ヘブル的視点

歴史的文脈を取り入れる聖書解釈は、福音派で広く受け入れられている方法です。その一部のグループが「ユダヤ性」を強調したのが「ヘブル的視点」のルーツである可能性もあるでしょう。しかし、今日「ヘブル的視点」という言葉が連想させるのはむしろメシアニックジュー(プロテスタント的な信仰を持つユダヤ人クリスチャンで、ユダヤ人としてのアイデンティティーを過度に主張する)であり、「ヘブル的視点」は一つの聖書解釈方法という選択肢を超えて、彼らが「クリスチャンとしてのユダヤ教の正当性」を主張する入り口になりさがっています。

結論から言えば、「へブル的視点」はキリストのからだ(教会)に持ち込もうとしている「現代版割礼」を促すものであり、「非聖書的な聖書解釈」方法です。一見すると単なる解釈学からの観点による議論で終わりそうなのですが、解釈学から単独で「へブル的視点」が生まれたのではありません。その背景にはディスペンセーション主義も関係しています。とはいえ、アメリカでのディスペンセーション主義は「ユダヤ人と異邦人」の厳密な区別にこだわる考えよりも終末論のサポートが強いので、全てのディスペンセーション主義者が「へブル的視点」を主張しているわけでもありません。

「へブル的視点」のルーツを考えるのなら、ディスペンセーション主義を主張する福音派の一部のグループによる極端な考えが発端の最有力候補でしょう。その後にメシアニックジューたちが参加して現在に至っていると考えられます。「へブル的視点」がある程度神学的に受け入れられている状況が既にあるのなら、ユダヤ教がキリストのからだに入っていく事はたやすいでしょう。そのチャンスを掴んだサタンは、新しい形で「割礼」を持ち込む事に幾らか成功させたのです。

聖書の理解

「ヘブル文化を知らないと聖書の著者の意図を誤解する事になる」という主張は、正しいとも言えます。旧約時代のイスラエルの背景も基本的な部分は知っておくべきかもしれません。しかし、当時の歴史・文化を事細かく知らないとダメだとするのは、いかにもパリサイ人的な考えに過ぎず、そこから生じる「素人は手を出すな」という主張はまさに異邦人いじめそのものです。「ユダヤ人の伝承だから信用できる」というのは昔からサタンによってなされる策略の一つです。

「こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」マタイ 7:13

イエス様が地上に来られた時に、既にユダヤ教によって真理が分からなくなっていました。ですから、「ユダヤ人の伝承」に関するものはむしろ注意深く吟味される必要があるのです。

「新生」が全てではないのですが最低でもそこはカバーすると考えた場合、いわゆる「救い」に必要とする聖著知識の範囲の中に、「へブル的視点」は入っていないのは明らかです。多くの人はとても単純な救いの福音を聞いただけで「新生」しているのですから、特に「救い」と「へブル的視点」は関係がない事になります。実際に、「へブル的視点」による何かを言われていなくても、イエス様の十字架の愛に感動して救いに至った人たちはとても多いのです。

「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」ピリピ 3: 5-7

パウロほど「へブル的視点」を持っていた「ユダヤ人クリスチャン」はいなかった事でしょう。パウロはパリサイ人の中のパリサイ人と自分の事を言っていた様に、人一倍律法主義でした。旧約聖書に関しては誰にも負ける事がない程、知識を持っていたのです。考えてみて下さい。そのパウロでさえも、「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」と言ったのです。もし、パウロが「へブル的視点」の素晴らしさについて語ったのなら、全てのクリスチャンはそこに注意を払う必要があった事でしょう。しかし、そのパウロが、彼の人間として誇るべきものを皆捨てる事ができたのは、キリストの十字架による恵みが理解できたからです。その恵みによって「新生」があったのですから、もう古い律法に戻る必要はありません。私たちは霊によって新しく生まれ変わったのですが、考え方も全て新しいものになっていないと「新しい人」として歩めなくなるのです。

ヘブル語と新約聖書

「ヘブル的視点」から見た新約聖書についてとやかく言う人たちも、勝手な想像によって弟子たちが書いたものは元々はヘブル語だったとして、「古い物は良い」という考えに固執しています。一部の人たちはその様な考えを持っています。旧約聖書ならともかく、新約聖書もヘブル語で読まないと完全には理解できないとするのは、もはやヘブル語の偶像礼拝者といっても過言ではありません。ユダヤ人が自分たちの救い主を拒んだという事でパウロは異邦人に福音を宣べ伝える事になったのですが、彼らに福音を伝える為に書いた手紙は異邦人にとって読めるようにギリシャ語を使ったのはごく自然であって、「本当は使徒たちはヘブル語で書いていた」という事はありえません。そもそも、ヘブル語で書けるほど使徒たちは教育を受けていませんでした。むしろ神様が「ユダヤ人の誇り」を打ち壊して異邦人の言葉で福音を伝える事に決めた方法を認め、謙遜にならなくてはならないのです。

「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」ガラテヤ 2:14

もし、新約聖書でさえギリシャ語での理解ではダメだというのなら、それは「へブル的視点」を強いる事になり、それは異邦人にユダヤ人の生活を強いる事になるのです。何故なら、主は異邦人が分かる言葉でパウロを通して福音の奥義を説き明かしているのであって、それを不十分だとしてわざわざ「へブル的視点」から福音を理解する様にするのなら、結局の所、「ユダヤ人でないと真理を理解できない」という主張になり、異邦人にヘブル語を強いる事と同じです。ところが、異邦人が先に真理を見出す事になったのは既に事実なので、いまさら「へブル的視点」を持ってきてもユダヤ教を学ぶ事以外には役に立たないのです。もちろん、ユダヤ教を学ぶという事自体が、既にサタンの惑わしを学ぶ事に他なりません。実際、ユダヤ教ほどサタンの影響の大きい宗教はないでしょう。幾らかの真理を偽りと混ぜ合わせるのはサタンの昔ながらの得意技です。

原語からの理解

聖書が書かれた時代の背景や使われている原語を考慮する事は、聖書の理解に必須ではあります。しかし、問題はそれを何処までこだわるかという部分です。そもそも七十人訳を読んでいた使徒たちはヘブル語よりも分かりやすいギリシャ語で旧約聖書を親しんでいたのであり、今更ユダヤ人的なヘブル語の主張をしても、イエス様や使徒たちがそれを選んで引用していたのなら、それをもっとリスペクトしても良いはずです。面白い事に、へブル人への手紙が七十人訳からの引用が多いのは、ある意味、ユダヤ人への痛烈な皮肉でもあるでしょう。ユダヤ人こそが本来は知っているべき御言葉の奥義を異邦人の言語でパウロは論破しているのですから、それはまさに神の知恵による業なのです。

もちろん、七十人訳聖書全てにおいて完全であるという主張も極端ですし、レニングラードが完全な写本であるという主張もできません。大事なのは「欠点があるから全て間違い」ではなく、正確な部分だけを取り入れるという柔軟な考えなのです。もし、「へブル的視点」が単純にヘブル語だけをツールとして旧約聖書を読む事に徹しているのであれば、それはとても役に立つ事でしょう。「イスラエルの祭りを学びましょう」という、一見すると無難な様ですが、それを実際に行う事でユダヤ教を持ち込もうとするからアウトなのです。基本的な歴史的背景や文化は「参考になる」という事で取り扱えば良いと思います。私個人としては、それらが直接的に解釈に関わるならあえて使わないというスタンスでいます。例え、ギリシャ教父が書いた文献でもです。何故なら、神様が御言葉の重要な箇所を理解する為にイスラエルの歴史や文化の知識を必須としている事はあり得ないからです。

もし、ヘブル語を良く知っていたパウロでさえ「へブル的視点」から旧約聖書を学ぶように言っていないのなら、私たちはそうする必要はありません。旧約聖書でさえも、律法全体と預言者がイエス様の新しい戒めに掛かっているのなら、新しい契約がより重要である事は明白です。昔の英雄伝を壊れたレコードのようにリピートする事ばかり考えている「へブル的視点」の問題は、自身が盲目である事に気付いていないのはもちろんのこと、キリストによる新しい視点が神の奥義である事を知らないのです。「特別な知識を所有している人たちにしか真理は理解できない」とするあらゆる考え(空想話)を私たちは徹底的に排除するべきでしょう。

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