2016年4月9日土曜日

御霊による祈りと信仰

大勢の人がどうやったら信仰が増すのか、どうしたら信仰を持てるようになるのかという疑問を持っているはずです。結論から言えば、この質問の答えはありません。何故なら、質問そのものが意味を成さないからです。イエス様も答えているように、からし種ほどの信仰さえあれば良いのです。つまり、信仰の大きさというのは問題ではないのです。ポイントは、素直に信じるかどうか(信仰が働いているかどうか)だけなのです。仕組みは非常に簡単なのですが、様々な理由があって多くの人は信じる事を難しいと考えています。

信仰はクリスチャン生活において、最も重要な鍵だと言っても過言ではないでしょう。基礎中の基礎だけれども、なかなか信じるという事ができない、などと思っている人は多いはずです。信仰がうまく機能する秘訣の一つとして、御霊によって祈る事を勧める為にユダの手紙の20節を引用して教えられる事があります。この教えを聞いた事のない人はいるかもしれませんが、これはカリスマ派・聖霊派の教会の一部で教えられているものです。

「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り」 ユダの手紙 20節

この聖句中の「持っている」という語は、ギリシャ語の聖書には存在しません。そして、直訳では「自身の信仰」になります。「自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ」と「聖霊によって祈り」の2つがそれぞれ独立しているように見えるのは「、」を間に設けてしまった為です。21節の日本語の新改訳で「神の愛のうちに自分自身を保ち」は、「うちに」と前置詞を正しく翻訳されていますが、20節もこれと同様に「御霊によって祈る事のうちに自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ」が正しい翻訳になります。20節と21節は同じ文法構造(前置詞が関わっている点で同じ)なのに、訳は少し異なっています。残念ながらこの様な翻訳ミスは日本語の新改訳だけでなく、あらゆる言語の翻訳された聖書にて確認されています。こういった事がある為に、新しく翻訳されたり改訂版が出版されるのです。

新改訳のユダの手紙20節をもっと分かりやすい日本語にすると、「御霊によって祈る事を通して自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」という風になります。つまり、御霊によって祈る事が、自分の最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる事になるというのです。

ところで、聖霊によって祈るとは異言で祈る事を意味します。ヒントは第一コリント人への手紙の14章にあります。

「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」第一コリント人への手紙 14:2

「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。」第一コリント人への手紙14:4

「徳を高める」というギリシャ語の動詞は、ユダの手紙の20節の「築き上げる」の動詞で書かれています。つまり、これらの動詞は日本語では違う訳になっていますが、ギリシャ語では同じ動詞で書かれています。新改訳聖書によると、異言が「徳を高める」事を成し「聖霊によって祈る事」は「築き上げる」のですが、ギリシャ語の聖書ではこれらの動詞は同じ語なので、異言も聖霊による祈りも「徳を高める=築き上げる」事になります。

*異言による祈りが時として、祈っている人の肉によってもたらされる事もありえます。ですから、必ずしも異言で祈っている人が聖霊によって祈っているとは限りません。その理由は異言が人を通してなされるからです。これは、すべての預言の賜物による預言が御霊によるとは限らないのと同じです。残念ながら肉によって異言がなされることもあり、上辺だけの判断では見抜く事はできません。預言ならば吟味して見極める事も可能ですが、異言の場合は異言で祈っている本人以外は分からないか、霊を見分ける賜物によってしか見極められないと思います。異言が例え肉によって表さたとしても、集会で多少迷惑になったり、聞く人にとって益にならない事ぐらいなので大騒ぎする程ではありません。霊的に幼い人を愛でもって指導するだけで解決されます。

御言葉以外で信仰の助けとなるのが御霊による祈りです。聖霊や異言を便利な道具と見るのではなく、異言を通して聖霊が私たちを助けるという奥義です。この聖霊の助けは、多くの人が体験したように、聖霊のバプテスマの時によくみられるものです。

信仰が単なる頭だけでの理解ではない事は明白です。何故なら、人は頭ではなく心で信じるからです。心で信じるとは、肉的な側面よりもむしろ霊的な側面です。正確に言えば、心と霊は別(ギリシャ語の単語も別)ですが、なんとなく霊も心も内側にあるという認識は誰もが持っているはずです。そのぼんやりとした「霊的な事」をどうやったら少しでも理解する事ができるのでしょうか?

「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」ローマ人への手紙 8:27

この聖句にヒントがあるのですが「答え」が見えるでしょうか?なぜ答えが見えないのかというと、そもそも霊の事柄を頭で理解するという事自体が不可能だからです。霊のことは霊によってわきまえるのです。

「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」第一コリント人への手紙 2:11

つまり、あなたの霊はあなたの霊が知っているのですが、あなたの霊(新しく作られた霊)はあなたの存在の核心となるべき部分であるにも関わらず、普段のあなた(肉の思いの影響を受けているあなた)はその存在を知らない様な状態でいるのです。殆どのクリスチャンはそうした矛盾の状態に何となく気づいています。

ローマ人への手紙 8:27 と第一コリント人への手紙 2:11 の関係はこうです。まず、両方とも神様は御霊の思いを知っていると書いてあるという共通点に注目です。何故神様が御霊の思いをよく知っているかその理由を第一コリント人への手紙 2:11 から探して下さい。「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」とあるように、とても単純です。神様のことは神様自身だけがよく知っておられるという事です。同様に、人も自分の霊を知っているというのが第一コリント人への手紙 2:11 から分かると思います。先ほども触れましたが、本来は私たちは自身の事を誰よりも知っているはずなのですが、それを知らないという矛盾の中にいるのです。

ローマ人への手紙 8:27 では神様が御霊の思いが何かをよく知っていて、その御霊は私たちの為のとりなしをすると書いてあります。この事は 26節でも書いてあります。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ人への手紙 8:26

私たちが霊的未熟さ弱さ(それは主に肉の思いが原因)などの為に、聖霊がとりなしという形で助けてくださるというのです。そのとりなしの祈りは私たちを助ける為であり、御霊の祈り(異言)を通して私たち自身の霊も祈ります。それでは、何故異言による祈りが私たちの霊に関わっているのでしょうか?

「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」第一コリント人への手紙 14: 2

ここでの異言(御霊の祈り)は先ほどの聖霊のとりなしとは違いますが、私たちの霊が祈る事においては共通しています。パウロは私たちの霊が奥義を話すと言っています。さて、信仰とは心による働きと霊的な働きかけなので、頭・思考での理解とは全く違います。この違いがより明確に分かるようになると、なぜ信仰が働かないのかが分かってきます。「自分では信じているつもりなのに!」と考えている人の多くは、信仰がないというよりも「信仰が働いていない」ケースが多いのです。この部分を助けるのが聖霊の働きであり、それは異言という形でなされます。漠然と何と祈ってよいか分からない時に「便利な道具として異言で祈る」という考え方よりも、私たちが霊によって物事を判断し信仰を働かせる為に、もっと積極的に御霊による祈りを心掛けたいものです。