリスチャンが救われた後でも罪の性質はまだ残っていると間違って教えられている原因は、肉の思いと混同した為です。

クリスチャンでもその歩みが幼い時には、肉の思いでついうっかり行動してしまう事も頻繁にあるでしょう。しかし、信仰の成長と共にそれが変わっていきます。パウロもその成長の過程にいました。彼はまだ若い時には完全となる為に走り続けていましたが、晩年の頃(第2テモテを書いた頃)には走り終えたと言っています。

時々つまづく事や失敗があっても、それだからといって「クリスチャン失格」というレッテルを貼られる事はありません。世の人たちはクリスチャンの小さなミスも非難するかもしれません。サタンも責めます。私たちも自分を責めてしまう弱さを持っています。しかし、私たちの神様は憐み深く恵み豊かなお方なのです。

罪の性質 その2 へ続く