2016年12月3日土曜日

クリスチャンには原罪があるか?その2

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」ローマ人への手紙 7: 5

「律法に対しては死んでいる」という表現を裏返せば、以前は律法に対して生きていた(ここでは特にユダヤ人)事になります。それ故に、律法の下にいるという表現をパウロは用いたのであり、繰り返しますが、その状況では罪が私たちを支配する事になります。

さて、今はイエスキリストの十字架による恵みが示され、救いの道が明らかにされています。ですから、イエスキリストを信じる者にとって罪からの解放(救い)は基本的な理解になっているはずです。パウロもこのローマ人への手紙を書いている時には、既に信者になっているので(それどころか使徒になっている)、彼も救われた者であり罪から解放されている人なのです。ですから6章(7章の前)で、彼は次のように書いています。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマ人への手紙 6:16-18

自分の身を捧げて一生懸命に律法に取り組めば、それは律法に服従する事になります。実際ユダヤ人はそのような生活を送っていました。しかし、それは束縛を意味し死に至ります。或いは、服従する相手を変えて、イエスキリストに従って義の奴隷になることもクリスチャンにとって今は可能になっています。「もとは罪の奴隷」と書いてあるように、イエス様の十字架による恵み(罪の赦しと解放)以前は、人は罪の奴隷でありました。つまり、イエス様の十字架の御業の完成という時を基準にすれば、罪の奴隷であったのは時間的に過去になります。この理解はとても重要です。


十字架の御業の前と十字架の御業の完成後では状況が全く異なるという事です。これを理解するということは、イエス様の十字架によって、信じる私たちに何をもたらしたかという理解につながります。これを知らないでいると、十字架の恵みの素晴らしさを知らない事になり、それゆえにクリスチャンは勝利がないのです。

あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」ローマ人への手紙 6:19

ここでもパウロは「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷」であったと、過去の状態を言っています。しかも、こうやって言っている理由は、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。」とはっきり書いています。この過去の状態をこの後パウロは何度も繰り返しています。何故なら、ローマの教会にいる信者の肉の弱さゆえにパウロは人間的な表現でしか彼らに説明できないからです。この19節は非常に重要な個所です。


その後のパウロの説明は人間的な言い方ではないというのがポイントであり、すなわち、霊的な表現や説明ではないという事です。パウロは、その霊的な説明(パウロに与えられた啓示)を8章になってようやく解説しています。多くのクリスチャンが既に気づいているように、ローマ書の8章は様々な奥義が書かれています。

ここまで引用した幾つかの聖句は下のような表現で書かれています。

  • その当時...  6:21
  • 私たちが肉にあったときは...  7:5
  • 私はかつて律法なしに生きていましたが...  7:9

この様に、パウロは過去の視点から語っています。パウロがこれらの節を書いている時点では彼は既に恵みの下にあるのですが、わざわざ過去の状態からの視点を用いて人と罪、そして律法の関係を7章で書いているのです。

「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」ローマ人への手紙 6:21

罪の奴隷は恵みの下の視点ではなく、過去の律法の下の視点であり、その時には人は罪の奴隷でした。ですから死は避けられなかったのです。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」ローマ人への手紙 7: 7-8

律法により罪というのが明らかになったとパウロは言っています。罪を知ってしまった為に、彼のうちに罪意識が生じてしまいました。ですからある意味、律法がなかったとしたら罪というのを知らずに済んだのでした。そして罪意識が生じてしまった為に、よけいに罪を犯してしまうという矛盾に彼は気づいたのです。この視点もあくまでも罪の支配下の状態からであり、繰り返しますが、パウロがこれを書いていた時点では彼は恵みの下にいました。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」ローマ人への手紙 7:9

パウロは律法なしに生きていた?そして、戒めが来たときに、罪が生き、彼は死んだと書いてありますが、いったいパウロは律法なしに生きていた時があったのでしょうか?「戒めが来たとき」とありますから、確かに律法が来る前という事を意味しますが、パウロはそもそも生まれた時には律法の下にいたはずです。

「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」ピリピ人への手紙 3: 5-6

パウロが「律法なしに生きていた」のは厳密には生まれて最初の一週間です。八日目には割礼を受けたのですから、基本的にパウロはずっと律法の下で育ったのです。実はその八日だけを指して律法なしに生きていたという事ではなく、人は律法を知らない間は律法の刑罰なしに生きるという意味でパウロは書いたのです。パウロの言う「私」は霊的な存在としての自身(つまり彼の霊)を指しています。「彼の霊」が律法を知った時に罪を知り、そして同時に律法の刑罰を知ったので、
その人は自分が死んだ事を理解した、という意味です。*「霊的な死」は神から離れる事を指し、「死」が究極的に神との離別になる。この箇所はローマ 7:13 とも関わります。そしてこの経験は、律法を知る人が経験するものですから、この「私」はパウロを含むユダヤ人を指しているのです。

いずれにしても、パウロは戒めによって罪が生き、それによって死んだと書いていますから、この部分でも「死んだ」のが「過去の出来事」として彼は見ています。*注意したいのは、「律法なしに生きていた」は完了形ですが、「死んだ」はアオリストです。従って、過去の出来事として見ていたパウロですが、表現上としては、死んでいる事を時制に関係なく述べています。

クリスチャンには原罪があるか?その3に続きます。

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