2020年2月24日月曜日

マインドコントロール

マインド(mind)は英語で「知性・思考」の事ですが、いわゆるマインドコントロールは、一般的にはカルト集団などによる「洗脳」と言う語でよく知られています。「洗脳」という意味でのマインドコントロールは、結果的に他の人に迷惑を掛けたり破壊的な行動を促すものなので、全く良い意味を持っていません。何故なら、彼らは嘘の教えで人のマインドをコントロールしようと試みるからです。しかし、彼らのその様な試みも、実際には不可能な事です。人が自ら進んで悪霊に知性の部分を完全に明け渡す人事はとても稀で、悪霊でも人のマインドをコントロールするという事は基本的にできません。完全に悪霊に憑りつかれている人なら、食事やコミュニケーションもとれないくらい重度な影響を受けているので、通常は生きてはいられません。

自由意志

知性と意思は深く関わっています。意思は魂の領域だと一般的に言われますが、ここでは、意思を知性の領域だけに限定するのを避けたいと思います。何故なら、まず、聖書がその様にはっきりと区別していないという事、そして、聖書では心で考えたり、決めたり、信じたりする事も可能だと書いてあるからです。従って、意思は魂と心の領域にも及ぶのです。

さて、人の自由意志はその本人が働かせる事ができます。第三者が外から何らかの影響を与える事は可能ですが、完全にはコントロールする事はできません。その影響の度合いが強く、コントロールされているという定義の「マインドコントロール=洗脳」も、実際にはその人の自由意志が奪われている訳ではありません。つまり、マインドをコントロールできるのは、私たち一人一人なのです。

私たちの自由意志は自由です。この単純な事がしっかりと理解できれば、あなた自身で多くの問題を解決する事が可能です。何故なら、他人の言葉や影響に依存する必要がないからです。自分で自由意志を働かせてキリストの教えを目指して道を切り開いていけるのなら、勝利もすぐ目の前だという事が分かるでしょうか?周りの人の影響があったとしても彼らの言う事が聖書的でないなら、耳を傾けなければ良いのです。自分の自由意志はあなたがコントロールできるのです。否定的になって自分を責める必要はありません。その様な思いはサタンから来るものだという事を知り、更に、自分で良い考えを入れて行くと決断できます。

「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたとともにない。」箴言 23:6-7

物惜しみする人はケチです。彼のうちで考えている事はケチくさい事ばかりなので、たとえ彼が「食え、飲め」と言っても、その心はあなたとともにありません。それが、ここの箴言で書かれている内容です。つまり、人は心の内で考えている通りだという事です。

知性においても、心においても考える事は可能です。いずれにせよ、人は考えた通りに行動するのです。ですから、人の言動はその人の実である事があります。その人の内から出てくるものが実として表される事はごく自然だからです。もちろん、嘘を言っていたり、見せかけの行動を取っているケースもあるので、じっくり見極める必要も時にはあるでしょう。そうした偽善の言動も長くは続きません。人は、必ず本性や本音を表します。従って、基本的に人の考えはその人の行動にまで影響を与えるので、うちにある考えが外に出てくるのです。

そうなると、例えば、あなたが勝利者として歩みたいのなら、あなたは勝利について常に考えている事が前提となります。敗北ばかりを考えていて、どうして勝利者としては歩む事ができるでしょうか?キリストにあっての勝利について思い巡らすのなら、あなたは自然と敗北やそれに関係する否定的な考え方をしなくなります。一日中勝利について考えるのなら、あなたはいずれその瞑想を現実化する事になるでしょう。

思考の一新

人の思考を変えるのが厄介なケースがあります。それは、その人が悪習慣的に長い間考えて来たものです。外からの影響よりも強いのは、その人自身がこだわっている間違った考え方です。否定的・非聖書的な考えをするのが癖になっていると、本人がそれを止めること自体、時間が掛かるでしょう。それと当時に、聖書的な正しい考えに修正するのは容易ではありません。「要塞」となってしまった自身の考えや信念は手ごわいかもしれませんが、それでも私たちの戦いの武器(御霊の剣)によって打ち砕く事はできます。

「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」第二コリント 10:4

2017年の訳では「神のために」となっていますが、原文では「ために」の部分はありません。これは英語訳を参照にして前置詞を訳したものだと推測できますが、前置詞を含んで訳そうとせずに、力、神、壊す、要塞、というギリシャ語の語順から考えてもだいたい理解できるでしょう。私たちの戦いの武器が、人間的なものではない、肉的なものではない、という事から霊的であるというヒントはあるわけで、それならその武器は神の力と考えても差し支えありません。その神の力は要塞を破壊するのです。

要塞が無いケースの思いの一新であるなら、その戦いは難しくないでしょう。いずれにしても、思考の一新において必要なのは御言葉である事には違いありません。私たちの肉に属しやすい考えは制御される必要があります。聖められる必要があります。この部分は私たちの新生した後も殆ど変わっていません。新しく創造された霊によって、新生時に幾らかは影響を受けたのなら、ある部分の思いは変わる事もありますが、殆どの部分はまだ古い考えのままです。従って、私たちはそれを修正していく必要があります。このプロセスが聖化ですが、私たちは新生の時に「聖い者」とされているのですから、神の目には聖いのです。しかし、私たちの知性は未だに肉に属している部分もあるので、それを一新させなければいけません。これがクリスチャンにとっての成長(聖化)です。

一般的に「霊的成長」と呼ばれていますが、「霊が成長する」という事ではなく、霊的な意味での「成長」という事であって、「肉体の成長」とは違う事を意味しています。何故なら、霊が成長する事はなく、私たちの新しく創造された霊は完全だからです。それで、「肉体の成長」と区別する為に「霊的成長」と表現されると覚えておけば良いでしょう。

この知性の一新という霊的成長によって、私たちは変わっていきます。キリストにあって聖なる者とされた私たちの霊が、外に表れるには、知性の一新が必要です。 この成長の道を自ら進んで歩むのも私たちの自由意志に掛かっています。しかし、自由意志だからといっても、常に5割の確率で「善悪のどちらかに転がる」という事ではありません。何故なら、マインドをコントロールしているのは私たちであって、私たちの意思とは関係なく偶然に罪を犯す事はないからです。 私たちの自由意志は神様によって創造されたものなので、私たちが本来のアイデンティティーを知るとき、その与えられた自由意志がどの様にして機能するべきかが分るでしょう。

2020年2月14日金曜日

罪の赦しと癒し

「罪の赦し」と「神の癒し」は同じ原理からです。その原理とは、キリストによる十字架の御業による「救い」という原理です。ギリシャ語の救い(sozo)はあらゆるものからの救いであって、罪だけに限定されたものではありません。実際に、この単語が「病気からの救い」を意味する「癒し」という訳になっています。罪も病気も死をもたらします。しかし、命の御霊の原理によって罪と死の原理から解放されたクリスチャンは、罪からも病気からも(死からも)解放されているという真理を握らなければなりません。

世の罪を取り除く神の子羊として来られたイエス様の最大のミッションは十字架による贖いでした。そして、自らの犠牲によって代価を払った事により、私たちの為に罪と病を取り除いて下さいました。

「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。」マルコ 2:9-11

罪と死の原理を取り除く力を持つイエス様は、人の罪を赦す事も人の病を癒す事も、どちらもたやすい事でした。しかし、人はどちらも難しいと考えます。当時のパリサイ人は神しか人の罪を赦す事はできない、と考えていました。それは確かな事です。同時に、病気の人はその人の罪が原因とも考えていました。実際に、罪が原因になっているケースが多いのも確かです。しかし、病気が治るのなら、それは人の力でもありませんし、中風の人が癒されたという事は、同時にその人の罪も赦されたから、という事になるのです。つまり、パリサイ人たちが中風の人の癒しを見たのなら、
イエス様を神とみなす以外あり得ないのでした。もちろん、彼らはそれでも頑固になって、信じようとしませんでした。

罪の赦しと悔い改め

多くのクリスチャンは罪の赦しに関して言えば、とにかく神に謝れば、反省すれば、悔い改めれば、赦されると考えています。例外はあり得ないと考えます。ところで、「悔い改める」はギリシャ語では「考えを変える」という意味であって「反省する」ではありません。反省は悪くないですし、良心が責める時には、私たちは自然と反省するようになります。しかし、反省する事とイエス様が十字架で私たちの罪の為に代価を払って、全ての罪を取り除いて下さったと信じる事は、全く別です。未信者でも反省します。しかし、未信者はイエス様の十字架の罪の赦しを否定します。反省する事は必要です。しかし、それと聖書の真理を信じる事は別です。自己の反省によって赦される事ではなく、イエス様を信じる事によって赦されるのです。自己反省は自己の義を求める事に近く、イエス様を見る事は、信仰につながります。

プロテスタント全体的に、罪の赦しの教理はだいたい一致しています。すなわち、信仰によって罪が取り除かれたという恵みを頂くという教えの事です。誰も、「ある人の罪は例外」、「ある種の罪は例外」と言いません。いわゆる「聖霊に対する冒涜」「赦されない罪」はイエス様を拒む罪だけであって、人の犯す罪は全て赦されます。ところが、神の癒しに関すると、多くのクリスチャンはあらゆる例外を設けて「癒されない理由」を言います。多くの人は「罪を犯しているから癒されない」という考えを持っています。それならば、どうしてイエス様は多くの癒しができたのでしょうか?彼らは皆イエス様が十字架に掛かる前に癒されたのであって、イエス様の血による罪の赦しの前、打ち傷によって癒されるという預言の成就の前です。つまり、十字架以前には誰も新生する事は不可能であり、罪の赦しも十字架以前では、順序的に言えば、あり得ないのです。

しかし、預言の成就に先立つものがあります。それは、神の御心です。預言は神様の奥義を啓示するものであって、それを預言者たちを通して神様は明らかにし、後の時代にそれらが成就される事を予め語った(預言の意味)のです。従って、神様はずっと前から贖いについての計画を持っていました。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」エペソ 1:4

「世界の基が据えられる前」とはいつの事でしょうか?

「あなたは はるか昔に地の基を据えられました。 天も あなたの御手のわざです。」詩篇 102:25

詩篇によると、「はるか昔」という事です。アダムとエバの創造以前である可能性が高いです。そうすると、いわゆる天地創造の初期の頃だった可能性が高いわけで、その時には既にキリストの十字架の贖いを計画していた事になります。

病の癒し

罪の赦しに関する神の御心がそれ程「はるか昔」にあったから、たとえ時代であっても、まだキリストが十字架で血を流される前でも、それを信じるのなら罪は赦されたのです。義人と認められたアブラハムは、信仰によって罪が赦されて義と認められたのです。さて、ここで問題となるのが「病の癒し」です。神様は病の癒しに関しても「はるか昔」に考えておられたのでしょうか?私の意見では、病の癒しも最初から神様の御心だったと思います。

「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト 15:26

ここで初めて神様は「癒し主」として自身についての奥義を明らかにしました。ご自身についての奥義なので、神の性質の奥義という事です。神様の性質は変わりません。ですから、モーセの時代に初めてご自身が「癒す神」だと明らかにしたとしても、神様の性質は最初から同じです。

神学的な見方

一般的な教会では「神様が罪を赦すのはやさしい」という教えですが、病の癒しは多くの条件などをクリアしないとダメだとします。条件を満たしても、「神の御心なら」癒されるとします。もし、私たちがこの様に考えるのなら、私たちは現代版のパリサイ人かもしれません。しかし、罪を赦すのも、病を癒すのも、神にとってはどちらもやさしいのです。どちらかを難しくするのは人間であって、それは肉の思いから来る考えです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」詩篇 103: 1-5

「主の良くして下さった事を忘れるな」とダビデは言って、その後すぐに「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、」と言っています。モーセの律法の時代にダビデもいましたが、何故彼は、神が全ての咎を赦す事、全ての病を癒す事を知っていたのでしょう?彼には確かに啓示が与えられていました。しかし、今日のクリスチャンにはもっとたくさんの啓示と奥義が与えられています。私たちもダビデと同じ様に、「全ての咎を赦し、全ての病を癒す神」を信じなければいけません。イエス様はどちらだけかを取り扱ったのではなく、どちらも十字架で取り除いたのです。私たちはイエス様がご自身の命をお与えになった事を信じなければいけません。キリストが私たちの為に命を与えた事を信じるのなら、癒しはその中に含まれるという事です。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ 8:32 

私たちはイエス様と一緒に全てのものを持っています。天にある全ての霊的祝福はキリストにあり、キリストは私たちの中にいます。癒しという祝福も含まれます。しかし、永遠の命でも癒しでも、その恵みを現実化させるには私たちが信じなければなりません。