神聖な牛

Sacred Cows という英語のイディオムは、公然の抗議などを恐れて、修正されたり批判されない様なものを作り上げる事を指す時によく使われます。対象は人だけでなく信念体系などの抽象的なものも含みます。この比喩的な「神聖な牛」は、それに対する疑問や批判から免れられる為に、それが絶対的な存在である事を主張します。

教会の歴史の中であたかも当たり前の真理として教えられてきたものが、実は新しい契約の下での教えではなかった、と解説する事をしばしば英語で「killing the sacred cows」と表現されます。「神聖な牛」はいわゆる偶像礼拝の象徴であり、その牛を殺してしまう事は主に律法主義の古い考えを排除する意味があります。最近ではアンドリュー・ウォーマックがその様な方法で聖書を教えているのが良く知られていますが、このスタイルの聖書の教えはもっと前から存在していて、「御言葉の宣言」の教えで有名なチャールズ・キャプスも80年代に出版した本のタイトルに sacred cows を用いています。

多くの間違った教えを聖書的に解説していく事は、真理へ導く最も効果的な方法の一つでしょう。長年信じてきた教えを手放すのはある種の勇気が必要ですが、それらが聖書的に曖昧な教えである事を素直に認めた時、より明確な真理を追究する姿勢が生まれます。このブログでは既に多くの「人の伝統的な教え」について指摘してきましたが、それらを分類別にして見ていきたいと思います。

尚、ここで言う「人の伝統的な教え」とは、主に神学的な理論、教団が固執する教理(教え)や一部のグループに特有なドグマ(個人的な偏見や意見)などを含みます。しかし、ドグマなどの考えは多くの教派に支持されていない事を根拠に、主に教理となっているものを「神聖な牛」とします。

御霊の導きに関するもの

  • 御霊の声
  • 油注ぎ
  • 神の臨在
  • 御霊の賜物

曖昧な教えの中でも癖のあるものです。主にカリスマ派・聖霊派に特有なドグマとして知られています。これらは曖昧なものとして理解されている為に乱用されやすいです。数年後に「あれは聖霊ではなかった」と認めた人たちでも、彼らが教えていたものはそのまま存続しているのがたくさんあります。カリスマ派の人たちは聖霊の働きをミステリアスで神秘的なものとしてもはや偶像礼拝しています。必要以上に多くの事柄を「霊的」に解釈している為、全く深く掘る必要のない聖書の箇所を勝手に掘り出しては「深い教え」としてみなし、それを聖霊からの啓示だと勘違いしています。これらの「神聖な牛」を大胆に解説する時には、抵抗を感じるかもしれませんが、ちょうど今では多くの福音派のクリスチャンが御霊の働きを受け入れ始めたように、修正された教えが当り前のものとして受け入れられる時が来ます。

神の主権に関するもの

  • 神のみこころ
  • 神の計画・召し
  • 神からの試練

「神のみこころは分からない」と定義されている為に、多くの関連事項が曖昧になっています。こちらはカルヴァン主義の教理とも関わるものです。従って、福音派に属する多くの教派の中に同様な考えが存在しています。実際に、ウェストミンスター信仰告白を基礎に置いている福音派の教団はたくさんあります。神の主権に関する教えはカリスマ派・聖霊派でも曖昧に理解されている為に、彼らの教え、考えや発言の中で非聖書的なものを見つける事ができます。

定義に関わるもの

  • 油注ぎ
  • 御霊の賜物
  • 教会
  • 祈り
  • バプテスマ
  • 悔い改め
  • 信仰
  • ロゴス・レーマ

ギリシャ語による定義を明確にするだけで多くの誤解が取り除けられ、直ぐに聖書が何を言っているかが分かるようになるものばかりです。その定義が間違っている為に間違った考え方が広まってしまい、その間違った考えに基づいて教理やドグマに間接的に発展したケースもあります。翻訳された聖書の幾つかの単語がきちんと訳されていない為に、そこから多くの誤解を招いているものがあります。単語や語源を見るだけでも明確に分かるものが多く、教理の問題でありがちな「解釈の選択」に関わるような複雑さはありません。

その他

  • 癒し(インナーヒーリング、パウロの肉体のとげ、その他)
  • 罪の赦し
  • 贖い
  • 水・火のバプテスマ
  • 聖霊のバプテスマと異言
  • 聖化
  • 終焉説
  • ディスペンセーション
  • 先祖・家系の呪い
  • 献金
  • 五職・五役者
  • TULIP原理
  • 繁栄の神学
  • 霊の戦い

教理として間違って教えられているものはクリスチャンを強く束縛します。ドグマ的なものは大きな問題にならないものから、混乱を招くものまで様々ですが、教理となってしまっているものは信者の信仰の土台になっている部分が多いために、多くのクリスチャンの考えの中で要塞になっている事があります。一度要塞として受け入れてしまったものは、考えを一新させるプロセスに時間が掛かるでしょう。ちょうど一大決心をして福音派からカリスマ派に移るような感じで、その人の中で大きな革命をもたらす必要があります。「モヤモヤするけど手放すのは怖いから信じる」という考えや誰かのメッセージに信仰を置く事などを止めて、徹底的に聖書から直接調べてみる事をお勧めします。

「神聖な牛」になってしまっている教理やドグマを聖書を用いて「解体」するのは、弁証という名目で他のクリスチャンを裁く事とは違います。その目的の為に真理を追究するのは単なる肉の思いです。私たちが保つべき態度は、あくまでも冷静に「聖書的な教えか否か」を考えるだけです。そうでないと、いつまでたっても「霊的」という語に騙されて、実は聖書とは関係のない曖昧でミステリアスになっているだけのものを、吟味もなく受け入れてしまう事になるでしょう。冷静に見る事ができれば教えの全てを否定してしまうなどの極端な事もせずに、謙虚な態度で「良い部分を良いものとして受け取る」事もできるのです。冷静さを失った間違った見方は必ず間違った結論を出す事になり、その間違った結論がまた別の間違った教理を生んでしまうのです。

以上見てきた教えやドグマは、大きく修正されるべきものばかりです。中には完全に捨て去るべきものもあります。幾つかは混乱を多少招くだけで大きな害にはならないものがあります。これらの事についてはまだ多くの人が知っているわけではありません。何が白で黒かをはっきりと聖書を使って解説していても、それを中途半端に見るなら「その他大勢の中の解釈の一つ」として目に映る事でしょう。しかし、何を基準にして聖書を理解するかを知れば、いかに真理が単純であって複雑な曖昧な神学とは全く違うかが分かります。それに気づくには恵みの下でイエス様が何を教え、聖霊が使徒たちを通してどの様な奥義を明かしたかを知る必要があります。また、恵みと律法を混ぜないで見る事も必須です。

単刀直入に言うと、全ての答えはキリストにあります。私たちがイエス様を最優先にさせないと、いつでも事を複雑にしてしまうでしょう。それは、癒し主が誰かも分からずに癒しを求めるようなものです。それは、油注ぎや臨在を求めながら油注がれた方が私たちの中にいる事に気付かない事です。それは、イエス様がどの様なお方であるかをよく知らないから別の何かを偶像礼拝している事なのです。これでは多くのクリスチャンにとって、神のみこころが分からないのも無理はありません。実際に、神のみこころを求める事がもはや偶像礼拝化されているのが現状です。サタンはあからさまなもので私たちを攻撃しません。私たちがあたかも神様からのものと考えている教えを利用して、私たちを混乱させるのです。

時代的には、これらの間違った教えが正しく修正されて、聖書的な教えが受け入れられるのは、日本では今から五年くらい先になるかもしれません。しかし、アメリカではその動きが既に始まっています。もちろん、これは過去に見てきたような「霊的運動」などといった一時的なトレンドなどではありません。聖霊による新しい啓示による聖書の「解き明かし」でもありません。聖霊は昔から同じ真理を示しているのですが、それに私たちが気づいていなかっただけの話しなのです。

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