2019年5月27日月曜日

リーダーの役割(預言者)

預言者

一般的に知られている定義

よく言われるのが、旧約時代の預言者(主に seer 見る人)と新約時代の預言者は違うという主張です。しかしその主張とは裏腹に、今日の教会の預言者は旧約時代の預言者がモデルとなっています。これが今日の預言者に関するあらゆる誤解の種となっています。新しい契約の下にいる私たちが古い契約の視点で真理を考えるようになると必ず大きな間違いを生みます。

もう一つよく言われるのが、預言者というリーダー的な役割はいわゆる「預言の賜物」による奉仕(個人的預言)とは違い、教会の信者全体に対して預言をするというものです。預言者の役割はリーダーに限るので、「預言の賜物」を通して奉仕する働きとは違いがあるでしょう。しかし、いわゆる五職の預言的な役割については、それがどの様なものか使徒たちの書いた手紙の中でも十分な説明はありません。実は、説明をあえてする必要もないというのがパウロの理解なのです。この様な理解とは逆に、現代の五職・五役者は一部のカリスマ派では偶像礼拝化されているのですが、それも後数年くらいで終わります。

聖書による定義

προφήτης(prophētēs)は「予め言う者」が直訳です。そこから考えると、「預言」が未来について言及している事が分かります。しかし、パウロによれば、預言は人の徳を高め、勧めをなし、慰めを与える目的がある事を考慮する必要があります。従って、預言の内容は未来についてですが、それを伝える事によって人の徳を高め、勧めをなし、慰めを与える目的を果たします。それが預言者の役割です。この役割は使徒と同じく呼ばれた者(教会)の土台を建てる役割があります(エペソ 2:20)。何故なら、預言の働きが教会の徳を高めるという目的があるからで、預言の役割を果たすリーダは使徒と同様に全体が見えている必要があります。注意したいのは近年に見られる「個人預言」の事ではなく、キリストの体に対する預言が土台に関するものです。従って、「個人預言」をする人がリーダー的役割としての預言者ではありません。

正しい理解

まず、旧約聖書に出てくる預言者の様に神と人の間に立つ者は現在はいません。恵みの下では信者全員に御霊が豊かに降り注がれているので、一人一人の信者が主と一つ霊になっています。神様は預言者を通して語るケース(いわゆる個人預言など)もありますが、直接その人に語る事もできるわけで、新しい契約の下ではそれがむしろ基本(或いは基本となっているべき)です。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ヘブル人への手紙 1: 1-2

従って、新しい契約の下で預言の役割を果たすリーダは、あくまでもキリストのからだ(呼ばれた者たち)における役割に限定しているのであって旧約時代に見られるような「神と人との仲介者」ではありません。神様が預言者によって新しい事を最初に示されるという考えも旧約時代に限定です。全ての信者は偉大な牧者であるイエス・キリストの声を聞いて従う事が可能です。

流れ

預言者の働きに従事している人は近年特に増えていますが、彼らによる多くのグレーゾーンの教えが一般化されつつあり、それによって御霊の導きに関する考えや解釈が自由気ままになっています。こうした傾向は、預言の役割を必要以上に複雑で多種多様なものにしています。預言のミニストリーの主な流れとしては、80年代辺りからピーターワグナーとジョンウィンバーが「カンザスシティの預言者たち」と関わり始めたのがきっかけです。しかし、その後の彼らとピーターワグナーの関係は必ずしも安定的に続いたわけではなく、それぞれが比較的独立した形で今の預言のミニストリーが確立していきました。

預言の働きは聖書的ですが、彼らの定義による預言の働きは全てが真理ではありません。その証拠に、彼らのインパクトは昔よりもだいぶ小さくなっています。真理に基づいたミニストリーは衰える事がないからです。フォーチュンクッキーのような曖昧な預言(しかも殆どが個人預言)が多いのは、私たちがあらゆる面で幼いからですが、真理が明らかになるにつれて力強い預言の働きを見るようになるでしょう。しかし、それぐらい今日の預言のミニストリーはインパクトの弱いものです。幸いなことに、彼らの預言に肉の思いが混ざっている事に気付き始めているクリスチャンは増えています。現代の多くの「預言者」自身も実は肉的な思いが入っている事を知っているのです。ただ、誰も指摘しないのでそれを逆手にとって多くの肉的な事をやってしまいました。彼らが聞いている声が聖霊ではないと大胆に言うべき時代にもう入っています。

リアクション

さて、普段あまり御霊によって歩んでいない人にとっては、預言のインパクトは大きく見えてしまうのですが、普段から御霊の導きが分かる人は特に預言を必要としていません。何故なら、その様な人は例え誰かから預言を受けても、その預言の内容を既に知っているからです。例えば、アガボの預言(この預言は実は神からの直接的な言葉・預言ではない)の指示通りにパウロがしなかったのは、彼が既にそれを知っていたからです。アガボは預言者としての役割について十分な理解を持っていませんでした。実際、彼はパウロに対する「余計な指示(結果的に)」をしました。それを無視したパウロのリアクションは、現代の信者が預言に対する示す典型的な態度とはだいぶ異なります。

預言は一時的なものでありそれ自体は教理にはなれません。御言葉よりも預言が重視されやすいのは私たちの幼い考え、ロゴスとレーマの誤解、聖霊の導きの誤解などが原因になっています。真理のことばは永遠ですが、預言は限定されています。成就とともにその役目を終える時が来るからです。新約聖書による吟味というフィルターが必要な以上、ロゴスは預言よりも重大な役割があるのです。誰かが「聖霊が語った」と主張しても動じないくらい御言葉に立つべきです。「霊の声」から始まるのはカルトの特徴です。概ね「聖霊の声」に敏感なほど言動が不安定なのが「現代の預言者」の特徴です。何故なら、今のところ9割以上の信者が正しい御国の福音をまだ知らない幼子だからです。私たちは預言の働きや預言のミニストリーに関して、注意深く取り扱わなければいけない時代にいます。

課題

今日の預言者がもっと頻繁にするべき事は異言の解き明かしでしょう。預言はしばしば見られても、異言の解き明かしが見られないのは、その認識が足りないからです。パウロも教えている様に、預言の目的で誰かが異言を語る時にはそれを解き明かしする人を確認してから異言を話すべきであり、また、誰も解き明かしする人がいなければ、その人は異言を語るべきではありません。しかし、ある人が、他の誰かが異言の解き明かしをする事を予め期待していて異言を話したのに、解き明かしのフォローアップがない場合、それを解き明かすのは預言者の仕事だと私は思います。気まずい沈黙を放っておいて、予定されているプログラムに沿って次の儀式をするという所詮人間の肉の思いによって作らた組織でしかない教会は、単なる「教会パフォーマンス」だけをしています。そういったものはもう十分でしょう。私たちはもっと大人になる必要があります。

もう一度言いますが、使徒行伝を見ても預言者が預言的な働きをした事以外は特に何も記されていません。ですから、それ以外の事を預言者の働きの定義として加えるのは新約聖書の教えではありません。従って、預言者の役割で重要なのは、もっぱら神様から与えられた言葉を正確に無添加で伝えるという事です。例えば、正確に預言を語る人と知られていたウィリアム・ブランハムさえも後に大きな間違いを犯しました。彼以来、正確な預言をする人はまだいないとされています。ちょうど彼がデタラメな教えを教え始めてカルト的になったように、新約聖書の教えと預言をバランスよく理解している預言者はあまりいません。現在の多くの預言者に共通する問題は、彼らが必要以上に旧約聖書、特に預言書にこだっている事、律法的な教えを旧約聖書から引用して恵みと混ぜてしまっている事、幼い上に霊の声を吟味できていない為に、預言がフォーチュンクッキーのように曖昧なものである事です。

「預言者たちの霊は預言者たちに服従する」とパウロが言うように、多くの場合、預言をする人の判断によって預言が取り扱われます。この事から、預言の内容が詳細で的確である程、その人がより神様から聞いているという事が分かります。しかし、私たちが霊的に幼かった頃は、預言そのものが「神様の声」と勘違していた為に、預言の吟味がおろそかになったのです。また、多くの預言者が聖書の理解に欠けている場合はより肉的な預言になります。預言者の預言が彼らの聖書の理解や信仰の範囲を超える事は殆どありません。ですから、預言者の預言そのものが彼らの霊的成長を表します。

そういうわけで、預言の吟味は教会(呼ばれた者たち)でもっと積極的にされる必要があるでしょう。預言者にふさわしい人かどうかを判断する事は難しくありません。その預言のクオリティー(的確性)とその預言が良い影響を与えたかを見れば良いのです。預言を頻繁にする人が預言者の役割にふさわしい人なのではなく、その預言自体が実際に良い結果を表すかどうかが重要です。ですから、「曖昧なもの」は基本的に「曖昧な結果」しかもたらしません。

最後に、預言者の働きをする人の特徴だと思われるのは、知恵・知識の言葉、預言、異言の解き明かしをよくする人で、単純に預言に関わる役割をこなす人です。何故なら、コイネーギリシャ語によれば、προφήτης(prophētēs)は「予め言う者」という意味だからです。この語も新約聖書の時代に生まれた言葉ではなく、既に当時の誰もが理解できた言葉であって、「宗教的な用語」としてみる必要はありません。人間的な、肉の思いで作らた組織に過ぎない「現代の教会」による「預言者の定義」は、古い契約から見た解釈になっており、その見方は「新しい人」として私たちが見る視点ではありません。

2019年5月14日火曜日

リーダーの役割(使徒)

使徒と預言者は現在最も誤解されている役割(役割であってタイトルではない)で、その誤解は教会に大きな悪影響を与えました。多くのカリスマ派などで当り前の様に理解されている使徒と預言者についての定義はやや極端になっています。

誰がどのリーダーの役割にふさわしいかという判断は、その結果を見ずに何かを言う事はできません。リーダーの召しについて言えば、神様の絶対的な選びオンリー(これは古い契約の視点)ではなく、神様の子供たちの自由意志も働いている事も考慮する必要があります。何故なら、新しい契約の下では、父なる神様は私たちがキリストに似た者として歩む事を望んでおり、父なる神様の御心は神様の子供たちの内に働くからです。主の御心は本来私たちの内に自然に働くのですが、それが可能になる為には私たちが「新しい人」として歩む必要があります。肉の思いによる自称使徒・自称預言者とは違い、私たちの内にいる新しい霊は父なる神様の御心を知っています。今でも、ある人は使徒の働き、ある人は預言者の働きをしています。しかし、私たちはまだ安定して御霊の思いによって歩んではいないので、そうしたリーダーとしての良い模範を示す為にはまだ時間が必要です。

使徒の定義

一般的に知られている定義

ジェームズ・ゴルによれば、使徒は「霊的な権威、人格、賜物と能力を持つ者であり、彼らはキリストによって呼び出され、キリストによって送られ、特に、地方の教会を創設し監督する事を通して、神の国の真理と秩序において人々を確立する者」としています。

*Jim Goll, Kneeling on the Promises, (Grand Rapids: Chosen Books, 1999) p. 301

この種の定義に同意している人はピーターワグナーなどによる影響(新使徒的改革、使徒と預言者の回復運動)が原因です。この定義は飛躍しています。ジェームズ・ゴルは「霊的な権威、人格、賜物と能力」を「使徒の定義」に入れたのですが、その様な定義はもっと説明を加えて明確にしないと誰かがすぐに「霊的エリート」の主張をしてくるわけで、そうした誤解を招くような定義は避ける方が無難でしょう。


この場合、「霊的な権威」の明確な説明がないと混乱と権威の乱用が起きます。また、「人格、賜物と能力」は使徒の役割に従事する人たちに限定されていないので、これらを使徒の定義として限定するのは誤解を招きやすいと思います。今日、多くの人たちが理解している使徒の定義はピーター・ワグナーや後の雨運動からの教えの影響ばかりで、概ね飛躍されて理解されているのが一般的です。どちらかと言えば新約聖書的ではありません。それが理由に、使徒が一番上のポジションにいて最も重要だと考えている人は大勢います。

聖書による定義

「使徒」のギリシャ語は、αποστολος(apo-stolos)で「送られた者」という意味です。これだけです。これに色々とくっつけて「使徒の定義」としてしまったのが、あらゆる誤解の原因になっています。ギリシャ語から見れば分かるようにこの語は特別な用語ではありません。最初から宗教的な言葉ではなく「送られた者」という意味の普通の語です。使徒たちの活躍した時代に作られた神学用語ではなく、コイネー(共通)ギリシャ語として一般的に既に使われていた語です。しかし、「送られた者」の語からは「使徒の役割」をする人たちが具体的に何をするかまでは分かりません。この先は新約聖書を読む必要があります。

彼らがイエス様によって使徒と呼ばれた理由は何でしょうか?それは、イエス様が彼らを「送って」御国の福音を伝える為です。実際に、彼らは御国の福音の働きをした最初の人たちであり、多くの人を導いた人たちでした。そして、使徒の働きは預言者の働きと同様に「呼ばれた者(教会)」土台に関するものです(エペソ 2:20 )。具体的には真理の教えに関する事であり、使徒たちが明らかにした福音の奥義の事を指します。キリストの体がどう機能するべきかは、彼らの手紙などを読めばよく分かります。

使徒(アポストロス=送られた者)の働きは、その単語自体からは何も具体的に分からないのですが、他の四つの役割よりもはっきりとその働きについて聖書に書かれています。それにも関わらずその定義や理解が飛躍しているのは、彼らの働きに対する「霊的権威」が強調され過ぎた事などが原因でしょう。使徒の働きとは何かを理解する事は単純です。福音の為に使徒たちがやった事を使徒行伝や使徒たちの手紙などから読めば良いのです。それは地域において呼ばれた者(教会)が集まる機会を設ける事から始め、それを監督する事までの多くの事を含みます。彼らは多くの仕事を他の人に分担して、次のリーダーを育てる面倒もします。この場合、本人がそれらの仕事をよく知っているから他の人に委任できるのであり、それが理由で使徒の働きは全てに関わります。

使徒はあらゆる事をしたのが使徒行伝からも明白です。彼らは預言もしましたし、伝道はもちろん牧者として信者を守り、教師としても教えました。だからといって使徒として働いているリーダーがそれら全ての役割を常にこなすべきだとするわけではないのですが、彼らは基本的に多くの役割をこなす事ができます。それには理由があります。使徒の役割で特殊なのは全体の機能が良く見えている視点です。何故なら、彼らは全ての事をこなしたので全体が分かるからです。ですから、使徒の働きの一つにデレゲーション(役割や仕事の分担・委任)があります。誰がどの様にして働けば全体がうまくいくかを見えているリーダーが使徒です。パウロのように、呼ばれた者たち(教会)全体の為にあらゆる犠牲を惜しまない人たちが使徒の働きをしています。一つの役割しかやらない人は使徒の役割をしているとは言えません。単純です。何故でしょうか?それは、私たちは全てイエス様によって宣教の目的であらゆる事をする為に「送られた者」だからです。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコによる福音書 16:15-18

いわゆる大宣教命令は全ての人に言い渡されたものです。その時の弟子だけに限定された命令ではなく、全ての弟子です。何故なら、このイエス様の言葉は十字架の後の命令であって、使徒たちを含む新生した信者に向けての命令だからです。また、「一部の献身した人たち限定」ではなく、本来私たちは皆キリストの弟子だからです。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書 28:18-20

「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という教えが現在の教会から失われています。「未信者を信者にしなさい」という内容に変わってしまい、信者は弟子として育たないままになっています。「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」とイエス様は言ったのですが、教会で教えられている事はいつも限定的なものばかりです。自分たちの都合の良い教理だけを取り入れ、そうでないものは無視しています。イエス様が弟子たちに命じておいた全ての事を私たちは守る必要があります。*福音書ではイエス様はユダヤ人の大衆に対してことわざで教えていました。弟子たちにはその説き明かしをしたので、福音書を読む私たちも「イエス様の伝えたかった事」を見る事はできますが、使徒たちの手紙にはその全てが書かれています。

究極的には、全てのリーダーが使徒的な視点を持つべきです。そうすれば自分の得意とする仕事ばかりを主張せずに、常に全体の働きに目を配る事ができるようになるからです。これは大人の考えであり、その視点を持って私たちは「送られ」、福音の為の働きを任命されたのです。使徒として働く人は集会全体(或いはキリストのからだ全体)の徳を考えているので、何でもチャレンジする精神を持っています。

「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行なわれた、しるしと不思議と力あるわざです。」第二コリント 12:12

この箇所も「使徒の定義」に関係します。パウロは、「忍耐を尽くしてあなたがたの間で行なわれた、しるしと不思議と力あるわざ」が「使徒としてのしるし」だと言っています。ですから、本物の使徒かどうかを知る最も簡単な方法の一つが「忍耐を尽くして行なわれた、しるしと不思議と力あるわざ」を見る事です。もちろん、リーダーとして模範的な人格を持っている事はより重要であり、それはパウロがテモテにアドバイスしている通りです。力あるわざだけでなく、人格もしっかりした人が使徒のリーダーにふさわしいのは間違いありません。

まとめ

主が「送る・遣わす」人(使徒の働きをする人)たちは、とにかく福音の宣教によって信者を増やし、信者の為の良い環境を設けてあらゆる事にチャレンジしていく人です。このタイプの人たちはリーダーシップに長けているようですが、時には一人で先にどんどん行ってしまう事もあるようです。現段階では、使徒として働く人は同じビジョンを持っている人を見つけるのが困難な為に孤立してしまう事も多々あります。彼らは開拓者として新しい道を切り開いていくので、そうした孤立を経験する事も時には仕方ありません。そのうち人が周りに集まって来たらその人たちと共に上手にやっていく必要があるので、多くの人と関わる事に関しても興味を持つようになります。

使徒の仕事をするリーダーは多くの迫害を受けたり苦労を経験する事が多いでしょう。何もない所から始める事も多いので悪霊が所有している地域を取り戻して新しい事を始めたり、霊の戦いを経験する事が多いと思います。ですから、教会開拓、すなわち「呼ばれた者(信者)」を集める苦労の中であるべき「しるしと不思議と力あるわざ」を伴っていない「自称使徒」には注意すべきです。使徒的な働きをしている人が使徒としてのリーダーではなく、使徒としての働きの結果が出ているかどうかです。例えば、歌う人全てはシンガーと言えますが、全ての人がシンガーとしての職につける訳ではないのと同じです。

使徒の働きをする人の典型的な性格や特徴は、

  • 前例のない物事に対してチャレンジする人
  • 福音宣教と教会の開拓に情熱を持っている人
  • 教会(キリストのからだ)全体が見えている人
  • 教会全体の為に犠牲を惜しまない人

などが挙げられます。