2016年11月21日月曜日

クリスチャンには原罪があるか?その1

クリスチャンは罪から解放されていると完全に理解している人は意外と少ないようです。こう書くと、福音の基本中の基本を知っていない事はあり得ないと思うかもしれません。私たちが罪から解放されたのは、言うまでもなくイエス様の十字架の恵みゆえです。

バプテスマのヨハネは、イエス様を初めて見た時に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。「世の罪」とは解釈的に原罪の可能性が高いです。何故なら、それは個人的な誰かの罪を指してはいないからです。そして、ギリシャ語では hamartian と単数形の罪となっているからです。*ギリシャ語では、ten hamartian 定冠詞 + 単数名詞(罪)となっていて、特定した一つの罪を指しています。

アダムによって全ての人に死が来て呪われてしまったのですが、そのアダムの罪(アダムの違反)を取り除く為にイエス様が救い主として来ました。この罪は動物のいけにえによる血で取り除かれるものではなく、イエス様の血潮によってのみ取り除かれるのです。それにもかかわらず、「クリスチャンでもまだ原罪は残っている」という考えは多くのクリスチャンや教会の間でも一般的です。

「罪からの解放」という内容の説教については、多くの信者が「アーメン!」と同意するでしょう。ところが、これが「原罪から解放されている」という説教となると「?」となるのです。これに関して疑問になっている最大の理由が、ローマ人への手紙の7章で「パウロの葛藤」の様子が伺えるからでしょう。しかし、パウロがその手紙を書いていた時に、善をしたいのに悪を行うという矛盾の中にいたわけではありません。彼は罪のうちに歩んでいながら福音を宣べ伝えていたわけではありません。その理由もローマ書の6章から8章まで続けて読めば分かります。

ところで、意外に多くの人が聖書をじっくり読んでいないという単純な理由で、聖書の解釈に様々な誤解を招いています。ここで言う「多くの人」は残念ながら聖書学者・神学者や神学校で教えている教師も含みます。神学という、実は殆どの視点が「肉の思い」による人間的な見方によって聖書を読んでいる為に、聖書学者さえも簡単な真理に気が付いていません。彼らの賢さとか、勉強不足だとか、或いは、聖霊による啓示だとか、そういったものとは一切無関係なケースもあります。「特別な聖書研究と聖霊による特別な啓示を与えられないとこの個所が解釈できない」といったものではありません。

「聖書の解き明かし(説き明かしも含む)」などという誤解を招く表現もそういった事(神からの啓示・レーマ)を意図しているようですが、実は聖書の真理とその奥義は、聖霊がパウロを通して既に示されているのです。単に私たちがその部分を読み取っていない、気づいていないというだけです。注ぎの油である聖霊がパウロに真理を示したように、私たちにも直接真理を示す事も確かにあるでしょう。しかし、パウロやペテロ、ヨハネによって既に示されている真理を彼らの手紙から読まずに、御霊の導きと啓示によって自分の体験を通して理解するには、パウロたちが通った様に同じ道を通らなければならないのです。ちょうど彼らが経験した試練をあなたも通るなら、確かにあなたもパウロたちと同じ啓示を受けて、それを悟る事ができるでしょう。しかし、単純に彼らの手紙を読んで理解するのが手っ取り早いのです。彼らの経験や試行錯誤は、私たちにとって大きな霊的遺産なのです。彼らが既に真理を説き明かしていたという事実を知るべきです。

真理の理解については、神学的に正しいかが問題ではなく聖書的に正しいかが問題です。一般的な神学では理論が優先していて、実際に書かれている箇所が真理かどうかはあまり重要でないという、いかにも人間らしい矛盾を含んでいますが、聖書的な理解に必要なのは真理の追求だけです。一般的な神学の視点は聖書とはあまり関係のない哲学的な考えが多く、その様なものは善悪の知識に基づいたもの(肉の思い)で、それは人間的な主観からの見方に偏っています。御言葉の理解は、多くの場合、神様側からの主観で見る(霊的な理解も含む)必要があります。何故なら、イエス様の真理の言葉は天の視点に基づくからです。

「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」ヨハネによる福音書 3:12


それでは「原罪」について、次の箇所から始めたいと思います。

「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか――私は律法を知っている人々に言っているのです。夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」ローマ人への手紙 7:1-3


パウロはここで、以前は人が律法(モーセの律法)に縛られているという事を夫と妻との結婚という関係性から説明しています。イエス様によってモーセの律法は成就し、今は律法ではなく恵みの下に私たちはいます。ですから、以前の夫が死んだという表現を使って、その束縛である律法から解放されて、恵みという新しい夫(キリスト)と新しい関係を持つことが妻(クリスチャン)には許されている、と言ったのです。律法から解放されているという表現に注目して下さい。


「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」ローマ人への手紙 6:14

この個所の「罪はあなたがたを支配することがない」とパウロが言っている理由は、その直後の「律法の下にはなく、恵みの下にあるから」なのです。逆に言えば、律法の下に置かれているなら、罪は人を支配する事を意味します。それは律法が人を束縛するという事です。律法はその束縛によって間接的に人を死に追いやってしまったのです。

クリスチャンには原罪があるか?その2に続きます。

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