2018年2月22日木曜日

「新しい」発見

「新しい」という意味のギリシャ語は二つあります。νέος(neos)と καινός(kainos)です。これらの単語はそれぞれ違う意味を持ちますが、同じもの(対象)に対して両方の形容詞が使われる事があり、とてもユニークです。どういう事かを解説する前に、それぞれの定義から見ていきたいと思います。

neos

「時間的」に「新しい」という意味をもち、人に用いられるなら「若い」という意味にもなります。ぶどう酒に用いられれば「古いぶどう酒」です。通常、私たちがよく使う「古い」の反意語が neos です。

kainos

時間という概念とは違い、今までにない「新しい」もの、つまり「斬新」という意味を持ちます。過去との比較で「新しい」のではなく、前例のないもの、存在しなかったもの、一度も使われていない、という様な意味があり「クオリティー」の概念を持ちます。

さて、ここからは聖書を引用します。

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」マタイによる福音書 9:17

neos の単語が使われています。既に neos の定義で書いたように、時間的に「新しい」ぶどう酒を意味するので、ぶどう酒自体が新しく作られたという意味になります。ぶどう酒はじっくり発酵させて作るものですから、普通に考えれば「新しいぶどう酒」というのは人が好むものではありません。一般的な、人間の考えでは「古いものが良い」となるわけです。イエス様が言った通りです。

「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」マタイによる福音書 26:29

「新しく飲む」という表現は、厳密には「新しいぶどう酒」とは文法的に違います。しかし、イエス様の言っている内容は「新しいぶどう酒」であるので、「新しい」という形容詞の kainos はぶどう酒を修飾している事が明らかです。興味深い事に、同じぶどう酒に対して違う形容詞を使っているのです。しかも著者も同じマタイです。

次に、「新しい人」のケースを見てみます。

「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」コロサイ人への手紙 3:10

ここでは neos が使われているので、時間的に「新しい人」になります。

「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、」エペソ人への手紙 2:15

こちらでは kainos が出ています。同じ「新しい人」なのに、ここでは「今まで存在していなかった」「新しい人」の意味で使われています。

コロサイ人への手紙もエペソ人への手紙もパウロが著者です。何故パウロもこの様に二つの形容詞を使ったのでしょうか?

次は、「契約」という単語です。

「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」へブル人への手紙 12:24

ここでは neos が出ているので、時間的に「新しい」契約になります。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」へブル人への手紙 9:15

「契約」という同じ単語に対して、ここでは kainos で形容されています。両方ともへブル人への手紙の中にあるので、同じ著者による同じ名詞に対する二つの形容詞が使われている事になります。

まとめ

こうして見ると、同じ著者が意図的に二つの形容詞を使っている事が分かると思います。偶然間違えたんだろうという「憶測」よりも意図を持ってそう書いたという「憶測」の方が無難です。何故なら、使徒たちは御霊の霊感によって書いたからです。そうすると、「新しい」という意味は二つあると考えてもよさそうです。少なくとも「時間的に新しく」「前例のない新しい」ものが「新しいぶどう酒」であったり、「新しい人」であったり、「新しい契約」に当てはまるのです。

翻訳された聖書の背景

最初の翻訳された聖書は七十人訳聖書と呼ばれるものです。七十人訳聖書は LXX(70の意味)とも表され、使徒たちが引用する際によく使った旧約聖書です。ファラオの命で古代ヘブル語の聖書(旧約聖書)をコイネーギリシャ語に翻訳したとしてアリステアスの手紙によって伝えられ、紀元前3世紀中頃から前1世紀間にかけて翻訳や改訂がなされました。七十の数字は、ファラオの命令で72人が翻訳に携わった事から由来しています。

翻訳の歴史

古代ヘブル語からコイネーギリシャ語に翻訳されるのはそれ程難しい作業ではありませんでした。何故なら、当時のイスラエル人はヘブル語もコイネーギリシャ語も話せたからです。特に使徒パウロは、これらの言語を読む事も書く事もできたはずなので、まさに神様によって選ばれた異邦人への使徒として最適でした。パウロや他の使徒たちが七十人訳聖書から多く引用しているのなら、七十人訳聖書はヘブル語聖書に劣っていない事を示しています。もちろん彼の場合は、二つの言語を理解して頭で翻訳できただけでなく、その意味と解説をコイネーギリシャ語でしたのですから翻訳作業を超えたものです。

イエス様も七十人訳聖書の一部を引用しています。

「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」」マルコ 7:6-8 

この箇所の内容は、パリサイ人たちがモーセの律法を儀式化させて神の戒めを人間の伝統にしてしまった事に対するイエス様の批判です。この批判の引用が七十人訳聖書からというのは興味深い事です。

さて、アラム語に訳されたものなどを除けば、聖書の原典は古代ヘブル語とコイネーギリシャ語として理解されていて、実際にそれらの言語で書かれた写本をもとに底本などが作られています。この二つの言語からの翻訳は、旧約聖書はもっぱらイスラエル人の学者、新約聖書は主にコイネーギリシャ語で書かれた文献などに頼っています。しかし、これらの古代の言語は、それらを教える人たちが存在していて、またきちんと教わった人たちがいたわけではありません。コイネーギリシャ語ですらそれを母国語として話していた人たちが辞典などを作って残していたわけではありません。ましてや旧約聖書のヘブル語に関しては、イエス様が地上にいた頃からあまり話されなくなった事により、その正確な意味の把握に関しては不透明なところもあると思います。

イスラエル人は国家としての独立が失われてからも、1900 年にわたってヘブル語を使ってきたのですが、その隔たりは大きいようです。ヘブル語は神によって「復活した言語」かもしれませんが、それはあくまでも主に現代ヘブル語としてです。今日のイスラエル人の間でも彼らは現代ヘブル語で話すことを避けていて、「聖なる言語」の現代的発展を受け入れることを拒んでいます。彼ら自身は母国語のそうした「復活」を必ずしも快く考えているわけではなさそうです。実際に、イスラエルではイディッシュ語や英語、フランス語などが日常生活で使われています。現代ヘブル語との間には既に大きな差があり、イスラエル人が今日聖書を理解できるのは学校で学んでいるからだと言語学者のギラード・ツッカーマンは言います。この場合、古代ヘブル語を教えている人がしっかりした知識を持っているかなどに関してはもっぱらマソラ本文などに頼るところが大きいと思います。

ヤムニア会議

マソラ本文か七十人訳かの議論は、翻訳聖書の信憑性に関わる最初の議論でした。多くのクリスチャンが七十人訳を典拠とした事に対して、1世紀末頃、ユダヤ教徒たちはヤムニア会議でヘブル語写本をもたない文書を排除することを決定しました。現在のマソラ写本が広く行き渡ったのはこの会議が原因と考えられています。また、この時排除された文書をユダヤ教では外典として扱っています。マルティン・ルターも旧約聖書の底本をマソラ本文にのみ頼ったとされ、その影響でプロテスタント教派では七十人訳にのみ含まれる文書を旧約外典と呼び、聖書の聖典として含まない文書としています。*いわゆる外典と呼ばれる書物の判断はパリサイ人たちによる偏見も強いのですが、概ね正しい判断に基づいています。実際に、それらは最初から神の霊感によって書かれた目的がなく、書いた人たちの個人的な書物であり、現在の信仰良書みたいなものです。これらの殆どは外典扱いしても良いのですが、一度全ての書物を見直してみる価値はあると思います。

ヤムニア会議は、実際には「会議」というようなものではなく、ユダヤ教学校によった学者たち(主にパリサイ人のラビ)が長い時間をかけて聖書の正典(マソラ本文)などを議論していった活動です。そして、彼らはこの会議によってクリスチャンをシナゴーグから追い出してしまいます。この歴史的な迫害はコイネーギリシャ語のに対するものでした。幸いにもギリシャ正教会が七十人訳聖書と初代教会で学んだギリシャ教父の手紙などを保存した事によって、コイネーギリシャ語はヘブル語よりもより純粋に保たれる事ができたのです。

この迫害の背景には、ユダヤ人の「古いものは良い」とする人間の伝統を無意味に重んじる律法主義的な考えが働いてると思います。現代でも、わざわざ新約聖書をヘブル語で書き直された聖書を読む事の意義を主張する人たちがいますが、「新しいぶどう酒」(聖書的な解釈では新しい契約の事を指す)を受け入れ難いのは、長い間慣れ親しんできた「古いぶどう酒」を良いとするからでしょう。しかし、そうした経験による判断は肉の考えであり、もはやヘブル語崇拝という束縛なのです。ヘブル語に神の摂理や聖霊の導きという概念をくっつけて必要以上にこだわってしまうのは、律法主義的な考えから来ていますす。福音は最初にユダヤ人に語られました。しかし、彼らが福音を拒んだので異邦人に伝えられるようになったのですから、それを逆行して(ヘブル語に戻って)ヘブル語による聖書の理解を「聖霊の導き」とするのは大きな疑問ですし、それに気づかせない人の伝統としての教えは背後に闇の力が働いているからでもあります。

ヴルガータ

さて、ヘブル語とギリシャ語以外の言語によって翻訳された聖書といえば、ギリシャ語からラテン語になったヴルガータです。しかし、この頃から既に翻訳の作業は大変な作業になっていました。翻訳者はヒエロニムスという人です。彼は教皇ダマスス一世の命によってラテン語訳聖書の校訂にあたることになります。旧約聖書はギリシャ語からだけでなく、ヘブル語からも翻訳しています。彼はヘブル語をユダヤ人から学んで翻訳作業をしたくらいで、その事から当時ではまだヘブル語を教える人や環境が整っていた事が分かります。しかし、翻訳作業は彼一人であった為に、後にミスなどが指摘されるようになりました。それから約千年の後に、ウィクリフがラテン語から英語に翻訳し、マルティン・ルターはドイツ語に訳しています。

まとめ

選ばれた民の言葉(ヘブル語)は、バビロン捕囚の影響で一度は殆ど死語となり、代わりに異邦人の言葉(ギリシャ語)によって恵みの福音を広める手段となりました。しかし、ローマカトリックの迫害によってコイネーギリシャ語もラテン語(後に死語となる)に閉じ込められたという歴史から分かるように、二度も聖書の言語が衰退しかけたのは偶然とは言えないでしょう。その背後に働く闇の力があるのがうかがえます。つまり、サタンによって真理は二度も消えそうになったのです。しかし、イエス様は次のように言います。

「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」ルカによる福音書 12: 2

真理は使徒たちを通して聖霊が明らかにしました。それは既に明らかになっています。サタンは様々な方法でそれを隠そうとし試みました。未だに聖書に関して色々な不明なところはありますが、それらは必ず明るみに出るでしょう。サタンと同様に、人の肉の思いも神様の真理を隠そうとします。肉の思いは真理を隠して聖書を何かの暗号のようにします。そうすれば御言葉を「漠然と神秘的なもの」として扱えるからです。そうすれば「曖昧さ」という名のぶどう酒にいつまでも酔っていられるからです。この様な考えは「なまぬるい霊的状態」であって、それは私たちがいつでも真理から逃げて都合よく言い訳ができるようにします。私たちがいつまでたっても白黒はっきりさせずにグレーゾーンに留まる事を良しとするなら、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する事はあり得ないでしょう。しかし、私たちの神様は啓示の神であり、御霊によって使徒たちに奥義を啓示されました。御国の福音は私たちが想像しているよりももっとはっきりと単純に書かれています。真理の完全回復はもう間近です。

2018年2月15日木曜日

教会から出ていくクリスチャン

教会から出ていくクリスチャンが近年増えています。これは概ね良い事になっています。何故なら、彼らの判断が概ね正しいからです。すなわち、教会という「人の肉の思いによって作られた組織」から出ていくという意味でクリスチャンは概ね正しい判断をしているのですが、その一方では、教団の律法主義的な教えによる束縛と聖書的でない教理が表面化してきた事実も意味しています。*組織そのものが悪いという事ではありません。新約聖書でも秩序が保たれる為に組織があります。肉の思いで組織を作るか、聖書的なガイドラインに沿うかがポイントです。

アメリカでは、以下の理由で教会を去ったクリスチャンが大勢います。こうした理由で出ていった人たちの判断はむしろ当然でしょう。

  • 霊的な渇きが満たされない
  • 他の兄弟姉妹との交流がない
  • 金銭的トラブル
  • リーダーシップの欠如
  • リーダーのモラルの低下

霊的飢え渇き

しばらく教会に行った後で大勢のクリスチャンが気づき始めるのが、教会に行ってもイエス様を知る事がない、聖書の教えをしっかり学べない、質問しても聞いてくれない、といういわゆる霊的な飢え渇きが満たされないという不満です。こうした不満は救われたばかりの人だけに限りません。長年教会生活をしていた人でも、ついには真理の探求の大切さに気付いて教会を出てしまうものです。質問しても答えてくれないので教会を去ったり、何も特にこれ以上学ぶ事がないので出ていくクリスチャンはかなりいます。それが理由で多くの教会では救われて間もない人たちや、あまり聖書に関心のない人たちが主に集っています。義に飢え渇いている人は何かが足りないといつも感じていて、御霊にあふれて勝利のクリスチャン生活を望んでいます。この種の人たちは自身の信仰ゆえに教会を出る事が多いようです。

孤独感

救われて間もないクリスチャンの不満は、他のクリスチャンとの交わりがないという寂しさから来るものです。特に周りがこの事に気づくべきでしょう。しかし、多くの教会は上辺だけの交わりが多く、そこはおしゃべりの場となっているだけで、特に聖書的な教会の機能はありません。おいしい食べ物や特別な催し物で「誘う」というやり方は悪くはないでしょう。しかし、聖書的ではない事も確かです。集会に来るようにする為に非聖書的な事を計画する必要はありません。しかし、真理を教えている教会は自然とそれに耳を傾ける信者が集まるのです。何故なら、彼らの霊が真理に対して応答しているからです。

金銭トラブル

この問題はリーダーたちが、「良い管理者」としての知恵と知識がないのが原因です。「献金」を聖書的に理解している教会は少なく、それゆえ殆どのクリスチャンがそれをする理由が分からないまま献金をしています。それはもはや儀式化していて、そこには信仰が働いていません。多くの教会で経済的問題が祈りのリクエストで第二位から落ちないのは当然でしょう。繁栄の神学の様な極端な教えを避けるだけでなく、お金が集められる意味と目的を聖書から知る必要があります。

リーダーシップ

リーダーがいかに率先して物事をこなすか、いわゆるリーダーのスキルの部分が問題です。彼らが何をどうするかよく分からないのなら、特に救われて間もない人たちは信頼してついて行く事ができないでしょう。しかし、知識的に分かっているだけでなく、リーダーとして聖書的に訓練されたかどうかも重要です。完璧に全てをこなす人をリーダーの定義としているわけではありません。しかし、リーダーは他の信者の見本となり、彼らを育てるという目的の為に奉仕しているはずです。会社の重役というピラミッド型組織の捉え方ではありません。責任の重いリーダーはより奉仕しているべきであり、彼らがむしろより仕える立場なのです。いわゆる「五役者」の役割を主に、その他の必要な役割の認識が必須でしょう。適当なカウンセリングをして後は「祈っておきます」と言うのは誰でもできます。現在の状況からはハードルが高いかもしれませんが、リーダーである長老は、本来なら、信仰による祈りによって病人を癒す必要もあるのです。(ヤコブ 5:14-15)

リーダーたちの起こす問題

リーダーシップの問題は彼らの「役割」に関わりますが、こちらはリーダーたちの品格の問題です。リーダーは模範となる存在ですから、良い模範を示す必要があります。多くの教会のリーダーは模範を示さずに、信徒に指示をします。厳しいようですがまるでパリサイ人と同じです。アメリカの教会ではこうした多くの「ドラマ」が繰り広げられています。私がある教会に通い始めて間もない時に、そこの牧師と女性信者との間で不倫問題が発覚して、朝の新聞に大きく取り上げられた事がありました。千人くらいのやや大きな教会で、そのコミュニティーでは影響力のある教会だっただけに大きなショックを受けたのを今でも覚えています。以前から指摘されていますが、「リーダーや組織の上の人」が起こす問題の中でも、特にモラルの低下が顕著になっています。

単なる警戒心だけでは同じ過ちを防ぐ事にはならないでしょう。ただ意識を高めて気を付けるだけなら、全ての事に消極的な態度をとる教会になるだけで、それはまた律法主義にもなりやすいのです。鍵となるのは聖書の真理です。真理を教え、心の一新(考えの一新)によって各信者が変わらないと何も変わりません。私たちは、そろそろ古い人をいい加減死んだままにして、新しい人で歩むべきでしょう。「教会ごっこ」はもう十分です。子供の教えを卒業し、霊的成長を目指して義の教えに通じる道を進まないと抜本的な改革には至りません。

まとめ

幸いにも、「人の肉の思いによって作られた組織」の教会から出たクリスチャンの多くが聖書に戻る重要さに気付いています。しかし、彼らもまた未だにそうした人が中心となっている組織が教えてきた間違ったものを引きずっているのです。完全に肉的な組織教会(一般的な教会)から出るには、今まで学んできた教えを全てチェックする必要があります。聖書的だと思って信じてきた教えが実はそうではなかったという発見は、時には勇気をもって受け止める謙遜さが必要かもしれません。しかし、真理によって解放を経験する事になるので、躊躇せずに徹底的に真理を求める事をお勧めします。

2018年2月12日月曜日

アガペーの吟味

人の好みというのは様々です。理由も同様に色々あるでしょう。例えば、歌の好みというテーマに限定すなら、殆どのその好みの理由は音楽に関するものになります。当然だと言えば当然ですね。そしてその主な理由は、メロディーかそれとも歌詞の内容かが典型です。そのどちらかを一つ選ぶとしたら、どちらがあなたにとってより重要かという事になります。

メロディーか歌詞か

歌を好きになる理由がメロディーの場合、それは直感的な判断だと思います。歌詞の場合だとその内容の把握をする必要があるので、一回聞いただけでは好きになれない事が多いはずです。しかし、歌詞が気に入って好きになったケースの殆どは、もっと深い印象や感動があります。何故なら、歌詞の内容の方が相手にその歌の意味や意図がもっと伝わりやすいからです。曲やメロディーはかなり抽象的であるので、それらを通して訴えかける何かがあったとしても、多くの人には受け取れないのです。歌詞で良い印象を受ける人は、メロディーで好んだケースよりも、もっと真剣にその歌を好きになる傾向があります。それはその歌の中心であるメッセージが伝わったからです。

このアナロジーを元に「愛」について書きたいと思います。アガペーの愛を教えているのは聖書だけです。この神の愛によって私たちは人を愛しなさいとイエス様は教えました。これに対して、人間的な愛は単なる感情的なものが殆どです。感情が悪いわけではないのですが、感情は無くてもアガペーの愛で愛せるのです。逆に感情に左右されると、アガペーの愛でなくなってしまいます。

アガペーの愛は歌の中心である歌詞と似ています。そこには伝えるメッセージがあり、それによって人を励ましたり導いたりする事ができるのです。この視点が理解できればイエス様の愛がもっと分かると思います。もし私たちの判断が上辺だけなら、福音書のイエス様の発言の幾つかは「愛が足りないのでは」になってしまうのです。

私たちの多くはまだ霊的に幼いもので、ちょっとした人の言葉に傷つきやすいようです。本当はその様な事が起こる時には、私たち自身がまだ自我に死んでいないという幼さを先に反省するべきなのですが、ついつい相手に対して文句を言ってしまったり、相手を悪く思ってしまう事が先行してしまいます。クリスチャンでも「あの人は愛が足りない」と発言してしまいがちですが、その発言をした人が霊的に幼いなら、一概に愛が足りないと言われた人に非があるとも限りません。*というよりも、私たち幼い子供同士が喧嘩しているなら、どちらにも問題があるというのが正確かもしれません。

「あの人は愛が足りない」の発言の中にも、曲やメロディーで歌を好きになった判断と似たように、単なる印象から判断している事もあると思います。A さんのした事に対して B さんが悪く思って「あの人は愛が足りない」と発言した場合を考えてみます。実は A さんはアガペーの愛を示していたのにも関わらず、その内容が伝わらずに印象だけで勘違いされたというケースはどうでしょう?確かに言葉遣いは重要です。あまりにも唐突な言い方だと、内容はアガペーであってもアガペーが伝わらないのなら意味がありません。その場合は知恵が欠けている事になりますが、実は人を愛するには知恵が必要なのです。しかし、アガペーの吟味で最も重要な部分は中心となっているメッセージです。

私たちが人の言動を見て判断する(吟味する)時、そうした本質的な部分を見ているかどうかはとても重要です。肉の思いで考えてしまうと、ちょっとした印象で相手の事をこうだと決めつけてしまいます。例えその人のその時の言動があまり良い印象でなかったとしても、持っているメッセージは違うかもしれません。しかし、その様に良い方向へ考える事をせずに相手を裁いてしまったり、結論を急いでしまうのは私たち自身がアガペーを知らないからでしょう。思い出してください、愛は全ての事に期待するものです。

第一印象は大事かもしれません。しかし、私たちが聖書を土台として信仰を持ち、御霊によって愛のうちに歩むには、感情に左右されずにあらゆる事をアガペーの動機でする必要があります。そうでないと、例え良い行いをしてもそれらの慈善は全て宗教的になるのです。別の言葉で言えば、浅い上辺だけの印象ばかりではアガペーは吟味できないのです。人の中から出てくるものによって見分けるというイエス様の教えは、その人の内側にあるその人の本質を見なさいという教えです。単なるその人に対するあなたが感じた印象だけではありません。

例えば、曲を聞かずに歌の内容、つまりその歌詞を先に読んだとしましょう。その内容が良いものであれば恐らくもっと多くの人がその歌を好きになるはずです。逆に、歌詞を全く見せずに曲だけで判断させるとします。その曲やメロディーを万人受けするものに仕上げたとしても、それを好む人はそれ程多くはないでしょう。

あなたの周りにも言い方が雑な人がいるかもしれません。ひょっとしたらその人の話し方や声が嫌いだとあなたは考えているかもしれません。しかし、まず先に見るべきところはそのメッセージです。本質を見ないでいると、私たちは相手のアガペーに気付かない事になります。従って、相手の言動がアガペーの愛かどうかを判断するには、あなた自身がアガペーを知り、その視点で物事を判断していないと分からないのです。それとも、盲人が盲人を導く事ができるのでしょうか?

その人を好きにならなくてもその人を愛する事はできます。これがアガペーです。好きでも何でもない人の為に何かをしてあげる事、助けてあげる事がアガペーの行いなのです。時には、はっきりとこの人のこの部分が嫌いと素直に認めても良いかもしれません。嫌いな部分があってもその人を愛するという事は可能だからです。感情によってアガペーが決まるわけではないからです。

もし私たちの目が見えなかったら、私たちは人をより正しく判断する事ができるでしょう。心の目で見るという表現は、まさに人の本質を見ている事なのです。すなわち、愛を吟味するにはあなたの霊によってしかできないのです。あなたが霊的に歩んでいないうちは、アガペーを吟味する事はできません。もし私たちが判断に迷ったときは、御霊に聞いてみる事、その上で多くの人の意見を聞いてみる事は必要でしょう。しかし、多数決によってあの人にはアガペーがあるかどうかを決める事でさえ正しい判断とは限りません。特に霊的に幼い子供たち同士が判断するなら意味がないのです。

「愛とは、最終的な分析によれば、知恵である」という言葉の様に、私たちがまず大人の考えを持たなければアガペーを知る事にはならないと思います。私もアガペーの叱責に気付かずに、その人の声のトーンでリアクションを取った事が何度もありました。良い印象を与えるメロディーが良ければ、それは良い歌の条件である事は間違いないでしょう。しかし、大人になってメッセージをしっかり捉える耳も持ちたいものです。

2018年2月11日日曜日

宗教の視点

恵みは良いものですが宗教はそうではありません。恵みは私たちが神様を信頼するように促しますが、宗教は自分を頼るように教えます。恵みによって義を得るのが聖書の教えですが、宗教は律法を守る事で自分の義を得ようと試みます。恵みは神様が私たちを助けると教えますが、宗教は神は自分を助ける者を助けると教えます。

ある人は宗教は必ずしも悪いものではないと言うかもしれません。何かしら良いものを教えていると言います。宗教という名の下で良い事もなされたと主張するかもしれません。人によってはそうした別の見方もあったりします。ヤコブもその様な事を言っていたとして、宗教の価値を認めようとする考えもあるようです。しかし、ヤコブは宗教を良いものと考えていたわけではありません。

宗教は人によってはその定義などが違っていますが、そうなると論点がまとまりません。しかし、一般的な人の理解でも宗教という言葉を殆ど正確に捉えています。彼らが殆ど一致して見えているのは束縛です。宗教熱心な人に対して、多くの人は良い印象を持っていません。何故なら、人が宗教に没頭するというのを否定的に捉えているからです。その没頭はスポーツや勉強に専念する様な好ましいものではなく、むしろ小さな世界で束縛されていると見えてしまうのです。束縛に良い事もあるでしょうか?例えば、異なる種類の束縛を比較してこの束縛よりはあの束縛が良いなどと言えるでしょうか?

良い宗教があると言う発言は良い束縛がある、或いは、良い奴隷制度があると言うのと同じです。宗教が良いものではない理由の幾つかを挙げてみたいと思います。

1.宗教は自己の義に基づいている

宗教の根本的な信念は自己の努力などによる義を強調している所です。ちょうど蛇が善悪の知識の木から食べれば「神のようになる」と誘惑したのと同じように、私たちの意識が神から離れて自分を中心に物事を考える時に真理から離れていくのです。私たちはどうしてアダムとエバはそんなにも愚かだったかと思うのですが、私たちが自分自身に目を向けてそこに平安と喜びを見いだそうとするなら、彼らと同じ過ちをしています。 宗教は自己が築き上げた宮であってそれは自己を神としてしまう嘘の世界なのです。

2.宗教は神を歪める

宗教は神様に対して嘘を言うので、当然ながら神様の良いイメージを破壊します。

  • 神はあなたに対して怒っている。
  • あなたのする事に点数を付けている。
  • あなたを拒否するかもしれません。
宗教はこれらの事を言って私たちを不安にさせますが、一応解決方法も提案します。しかし、その解決方法も全て嘘です。

  • もしあなたが A、B、そして C をするなら、あなたは神の怒りを鎮める事ができます。
  • もしあなたが忠実で良い行いをすればあなたを祝福します。
これらは、私たちの父なる神様の無条件の愛と恵みを歪める嘘です。

3.宗教は恵みを退ける

宗教は神への道を示しますが、その道は実は反対に向かっているのです。 「これらのルールを守り、これらの原則に耳を傾け、あなたが話したことをして、あなたは神に受け入れられるでしょう。」自己の義を求める宗教的な高ぶりの道は、決して恵みの王座に至る事はありません。自己の努力による義の獲得はいつも恵みを退ける行為なのです。

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」ガラテヤ 5: 4

4.宗教は偶像礼拝

バアル、モレク、或いは世的なもの(テレビなど)の偶像礼拝は大したことはありません。最悪の偶像は自己です。この偶像は何度も主張します。 「私は正しい。私はより良くなる。私は素晴らしい事をします。私は天に上るでしょう。私は最も高い者のようになります。」宗教は自己中心的な思いで働いてサタンのような高ぶりを持っています。他の人を思わずに自分の事ばかりを気にかけています。

救い、癒し、赦し、聖化、義化、などは全て神様の恵みによって与えられるものですが、宗教は次の様な嘘を言います。

  • 救い(救われるにふさわしい事を証明しなければならない)
  • 癒し(十分な悔い改めの祈りがあれば時には受ける事もできる)
  • 赦し(罪の告白を維持する事が絶対条件)
  • 聖化(一生を掛けても得る事はないが求めなければならない)
  • 義化(律法を守る努力によってのみ獲得できる)

5.宗教は聖書を曲解する

宗教は偽善なので、その視点でもって教えられて来たものは全て修正する必要があります。特に悔い改め信仰教会聖化祈りの意味を見直す必要があります。イエス様に従う事は重荷にならないと言ったのですが、宗教はそれを難し​​いものにします。福音は良い知らせですが、宗教はそれを悪い知らせにします。宗教の究極的な目的は、イエス様の教えに逆らい、神の恵みや真理を無にして救いの道を絶ってしまう事なのです。

6.宗教は動機が不純

動機が正しいのなら、一見宗教的だと思われる行いも実は良い行いなのです。例えば、ある人が、一日に3時間祈る事や聖書を読む事などを決めたとして、それらによってその人が神様から何か特別扱いしてもらう目的でやろうと考えるなら、それは宗教になります。一方で、3時間の祈り・聖書の学びの目的が、単に自分の徳を高める為であったり、より信仰によって歩む事を目標に置いているのなら、それは個人的な霊的成長に関する事で、悪い事ではありません。ただし、この場合もそれを人に押し付けたり教理として教えるなら、それも宗教になります。何故なら、個人的な事柄に関しては誰かが決める事はできないからです。各自が信仰に応じて心で決める様にするのが新約聖書の教えです。

2018年2月7日水曜日

アオリストの扱いについて その1

コイネーギリシャ語で独特な動詞であるアオリストの形は、過去に起きた事を示す過去形とは違う機能を持っています。いつ何が起きたかを示すというよりも、事実や真理を単に述べているだけで特に動作がいつ起きたかという事とは関係ありません。いつ起きたか、いつその動作が終わるかという概念もありません。

アオリストは古代ギリシャ語によって定義された動詞用法の一つで、現代の学者による定義ではありません。現代ギリシャ語は過去形としてみなしているのですが、その影響によって多くの翻訳者も過去形として取り扱っています。これは彼ら自身がコイネーギリシャ語に対する学識不足であり、これが翻訳に関して大きな混乱の原因になっています。しかし、古代ギリシャ語のアオリストは時間的な期限がない為に、一般的ないわゆる「動詞の時制」として扱われるべきものではないのです。動詞の時制にこだわってしまう日本語や英語その他の言語は、いつその動詞が起きたかを訳さずにはうまく表現できない構造になっています。従って、一度でも過去においてその動作があったなら、それを過去形として訳してしまうのが一般化されています。(2017新改訳改訂箇所)(LSJ による定義

「Aorist」はギリシャ語の「α」(~がない)と「οριστος = oristos」から出来ています。否定の「α」が前に付くことにによって「οριστος」を否定している意味を持ちます。「οριστος」はストロング G3724「οριζω = orizo」から分かるように、境界を定めるという意味があります。このギリシャ語から英語の「horizon」が来ています。英語の「horizon」は水平線という定まった境界線を意味しています。「α」を付けて「α-οριζω」 = 「a-[h]orizo」にすると定まった境界がないという事になり、これがアオリストの動詞の意味になるのです。

文法的には動詞の変化などはいわゆる動詞の時制としてみなすのですが、アオリストだけは時間という境界がない(ここでは時制の境界がない)事を示しているのです。動詞の時制の一つと見られている為に、日本語ではアオリストを不定過去などというややこしい名前を付けていますが、実際には時制の概念がない動詞なのです。アオリストを持たない言語ではこの把握が難しい様で、その様な言語に訳される時には過去形で取り扱われています。実際に、日本語訳の聖書でも英語訳の聖書でも、アオリストの動詞は殆ど全て過去形で訳されているのが一般的です。しかし、アオリストの動詞は過去に起きた出来事という概念を持っているのではないのです。

アオリストの動詞が過去に起きた出来事と結びつけてあると、過去の出来事が起きたとして見えてしまい、それで過去形と同じように扱われてしまうのです。しかし、それは動詞がいつ起きたかという時制にこだわるからです。その境界を無くしてしまうのがポイントです。従って動作が例え過去の出来事であっても、「~が起きた」という意味として捉えるのではなく、「~が起きる」という形的には現在形で訳す方が適切です。しかし、時間の枠が無いのですから「現在形」でもありません。現在に起きている動作ではないからです。時間という境界に関係なく動作が起こるのがアオリストです。

もし、時間という枠を外して考えるのが難しいのなら、アオリストを過去、現在、そして未来にも当てはめる事ができると考えるとよいかもしれません。つまり、アオリストの動作が過去に起きたものとして時間的に過去だけに限定するべきではなく、その動作は現在にも未来にも適応されるという事です。そうすると、時間的に普遍的な動作という事になり、いわゆる真理に関わる動作として理解されやすくなります。


別の箇所からアオリストの動詞を見てみます。

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」使徒の働き 2:36

「十字架につけた」は過去形ではありません。ここでは estaurosate という単語が示すように、アオリストの形になっています。sestaurokate であったなら完了形なので十字架につけたという訳は適切だったでしょう。しかし、アオリストの形ですから過去の出来事という概念ではありません。一旦「十字架につける」と現在形にして、その動作を彼らがするとペテロは言っている、と理解します。すなわち、ペテロは彼らがキリストを「十字架につける」という事実や真理を言っているのです。その動作の時間がいつなのかは重要ではありません。過去にそうしたとみなすなら、現在、或いは未来でもそうなのです。ポイントはいつではなく、その動作を彼らがする事は事実だとペテロは言っているのです。

時間的に「過去」に起きた出来事にしてしまうと、それを聞いていたユダヤ人の中には、キリストが十字架に掛かった時にはそこにいなかったという主張もできたのです。また、十字架につけたのはユダヤ人ではなくピラトの兵士がやったのだという事も言えたのです。しかし、過去ではなくアオリストなので、十字架につけるという動作はペテロの説教を聞いている人全員に当てはまるという事になるのです。つまり、これを読んでいる私たちにも当てはまるのです。

イエス様は全ての罪の為に死なれました。その出来事は過去で終わっていますが、過去、現在、未来の全て人が犯す罪の為に死なれたのです。ですから、キリストの罪の赦しと罪からの清めは無制限にあるわけで、私たちは赦しの中に浸っている状態を無制限に保つか、それを拒むのならキリストを時間という枠を超えて十字架につける事になるのです。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」ローマ 8:30

「あらかじめ定めた」「召し」「召した」「義と認め」「義と認めた」「栄光をお与えになりました」の動詞は全てアオリストです。

これらの動詞は過去形で訳されているのですが、アオリストは過去に起きたという時制を表すのではなく、こうした動作があるという事実や真理を示しているだけです。

例えば、これらの動詞を名詞化する事によって時制にこだわらない見方ができます。30節を置き換えると、「神によると、召しはあらかじめ定められている人々のものであり、そしてさらに義人となるのはその様な召される人々のものであり、さらに栄光の授与はそうした義人たちのものです。」

ローマ 8:30 はいわゆる予定説の立場を取るカルヴァン主義の教理を支える箇所でもあるのですが、それは彼らがこれらの動詞を過去形だと思っている為です。しかし、神様はこれらの動詞を過去に行なったという意味で書かれているのではなく、こうした事を神様はすると伝える目的でパウロは書いているのです。動作が過去において起きたという出来事として読むなら、予定説の主張は一理ありという事になるでしょう。しかし、神様がそれらをするという事実や真理を示すアオリストの意味で捉えるなら、「神様によって物事が既に過去において決められていた」という解釈にはならないのです。


アオリストの扱いについて その2に続きます。

2018年2月5日月曜日

「バプテスマ」の定義

「バプテスマ」という言葉は、コイネーギリシャ語の「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」の音訳からできています。これはまた「βάπτω(baptō)バプト」から来ています。ラテン語の聖書を翻訳する段階で音訳になったのですが、ラテン語自体は既に浸すという単語「immergo」などが存在していました。何故単語を訳さずに音訳になったかというと、ジョン・ウィクリフによるラテン語聖書の翻訳が大きな原因の一つです。それ以来、その伝統(音訳だけの理解)が続いて英語での「baptism(バプテスト)」は宗教的な単語として使われてしまいました。彼はラテン語は読めたのですがギリシャ語に詳しくなかったので音訳を選んだのです。

しかし「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は宗教的な単語ではなく、コイネーギリシャ語が使われていた当時、普通の言葉として日常でも使っていました。例えば、服の汚れを効果的に取り除く為に服をぬるま湯に浸けて置く必要があったとすると、この場合、浸けて置くという動作が「バプテスト」なのです。コイネーギリシャ語で書かれた他の古典や文献から見ても、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が宗教的な単語ではない事が分かります。つまり、バプテスマという語自体には何か特別な霊的意味があるというわけではないのです。

水と切り離す

今日私たちが「バプテスマ」という単語を聞くと、すぐにキリスト教の洗礼式を想像してしまうのですが、当時の人たちからするとその発想はなかったのです。最初から宗教的な言葉ではなかったので、彼らがその語を聞けば何かに「浸す」という理解だけでした。

「また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある――」マルコ 7:4

「洗う」と訳されている単語は「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が用いられているのにも関わらず、「浸す」という本来の意味は新改訳聖書によるこの箇所から読み取れません。

教会の洗礼式で見られる回心者を水に完全に浸す行為がまさに「baptizo」を正しく表しています。ただし、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は本来何かに浸した状態にする事によって変化をもたらす意味もあります。ところが、「水のバプテスマの儀式」では人を水に浸すのは僅かな時間だけです。文字通り人をずっと水に浸けておけば洗礼式はそのまま葬式になってしまうからです。宗派によれば、水に濡れるだけでも良いとしたり、定義が本来の「浸る」から離れてしまっています。

Joseph Henry Thayer(ギリシャ語コンコーダンスと辞書の編集者)によるコメントは次のようです。

「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ の意味を示す最も明瞭な例は、ギリシアの詩人で医師でもあるニカンダー(Nicander)のテキストです。それはピクルスを作るためのレシピでありますが、両方の単語を使用しているので役立にちます。ニカンダーは、ピクルスを作るには、まず野菜を沸騰水に浸漬「βάπτω(baptō)バプト」してから酢溶液でバプテスマ「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」しなければならないと言います。」

上の説明から、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が基本的に「浸す」という意味である事が分かります。しかし、「浸す」という意味だけで、「浸してそれを一旦引き上げる」意味はないのです。 聖書が示している様々な真理(キリストの体、赦免、死など)に私たちが浸る時、私たちは浸っている状態であり続ける、べきなのです。

この解説のポイントは、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が何かに浸っているという意味であり、一時的に浸る事ではないという所です。浸り続ける事無しには、その行為は「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」ではない、つまり、バプテスマではないという事です。

さて、「浸り続ける」事が本来のバプテスマの意味ですが、水によるバプテスマの儀式ではそれが不可能です。要するに、水による洗礼式は「浸り続けている」という部分をその儀式を通して表す事は不可能であり、それは単なる儀式に過ぎないという事です。もちろん、水に浸かった人を起こすのはその人の復活も意味していますので、その事も加わって、その人が「浸されている状態」を洗礼式を通して確認する事ができないのです。洗礼式や聖書の真理を形として表す事にしかすぎず、それ自体には恩恵がないというのがポイントです。ですから洗礼式をしないと「救われない」などという主張は宗教的な考えだと分かります。

また、私たちが何に「浸り続ける」かは文脈によってしか分かりません。バプテスマと言われてすぐに水のバプテスマを連想してしまう思考回路は既に私たちが宗教的になっているという証明であって、本来聖書が教えている思考回路ではありません。ですから一旦、洗礼式という儀式から考えを切り離す必要があります。聖書ではバプテスマが水を用いてやるものだと書いてありますが、悔い改め、聖霊によるバプテスマはどうでしょうか?

ペテロによるバプテスマ

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」使徒の働き 2:38

新改訳聖書によるこの部分の翻訳は問題があります。何に浸り続けるかが全く読み取れません。しかも、罪を赦していただく目的の為にバプテスマの儀式が必要だという意味に取れてしまいます。

「それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」の部分をギリシャ語で見ると、βαπτισθητω(浸されなさい*アオリスト)εκαστος υμων(一人一人が)επι(前置詞 on)τω(定冠詞 the)ονοματι(名)ιησου χριστου(イエス・キリスト) εις(前置詞 into)αφεσιν(免除)αμαρτιων(罪*複数)

前置詞を翻訳に考慮していない所は日本語の限界かもしれません。しかし、前置詞は英語から参考にできますので、into(~の中へ)を翻訳に加えれば良いのです。そうすると、「罪の赦しの中へ浸されなさい」という意味になります。つまり、ペテロは洗礼式をイエス・キリストの名によって受けなさいと言っているのではなく、悔い改めて(考えを変えて)、イエス・キリストの名によって「罪の赦しの中へ浸りなさい」と言っているのです。

ペテロはユダヤ人たちに、「律法主義から考えを変えて、キリストの十字架の御業を受け入れて、既に十字架によって赦されているという真理の中へ浸りなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言ったのです。罪を赦して頂く為に水のバプテスマを受けなさいではありません。そうなるとその儀式に何か霊的な力を与える事になり、それは宗教に価値を置いてしまう事になるのです。罪の赦しの力はイエス様の血潮にあるのであって、洗礼式自体にはありません。

「罪の赦しに浸される」事を通して聖霊の賜物(使徒 2:38)を得て、エレミヤ 31:33 の預言である「新しい戒め」をそのまま 「彼らの中でそして心の中に書く」という預言が成就されるのです。そういうわけで、私たちは今現在も「罪の赦しの中へ浸っている」べきなのです。その恵みの外から出てしまうと、罪の赦しを退けてしまう事になり、それはキリストを退ける事になるのです。

「罪の赦しの中へ浸っている」というのは、洗礼式の形がどうこうという問題ではなく、あなたが考えを変えた時から継続的に浸っている状態を意味するものであり、これが本来のバプテスマという意味なのです。要するに、キリストの罪の赦しを信じてその様に継続して信じているかどうかです。すなわち「浸かっている」というのは「信じ続けている」という意味を表しているのです。新しい契約の下では、私たちの内に住んでいる聖霊とその力によって信じ続ける事が可能になっています。

儀式か信仰か

もしあなたが、水の洗礼を受けていない事に罪意識を感じているなら、それ自体が既に罪の赦しの中にあなた自身が浸かっていない事を示しているようなものです。あなた自身が決めて信じるだけです。イエス様は十字架によって既にあなたの罪を赦されたのか、そしてその真理を受け入れるには水による洗礼が必要かどうかを吟味すると分かります。水の洗礼を律法のように捉えてしまうと再び私たちは律法の奴隷になってしまうのです。水の洗礼と罪の赦しは無関係なのです。そもそも使徒の働き 2:38 には水という単語すらありません。

しかし、水のバプテスマを無視して良いという事でもありません。水のバプテスマは信仰を表すという一つの方法であり、その意味では価値あるものです。「水」は単に「浸る」事の象徴として利用されるだけで、水自体が私たちを罪から清めるような意味はありません。つまり、「浸る」という表現は罪の赦しを信じ続けるという意味で使われているのであって、その罪の赦しを信じた状態にしておく、罪の赦しの中に浸り続けるという意味があるのです。ですから、水のバプテスマは究極的には必要不可欠なものではありませんが、きちんとした理解と信仰を持って行うならそれは意義あるものになります。結局のところ、信仰によるかどうかがいつでも鍵になるのです。

信仰による事の大切さは、聖書を読む時にも、祈る時にも、お金を寄付する時にも、聖餐式にあずかる時も、その他のあらゆる場面でも同じです。信仰なしにただ行うという単なる儀式・宗教にしてしまうか、信仰をもって意味あるものにするかはいつでも私たち次第です。今日の教会で教えている多くのものは、信仰と全く結びつけずに、ただ機械的に行うだけの儀式だけを勧めています。本来の意味を知らずにただ規律を守る事ばかりに執着していると、パリサイ人的な律法主義を生み出してしまうのです。

聖霊のバプテスマ

水のバプテスマとは違って聖霊のバプテスマはどうでしょうか?それはイエス様と使徒たちによって積極的に受けるように言われています。もちろん、救われているか否かという問題にこだわるなら、聖霊のバプテスマは必要ではないでしょう。しかし論点をそこに向けるのなら、救われているから聖霊の力を受けなくても良いという結論で満足するでしょう。ちょうど、救われて天国に行けるから癒しの為の祈りは全く必要ないという「変なこだわり」と同じです。クリスチャンであるなら救われているかどうかはもはや問題にならないはずです。神様の子供となった私たちが御国に入る事は当然の特権なのです。私たちはその様な基礎の教えから卒業して、力を得て人を助け積極的に伝道できるようにあらゆる義の行いに至る道に向かって成長する事を目標にするべきです。

2018年2月2日金曜日

古い物は良い?

「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」ルカによる福音書 5:39

もし新しいぶどう酒が新しい契約であるなら、どうして人は古いものを良いというのでしょうか?恵みをあまり体験していないと人は律法主義になる傾向があります。聖書は新しい契約はより良いものだとしています。両方を体験して古いものを選ぶ人はいません。

古い契約は旧バージョンのソフトウェアの様です。アップデートをしないでもソフトウェア自体は使えるかもしれません。しかし、アップデートをしないなら制作したソフトウェアの会社からサポートを受けられなくなります。せっかくの新しい機能の恩恵を知らずにいる事だけでも、長い目で見ればマイナスになるのですが、新しい物に対応するというのは人によっては面倒だと感じてしまう事もあります。古いバージョンでも使えるならそれでいいと考える人はその様にするかもしれません。しかし、彼らがそう思うのは結果を知らないからです。何か問題が起こった時に彼らは初めてそれに気づくのです。

モーセの律法で良いと考えるなら、その人はイエス様が必要だと感じません。ですからイエス様は「「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」と律法学者やパリサイ人たちに言ったのです。取税人や遊女は律法についてあまり知らない人たちでした。彼らは律法主義ではなかったですし、特に律法を勉強していたわけでもありません。しかし、それは彼らにとって新しいイエス様の教えを受け入れるチャンスだったのです。何故なら、古いもの(律法)が良いと知らなかったからです。

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」ルカによる福音書 5:37-38

 イエス様が祭司や律法学者に会う時は、必ずといっていいほど何かの言い争いに巻き込まれました。彼らが主張するのは律法ですが、イエス様は恵みとまことを実現する為に来ました。ですから、イエス様の新しい戒めは古い皮袋に収まらないのです。新しい人を着ないと新しいぶどう酒は保たれません。 モーセの律法はキリストの十字架によって成就され、新しい戒めにバージョンアップされたのです。しかし、多くのユダヤ人はこの神様のアップグレードに興味がありませんでした。 「古いものは良い」と言ったのです。

もし「古いものは良い」のであったなら、イエス様の十字架の死は無駄だったのです。宗教的な行いが良いとするなら、それは毎回動物のいけにえを捧げる事と同じであり、それをする度にその人はキリストの十字架の贖いを無意味にすると宣言しているのです。しかし、それでも神様はイスラエル人を始めとする多くの不信仰な人々を裁きませんでした。それは神様の恵みが十字架によって律法主義な人たちの罪も赦されたからです。彼らもまだ信じる機会がある限り、恵みによって救われるチャンスがあるからです。

アロンの息子たちが間違った捧げものをした時には天からの火によって死んでしまったのですが、それはイスラエル人にとっていかに律法を守らない事が大きな罪であるかを示しています。しかし、それは古い契約の下での出来事なのです。 現在でも律法主義なユダヤ教の人々、及びその他の宗教的なあらゆる人々は、彼らの行いや不信仰にも関わらず恵みの下にいます。もし、彼らが律法の下にいるのなら、彼らが律法を破る時にはその刑罰が彼らの上に来るのです。しかし、キリストの十字架による神様の新しい契約は義のアップグレードなのです。それはモーセの律法を守る事によるむなしい自己の義の獲得ではなく、栄光に満ちたキリストの義を身に着ける事です。

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」マタイの福音書 5:20

「律法学者やパリサイ人の義にまさる」ような義とはキリストの義です。それは、イエス様を信じて義と認められる時に与えられる義です。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」ローマ 10: 4

多くの人は恵みを理解していません。恵みの素晴らしさはあらゆる人の肉による罪を赦すところです。神様は災いを与えて私たちを懲らしめているのではなく、全ての罪の赦しを宣言されたのです。罪を赦された方がどうして刑罰を要求するのでしょうか?しかし、罪の赦しを信じないのならその人はイエス様が与えた唯一の道を退けるのです。その恵みを退けるのならその行為が自分を罪に定めてしまうのです。その行為とは不信仰です。無知なために行われる宗教的な行為は必ずしもキリストに対する不信仰ではないかもしれませんが、そうした行ないは徐々に恵みを排除しているのです。何故なら、恵みと律法主義は相反するからです。

ですから、イエス様を信じていてまだ律法的な事をしていたり、律法主義的な考えに傾倒している人は、考えを完全にアップグレードする事をお勧めします。そうでないと、あなたの律法的な考えは自らを律法という束縛の中に再び置いてしまうからです。

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」ガラテヤ 5: 4

私たちの契約は古い契約ではなく、新しい契約です。新しく生まれ変わった私たちは、新しい歩み方になっているべきではないでしょうか?歩みが正しい方向に向かっていないのは、私たちの考えが古いままだからです。心の一新(思いの一新)によって私たち自身を変えなければいけません。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」第二コリント 3: 6